道路レポート 神津島の砂糠山にある廃道 机上調査編

公開日 2016.3.12
探索日 2013.4.01
所在地 東京都神津島村

机上調査(前編) 再訪へ向けた軌跡


今回の探索日は2013年4月1日で、翌々日の早朝に無事帰宅した私は、旅の興奮の醒めぬうちに早速、あれやこれやの机上調査をスタートした。

その成果を発表する前に、机上調査中にこういうもの(→)を見付けて笑わせていただいたことを書き記しておきたい。

私が探索中に窓口を訪ね、衝撃の“養蚕施設”証言を得た神津島観光協会の公式ツイッターアカウント(@kozusimaさん)が、こんなツイートで世の中の【島フェチ】を島へ呼び込もうとしていたのである。
フェチだぞ、フェチ。
フェチって……、あれだろ…。

まあ、私が探索中にだいぶやばくなっていることは否定しきれない(詳しくはこの漫画に…)が…。
いずれにせよ、オブローダーの説明が面倒だと思った私が、自己紹介を適当にした結果が「史跡マニア」なわけである。
で、相変わらず観光協会サイドは「養蚕場所として使われた(使おうとした?)神津島のある場所」という(少し当日よりも自信がなさそうな)表現で、“養蚕施設”説を推している。
本当かよ!
島の外から恐縮であるが、私がっきっちり カタ 付けたる!!



文献調査 〜『伊豆諸島東京移管百年史(下巻)』および『神津島村史』を読む〜

遠くの図書館から取り寄せるまでも無く、最寄りの日野市立図書館に所蔵されていた上記の史誌が最初のターゲットとなった。(こんなとこでも、伊豆諸島が確かに東京“都内”なのだと実感する)
そして、個人的な疑義はさて置いて、島民の証言があるという理由から、最も有力な説とみられた「養蚕」について調べてみると…。

2冊とも、神津島の養蚕について専門に述べたページが1ページずつあった。
どちらも1000ページを越える大冊であるから、この分量は多いとは思えない。もちろん文章も読んだが、砂糠山で大規模な養蚕事業が行われたことについては、記述がなかった。

が、それでもこれら文献は、私の大きな誤りを正す役割を果たした。

『伊豆諸島東京移管百年史(下巻)』からの引用

昭和44(1969)年から再び種繭の生産に共同飼育方式が採られ、年々その生産が順調に進展し、その成績が期待されるに至りつつある。
昭和53(1978)年5月の生産量1300kg、金額にして440万円である。

このように、神津島では、現代の時代に入ってからも、養蚕がかなり大規模に営まれていたことが分かった。
どうやら私が現地で「養蚕」という言葉を初めて聞いたときに感じた、「土地、時代、採算」という3つの疑義のうち、「土地(離島で養蚕?)」と「時代(現代に養蚕?)」については、単なる見識不足であったようだ。
神津島に限らず、稲作のほとんど望めない伊豆諸島の島々にとっては、近世において年貢を米以外で代納する必要性から、漁業をはじめ、絹の生産も推奨されており(代表は八丈島の絹織物「黄八丈」)、それなりに養蚕が盛んであった事が判明したのである。伊豆諸島にとって、養蚕は伝統的と呼べる産業であったのだ。
まずは自らの不見識を改める必要があった。

なお、戦後しばらくまで養蚕が重要な産業であったことは、伊豆諸島に限らない全国的な事情であった。
右図を見れば、わが国の戦後の養蚕業は、戦前の水準を回復することは無かったものの、昭和50年頃に戦後最大のピークを迎えており、この頃までは相当に盛んであった事が分かるのだ。

が、このように神津島で昭和50年代まで養蚕が営まれていたことが、即座に砂糠山の養蚕事業に結び付くかと言われれば、それはNOである。

昭和56(1981)年に東京都島嶼町村会が発行したこの『百年史』に対し、平成10(1998)年に神津島村が発行した『村史』における養蚕の記述は、より簡素かつ、内容自体も以下のように変化している。



『神津島村史』からの引用

桑の質が非常に良いことと、孤立した島だけに桑及び蚕の病菌がなかったため、種マユに適していたので、昭和時代に入ってからも盛んに続けられたが、絹の需要が減少し、昭和初期には絶滅してしまった。

上記の文章で「養蚕」の章は終わっていて、『百年史』では昭和50年代にも盛んに養蚕を行っていたような記述が、まるで「なかったこと」になっているのが、不思議だった。
戦前に較べれば取るに足らない程度の収量だったなどの理由があって、記述を省いたのだろうか?


