国道410号 真倉の切割 後編

公開日 2013.03.27
探索日 2013.02.01


モーセも驚く?! 大地を切り割った国道。


2013/2/1 9:42 《現在地》

度肝を抜かれた掘割りを北へ抜けると、道はかなりの急勾配での下りとなっていた。

道は昭和16年に旧道化したという話だから、その終盤は自動車の通行もあったことと思われる。
だが既に車輪の轍は見あたらず、靴底の柔らかな感触は、山野の地肌となんら変わらなかった。

路上には大きな木こそまだないが、小さな森は着実に生長を遂げていたのである。
やがては掘割りの内部だけを残して、前後の道は鬱蒼とした森の一部へ呑み込まれてしまうだろう。




南側がそうであったように、北側もすぐに沢底と思える底平地に下りたった。
やはり峠らしからぬ地形であると思った。

ただ、南側と同じような地形でありながら、道の状況は大きく異なっていた。
南側では掘割りからこのくらい(約100m)離れた場所には人家が現れ、道も廃道状態ではなくなっていたのだが、北側は依然として青々とした草木のうちに支配されていたのである。

地形図には全くこの道が描かれていないので、どこまで進めば現道と合流することができるのか、はっきりした事が分からない状態である。
既に「ハイライト」は見終わったはずであるから、後はあまり藪で私を苦しませることなく、すんなりと現道へ復帰させてくれると嬉しいなどと身勝手な事を思っていたワケだが…。

そうそう思うとおりには行かないのが、…廃道だったっけ…。 



これはなんだ〜!!

何か得体の知れない廃屋らしきものが、道のすぐ脇に現れた。

南側の状況に対応させるならば、この建物の正体は民家の廃屋と考えられるわけだが、生半可な“廃度”では無さそうである。
それに作りも何か普通じゃない感じがする。

なお、ここで私が廃屋の方へ近付いていったのは、単に廃墟への興味が湧いたと言うことよりも、ちょうどこのタイミングで廃道の方の路面状態が凄まじいブッシュになってしまって、寧ろ渡りに船の状態で廃屋がある一段低い場所へ逃げ出したのだった。




これは…?! 
なんかいかにもジャングルでのゲリラ戦に登場しそうな家だが…。

よく塀に用いられているコンクリートブロックで壁を作った、簡易な作りの平屋建てであった。
しかし屋根はコンクリートであり、その平らな屋根の上にも“新たな地面”が出来上がっていた。

この壁は民家として見るといささか不自然だが、それ以上に奇妙なのは、家屋を真っ二つに切断したかのような断面だった。
なぜか掘割り側には一切の壁が存在せず、コンクリートブロックの壁の断面がモロに露出していたのである。
これはさながら「地震体験用ハウス」のようである。

そして現在残っている部分には3つの部屋(左端のは通路か?)があるが、そのうち1つにはタイル貼りの浴槽があった。
これを見る限り、そんなに古いものでは無いらしい。(地形図にもこの廃屋らしき建物が描かれているが、正体は不明だ)



どうにもならないほどのブッシュに覆われた旧道(皆様お忘れではないと思うが、今回も自転車同伴である)を、小さな廃屋とその周囲にある藪の浅い領域を使って無事に迂回できた。

ここに廃屋があったのは、私にとってはラッキーだったかも知れない。




左側の一段高くなっている部分が、旧道の路盤である。

もうそろそろ、現国道が救いに来てくれると信じたいが…。
なにやら先行きはまだ安泰では無さそうである。
何というか、良くない明るさだ。



向かって左側の低い素掘の法面に、2つの洞穴が口を開けていた。

それぞれ中を覗き込んでみたが、奥はすぐに狭くなっており、隧道の類でないことは明白だった。
房総でこの手の穴に全て付き合っていては日が暮れるのセオリー通り、華麗にスルーした。




左の穴をスルーすると、今度は右の浅い沢を挟んだ山腹に、異様な光景を見た。

尋常ではない密度のササが、まるでざんばら頭の毛髪のように、ことごとく倒れ臥していたのである。
生き残っているものは1本も無さそうであり、これがウワサに聞くササの大量枯死(同じDNA情報を持つササやタケは数十年に一度という周期で一斉に開花し、一斉に枯れる事が知られている)なのか、あるいは別の要因か。

