2008/4/22 9:21
まったくあきれ果てた古タイヤの不法投棄。
旧国道を挟んだその真向かいが、求める旧隧道への入口。
すなわち、旧旧道との分岐地点ではないかという結論に達した。
一度は素通りしてしまった地点ではあるが、
(←)この通り…
奥へ真っ直ぐ道が続いていたと思えるような平場が。
素性の分からぬ… ただ、明治の地形図には既に描かれていた隧道。
この奥にあるのだろうか。
少し進んでから振り返って写したのが左の写真。
奥を横切るのが旧国道で、現在地との間には1mほどの段差がある。
少なくとも現在は、とても「分岐」とはいえない状態だ。
実際ここまでのところ、明らかに道路だと分かるようなものは見つかっていない。
うむっ!
なんだこれは。
明らかに人工的に土を盛ったと思われる築堤のような地形が、進路の左手に現れた。
普通にその上にも木が育っており、土盛りだとしても相当に古いものだと思われる。
この“築堤らしきも”は、真っ直ぐ先へ続いている。
これは… 道なのか?
隧道へ繋がる旧旧道は、この築堤の上なのか。
まだ解らない。
だが、旧国道から隔離されたこの山中に、古そうに見える人造地形が現れたのだ。
旧旧道との関連性を疑わざるを得ない!
しかも、この人工的な築堤を構成する土砂は、砕石のようである。
黒っぽく角の尖った石が大量に積まれ、この巨大な築堤になっているのだ。
この築堤以外の地表とは、明らかに質が違う。
…これはもう、決まりだろう。
この土盛りは、隧道を掘削した残土ではないのか。
今日ならば残土はもう少し目立たないように処理するだろうが、なにぶん明治の土木事業である。
普通に坑口前に盛り上げて置いたのではなかったか。
この奥に、旧隧道の坑口があるのではないか!
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9:24
築堤の上(←)と
下(→)
どちらが道なのか。
どちらも道に見える…。
道は下だった。 見えてきた。
明らかに… 道がある。
先ほどまでの乾いたアスファルトとはまったく違う、さらに古い旧道だ。
自然地形とは考えられない直進性を持って、稜線の懐深くへ突き刺さっていく。
その先に予感されるものは、ひとつしかない!!
キター!!
築堤は山腹に呑み込まれ、道の両側が石垣に変化した。
道路と言うより、水路か濠のようなものを連想させる、長く深い、石垣による掘り割り道。
石垣の積み方は決して丁寧とはいえず崩壊も見られるが、大半は原形を留めている。
し… しし
心拍急上昇!
すごい堀割…
執念を感じる。
1センチでも隧道を短くしたいというような、執念を。
だが、それも自ずと限界が見えている…。
峠を最初に見たときにはまったく想像できなかった、
屏風のように切り立った稜線が迫る。
掘り割りによって先延ばしを続けられてきた、決着の場面。
もう、まもなくだ!
坑口前。
もう、地下が見えていてもおかしくないほど近づいている。
だが、未だ確認できない。
壺の底のような地形に、容赦なく石や土や木が堆積している。
まさか、またしても埋没?!
掘り割りの終着点。
百年分の苔とシダを蓄えた、垂直な岩場に行き当たった。
私は、 ここで、
またしても。
廃道の女神に、祝福された。
開口確認!
洞内への進入可能性を確保した。
当然、潜入探索を決行する!
行き止まりはほぼ確定している状況だが、
さらなる奇跡が起こるのか?!
9:28 《現在地》
古地図が教えてくれた明治隧道。
その佐野側坑口は、旧国道から100mほど西に入った谷の奥に、大量の土砂に埋もれつつも、どうにか開口してくれていた。
冷たい空気に満ちた洞内へ、瓦礫の斜面を滑り降りるようにして進入した。
洞床の、堅い、確かな足触り。
水は溜まっているが、まだ車を通すことも出来そうなほどよく締まった土だ。
周囲の岩盤は、いかにも掘るのが大変そうなゴツゴツした岩で、しっかりと坑道の形を保持している。
とりあえず、奥行きは不明。
出口は見えない。
風も無い。
人工的な掘り割りによって圧倒的谷底となった坑口付近は、滴る地下水と、内外温度差による結露のため、常に水浸しだ。
隧道は高さ約3m、幅4mほど。
明治時代に馬車を単線で通すために掘られたと考えれば、このくらいだろう。
天井の低さが、モータリゼーション以前の隧道であることを物語る。
断面形は、矩形に近い食パン形。
内壁は全くの未普請で、ゴツゴツした岩がそのまま露出している。
洞床に水が溜まっているが、不思議なのは中央付近にやや盛り上がった部分があり、そこだけ水没を免れている点だ。
車道として考えれば不便であったはずの盛り土は、最後まで人道用として便宜が図られていたことを意味するのだろうか。
天井の一角に、顕著に白い部分があるが…
それは、地中の成分が析出した結晶のような付着物だった。
私は、この隧道と極端に似ている隧道を知っている。
アクセスルートと坑口の位置関係や、坑口の立地条件、埋もれ方、岩質、水没、白い析出物…。
全てが酷似する隧道は、秋田県の仁別森林鉄道の水無沢支線にある峰越えの隧道であったか。
