国道158号旧道 沢渡〜中ノ湯 第1回

公開日 2009. 4.20
探索日 2008. 7. 2

廃道の中の廃道。


皆様にとっての廃道とは、どんなイメージだろう。


草むした砂利道、苔の生えたアスファルト、ひび割れたコンクリート、消えかけた白線、色あせた道路標識、忘れられた路傍の石碑、照明の消えた真っ暗な隧道、落石に埋もれたガードレール、路面を奔る沢水、崩れ落ちた橋や路肩、草いきれのする藪、弱音、諦め、安堵とガッツポーズ…


ここには、それら考えられる要素のほとんど全てのものがある!


廃道の中の廃道とは、決して険しいだけの廃道だとは思わない。

ここには、演出過剰なほどに分かりやすい、“廃道の真景”がある。
それゆえ、以前執筆させていただいた『廃道をゆく (イカロス・ムック) 』にも、巻頭企画としてこの道を紹介した。
この道を辿ることは、廃道の酸いも甘いも同時に体験することに他ならない。

同書にて一度紹介済みではあるが、本とネットでは表現方法も異なることであるし、今回はより詳細なレポートを作成したい。
都合により、このレポートの完結までには数日間の更新停止を数度挟むと思いますが、なにとぞ気長にお楽しみ下さい。




国道158号は、福井県福井市と長野県松本市を結ぶ約250kmの一般国道で、中部日本の内陸部を東西に連絡する路線である。
この地域には南北方向に走向する地溝および山脈が連続しており、路線内には険しい峠が複数ある。
そのなかでも、北アルプスの穂高連峰と乗鞍岳の間を越える岐阜長野県境「安房(あぼう)峠」は冬期閉鎖を余儀なくされる最大の難所であったが、平成9年に念願の安房トンネルが開通したことで長年の困難は解消された。


だが、この安房峠越えの道。
険しいのは峠だけではなかった。
むしろ、安房峠が飛騨国と信濃国の最短距離にありながら、歴史的には南方に大きく迂回する野麦峠の方が両国を結ぶ街道の本道とされて来たのは、安房峠そのものよりも、その信濃側(長野側)アプローチとなる梓川渓谷の、尋常でない険しさのためであった。

右の地図を見ていただきたい。

密に描かれた等高線の最も密なところ、さらに多数の崖の記号を従えて描かれているのが、梓川渓谷である。
どこまでが谷で、どこからが山腹なのかの区別は難しいが、稜線に対する谷の深さは1000mを下らない。
北アルプスの名を冠するに足る、極めて険しい山岳の描写だ。

そして、梓川の流れに寄り添う、一筋の道がある。
今回辿る、国道158号旧道の姿である。

この渓谷沿いにクルマの通う道が初めて開通したのは、昭和2年に奈川渡(ながわど=奈川渡ダムの湖底にあった集落)から沢渡(さわんど)を経て上高地の大正池畔まで、発電所建造のための専用軌道が敷設されたときである。(釜トンネル(古釜)も同時に完成)
そして翌年に発電所が完成すると、軌道撤去のうえで改めて車道化され、昭和8年には公道たる県道松本槍岳線になった。
昭和13年、安房峠に自動車道が開通して中ノ湯で接続、同28年に二級国道158号福井松本線に昇格した。(昭和40年に現在の一般国道158号に改名されている)

驚くべき事に、国道158号の前身は工事用の鉄道だったのである。



同じ範囲を、現在の道路地図と比較してみる。

前図からの変化は一目瞭然で、路線上には沢山のトンネルと梓川を渡る橋が生まれている。
両者を細かく照らし合わせて見ると、もはやほとんど重なっている区間がないことも分かる。
さらに旧道のほとんどは地図上から姿を消し、廃道となった現状を強く示唆している。

上図に描かれた頼りない細道から国道然とした現道への転換は、昭和30年代以降、加熱するマイカー観光ブームを背景として、長野県の手により進められた。
特に、上高地に対する関東方面への玄関口となる松本〜上高地間の道路改良(交通容量の拡大と安全性の確保)は、観光立県を目指す同県にとって重要な課題となっていた。

このうち、松本〜沢渡(さわんど)間は、東京電力による安曇3ダム開発補償に関わる国道改良を軸として、昭和44年までに完成。
続いて、今回紹介する沢渡〜中ノ湯間約7.5km(現道延長)の改築が、昭和44年から2工区に分けて進められ、数回の部分供用を経て、平成元年に全線の一次改築が完成した。