このやや不可解と思える記述を持った『村史』だが、さらに全体を読み進めると、「養蚕」とは関係の無いところで、重大な発見をもたらした。
それは、私のなけなしの探索成果を、大きく揺るがすほどの発見だった! (困るんだよなぁ、こういうの…)



この地図は、『村史』に掲載されていた島内地図の一部を拡大したものである。
特に引用先などは書かれていないが、おそらく『村史』が編纂された平成初年代の版の2万5千分の1地形図をベースにしたものと思われる。私が探索に用いた旧地理院地図のさらに一世代前の地形図と見ていい。

で、これを見ると、砂糠山の辺りには、現在の最新の地理院地図や、探索に用いた旧地理院地図には描かれていない「車道」(正確には平成14年図式による「軽車道」)が、砂糠山の周辺にはっきりと描かれていたのである!!

これは明らかに、私が探索した“山上に孤立した車道”を描き出していた!




しかも!

実際に私が探索した車道は、全体の5分の1程度でしか無かった…!!!

(右図の緑線は探索済み区間、青い破線は、未探索…である…)

これには、思わず、「ナ、ナンダッテーー!!」と叫んでしまった…。

ま、マジかよ……。

↑現地で確認のうえ「終点」と判断した、これらの場所のさらに先に、私が見つけられなかった道が、まだ長々と続いていたって言うのかよ…。
ちくしょう、やられちまってるじゃねーかよ……、まるっきり。俺の目がフシアナだったという現実をつきつけられた。

私のいつもの変な拘りで、探索前にはあまり下調べをしないというというのが、こういう事故を引き起こす。
でも、探索前の下調べの念入りさは、現地での新鮮な驚きとのトレードオフになるので、なかなか棄てがたいものなのだ。言い訳だけどな。
しかしいずれにせよ、再訪が面倒な離島での「取りこぼし」は、普段よりもショックがデカかったぜ…。



資料調査 〜新旧航空写真の比較をする〜

「養蚕」云々と施設の正体を論じる以前に、私自身が遺構の全てを把握できていなかった。
この事実は重く私にのし掛かった。
再訪して即座に取りこぼしを回収したかったが、再び急いてし損じる事のないよう、まずは机上調査を続行した。

文献調査の次に臨んだのは、これまた定番の調査手段である、新旧航空写真の比較だ。
いまでも思うのは、せめてネット上の作業だけで完結するこの調査だけでも最初の探索前にやっていれば良かったという後悔だが、これは以後の教訓となった。


ぬおーー !!!

昭和53(1978)年版の航空写真が、やべぇ!!

その35年後、ちょうど私が探索した年に撮影された平成25(2013)年版と比較して、世界が一つ増えている(いや、減っている)!
これが、風化の力というものなのか。

――そ、そ、そ、それにしても、

私の想像を遙かに超えた、開発の規模ではないか。
地上に明瞭な伐採の模様として描き出された開発地域の全体像は、長辺である南北方向におおよそ1kmの広がりを持っている。東西には最大500m。
開発地域の中央は、あの暴風に打たれた“稜線”であり、そこを界に南は砂糠山の西側山腹、北は天上山の東麓地帯というふうに、明瞭に二分されている。
私の最終目的地であった“施設跡”は、このうち北側に属しているが、他に建築物は見あたらないので、あの施設がこの全体を管理する大元であったようだ。

マジでマジかよ……、自分の目がフシアナだとは信じたくない。
現地では、本当に南にも北にも道が続いている様子は、無いと思ったンだがナァ…。
でもいくらブゥたれても、これを見せつけられてはグゥのネも出ないよナ……。ぬーん。


…それにしてもだよ、

この広大な地表の模様は、明らかに圃場整備の感じを受ける。
すなわち、宗教施設、観光施設、漁業加工場、産廃処分場、工場、などではないだろう。

圃場があるならば、これは 「農業施設」

あるいは……… 桑畑を周囲に配した「養蚕施設」か!



