国道291号 清水峠 新潟側 <導入>

所在地 新潟県南魚沼市清水 
公開日 2008.1.19
探索日 2007.10.7


 おそらく、日本でもっとも有名な廃道の一つである。
多くの廃道ファンや国道ファンが、畏敬を込めて、こう呼ぶ。

  清水国道 と。


 清水国道の歴史は古く、明治の初期にまでさかのぼるのであるが、これは後にしよう。
それよりも、先に現状から説明したい。

 清水峠は、群馬県と新潟県の県境(上越国境)上にあり、列島の中央分水界をなす、海抜1,448mの峠である。
この道は国道291号に指定されているが、峠の前後あわせて約28kmが「自動車交通不能区間」となっており、俗に言う“酷道”のひとつである。
これはおそらく、全国でも最長クラスの国道における自動車交通不能区間であるが、それでも群馬県側の大半は登山道になっていて、多少健脚であれば誰でも歩くことが可能である。
そして、素晴らしい景観を誇る清水峠に立つことも出来る。


 だが、新潟県側の大半の区間(約12km)は廃道になっていて、

ここ何年、或いは何十年の間、誰一人として通り抜けた人がいない。

…そういう道だということに、 なっている。


 今回は、いつも以上に大袈裟なことは言っていないつもりだ。
「フリー百科事典wikipedia」の『清水峠』の項にも、「徒歩での通行も事実上不可能」と書いてあるし、私が個人的に巡った様々な情報サイトや調べた書籍等にも、やはりこの新潟側の清水国道を踏破したという話は、ない。
極端な話、「私は通りましたよ」という生の声を一度も見聞きしたことがない道だ。

 ただ、4年余りの工事を経て明治18年8月に、国道8号として馬車の通れる幅3間(5.4m)の峠道が開通したという記録。
同年9月に峠で行われた開通式には、皇族の北白川宮能久親王をはじめ、内務ク参議山縣有朋、司法ク議定官山田顕義、元老院議官林友幸、土木局長三島通庸など、錚々たる顔ぶれが揃ったという記録。
そして、開通翌月の大雨で道が決壊し、そのまま冬を迎えてますます崩れ、翌年以降も回復されぬまま遂に廃道となったという… 思わず「それ本当かよ」とツッコミたくなるような、伝説的廃道譚が語られ続けている。

 この無謀な失敗道路の全く恥ずべき峠の名が、歴史の闇へと早晩消えてしまわなかった理由は、野蒜築港などと並び、日本最初期の国家的土木事業であったからだろうか。
或いは、皇籍にある人物が開通式典に参列した威光ゆえ、葬り去ることが出来なかったのか。
車道は消えたが、名前は消えるどころか、今日なお国道の地位にあり続けている。
碓氷峠や箱根峠と並んで著名な… 少なくとも廃道好きにとっては、日本でもっとも名の知れた峠の一つとなっている。
誰一人、現実の姿を知らないにもかかわらずだ。
無論、私を含めて。 

 清水峠はそんな、幻を絵に描いたような国道である。(不可能国道)


 知りたい。





 関東移住一年目の2007年。
この年の攻略目標に、清水峠の名前があった。
清水峠は、「塩那道路」「奥只見シルバーライン」などとともに、『私が生涯に体験したい道』のひとつであったが、如何せん秋田からだと往復する労力が大きく、なかなか現実的な攻略目標となり得なかったのだった。
この具体的な攻略計画を練りはじめたのは、2007年の5月頃だった。


 前述の通り、清水峠の自動車交通不能区間は、全長28kmもある。
(右図中のルート上にある数字は、区間の概算距離である。)
これを一日で歩き通すことは、廃道という現状を考えれば現実的ではなく、また登山道化している部分(群馬側)については自転車で走破したという報告も散見されることから、攻略は2回に分けることとした。

 第一次攻略は、自転車にて群馬県側から清水峠を目指し、「上分岐」からの下山ルートに登山道として利用されている「居坪坂」を選択する。
そして「下分岐」から再び国道に合して清水集落へ下る。
これを第一次攻略計画とする。