平成21年現在では、安房峠道路をさらに延伸する中部縦貫自動車道の計画が進められており、中ノ湯IC〜沢渡IC〜波田ICは基本計画区間となっている。





旧道は沢渡から始まる


2008/7/2 12:35 《現在地》

「なんでもあり」の劇的廃道探索のはじまり。

ただし、開始前のこの時点ではそんなことも知るハズもなく…。
というか、国道158号は現道でさえ15年以上通ってはおらず、子供の頃の家族旅行での「川沿いで所々砂利道だったような気がする」という曖昧な記憶と、手にした地図だけが、今回の道標である。

以前からの読者さんならばお気づきだと思うが、この探索は時系列順に行くと「国道158号旧道 水殿ダム〜奈川渡ダム」と「長野県道26号旧道」の後で、「釜トンネル」の前。2008年7月2日の暑っつい盛りに行われた探索である。当然、盟友nagajis氏も一緒だ!

そして、写真は旧国道の入口。
右の松本側から来た場合は、右折して入ることになる。
角につぶれたお土産物屋があるが、信号も標識もないので少し分かりづらい。




早速にして橋マニヤのnagajis氏が、目の前のトラス橋に飛びついた。
上を覆う部分がないこのようなトラスを、ポニートラスという。
いかにも重量感のある、旧国道らしい橋である。

写真の銘板や親柱の扁額によれば、橋の名前は沢渡橋。
昭和32年建造の「一等橋」(この頃の基準では一等橋=国道用)だ。

現道をクルマで走っていると気付かずに通り過ぎてしまうような橋だが、かつては都人士や山人達を絶景へ誘う第一の門として、印象づけられていたのだろうか。


沢渡橋のすぐ下流には、さらなる旧橋のものと思われる石積みの橋台が両岸に残っていた。
石積みだが、大正末頃までは一切の車両交通を受け入れてこなかった地域であるだけに、見た目よりは新しいものだと思う。

そして、橋の上から現道との分岐点を振り返ると、懐かしの白看を発見。(上の写真にも裏側が写っている)


右は白骨、左は松本。
距離は読み取れなくなってしまっている。

白看は昭和40年代以前のものであるから、案内された「松本」へのルートは、以前のレポートで紹介した旧道かもしれない。
そして右折の「白骨」は、現国道が昭和48年に開通する以前にも、白骨温泉への道が既にあったことを示している。
(現在の県道「白骨温泉線」の起点は、かつてこの交差点だった)




ここ沢渡は梓川上流部では数少ない平地で、この川筋における最奥の集落である。

しかし、大正時代に隣接する湯川渡地区に発電所が建設され、梓川沿いに下る道(旧国道)が出来るまでは定住する人もなく、地獄谷と呼ばれていた。
そこにはじめは発電所に関わる人びとが住み着き、やがて上高地まで道が通じると、その最終補給地として人や物の往来も盛んになった。
現在は、通年のマイカー規制を敷かれた上高地の指定駐車場がこの沢渡に集中しており、極端な観光業(お土産物屋、ハイヤー、駐車場業)依存型の集落に変わっている。

そして、沢渡および湯川渡における新旧道は、梓川を挟んで対面の関係にある。




12:48〜13:00 《現在地》

橋を渡って突き当たりを左折。
採石場の関係で鋪装のはがされた砂利道区間を少し進むと、同じように梓川を渡る真新しい橋が現れる。
数年前に開通した橋で、老いた沢渡橋に替わって両岸を結ぶ幹線になっている。
そしてこの新しい橋を中心にして、公営私営入り混じった数多くの駐車場がある。

写真は市営第二駐車場の前にある川上屋商店。
ここが旧国道沿いでは最後の人家であり、最終の補給所でもある。

我々は風鈴の響きに誘われるように店内へ入り、冷たい飲料と「モナ王」をゲット。
今朝nagajis氏が握ってくれた梅おにぎりとこれで昼食にした。



午後1時。
今回の旅では、明日以降の予定の「神岡軌道」探索と並ぶ(私の中の)大攻略目標である、国道158号沢渡〜中ノ湯間の旧道探索が始まった。

走り始めると、梓川沿いの爽快な舗装路。
白線は消えているが、2車線分の幅がある。
対岸の現道は少し高い位置を通っているせいで余り見えなかった。

今のところは、先行きに不安を感じる要素はない。
通行量もゼロではない。




13:04 《現在地》

1kmほど何事もなく進むと、古びた欄干を晒すコンクリート橋の向こうに、場違いとも思える巨大な発電所が現れた。
道は高いフェンスに囲まれているとはいえ、無数の変圧器が並ぶ発電所構内を堂々と突っ切っていて少し異様だ。