その後、さらに多くの年代の航空写真を比較して見たところ…

昭和43(1968)年版には、まだ影も形も無い。
昭和53(1978)年版は前掲した通りバリッバリであるが、その次の平成2(1990)年版では範囲が拡大することはなく、全体的にぼんやりと薄れている印象がある。しかしまだはっきりと見えていた。
だが、その後は版を重ねるごとに不鮮明となり、前掲した平成25(2013)年版では、もはや過去との比較が無ければ気づけないくらいに薄れているのである。

これらを総合すれば、砂糠山での開発事業は、昭和43(1968)年よりも後に本格化し、昭和50年前後に全盛期を迎えたが、平成以降は縮小廃止され、そのまま放置された可能性が高いという、規模の割には短期間で終焉を迎えたものだったことが伺える。
また、未成で終わらず稼動はしたと思われるが、開発事業全体を通しての採算は、「失敗」と判断されたのでは無かっただろうか…。



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文献調査 〜神津島村議会の広報誌に目を通す〜

初めは信じがたいと思っていた「養蚕説」が、いよいよ信憑性を帯びたと感じたものの、島の総面積の100分の1以上を一挙に圃場化するような大規模開発であるにもかかわらず、『村史』にまるっきり記述が見られないことは、不自然に思われた。巻末の詳細な年表にさえ記述が無いのである。
しかも前述したとおり、神津島における養蚕は、『百年史』がはっきりと、昭和44(1969)年から共同飼育方式による養蚕が再開され昭和53(1978)年時点で金額にして440万円分の生産量が上がっていると述べているのに、『村史』は「戦後は絶滅した」としていて、これも矛盾している。

ネット上にある資料から、養蚕説の真相を解き明かせないだろうか。
そして検索の末にヒットしたのが、神津島村議会が公開する『こうづしま議会だより』のうち、平成24(2012)年8月に発行された「No.153」であった。
関係すると思われる部分の誌面イメージを以下に転載する。


『こうづしま議会だより No.153(pdf)』より転載。
(赤枠は著者による)

定例村議会の中で、議員から村の農業政策について問われた石野(前)村長の答弁した内容に、気になる部分があった。

過去に、農業構造改善事業の一環で、農業法人を養豚や養蚕事業を立ち上げたがうまくいかず、解散に当たって、借入金の返済等で辛酸をなめた。

これだけで判断するのはあまりに早計だが、「辛酸をなめた」という表現は、正直、半端な失敗ではあり得ないと思う。
いわゆる、村の「黒歴史」であったとしたら、村史が書きたがらなかったのも(消極的ながら)頷ける気がする…。

…といったような私の想像は、まあ置いておこう。
それよりも気になるのは、ここで出て来た新たなキーワードである。
それは、「農業構造改善事業」だ。

皆さまも、地方の農業倉庫などに大書きされた「(第●次)農業構造改善事業」の文字を目にした覚えは無いだろうか。
意識していれば、全国津々浦々至る所で目にする事が出来るものだが、この事業を大雑把に言ってしまえば、国が50%程度の高率の補助金を与えて、地方(市町村)の農業事業の効率化、大規模化、集積化を図るというものであった。昭和36(1961)年に公布された「農業基本法」(平成11(1999)年廃止)を法的根拠に、第1次から第4次までおおよそ10年を期限とする農業構造改善事業が全国数千箇所で行われたのである。(ちなみに第一次は全国約3000市町村で実施され、1件あたり平均4500万円の補助金が交付された)。
この事業の対象に神津島村が選ばれていたとしても、全く不思議では無い。


文献調査 〜写真集『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(上・下巻)』を見る〜

次に入手したのは、昭和59(1984)年に伊豆諸島東京移管百年記念として、『百年史』と同じ東京都島嶼町村会が発行した、『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(上・下巻)』という大きな記録写真集だった。

…こういうのを、流れに乗ってるというんだろうなぁ。

ここで遂に、これまで入手した各種情報をたった一つの結論へと決着させる、決定的な写真を目にしたのである。



『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(下巻)』より転載。

第2次農業構造改善事業により桑園となった神津島 長根地区(昭53)

 ・農業構造改善事業
 ・養蚕(=桑園)
 ・昭和53年


今までのキーワードが全て繋がった!
これで決まりだ。
一連の施設跡の正体は、養蚕施設!

