道路レポート 国道229号須築トンネル旧道 第1回

所在地 北海道せたな町
探索日 2018.04.27
公開日 2018.10.02


【周辺地図(マピオン)】

陸の孤島。

少しばかり使い古された表現だが、それでも私はこの言葉だ大好きだ。耳にするともれなく、テンションが上がる。そして同時に、「いかほどのものか、名前負けではないか」を、自分の目と足で確かめてみたいという衝動に駆られる。

北の大地にも、こう呼ばれた過去を持つ土地がたくさんある。
たとえば、明治以前より「西蝦夷三険岬」(にしえぞさんけんみさき)と呼ばれて船乗りからも陸の旅人からも恐れられてきた三つの険しい岬の周辺が、そうだった。

そのうちの一つ茂津多(もった)岬は、北海道の大きな地域区分である檜山と後志(しりべし)を分ける日本海の突角で、海抜1500mに達する狩場山地が海面からそそり立つ、西海岸道路有数の大難所であった。

ここに自動車が通れる道路が全く貫通したのは昭和51(1976)年11月のことで、それまでは岬の前後に、一方にしか道の通じない袋小路の海岸集落が、一つずつ存在していたわけである。
その状況も、いわゆる“陸の孤島”に近いものがあるが、一方であっても車道が通じているなら、まだマシといわねばならなかった。
ここにはその頃まで、もっと酷い状況におかれていた集落があったからである。

須築(すっき)
好きとか嫌いの話じゃなくて、「スッキ」という集落の名前。



左図は、茂津多岬周辺の中縮尺の地図である。
須築集落の位置を赤文字で示した。
この集落は、郡境である茂津多岬のすぐ南側にあって、檜山地方の最北に位置している。
そして、集落のある小さな平地を茂津多岬と挟み撃つように、南側にも藻岩岬という名の険しい海崖がそそり立っていることが、特異であった。

この地形を理由に、須築集落への自動車の導入は昭和44(1969)年まで遅れた。
小樽と江差を西海岸沿いに結ぶ国道229号が初めて指定されたのは昭和28(1953)年のことだから、それから16年ものあいだ、いわゆる“点線国道”だけが通じる秘境であった。

国道が指定されているのに車では行けない集落なんてものは、それが廃村でなければまず考えられないことに思えるが、北海道に限っては昭和の終わり頃まで一つならず存在していた。
“陸の孤島”というのは、本来こういう土地を指していう言葉だろう。


右図は、須築に車道がもたらされる前後の地形図の比較である。

昭和53(1978)年版地形図では、国道の着色をされた太い道が、多数のトンネルを従えた姿で須築を南北に貫いていて、この僅か2年前まで南行のみの袋小路であったことも、9年前まで完全な“陸の孤島”であったことも、過去へ捨て去っている。
ここに須築は、国道沿道の一集落というありきたりな景色に収まったように見える。

対して、大正6(1917)年版地形図は……、
地図上でもはっきり分かる、みごとな、“陸の孤島”ぶりだ!
惚れ惚れする。

瀬棚の町から約12km北上した「美谷」(びや)という集落までは、太い県道の記号で道が描かれている。だが、その先の「横滝」(今はないが当時は集落があったようで家屋の記号がいくつも見える)から先は点線となり、点線は「藻岩岬」を海抜240mくらいの高さまで一気によじ登って乗り越えると、再び磯に下って海岸伝いに「須築」へ達している。美谷から須築までは約4kmあり、記号は徒歩道を示す点線だが、途中約2kmごとに水準点が描かれており、この頃から既に名目上においては重要な路線であったことが分かる。

また、当時の須築には意外に多くの数の家屋が建ち並んでおり、学校の記号もある。
明治35(1902)年には82戸、482人が住んでいた記録があり、特に鰊(にしん)漁期には2000人以上の入稼人があって、大いに栄えたそうだ。ようするに、完全に海に根ざした暮らしぶりを立てていて、人の移動も専ら海上交通によっていたようだ。その意味でも“陸の孤島”であった。

『北海道道路史』(平成2年/北海道道路史調査会)には、明治35年に須築集落の代表者が記した「郵便、切手受取所設置請願書」という文書が掲載されており、当時の交通不便の有様が如実に表れている。一度読むと忘れられないほどの強烈な表現が登場しており、本編前にちょっと胸焼けがするかも知れないが、転載したい。

