国道158号旧道 沢渡〜中ノ湯 第2回

公開日 2009. 4.22
探索日 2008. 7. 2


廃への門戸、旧山吹隧道


2008/7/2 13:12

現在地は、梓川筋最奥の集落である沢渡(さわんど)のはずれ。
これから本格的な山と谷の世界へと分け入っていく。

図中の現国道は、昭和44年に「山吹工区」として着工、同48年に完成した区間である。
したがって我々が辿る旧道は、旧道になって40年弱経過していることになる。

現在の地形図にも、この区間の旧道は破線で描かれており、途中にはそこそこ長い隧道まであるようだ。
早速だが、楽しみな区間だである。




いきなりの深い藪から始まったこの区間だが、幸いにして50mほど進むと視界が開けた。
そして、そこにはより鮮明なカタチで、現道と旧道の立体的な関係性が示されていた。

頭上を跨いでいるのは、現道の栂桜(つがさくら)橋。
緒元は不明だが、梓川筋でも有数の大型橋で、河床から30mほどの高みを越える、方杖ラーメン形式の鋼橋だ。
山吹工区の大工事としては、この栂桜橋と、それに続く新山吹トンネルが挙げられる。

旧道上には、まだクルマが通れていた時代(末期?)の遺物なのか、決壊した路肩を示すように赤いコーンが置かれていた。




 スコンスコンッ

そんな破裂音を響かせながら、勢いよく橋を渡っていくクルマたち。
彼らには全く想像もつかないであろう谷底に、40年前の道はあった。
藪がいくらか浅いのは、ここにはまだ鋪装が残っているからだった。
僅かな踏み跡分だけを残しつつ、窒息寸前となった鋪装である。

この栂桜橋を潜ればすぐに隧道が現れる。
地図はそう教えていた。
否が応でも、我々の期待は高まった。

 スコンスコンッ




13:19

 スコンキター!スコンッ


…あります。

地図にある隧道くらい、あって貰わなきゃ困るんだけど、やっぱり嬉しい廃隧道発見。


しかもこれ、
なかなかどうして、

…凄いところにある。




 ザーーーー!!!キター---!スコンスコン

坑口が、滝壺に…。

しかも、水の出所を見上げれみれば、…現道だし(笑)。

何を考えてこんなカタチになっているのか…。
水路の故障か何かでこんな風になっているのかも知れないが、ともかく前代未聞といっても良い光景だ。




哀れ、永遠の滝行を宿命づけられてしまった旧山吹隧道。

ほぼ無装飾に近いがアーチリングだけは鮮明な坑門や、1.5車線分しかない幅など、明らかに前世代的な作りである。
電線を仕込んでいた鉄管がアーチリングに沿って残っているのも、旧国道臭を漂わせている。

この地点までは、少し路盤の補修をすればジムニーくらいなら入って来れそうであるが、それらしい轍も見られない。
これほどの幹線(の旧道)で、しかも地図に載っていながらこの放置臭。

いかにも現道の威風に隠されている風であるが、現道からは直接旧道が見えなかったり、その入口が2kmも離れていたりして、何気なく入ってくるような場所ではないのも一因だろう。




(←)鉄製の扁額。
意外なのは、山吹「トンネル」で、「隧道」ではないと言うところ。
トンネルという言葉が扁額に使われた最初がいつかは分からないが、私は戦前の例を見たことはない。

(→) 坑門横の瓦礫の山に埋もれかけていた「高さ制限3.6m」の標識。





いきなりの廃隧道出現とは、まさにオブローダー冥利に尽きる展開だ。

こんな素敵な廃隧道の先には、どんな「廃景」が我々を待っているのだろう。


吹き抜ける谷風に滝のしぶきが舞い踊り、小さな虹を惜しげもなく披露するその場所を、我々は出発した。


さほど長くはないはずなのに、なぜか出口の見えない、闇の中へ。




洞内の天井には、主を失った電灯設備が疎らに残っていた。
我々も持参の照明を点灯させないと、とても自転車に乗ったままで進めないほど洞内は暗かった。

「隧道リスト」によれば、この山吹隧道の全長は157m。
普通ならば余裕で出口が見通せる距離だ。
それなのにこの暗さ。廃隧道ならば閉塞を疑うべきところだが、今回その心配はしていなかった。
予備知識も皆無だったが、それでも不安は感じなかった。