いずれにせよ近寄り難い異常な光景であって、先ほどからの前方の明るさの一因がこれだった。
ちょっと怖かった。



それから道は激藪化への一途を辿った。

この展開は皆様も想像していただけるとよく分かると思うが、テンションが上がらない。
今はただ現道へ接続し、「確かに旧道は貫通していた」したという確証が欲しいだけなのである。

にもかかわらず、旧道はいやらがせのように現道へ近付こうとせず、微妙な間隔を保ったままで共に北上を続けているのだった。

もっとも旧道を弁護すれば、この私の感じ方はGPS上で現道と旧道の位置関係だけを見ていた事による半ば被害妄想なのであり、実際には依然として現道が掘割りの中にあるために、容易に近付けないのだった。
そうは言っても現道を走る車の音が間近に聞こえるだけに、ここで汗を掻かされる展開はストレスだった。




♪ るぅ〜… ♪



9:57 《現在地》

掘割りを抜けた所から、ここまで下りベースでありながら、17分間で200mしか前進できていなかった。
道路上に何かめぼしい遺構でもあれば耐えられもするが、もう我慢の限界だぁ〜〜!
私は現道との間を隔てている細長い林をショートカットすることに決定し、法面へ自転車を担ぎ上げた。



10:00 《現在地》

現道へ復帰!

抜け出してみると、そこはもうほとんど旧道と現道の合流地点であった(苦笑)。



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これで探索終了だとあまりに締まらないと思ったので(苦笑)、ちょっとだけ戻って現道の掘割りへも行ってみることにした。

旧道の荘厳な切割を見た後だけに、戦時中に建設された現道のそれには、あまり期待していなかったのであるが…。


こ…



バケモンだああ!

ちょっと、おかしいだろ!!


ここを平然と、何の疑いもせず通過していくドライバーは、ちょっとおかしい!

もう慣れちまってるとでも言うのか?!! 

こんな道が他にあると思ってるのか?



いやいやいやいやいやいや!!

あってたまるかよ!! この掘割りは普通じゃないぜ!!

奥に見える電柱が、通常は13〜14mの高さである。
しかし切割の最も高い所はその2倍を超えていそうだ。
しかもこのねずみ色の壁の素掘にはない圧迫感はどうだろう!

確かにこれと比較したら、明治の切割など役目を終えても仕方が無さそうだ。
旧切割の幅も軽自動車がすれ違えるくらいはあったが、こちらは大型車が余裕で離合可能。
そして前後のブラインドカーブや北側の急坂も解消されており、それこそ昭和16年という時期に
これだけの道をここに作ったことに、通常の道路整備とは違ったベクトルが働いたことを強く感じる。




車がミニチュアみたいだぜ?


…これが、大日本帝国の力か!

この切割を開削したのは、昭和16年に海軍砲術学校が館山に開校した時であると、
帰宅後に読んだ館山市の広報『だん暖だてやま』に書かれていた。
具体的な両者の関わりは分からないが、軍が主導してこの新道を切り開いたのは間違いない。




まさにモーセもぶっ飛ぶレベルで奇跡でも何でもない“土木の力業”を見せつけられたわけだが、なぜここに並ぶ新旧の掘割りは、地形図の中で異なる描かれ方をしているのだろうか。

新道のそれは「岩崖」で、旧道のは「土崖」の記号である。

両者の違いは、その高さと、そして表面がコンクリートに覆われているか否かだけである。
実際の地質は共に「岩崖」だと思うが、しかし道路の「切取部」でもあるから、国土地理院のベテラン職人も「岩崖」「土崖」「切取部」のどの記号で描くかを悩んだはずだ。

いったいどのような判断基準で描き分けたのかが、気になるのである。
そして掘割りの両側を岩崖の記号で描いてあるのは珍しく、図上で異彩を放っている。
もしかしたら、特別に巨大な掘割りを他と区別したいという、素朴な意図が働いたのかも。