写真は、先ほど見た昭和53(1978)年の空中写真を別アングルからそっくり再現したような、同じ年の「長根地区」の姿だった。
この「長根地区」という名前は、ここで初めて目にしたものだが、村史掲載の前掲した地図や、現行の地理院地図にも、開発地域一帯の東側の海岸線に「長根」という注記がなされている。
本来は現地の海上に長く突き出た岩礁(写真中央にもそれが見えている)に与えられた地名だと思うが、隣接する山腹の開発地域全体も、「長根地区」と呼び習わされていたようである。私が今まで仮に「砂糠山一帯」と呼んでいたものの、正式な呼称とみていいだろう。(以後、採用)

(なお、『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(上巻)』にも、これとほぼ同じアングルで昭和50(1975)年に撮影されたカラー写真があったので、後ほど転載する。)





以上をもって、施設跡の正体に関する机上調査は一応の決着を見た。

それで次に私は、痛恨の“やり残し”を回収するべく、再訪の計画を立てることにしたのだが、ちょうどその頃に企画が進んでいた『廃道ビヨンド 』のロケ地として、新島の旧都道と共にこの神津島の“孤立廃道”を収録することを私は望み、そしてその通りになった。

而して、トリさんとオープロジェクトの面々と一緒に、私が神津島で本懐を遂げたのは、第一次探索から約7ヶ月経った2013年11月26日のことである。
そこで私は右図の青破線で示した前回未踏破の全区間を踏破した!

新たな踏破区間の模様は、2014年3月4日に発売された『廃道ビヨンド 』に映像として収録されているので、出来うる限り読者諸兄にはそれを見て頂きたい!

…のだが、、私はこのレポートを販促の為だけに書いた訳では無いので、皆さまのストレスがマッハにならない程度には、その成果を発表してしまおう。
というか、ぶっちゃけこの新踏破区間の状況だけを期待して購入されると、別の意味でストレスが溜まる畏れがある(苦笑)。(それよりも、晴天時の稜線の美しさを期待して見てもらえれば、絶対に満足できるはずだ。マジ凄い景色だぜ!買ってくれ!!)

下の3枚の写真を見て頂きたいが、基本的に激藪激藪激藪であり、圃場(桑園)跡は既に桑木も野生樹も(私には)区別が付かないほどにジャングル化していた。
道路そのものもほぼジャングルである。素掘の法面程度くらいしか道路構造物は見られない。4台目の廃車体とか、ビニルハウスの残骸なんかはあったけどな。あと、砂糠山側の終点広場には、本事業とは無関係と思われる建設省の「GPS連続観測点」なるソーラーパネル付き無人施設の廃墟があったりもした。

(写真1)
圃場北端付近のループ道路上の風景。浅い掘り割り道で、未舗装。どれが桑かは分からん! …きつい。
(写真2)
第一次探索では道が無いと判断した“稜線”の南側だが、崩れて埋もれて激藪になっていただけであった…けど…。キツイ!!
(写真3)
激藪を掻き分けて辿り着いた圃場南端の広場。ここに平成11(1999)年銘の「建設省GPS連続観測点」なる装置を発見!(写真A写真B



こうして謎は全てなくなり、めでたしめでたし。


机上調査(後編) 島の協力者が語った、生半可では無い真相


…と思ったんだが、そうは問屋が卸さなかった。


大規模な養蚕事業をやりました。失敗しました。

それをもって私は「分かった」と感じたが、それはおそらく、部外者“程度”の感想だった。
ここに、この島の生きた人々が働いていたことについては、十分な思考を持たなかったことになる。
そんな甘い私に、さらに続く真実の道を示したのは、やはり、島の出身者でしかあり得なかっただろう。


神津島Bot@kozushima_bot)の“中の人”である、神津島出身、神奈川県在住の中村圭 氏が、その人である!

話の流れとしては、私の神津島再訪探索から1ヶ月が経った平成25(2013)年12月下旬のある日、この中村氏からメールが来た。
彼は丁寧な自己紹介の後で、こういうことを書いていた。
『廃道レガシイ』のamazonの販売ページに、「神津島砂糠山の廃道」という内容があるのを見て興奮している。まさに自分も、ほんの数日前(12月上旬)にそこへ行き、ヨッキれんが見たのと同じものを見たと思うからだ。そして大変に衝撃を覚えた。

ゆえに…
「現在は、それらが作られた歴史と当時の詳しい事を知るために、当時そこで働いていた方に話しを聞こうとしている所です。そこで、お伺いしたいのですが、平沼様は神津島をどのように探索なさって、どのような歴史を突き止めているのでしょうか?」

…という、お問い合わせを頂いたのだ。

私はこの、島の出身者からの大変熱のこもった連絡に、資料調査では知る事が出来なかった、より深い情報を知る、またとないチャンスを感じ取った。
そして、概ねこの机上調査編でここまでに述べたような内容を(もう少し簡略にではあるが)メールにして返信した。
以来、中村氏とのメールのやり取りは数を重ねていくことになる。

そして僅か数日後、彼が最初のメールで予告し、私もまた彼に是非にと託した、「当時そこで働いていた方への聞き取り」を見事に実行し、その成果を私に提供してくださった!
DVDやサイトで公開も問題が無いと、証言者の了解も得たうえで!