むこうも、一方の坑口は完全に埋もれている様子であった。
もちろん、両者に関連性があろうはずもないのだが…。
10mほど進むと、まとわりつくような水蒸気に視界を遮られはじめた。
これ以降、フラッシュを使った撮影は出来ない。
さらに前進する。
坑口から30mほどで、隧道は土砂に埋もれていた。
あとから埋め戻した可能性もあるが、天井にこの土砂の供給源と思われる凹みが有ることから、崩壊したのだと思う。
土砂は完全に密閉しており、これ以上進むことは出来ない。
おそらく隧道の全長は200mほどあるだろうから、この先にも空洞が存在する可能性は高いが、確かめる術は無い。
この崩壊地点には、支保工の残骸が残されていた。
金属の留め具(なんて言うんでしょう?)の遊んでいる長さが、いかに原形を留めていないかを示している。
おそらく、軽く触れただけで倒れてしまうだろう。
いままで無かった支保工がここに現れたということは、現役当時から崩壊の危険が知られていたと言うことだ。
そして、隧道を塞ぐ土砂が支保工を呑み込むように山を作っている事実(上の写真をよく見て欲しい)は、この崩壊が事故であったことを示しているように思う。
それが、現役時代の事故であったのか、旧道になったあとなのかは、分からないが…。
9:30
洞内滞在僅か2分にして、閉塞を確認してしまった。
もっとも、本来の長さを考えれば、普通は1分で通過してしまう程度の隧道だったはずだ。
限られた洞内から、引き返す。
許された距離は、30mあまり。
古地図の隧道は現存したが埋もれていた。
…という状況確認だけでは、どうにも落ち着かない。
当然机上調査を実施したが、まず「足利市史」には記載がなかった。
「佐野市史」と、かつての行政名「赤見町史」を取り寄せ中だが、これは当分かかるかも知れない。
しかし、灯台もと暗しというか、ネット上に核心を突く情報が眠っていた。
地元のコミニュティ情報サイトである。
以下に引用する。
平成8年(1996)、樺崎町と佐野市の赤見町を結ぶ国道293号線に全長562メートルの越床トンネルが開通し、難所であった峠越えは解消されました。しかしそれに先立つ明治28年(1895)、赤見町の大竹謙作、大月彦三郎をはじめとする有志の奔走によって全長約200メートルの旧越床トンネルは開通しました。難工事に加え資金不足等幾多の困難を乗り越えての快挙で、昭和になり交通の多様化や老朽化から閉鎖されるまでの間、地域の利便を担いました。
明治28年…個人による工事…全長200m…昭和初期に封鎖…。
出て来た出て来た。欲しかった情報がムクムクと!
さらに別のサイトにも情報が…。
越床峠には、新しいトンネル工事が進行中だが、ここにはもともと越床トンネルと呼ばれた古いトンネルがある(古くは越所隧道と言った)。
(中略)
越所トンネルは明治十二年起工、明治二十八年完成。長さ195メートル。
(中略)
越所トンネルは、昭和十三年にトンネル中央部で多量の落石が起き、その後も危険性ありということで現在は使用されなくなっている。
まとめると、私が探索した隧道の名は、「越所隧道」。
明治12年着工、28年竣工。全長195m。
地元赤見町(現佐野市)の大竹謙作、大月彦三郎をはじめとする有志によって計画、建設された。
その後、昭和13年にトンネル中央部(私が遭遇した閉塞点かも知れない)にて落盤が発生し、以後復旧されず今日に至る。
195mという長さは、明治の隧道としては決して短いものではない。
16年もかかったというのも、あのいかにも堅そうな岩盤を見れば… さすがに掛かりすぎなので、途中でかなり苦労したのだろう。
資金不足などで工事が中断した時期があったと考えるのが妥当だろう。
しかし、それでも腑に落ちないのは…
隧道は、明治時代に本当に必要だったのか?
ということ。
なにせ、隧道は戦前の「これから自動車交通だ!」という時期に崩壊したにもかかわらず、明治以前の切り通しの峠を拡幅して代用とした(旧国道)。
そしてそのまま、平成の世に現トンネルが出来るまで、トンネル化は先送りにされてきた。
幹線国道であるから、改良の活性が低かったとは考えにくい。
高速交通などあるはずもない明治であれば、越所隧道が無くても、掘り割りの峠で代用が利いたのではなかったか。
こんな事を書くと、夜中に大竹謙作や大月彦三郎に首を絞められるかも知れないが…。
この疑問の答えになるかは分からないが、さきほど引用させていただいた「こならの森」管理人氏は、同文中に次のようなことを書かれている。
近くにある、足利市と田沼町を結ぶ須花坂トンネルは明治十三年の竣工。長さ117メートル、明治二十五年完成。
越所トンネルは明治十二年起工、明治二十八年完成。長さ195メートル。
同じ時期に、同じ地域でトンネル工事が始まったことには、ある種の「トンネルブームでもあったのであろうか」と興味を引かれる。
もし“隧道熱”とでも言うべきブームがあったとしたら、その原動力は何だったのだろう。
どうも話は、越床峠だけで完結しないようだ。