なぜなら、洞内には強い逆風が吹いていたからだ。




穂高の峰から、梓川の狭窄部を通って松本盆地へと吹き出す谷風。

それも沢渡まではそよ風であったが、いま隧道に入り、急に烈風の勢いを示した。
25度を超える外気温を全く感じさせない、冷たい烈風。

その意味は隧道の貫通だけに止まらず…

これを出た先に待ち受ける谷が、どんなに細く険阻であるかを物語っているようにも思われた。


そして我々は、風洞と化した洞内で、光の通じぬ訳を知る。





これは酷い。

地形図には、こんな“異常なモノ”は描かれていなかったと思うが…。
隧道は、全長157mのほぼその中央部で、折れていた。

曲がり(カーブ)ではなく、折れている。

しかも、20〜30°くらい一気に折れている。

最大で30〜40人乗りの観光バスもここを通っていたと言うが、当時からこの隧道の“折れ”は、大型ドライバーにとって鬼門だったらしい。
特に観光バスの場合、途中の悪路でスプリングが破損することがよくあり、そうした状態で車体が傾いているともうこの“折れ”を通過できなかったそうだ。

え? …いくら何でもそこまで狭いか?  そう私も思ったさ。

でも、戦後しばらくまでは、今よりずっと狭かったらしい。
その状況を、「隧道リスト」はこう教えてくれている。




山吹隧道 延長157m、車道幅員2.7m、限界高3.8m、竣功昭和2年

現在の山吹隧道はこれでも大部拡幅され(4mくらい)、かつコンクリート覆工と鋪装を施された、「改良後」の姿なのである。
当初は素堀かつ未舗装、それこそ「旧釜トンネル」と大差のないような隧道だったものが、正確な時期は分からないが、おそらく昭和30年代に改良されて今の姿になった。
坑門に取り付けられていた「トンネル」の銘板も、おそらくそのときのものだろう。

薄っぺらい覆工が破れ、その向こうの黒々とした地肌が見えていた。
そこから、地下水が迸るように落ちていた。
覆工の寿命は、もう限界に来ているように見えた。




うひょひょひょひょひょひょー。

こら永冨! 何をニヤニヤしている!

もう、何だか我々のテンションが早速、ヤバイ(笑)。
楽しすぎるよ〜。
隧道を抜けたら草原とか、素敵すぎるしー。

なお、洞内の有効幅員を一層狭めていたこの“コンクリートの函”(←)だが、正体は温泉水のパイプラインであるようだ。




(→)
東口とはうって変わって、日光を満々と浴びて爽やかな感じの山吹隧道西口坑口。


(←)
しかし、道の方はいよいよ本格的な廃道の様相を呈している。

案の定、谷も一気に狭まっていて、対岸の崖が近い! そして急!





来た。

グッと来た。


ちょとだけブルーシートが興ざめだが、いやいやこれは素晴らしき“廃”景。

奥にちょっとだけ見える栂桜橋との立体感が良い!
穂高の雪解けをそのまんま流したような、梓川の清涼感&ボリューム感が良い!
人工物と自然物との境を限りなく曖昧にしている、今一番元気な緑が良い!

ここは、nagajis氏もお墨付きを与えた、廃の名場面。オススメです。


ここまでは、オススメです。




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天雷を畏れつつ往く道


13:26 

上の写真からもお分かりの通り、山吹隧道を通り抜けると、そこはもう一人。

つうか二人か。

いや、同伴の川と道もあるから四人?