次に転載する内容は、生々しい証言集である。
中村氏が書かれたメールのうち、証言にかかる部分を、ほぼ手直しせず公開する。
正直、私のように興味本位で島の廃道を探索した人間が軽々しく公開すべき内容なのだろうかという不安も感じるが、おそらく、この道に触れてしまった誰もが知りたいと思える、その全てがここにある。
そのことの意味を噛みしめながら読んでいただきたい。


長根地区で養蚕を行った住民の証言
(中村圭氏による聞き取り)

>>1.昭和53年航空写真に写っている圃場のようなものは何か。桑畑?

圃場に見えるのはすべて桑の木を植えた桑畑だということです。

>>2.養蚕事業をこの場所でやろうとしたきっかけと時期は?

おばあちゃん自身がそこに入って作業を始めたのが昭和47、48年あたりだそうです。
道やら畑を整備するのに3、4年かかった。
なので昭和43年から昭和45年くらいから工事は始まってたのでは?

きっかけとしては、そもそも、当時の国の方針(減反政策のような)で進めていた農業改革の一環で、それにのっとった村が養蚕事業を始めた。
おばあさんらはそこ(砂糠山、長根)で行うのは大反対していて、現在の多目的広場あたり(多幸湾ファミリーキャンプ場付近)ならやる! と、言ったらしいのだか結局、砂糠山で話を進められてしまった。

>>3.廃墟になった(失敗した?)原因と、その時期は?

昭和55年から昭和58年あたりにはすでに放棄した(行かなくなった)とおっしゃていました。

放棄した理由は、そこではそもそも桑の葉が足りず、蚕を育てられず死なせてしまった。
村の方から桑の葉を持ってきたりしたがやはり、それ自体馬鹿らしい、
お金ももらえないし、採算に合わないから辞めた。

【その他の話】

儲かったのは村とその工事に携わった方だけだ。
村が道や施設を整備をし、私(おばあさん)にどうしてもやってくれって言ってきたのでやってやった。
借金は負わせないという話しでやってやったのに、結局200万くらい借金を負ってしまった。
その借金は平成になって払い終えた。
最初は桑の木の植樹から始まり、その時ぐらいの2、3ヶ月は日当をもらっていたと思うがその後は何も貰ってない。
無償だった。

蚕も2回ほどやったが、結局だめで死んじゃった。
その時は泊まり込みでやっていた。
航空写真にある建物の小さい2棟が宿舎。
長い3棟が蚕を飼っていたところ。

ガスボンベとかも、多幸湾のほうから担いで持って行った。
水場は近くにあった。
ここに行く道は、天上山の櫛が峰から山道で行けたが、2000年の地震で崩壊し道がなくなった。
同じくここから、長根に降りれる山道があったが2000年の地震で崩壊して道がなくなった。
長根には珍しい植物があったのに、工事の時に内地の人がみんな採っていってしまい、なくなった。
多幸湾からの海岸線の道は途中までは出来たけど、最後まではできなかった。
その道は今は天上山の崩壊で埋もれてる。

日記を見ればもう少し詳しく判るよ。
当時の写真もあったはず。


【違う人の話】

長根丸という船があり、釜ヶ下まで船で物資を運び、そこから索道で物資を揚げた。
車とかはヘリコプターで持っていったんじゃないの?(不明確)
村から砂糠山に繋がる道路はない。




『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(下巻)』より転載。

平成12(2000)年の神津島・新島地震以前は、村落から天上山の山頂を経由し、長根地区へ下るルートもあったという。

村落の家族と離れ、このような険しい山道を乗り越えては、泊まり込みで蚕の世話をした人々が居た。

たった2度ばかり、探索でこの地へ往復した私は思う。それは、本当に大変なことだっただろう。




中村氏とのメールのやり取りは、年が明けた後も続いた。
1月中旬のメールでは、中村氏が里帰りの際に先の証言の「おばあさま」に直接会って、さらなる証言と共に当時の写真を入手したことが書かれていた。
しかも、これまた掲載の許可とともに快くご提供くださったのである!