いやはや、驚いた。

この切割の最寄りにあるバス停の名前は、そのまんま「切割」だが、
もはやそれ以外に名付けようがないであろう。
旅人にこれほどのインパクトを与える切割というのは、そうそうあるものではない。
しかも、誰でも車で走り抜けられる点もポイントが高い。日本百名道に入れてあげたいぜ。


…切割は、当分お腹いっぱいでふ…。




最後に、昭和の新しい切割が建設された当時の道路事情について、少し本編を捕捉しておこう。

現在、この切割を通っている道路は国道410号だが、この道は右図のように館山市を起点に、房総半島の南端部と内陸部を走って、木更津市へ達している。
(さらに余談だが、国道127号は木更津市が起点で館山市が終点。しかも国道127号の起点と国道410号の終点とは3kmほどしか離れていない。また、国道410号といえば、このレポートも忘れないでね…)




国道410号が指定されたのは昭和57年のことで、この切割が開通したのは昭和16年であるから、だいぶ開きがある。

では、昭和57年以前は何という道であったかというと、昭和29年から30年近くにわたって主要地方道館山白浜線(千葉県道28号)と呼ばれていた。
それではさらに昔(旧道路法の時代)はというと、大正9年に認定された府県道116号富崎安房北条停車場線であったことが、種々の資料から判明した。
聞き慣れない地名ばかりかも知れないが、富崎はこの当時神戸村の南に隣接していた村の名で、北条停車場は現在の館山駅である。

そして実はこの府県道富崎安房北条停車場線は、国道に認定されていた時代がある。
「国道←主要地方道←府県道←国道」という経歴は不自然に思われるかも知れないが、事実である。

太平洋戦争中の昭和18年3月、大日本帝国内務省は特37号国道を認定・告示している。
この路線名には見覚えがあるかも知れない。
これは以前公開した国道127号のレポートにたびたび登場している。

昭和18年に認定された特37号国道は、いわゆる軍事国道というカテゴリに属する現在の道路法には無い路線であったが、建設費の全額を国が負担するなど、一般の国道以上に手厚い整備の手法がとられていた。
そしてその起点は木更津市で、終点が館山を通り越し、安房郡富崎村大字布良(めら)に置かれていた。
特37号国道は現在の国道127号の前身になった木更津〜館山間だけでなく、さらに南へ房総半島の南端に近い布良港(現在の富崎漁港)付近まで10kmほども伸びていたのだ。

軍事国道は一も二もなく戦争遂行のための路線であったから、東京湾防衛の前線基地である館山を絡めた路線が認定されたのは当然だが、さらにそこから南の農漁村部へ伸びていたことは、東京湾を扼するこの一体を軍事要塞化するための幹線と考えられたのだろう。(未探索だが、真倉の切割付近にも当時の軍事施設跡がある)

昭和16年にいち早く新装された「真倉の切割」は、この軍事国道の一部として終戦まで任務を全うしたが、その後は軍事国道が有名無実化したことから、再び府県道富崎安房北条停車場線として管理されたと思われるが、この時期の詳細は不明である。

まとめると、現在の国道410号の館山〜布良間は、戦時中に国道であったものが終戦後に県道へ降格し、それから30年以上経ってから再び国道へ返り咲いた、珍しい区間と言うことになる。


★結論:

巨大な「真倉の切割」は、軍事国道の遺産だった!


実は昭和57年に指定された当初の国道410号の経路は、館山市の起点から丸山町加茂(現:南房総市加茂)までは国道128号と重複し、そこから先が(現在と同じ)単独区間となっていた。それが起点から南へ出て、旧白浜町(現南房総市)や千倉町を通って上記の加茂へ向かうように経路変更されたのは、平成5年のことである。
つまり、「真倉の切割」が県道に降格していた期間は30年どころではなく、戦後まもなくから平成5年まで半世紀近くにわたっていたことになるのだ。

【宣伝】 ここで述べた旧道路法や軍事国道などについては、『大研究 日本の道路120万キロ』で詳しく解説しています!