道路レポート 国道158号旧道 沢渡〜中ノ湯 第5回

公開日 2016.7.26
探索日 2008.7.02
所在地 長野県松本市

失われた 清水隧道


2008/7/2 14:43

全5ステージの旧道のうち、序盤2ステージの攻略を完了。続いて中盤となる第3ステージだが、既に距離の上では半分を過ぎている。
そして、第3ステージは旧道ベースで約1.4kmあり、これは第1ステージに次いで長い。

このステージを現道は、延長756mの清水隧道と263mの白なぎ隧道、そしてこれらを連結する白なぎ橋によって短絡している。
現道の延長に対する構造物比は9割を越え、まさに難地形を力業で乗り越えた姿であるわけだが、この区間が平成元年に開通したことで沢渡〜中ノ湯間の全線改良が完成した経緯がある。

よって第3ステージは一連の旧道の中で最も新しいはずなのだが、なぜか他のステージは点線として残っている地形図からも表記が消えてしまっている。
川縁に多数の崖の記号だけを残して点線さえ失ってしまった旧道は、不気味な存在と我々の目に映った。


ここは、ステージ間の新旧道一致部分。
何の変哲もない2車線道路であるが、前方には既に戦端が開かれている。
そして、折り重なるように立ちはだかる山の高さに、アルプスと呼ばれる山深さを知るのである。

また、完全な寄り道ではあるが、この辺りから対岸に渡る吊り橋がある。
かなりスパルタン&ストイックな橋なので、吊り橋の構造美を愛する人はぜひ渡ってみたいと感じるだろう。






対岸の発電水路に関連した作業者通路用の簡易吊り橋。

なんといっても目を引くのがその渡り板の細さで、メジャーで測ったところ24cmしかない。
長さ高さもそれなりにあり、これだけ剛体が小さいわけだから、当然えらい具合に揺れる。
もし悪ふざけでもしようものなら、バウンドするのではないかと思われるほど。

吊り橋好きには堪らない一橋だが、立入禁止!になっている。残念。







この区間内では新山吹隧道に次いで長く、また唯一平成生まれの清水隧道。
それだけに、坑口に鳥のレリーフが飾ってあったり、トンネル情報板が設置してあったりと、近代的な装いである。

逆に、一番最初に竣功した新山吹隧道(昭和48年竣功)が一番長かったというところに、あの「雷岩」や「百間長屋」がどれほど現代交通に耐え難い難所であったのかが偲ばれるのである。

そして、清水隧道が生まれた当時既にそれは無かったが、旧道上に先代の清水隧道がかつてあった。
写真左の旧道上、高い岩場が露出している部分にそれはあったと言われている。

日本一短い清水隧道が。




旧清水隧道については、『釜トンネル―上高地の昭和史』に詳しい。

バスガイドが、「上越線の清水トンネルと違い、こちらの清水トンネルは、あっという間に通過してしまいます」とアナウンスした清水トンネルも、距離は10m程度だったが車体ギリギリだった。

それは、戦後暫く日本最長のトンネルであった上越線の清水トンネル(全長9702m)に較べれば点のように小さな全長10mほどの隧道であったらしい。

だが、短くとも非常に狭く、バス運転手にとって気の抜けない存在だった隧道の消滅は、いつ頃だったのだろう。




大々的な改良工事が始まる直前の昭和43年版地形図には、まだ小さな清水隧道の姿が描かれている。
しかしおそらくこの表示は間違いで、同じように狭かった山吹隧道が拡幅され現在の姿になった昭和30年代前半には、すっかり切り崩されてしまったものと考えられる。
現に、昭和41年頃に作成された「隧道リスト」に清水隧道の名前はない。