 一次攻略 計画ルート  元の画像

 第一次攻略にて「上分岐」「下分岐」の実情および、全体的な地形の険しさ、また季節的な藪の生育状況等を確認した上で、次の第二次攻略を決行することとした。
第二次攻略は、新潟県側の清水集落を出発地とする。
ここから「下分岐」までは自転車で移動、そして全長12kmの廃道区間を攻略し、「上分岐」から前回のルートを逆に辿って「清水峠」に至る。
下山は「謙信尾根」を選択する。井坪坂と謙信尾根はともに登山道として現役の道である。
これを第二次攻略計画とする。

 二次攻略 計画ルート  元の画像

 この第二次攻略は、最低でも24kmを歩く必要があり、日帰りが難しいと思われたので、清水峠にある避難小屋での夜営を想定した。また、山行がファミリー(?)最強の男に協力を要請した。
古くからの読者ならば知らぬ人はあるまい。
男の名は、くじ。 (同行は森吉林鉄シリーズ、粒様神の谷計画、和賀シリーズ、原町林鉄、木戸川林鉄攻略など)
現役のロッククライマーとして岩手県を軸に、東北各地の沢や滝を詰めまくっている男だ。
ヤツならば、上越国境の地にも伝説を生むに違いない!!


 一次攻略は9月27日に計画され、晴天のうちに完遂した。
そして月が明けた10月7日。
くじ氏と私は、清水国道最強の廃道区間へと挑んだのだった。

 本編は、この第二次攻略の模様を綴ったものである。
第一次攻略もまた波乱を含む内容であったが、多くの読者にとって最大の関心事は、まずこの「廃道区間」であろうから、先に紹介することにした。
今回は、“次の二つの章”をもって導入編とし、次回から本編をはじめたい。



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 導入の1  清水峠から俯瞰する 清水国道


 人跡未踏を地で行く清水国道(新潟側)のルートを、最もよく俯瞰できる場所は清水峠に他ならない。

右の図では、峠に至る三本のルート(青:国道、赤:居坪坂、茶:謙信尾根)を示したが、いかに国道が大迂回をして峠を目指したのかが分かるだろう。
この山域は日本有数の多雪地であり、幾星霜繰り返された雪崩や河川浸食によって、くさび形に山腹を削る深い沢筋が、草の根のように伸びている。
そのような険しい山中に、馬車の通行可能な“最大1/30”(30mで1m登る)という勾配と、離合さえ実現する幅3間の幅員を実現すべく、明治の土木技師たちが全く一から見つけ出したルート。それが清水国道であった。

 一方、清水国道よりも古く拓かれた道もある。
それが、上杉謙信の軍勢も利用したという「謙信尾根」の道であり、戦国の世から細々と通行されてきた。
 また、「居坪坂」は3本のルートの中では最も新しく、明治23年に六日町の佐藤良太郎が開設した道である。
これは、当時既に清水国道が相当荒廃し、かつ謙信尾根に較べ迂回が著しいため不便であるとして開設されたものである。
この道は、明治末まで「賃銭道路」(有料道路)として利用された。馬車は通れなかった。

 いずれも車の通わぬ3本の道。
実際に一時期は全てが廃道となっていたらしいが、登山ブームなどにより後者2本は復活している。




 これは、海抜1448mの清水峠より100mほど西にある白崩避難小屋より俯瞰した、新潟側の風景である。
約半日の登攀のすえ辿り着くこの景色に、ベテランの登山家でさえ息をのむという場所であるが、私の目は既に、道を求める一匹の獣となっていた。

 居坪坂と謙信尾根の2ルートがともに、眼下の登川の谷より直接こちらへ登ってくるのに対し、清水国道は登川の向かい側の山腹を、画面いっぱいに(それ以上に)使って、じっくりと高度を稼ぐのである。
図中に「車道終点」とある場所は、本谷沢と檜倉沢が合わさり登川となる地点で、清水集落(海抜600m)からここまでは林道が通じている。
清水国道はこの車道終点よりも遙かに麓の地点から、さながら寓話の中のアリのように、準備よく高度を増しているのだ。

 なお、この写真から清水国道の姿を見出すことは難しい。(肉眼でもおそらく無理)
図中に描いたルートは、地図を元にして推記したものだ。
この範囲内で、約6km(廃道区間の半分)の道があると推定される。




 上の写真の一部を望遠で撮影した。 

 地形図(下)は、この山腹の中央付近を左右に横断する道を描いているが、やはりその道形を写真から見出すことは難しい。



 この風景と、手元の地形図とを両方見たとき、私はそこに本当に道が残っているだろうかと、不安になった。
おかしな話だが、それこそ「廃道どころではない」のではないか…。
地形図からは、崖地の記号になる一歩手前の急峻な山腹と、そこを無遠慮に横断する点線の国道が描かれている。
そして肉眼で見た景色は、この急斜面が雪崩の常襲地であることを、斜面の至る所に覗かせる地肌をもって伝えていた。





 雪崩跡の斜面を、カメラの性能いっぱいまで望遠で撮影してみた。


遂に
道形
発見!!