…ともかく、現道の気配は全く無くなる。

一応は続いている舗装路も、山から流れてきた土砂に隠されがちで、主にヒメジョオンの茂る野原と化しつつある。

でもまだ、長閑。




現時点で懸念されるのは、山よりもむしろ川。

梓川のもの凄い水パワーだ。

石垣や築堤で強引に獲得した道幅だが、縄張りの主張を止めた今、再び川が勢いを取り戻し、路肩に押し寄せつつある。

既に決壊している箇所も目立つし、地中に固い岩盤があればいいものの、それもなければ遠からぬ将来、道はこの激流に流されて消えるだろう。

とりあえず、今はまだどうにか…。
廃道40年生… どうにか、持ちこたえている…。




13:30

執拗に路肩を削っていた梓川が少しだけ離れ、道もようやくひと息つける感じになった。

そんな道の、半ば森と一体化した山側路肩部分に、小さな石碑を見付けた。

「あっ」と叫んで、あとは吸い寄せられるようにその前に立つ。
我ながら、よく気付いたもんだ。

こういう時ばかりは「呼ばれた」気がする。
遺構、 ないしはその遺構に宿った、人の想いに。

…って、めっちゃオカルトじゃねーかそれ(笑)。
ちなみにnagajis氏も、そう言う意味ではかなり濃いオカルト派だったが。




慈しむような柔らかいフォルムをした自然石。
前面に刻まれている文字は、「遭難者追善供養碑」。

裏にはより小さな文字で、事故のあらましがごく短くしたためられていた。

維時昭和十三年七月二十一日 東筑島内村丸山隆成
此地ニ於テ遭難ス 昭和十三年八月建立

それは、この道が初めて安房峠を越えて高山へ通じた年の供養碑だった。
島内(しまうち)村は、昭和29年に松本市に合併した小村で、県内有数の米の産地として知られていた。
そして、この地域を地元の人は「東筑(とうちく)」と呼ぶ。

遭難者の身に、我々と同じこの暑い7月の渓谷で、何が起きたのだろうか。
鎮魂。





眩しさに天を仰げば、そこにさっきまでの森は無かった。


その代わり、真夏色の空と、黒光りする岩の尾根が見えていた。


今のように、トンネルと橋だけで梓川を容易に遡れなかった時代、上高地と麓の町とを往復して暮らしていた人達(行商人や運転手など)は、沿道にある様々な景色に名前を付けて呼んでいた。

それは、人が作ったトンネルや橋のように定まりきった名前ではないけれど、口から口、人から人へと語り継がれた、本当の意味での地名だった。


旅の風景からは永遠に消えたこの地を、かつて
雷 岩 といった。



なぜならば…





…というわけである。


恐ろしい…雷様だ。




雷岩から転げ落ちてきた大量の瓦礫や、もっと大きな岩の塊は、容赦なく道へ降り注いでいる。

隧道の拡幅とおそらく同時期に施行されたであろう巨大なコンクリート擁壁も、その耐久力を遙かに上回る瓦礫の山に、用をほとんど成していない。
路上の草が茂っている部分も、実際には自転車に乗って走るのは難しいほどに“岩がち”である。


ここは、よほど不幸ではなくても落石必殺の心配をしなければならない、雷岩直下の道。

だから、「オススメは出来ない。」

左の写真“だけ”ならば、どこにでもあるくらいの崩落だが、【頭上】を忘れてはいけない。




雷様の恐怖も醒めやらぬまま、

というか、まだ雷岩の直下であるが、

今度は水神様もお怒りじゃー!!!


というわけで、この状態…。

本来ならば、もう完全に通行不能になっていただろうところを、ギリギリで「温泉パイプ」が生かしてくれた。

このパイプは廃道化してから敷設されたものらしく、崩れた路盤になんとかパイプを通そうと、鉄の足場を作ったり、崩壊面にコンクリートを吹き付けて固めた跡がある。
だが、その足場も既に梓川に呑み込まれつつあって、水神様のお怒りは深い。




どこから来て、どこへ行くのか温泉パイプ。

申し訳ないが足場として使わせて貰ったゴムのパイプは、どこかに孔でもあるのか、湯気と共に熱湯が落ちていた。

ほんと、このパイプだけが頼りです。最後の良心です。




私に続いて、nagajis氏もこのゴムロードに愛車を通す。

ダメだからね、バイクは!

…と、余計なお世話を言ってみるテスト。





13:38

モナ王食ってから約40分。

我々は、廃道「第1ステージ」の中盤にさしかかっていた。


天に雷、地に波濤。

この爽快な夏空の下、望んで挑んだ困難な状況が、我々に最大の興奮を与えていた。



そして…





なんか出てきた…。