ちなみに、廃止年度が定かではない清水隧道だが、竣功は工事用軌道の開通と同じ昭和2年で間違いないだろう。




旧清水隧道があった辺りから、現道との分岐地点を振り返る。

現在の清水隧道は、“親を知らない子”ということになる。
それだけに、山吹隧道のように「新」清水を名乗るか否かという葛藤はなかっただろう。

なお、写真中央左寄りに写っている白いものは残雪である。
7月2日の探索でまだ路上に雪があるとか…、東北秋田でも稀な光景に驚いた。




道幅も十分にとられ、路面の鋪装もまだまだ健在。
流石に平成生まれの廃道と思わせる光景に、今度ばかりは楽勝ムード。

まあ、こういう部分もなければ体が持たないよと、永冨氏と一列になって快調に自転車を進める。

ほんと、これだったら短絡する分だけ急坂でしかも車に追い立てられがちな現道のトンネルを行くよりもイイカモ〜。




そんな気持ちで進んでいくと、路上を大量の水が横断している場所に出た。

地形図を見ると、ここは上割沢というらしい。
本来は道の下の暗渠を通っていた水が、崩れた土砂によりその入口を塞がれてたせいで、堂々と路上を流れているのである。

最初は気にせず自転車のまま渡ろうと思ったが、近づいてみるとその水勢の激しさにビビッてしまった。




一番深いところでも水深は5cm程度だが、足を入れると長靴の上まで水柱が立つほど激しい水流。
しかも、路肩側は何のガードもなく、直で数メートル下の梓川本流に滝となって注いでいる。
自転車なんかで入っていってうっかり流されでもしたら、“逝き”かねない状況だった。

油断大敵。
慎重さを取り戻して、自転車を押して進んだのであった。
幸い、水が余りに冷たい雪解けの清流であるせいか、路面には苔などが育つ余地もなく、さほど滑ると言うことはなかった。
これでヌルヌルなら、本当の危険地帯だった。




入口から600mほどを進行。

どういう訳か、ここで急激に路上の植生が盛大化。

鋪装はあるようだが、水と共に大量の土が流入しているらしく、トゲのある植物を中心にかなりの密生を示している。

平成生まれの廃道と侮っていたが、いやはや、これは侮られない藪化である。


なお、距離的にはそろそろ白なぎ橋が現れてイイ頃だが…。




14:59 《現在地》

白なぎ橋が現れた。

しかし、またしても橋は頭上で、旧道からはアプローチすることが出来ない。
ちょうどいま、旧道上は逃げ出したいほどの猛烈な草藪に覆われているところ(→)なので、息抜きというかリセットというか逃げというか…、とにかく現道との接触を期待したのだが、それは叶わなかった。

しかもそれだけではない。

50mほど先の路上が、もの凄い瓦礫の斜面になっているようだ。
瓦礫の底から暗渠を通り越して滝が落ちている状況は、先ほどの上割沢にも似ている。



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白薙の苦闘


おそらく、この白い瓦礫が斜面一杯を埋め尽くした谷のことを、「白薙(なぎ)」と呼んでいたのだろう。
今はここを迂回する橋とトンネルに名前を残すのみだが、なるほど確かにここは白い薙である。

たった1km前にはあんなに真っ赤な崖があったのに、まさに猫の目のような変化だ。
この地の複雑な地質構造を垣間見る憶えがする。

なお、前後のトゲトゲが沢山ある激藪と、この安息角に達した瓦礫の斜面とでは、個人的には後者の方が楽だった。
ただ、永冨氏が私よりだいぶ上をトラバースするものだから、ゴロゴロと人工落石が私の足元を襲って来たのは嫌だった(笑)。




写真は、この探索の約2ヶ月後の平成20年9月9日に、現道の白なぎ橋上から撮影した白薙である。

実は埋もれていたのは暗渠でなく、小さなコンクリート桁橋だった。
いずれにしても、橋上の全面が瓦礫の斜面に埋もれており、設計過重を大幅に超過した死の拷問が続いている。
憐れだが、誰も救いの手をさしのべはしないし、私にもそれは出来ない。

20年前まで国道だったとは俄に信じがたいが、これこそ雪崩と落石の巣として、戦前の旅人にはおおむね敬遠されてきた梓川筋の本当の姿である。(当時は上高地へ向かう人の多くが、梓川筋を通らない徳本(とくごう)峠を経由した)
脆い火山岩質や、温泉や地熱のため酷く風化した地盤が、渓谷の全体に点在している。