まずは、新たな証言を掲載する。

長根地区で養蚕を行った住民(先ほどの証言者と同一人物)の証言(2) (中村圭氏による聞き取り)

車など建築資材はヘリコプターまで使用していた。
桑の木の実生を山梨の方まで持って行って、苗木にしてわざわざ神津島に運んだ。

息子(当時中一)が生活に必要なガスボンベを担いで、磯を渡り養蚕場まで持っていった。

夏は勝手にここでキャンプをして遊んだ。

磯から山への索道以外にも、磯の途中まであった道からの水平方向の索道があった。

長根丸という船もあった。

前回の証言と合わせて、現地での大きな謎であった自動車のような重量物をどのようにして運び上げていたのかという点については、なんと、ヘリコプターを用いていた事が判明!
本当に半端でない気合いの入りようである。


次にご提供いただいた写真を掲載する。
特にキャプションは無いので、私の想像で付け加えている。


長根地区で養蚕を行った住民(先ほどの証言者と同一人物)が所有する当時の写真 (中村圭氏提供)

索道の上部盤台の工事中写真だろうか。現在地は不明である。

“稜線上の道”である!(現在の写真) 工事中のようである。

釜ヶ下に通じる索道である(現在の写真)。搬器にも見覚えがある。

3棟並んだこの建物は、養蚕室だった(現在の写真)。

山上と下界を結ぶ索道は2ルートあったという。これは第2の索道か?現状は不明。

索道の支柱か、木造のようにも見えるが不明。おそらくは第2索道。

釜ヶ下の第1索道を運搬される資材。長根丸という船が、ここで荷受けしていたという。

養蚕室の中で飼育される沢山の蚕。あまり上手く行かなかったという。

保管される蚕繭。場所は不明(養蚕室内か)。

工事誌なども出ていないようなので、これらは本当に貴重な写真である。

なお、これを執筆している時点では、中村氏による快晴時の現地調査の模様、および聞き取り調査の詳細を、氏のサイト『神津にいくばぁ』の「廃道・廃墟」コーナー内で読むことが出来る。是非あわせてご覧頂きたい。
中村氏の献身的な協力に、心より感謝します。







――ナマの声は、いかがだったろうか。

これが、神津島という孤島を舞台に今から3〜40年前に繰り広げられた苦闘の一側面である。
昭和40年代に巻き起こった空前の離島ブームと、島全体の観光業への傾倒という、ある種の消費的繁栄の陰で、少なからぬ島民に想い出と共に痛みを残した、大きな生産へのチャレンジがあった。
だがそれは、村が生きた足跡を自ら記す村史には、残されないという結末に終わった。

最後は、当事者である島民の視点からまた離れ、この大事業の客観的な総括を見ておきたい。
以下の文章は、最近とある読者さまのコメントにより、その存在を知ったものである。(全文はこちら


『総合都市研究 第22号(1984)』掲載「都市的生活様式の実証研究(その1)―東京都神津島村調査報告―」より引用

戦後農業振興政策が始まったのは(中略)昭和32年に新農山漁村振興計画地域に指定されてから後である。これをきっかけとして換金作物のきぬさやが導入された。
昭和42年の第二次農業構造改善事業では、自立農家創設を理念とし、きぬさや栽培と養豚と養蚕が事業に指定され商品作物農業の振興に意欲を燃やした。農業振興が本格的に始まったかにみえた。だが、養豚と養蚕は失敗に終わった。(中略)

養蚕は計画のはじめから無理があったようだ。二次構の事業基準にあわせた規模で施設を作る必要があり、敷地をもちあわせなかった村では農道も整備されぬ山奥に養蚕団地を造成したため事実上使用不可能にちかかった。行政が柔軟性を欠いたための失敗であった。

――このようにまとめられている。

これを読むまで私はてっきり、島の未開発地域を農業地として大規模に開発することで、全体の生産力を高めようという、その程度の安易な目論見で砂糠山の開発が行われたものと思っていたが、実際はそうではなく、国の補助金を得て事業を進めるための苦渋の決断であったことが分かった。

溺れる者は藁をもつかむの喩えがあるが、村はそのような心境で第二次農業構造改善事業という藁にすがりつき、そして溺れた。
垂らされた藁に詐欺の悪意があったわけでは無いだろう。誰もが前向きであろうとしたが故の犠牲だと、そう信じたい。



人々の汗する笑顔を夢見た道は、今この時も、波と風の向こうで眠り続けている。