 なのだが、あまり嬉しい感じはしない。
というか、むしろ…

 禍々しい。

 くじ氏との間では、この13日後に決行することが半ば決定済であった新潟側の調査だが、このときほんの少しだけ怖じ気づいたのは、内緒である。
これは死ねるかも知れないと、そう思った。



 そして、登川(本谷)対岸の清水国道が、ナル水沢と本谷沢の二つの谷を回り込み、ようやくこちら側へと取って返す。
写真はその方角を撮影している。

 やはり、道は殆ど確認できない。
ナル水沢を渡る地点は、地図読みによれば廃道区間の8.7km地点で、本谷沢は10.6km地点とされる。
あの辺りまで来れれば、いよいよ後半戦と言えるのだろうが、余りにも道は遠大に思える。
なんだか、現実的な道の姿がこれっぽっちも脳裏に浮かばない。

 それはまさに、地図上だけの道。


 幻を絵に描いたような…

 不可能国道・・・。




導入の2  「上分岐」より覗き見る 清水国道


 登山道となった清水国道を下る。
下るとは言っても、ここまでは勾配も緩やかで、まさに明治の馬車道そのものだと感じられる道だ。
当初は5.4mもあったという路幅を裏付けるように、歩行者の刻んだ幅1mのシングルトラックの山側に、平坦な藪が常に付随する。
藪というか、既に木の生えた林であるのだが。

 そして、峠から1.2kmほど進んだところで、路傍に壊れかけた案内板が現れる。
この案内板の内容というのは…。




  清水国道 (国道291号線)

 清水越えの新道開発は江戸時代の初期から関東へ抜ける近道として注目されていました。
 明治3年(1870年)政府は全国の街道に設けられていた関所や口留番所を廃止し、交通を自由にすると同時に、越後の米を関東へ輸送するための清水峠の開発を計画し、明治7年に居坪坂コース(※1)を完成させました。。さらに、明治14年から明治18年9月にかけ政府は清水街道(現国道291号線)を開通させました。しかし、同年10月の長雨で各所で土砂崩れが起き、翌年も雪崩や雪解け水による大きな被害を受けたそうです。その上、清水から湯桧曽に至る新道は旧道(居坪坂コース)に較べ5里(約20km ※2)も遠回りのため、利用者もなくなり廃道になってしまいました。

(※1 これはおそらく看板の誤りで、このとき改良されたのは「謙信尾根」ルートであったようだ・)
(※2 これは“5km”の誤りと思われるが、『六日町誌』にも“5里”とあるから、基本資料に誤りがあるのではないか。)


 というわけで、ここが清水国道と居坪坂ルートの分岐地点であるという案内板なのだが…

 んなものあるか?



 こっちが清水国道らしいですわ…。


…色々なサイトさんのレポートでこの分岐は目にしていたが、ごめんなさい。
正直、少し疑ってました。
「本当はこんなに酷いはずがないだろ」「大袈裟に撮ったんじゃない?」 なんて。

私が馬鹿でした。
本当に、道がないみたいに見えるぞ。
本当にないのか?
もしかして……。







モフモフモフ


モフッモフッモフッ…


やべぇ 道ィ 見えねぇ…。



道、出てこねぇよぉ (涙)







 あった。 道あった。

分岐から30mほど密林を掻き分けていくと、確かに道形が現れた。
それを確認して、私はすぐに踵を返した。
実は、余り時間がない(輪行の絡みで)。


 果たしてこの景色、どう判断すべきものだろうか。

ここからの数十メートルは、さほど困難もなく前進できそうである。
チャリはさすがに無理だが、歩くだけなら。
あとは、この道の1km先、2km先、3km、4km、5、6… …12km先が、どうなっているかという事。




果たして私はこの13日後、この場へと戻ってくることが出来たのか、否か。

次回、熾烈な踏査が始まる。