なお、幼い私もこの旧道だけは通ったことがあり、記憶の中の国道らしからぬ1車線部分というのは、おそらくこの辺りだったのだと思う。




15:09

5分ほどかかって白薙の斜面を横断。

だが、そのまま腰丈までのススキの海に潜り込み、依然として本来の路面は現れない。
おそらくこれは、今流行(?)の廃道化工事(復土緑化)の結果と思われる。

廃道化が新しいとかえって、オブローダーにとっては邪魔でしかないこういう人工的障害にぶつかることもある。




再び白なぎ橋をくぐるが、橋下の路盤も消えていた。
これも廃道化工事のなせる技なのだろうと思っていたが、『峠の道路史』に掲載されていた写真(→)を見て、間違いなくここを道が通っていたことが確かめられた。

なお、この写真は現道が開通する前日に撮影されたとのことである。
当然だが、この頃はまだ白薙の崩壊もきちんと治められている。

ちなみに写真の路面が砂利なのは、ここが新道の橋台工事のため仮設された道だったからだろう。
橋台前後合わせて50mほどの、ごく短い砂利道だったと記憶している。






橋をくぐって20mほど進むと、何事もなかったかのように鋪装路面が復活。
第3ステージの攻略達成をほぼ確信し、安堵する。

依然として地形図上からは抹消された道が続くが、古地形図上に描かれた“第3の隧道”はもう間もなく。

次はどんな廃景を見ることが出来るだろうか。
不安よりも、常に期待が勝っていた。
しかも終盤に向けて、それは高まる一方であった。

だがそんな我々は、
最凶の危険地帯へと徐々に近づいていたのである。





坂巻温泉のセーブポイント


2008/7/2 15:14 《現在地》

旧道の長い第3ステージ(約1.2km)も終わりに近い1km地点にて、旧道では久々となる隧道が出現した!
第1ステージの山吹トンネル以来となる旧道の現存隧道は、重厚なコンクリート製ロックシェッドの奥にあった。
シェッドの上部には大きな木々が繁茂しており、その古さを感じさせた。

シェッドの坑口には小さめの扁額が取り付けられていた。その表記は、今回も「坂巻隧道」ではなく「坂巻トンネル」となっていた。
『道路トンネル大鑑』では昭和13(1938)年の竣工とされる当隧道だが、現在ある坑門や扁額が完成したのは、「山吹トンネル」と同時期の昭和30年代と推測される。
なお、『大鑑』記載のデータは以下の通りだ。

坂巻隧道 全長:39.8m 車道幅員:4.7m 限界高:3.9m 竣工年度:昭和13(1938)年

シェッドの坑口には上記の扁額の他、梓川沿いの古参隧道のシンボルともいえるネームプレートが取り付けられていた。(→)
プレートの表面が汚れていて読み取り難かったが、「さかまき L=38.9m 16」とあるようだ。

この最後の数字は松本側からの通し番号なのだが、一つ手前の「15」がどこにあったかといえば、「ステージ2」現道区間の「芝そりトンネル」に取り付けられていた。
そして、ステージ2の現道は昭和58(1983)年に開通し、ステージ3の現道は平成元(1989)年に開通している。
つまり、この旧道の坂巻トンネルが現道の「16」番目の隧道として活躍した時期は、たった6年ほどに過ぎなかった。
またこのことからは、ネームプレートの整備時期をかなり絞り込む事が出来る。(坂巻トンネルと芝そりトンネルの間には、平成元年に開通した清水トンネルがあるが、同トンネルにはプレートが取り付けられていない)



おうっ!