ここは霞沢発電所で、旧国道の原点となった沢渡〜上高地間の工事用軌道は、この発電所に対する大正池の取水施設および発電水路を建設するために生まれた。
つまり、霞沢発電所と旧国道と釜トンネル(古釜)とは、同期生だ。




残念ながら銘板が失われているため、名前の分からない橋。
下は水路で、発電所の余水を通している。

アーチと窓を組み合わせた欄干のデザインが秀逸だ。
でも、どこかで見たようなデザインだと思ったら…

岩手県遠野市のJR釜石線にある、「達曽部川橋梁」(昭和18年改修竣功)にそっくりじゃないか。
同じ時期のものだろうか…。



これは、対岸の現道から見た霞沢発電所。

何よりも目を引くのは、山のてっぺんまで続く発電水路の偉容である。

そして、おそらく年間1万人以上はいると思われる、ここから上高地へ向かうサイクリストにとっては、知らない方が幸せでいられる情報を、ここで暴露したい。

この水路の天辺の高さは、ほぼ上高地の大正池と同じである。

大正池から水平に近い地下水路で引っ張ってきた水を、一気にこの発電水路に落として発電所内のタービンを回しているのである。
この発電水路は落差453mもあり、完成当時は日本一を誇っていたが、ここから現道経由で大正池までの9kmは、この落差を登るための道である。
(ちなみに、釜トンネル単体で高低差が約100mある(笑))

これを登る前に知っちゃうと、少しうんざりするでしょ。 ごめんね。




13:06 《現在地》

発電所からさらに400mほど進むと湯川渡という場所に着く。
地名の通りここにも橋が架かっており、旧道と現道を結ぶ最後の橋となっている。

ここを直進するのが旧道だが、いきなり砂利道であるうえ、「立入禁止」の表示がある。

ただし、道路通行者としては理由説明のない立入禁止に従う義務はない(道路法第四十七条の四「道路管理者は、(中略)道路の通行を禁止し、又は制限しようとする場合においては、禁止又は制限の対象、区間、期間及び理由を明瞭に記載した道路標識を設けなければならない。」を曲解…つうか悪用…)ので、進入する。

つうか、この立入禁止は旧国道の制限とは関係ないと思う。
この先に採石場があるので、その関係ではないかと…。



砂利道である。
鋪装と一緒にガードレールも無くなった。

旧国道が砂利道であるというケース自体は珍しくないが、やはり現在の交通量を考えると信じがたいものがある。
しかもこの砂利道は、「不通だった時代の道」とかではなくて、ちゃんと今と同じく高山まで通じていた当時の道だ。
年間数万台のクルマが通るようになってからも使われていた道である。

特に上高地行きのバスの往来は多く、そのすれ違いには独特のルールとテクニックを要していたと言うようなことが、『釜トンネル―上高地の昭和史』などに綴られている。

砂利道を200mほど進むと、轍の大半は右後方の採石場へ呑み込まれる(休止中のようだ)。
真っ直ぐ進むのが旧国道だが、先を行くnagajis氏の行く手はもう… (右写真)




路肩に傾いた道路標識が現れたと思えば、内容はこれ。

「路面凹凸注意」と、「徐行せよ」。

どちらも、道路状態の劣悪を予告するものに他ならない。


昭和13年に県道として解放され、28年には国道となり、48年に現道が開通するまで使われていた旧国道。

その「廃道 第1ステージ」が、間もなく始まろうとしている。




13:12 《現在地》

キター!
 廃!

これは正統派っつうか、めっちゃ象徴的な景色だ!

目の前で藪に埋もれる旧道と、その行く手を高々と跨ぐ現道のハイブリッジ。

色々な意味で、期待させやがるぜ!
nagajis氏のテンションも、急上昇!
思わず、ナイスポーズ desu!!!




先の展開の読めない状態で走ってきたのは確かだが、いきなりここまで落下するとは思わなかった。
「モナ」食ってから、2kmも来てないぜ。

おそらく、小さな沢が暗渠を埋め、行き場を失った水が路盤を削ってクルマが通れなくなったのが、廃道化の直接の原因であろう。

始まったぜ、廃道。





もうこんなにたくさんチェックしたぜ!(笑)


そして次回は…

キタキタ連呼の予感!