坂巻トンネルの坑口脇に広場と吊橋があった。
しかもこの吊橋、妙に綺麗である。
ここまでの道はあんなに大荒れだったのに、橋は荒れていない。つまり、トンネルの向こう側から今も人が出入りしているのだと思う。




吊橋はご覧の通り、自転車はおろか、バイクぐらいは通れそうな立派さだ。
扁額は見あたらず、橋の名前は分からない。
実際に自転車のまま渡ってみたが、さほど揺れることはなく、やはり真新しい感触だった。

対岸の橋の下の辺りを見ると、影で見えづらいと思うが、吊橋よりも古そうな石積みの橋台が残っていた。
やはり現在の橋とは異なる先代が存在したようだ。どのような橋かは分からないが。



吊橋を渡りきった所に、広場があった。
見たところ、それだけである。
が、正直言って、ここの調査は甘い。
籔が濃いことも理由だが、ここにあったとされるものに我々があまり興味を惹かれなかったことと、「楽しすぎる」旧道の続きを早くやりたいという気の逸り、特に目の前で旧隧道を「おあずけ」されている状況が、我々をここに長居させなかったのだった。

では、「ここにあったとされるもの」とは何かといえば、それは坂巻温泉である。
坂巻トンネルが旧道となる5年前の昭和59(1984)年まで、この地点にはただ一軒の温泉宿からなる坂巻温泉があったという。

右図の昭和43(1968)年版地形図にも、この位置にポツンと温泉の建物が描かれている。
建物の前には梓川を渡る小さな橋が見えるが、これはおそらく現在の橋ではない、先代だろう。坂巻トンネルもちゃんと描かれている。




坂巻温泉跡の探索もそこそこに、坂巻トンネルの内部へ進行!

ロックシェッド部分を除いた長さは僅か40mほどしかなく、洞内も直線なので通過は簡単。
ただし、直線とはいえ全体が登り坂である。しかもかなり急な坂道だった。
また、大雨の後でもないのに、洞内はかなりの湿り気を帯びていて、路面もしとどに濡れている。
冬場は路面が凍結して大変そうだが、そもそもこのトンネルが現役だった時代、沢渡以奥は冬期閉鎖だった。

隧道の断面はさほど狭いものでは無いが、両側壁の路面付近にコンクリートの函状の障害物があり、
実際に使える道幅は車1台分に絞られている。これが現役当時からだったかは(自分も通った事があるはずだが)分からない。



何やら資材(廃材?)置き場の様相を呈しつつある洞内だが、内壁の老朽ぶりは、酷いものがあった。
先ほど見た吊り橋は現役の施設っぽいが、この隧道の姿は、廃隧道そのものである。
とても、ぎりぎり平成に入るまで現役だったようには見えない。
これには私もnagajis氏も思わず、ニヤニヤ。  …何かおかしいだろうか?

おそらく同じ昭和30年代に改築されて、コンクリート巻き立てを備えただろうステージ1の山吹トンネルより、洞内の老朽化は進んでいる印象だった。
激しい漏水が最大の原因だと思うが、すぐ近くに温泉が湧いているような地質も、トンネルには厳しそうである。




側壁に破裂したような大穴が空いていて、岩盤が大きく露出してしまっている西口付近より洞外を望む。
一足先を進むnagajis氏の視線の向こうには、何が見えているのか。
とりあえず、対岸に大きなガレ場があるのは、ここからもよく分かる。

いや、もしかして露天風呂でもあるのかな〜? ウヘヘ

↑ やっぱりガレ場しかなかった。ww




短いながらも満身創痍の状態にある坂巻トンネルの西口である。
こちらはロックシェッドがなく本来の坑門を見る事が出来るが、アーチリングさえ持たない、ほぼ無意匠のコンクリート坑門である。扁額とネームプレートだけを持つ。
上部にはガードレールで作った落石防止柵があるが、本来は車が衝突した衝撃を横に逃がす目的のガードレールだけに、適材適所とは言えない。

それにしても、坂巻(さかまき)という珍しい地名には、一つの語源しかイメージ出来ない。梓川の激流が逆巻く状況に由来するのが、坂巻という地名なのだと思われる。
だがその一方で、この土地は温泉場であり、最後の集落である沢渡から雷岩、百間長屋などの危険箇所を潜り抜けてきた旅人にとって、一服出来る場所であった。
坂巻温泉の由来は定かではないが、まともに発見されたのはおそらく大正13(1924)年頃に、一連の旧国道の由緒となった大正池までの発電工事用軌道が敷設された頃なのだろう。
『角川日本地名辞典長野県』でも、昭和初期に初めて温泉場として整備されたとある。



坂巻温泉は昭和59年に先ほどの吊橋の対岸の地点から撤去されたが、それは廃止ではなく移転であった。
移転先は現国道沿いで、現道を走ったことがある人ならば気付く人と気付かない人と、半々くらいだろう。
正直、誰もが気付くという感じでは無い。(後述)

というわけで、坂巻温泉自体は健在なので、その昔からの売りである渓流を眺め渓声と共に有る露天風呂も、健在である。
それは旧道沿いにあるので、私のような初心なオブローダーはドキドキさせられるかと思いきや、風呂場は旧道よりも上にあり、視線を遮る柵もあるので、道から裸体が見える要素はなかった。裸人が“見せよう”とすれば別である。


15:22 《現在地》

清水トンネル東口から始まり、1.2kmとだいぶ長かった第3ステージも、遂に攻略を完了。
自転車同伴での攻略タイムは、約40分であった。
前方に見える橋やトンネルは現国道であるが、直前の旧国道は路肩が拡幅され、坂巻温泉の駐車場になっていた。
写真右側の位置に立派な一軒宿が建っている。

ほとんどの車はここにある温泉に気付かないか、知っていてもあっという間に通りすぎてしまうが、旧道に生気が宿る貴重な場所である。
オブローダーとしても、ステージ3までの消耗をここで癒し、さらには人生のセーブポイントとするのも悪くないと思うが、我々はもう次のステージがやりたくて仕方ない(nagajis氏は何かをこの先に“見つけて”しまったらしく急かしてくる)ので、ノーセーブで進んだ。




私は坂巻温泉の回し者ではないが、旧道で頑張る立地の不利さが気の毒なので、勝手に宣伝しておく。
右の写真は現国道のトンネルナンバー「16」である白なぎトンネル内部から、「17」の新坂巻トンネルを撮影したものだが、旧道の坂巻温泉へは、今ちょうどバスが写っている所を左折する。
トンネル内に一応は、「トンネル出口を坂巻温泉は左折」みたいな立て看板があったと思うが、青看ほど目立つものでは無いし、左折する時は早めに減速を開始するなど、後続車両に追突されないよう注意して欲しい。




反対に旧道から現国道に出る時も、即トンネルである右方の安全確認を、小さなカーブミラーと“音”に頼ることになるので、注意しなければならない。

…という話は置いといて、我々の本題である。
第3ステージが終わったばかりだが、この場所は即座に、次なる第4ステージの起点になっている。
これまでは各ステージの間に少しずつは現道を走る区間があったが、今回はここで“横断”するだけである。
しかし見ての通り、第4ステージは最初から封鎖されていて、無いにも等しいような扱いを受けていた。



現道と旧道の平面交差地点を境に、ステージ3と4が切り替わる。
今終わったステージ3は平成元(1989)年に旧道化したのだが、次のステージ4は、それよりも11年早い昭和53(1978)年の旧道化である。
なので、この“時差”の期間の国道は、ここで直角に右折していたことになる。
多分、インパクトのあるカーブだったと思うし、私は助手席で何度もそれを見たはずだが、記憶していない。

全体の整備計画(一次改築計画)は先に立てられていたはずだが、各区間(我々の言うステージ)の施工順序は、様々な事情から総合的に判断されたはずだ。
その判断材料の中でも、各区間の旧道(施工前の現道)の難所ぶり、言い換えれば危険さの度合いは重視されたはずで、それが高い所から順に整備される傾向があったはず。
そういう意味でも、昭和48(1973)年に早々と切り換えられたステージ1に次いで早い、昭和53年に切り換えられた次のステージ4は、“大難所”の予感があった!




まずはこの
“美しきアーチ橋”を攻略する!

さっきから橋マニヤ先生のnagajis氏が挙動不審だった理由は、これか!