(集落の南側にある藻岩岬の道を述べて…)
実ニ巍峨(ぎが)タル山脈重畳(ちょうじょう)、其(その)険侵ス可カラズ。一歩ヲ誤ラバ渓谷ニ生命ヲ害(そこな)フニ至ル。如何ニ巨萬ノ費ヲ投ジテ開鑿スルモ到底車馬ノ通行ハ無想ダモ視ル不能(あたわず)。旅人ハ僅カニ渉歩スルニ不過。為メニ道路ハ人跡ヲ踏マザルノ結果、鬱叢(うっそう)タル雑草、繁茂セル篠竹等ノ密生シ、自然道路ヲ閉塞シ、漸一(ようやく?)、二尺ノ道路形ヲ存スルノミ
『北海道道路史』より転載

明治の人の感性で書かれた文書ではあるが、「いかに巨萬の費を投じて開鑿するも到底車馬の通行は無想だも視るあたわず」というのは、交通の絶望を感じさせる表現だ。
明治35年といえば、既に日本は中央分水嶺を乗り越えるような鉄道を敷設する程度の土木技術を獲得しており、本州にはその恵沢がもたらされつつあったのだが、筆者がそれを知っていたかは分からない。
しかし、その無想が現実となるのに後の60年余りを要した事実を見ても、決して大袈裟な表現ではなかったように思われる。



“陸の孤島”を肴にたっぷり暖まったところで、本題だ。

今回紹介するのは、須築集落を孤立させていた原因である、藻岩岬の旧道だ。
前述したとおり、ここには昭和44年に国道229号の須築トンネルが開通し、初めて自動車の乗り入れが叶った。
それ以前の道は、大正6年の地形図に描かれ、明治35年の文書にも難所として描かれた藻岩岬の上を越える峠道だろうということになるが、どうやら実際には、それ以外の道もあったようなのだ。

なぜそんなことが言えるかといえば、実際にこの目で見て、この足で歩いたからである。

しかし、先に書いてしまうが、机上調査でも正体を完全には解き明かすことができなかった、“謎の旧道”だ。
さらに、歴代の全ての地形図に描かれたことがない。
そんな道を私はここで偶然発見して探索した。それを紹介する。

なお、左図は最新の地理院地図だ。
前掲した昭和53年の地形図とほとんど変わっておらず、須築トンネルの近くに旧道らしい、いかなる道も描かれていないのである。

それでは、レポート開始!




見えちゃったよ! 地図にない、アレが!!


2018/4/27 9:45 《現在地》

これは最初の北海道探索の5日目最終日の午前中である。
この日の私は朝一から島牧村内で国道229号の旧道探索を行い、それが終わると今度は茂津多岬をトンネルでくぐって、この せたな町 へやってきた。
せたな町内の国道229号にも、やはり多くの旧道が存在している。

出発前に新旧地形図の比較を行い、探索したい旧道をリストアップしてあったので、現地ではそれを次々に巡って堪能することを繰り返してきたのだ。
だが、この土地では、予定にない探索を行うことになった。
まずはその出会いの場面を紹介したい。

写真は、須築集落から約3km国道を南下したところにある、閉鎖された駐車スペースだ。
何かの施設があった様子もないので、いわゆるロードサイドパーク(休憩所)だったのだろう。なぜ閉鎖されているのかは分からないが、出入口に車止めが設置してあった。歩道部分の草生し方を見る限り、10年以上は経っていそうである。

私は車をこの塞がれた駐車スペースの入口に路駐して、探索のために自転車を下ろした。
もっとも、駐車スペースを探索したかったわけではなく、ここから300m南にある横滝トンネル脇の旧道探索が目的だった。(導入で紹介した昭和53年の地形図に旧道が描かれている)



この封鎖された駐車スペースには、水準点(地理院地図にも描かれている)のほかに、この御影石の立派な慰霊碑が安置されていた。

道路に面する表の面には「殉職慰霊碑 昭和51年11月6日建立」、右側面に「美谷茂津多間 道路トンネル工事」、左側面に「願主 株式会社松本組 代表取締役社長 松本演之」、そして裏面に殉職者6人の名前が刻まれていた。

建立日は、まさに西海岸道路(日本海追分ソーランライン:函館〜江差〜小樽)の歴史的全通日(積丹半島にも未開通箇所があったが、当時の国道はそこに指定されていなかった)であり、盛大な祝典の最中に静かな除幕を受けたのだろうか。

今回探索した須築トンネルも、ここに記されている工事の一部分であったから、本編とも無縁ではない碑であった。




駐車スペースの南北に出入口があったが、南側から国道へ出る。

チェンジ後の画像は、国道へ出てすぐに進行方向(南側)を撮影ししたものだ。
海岸線に突き出した大小の岩山や、白く尾を引く滝の姿が見えると思うが、あそこに新旧の横滝トンネルがある。
それを越えれば、美谷集落はもう間近だ。

このまま前進していたら、今回の探索は行われなかったかもしれない。
あるいは、車を取りに引き返してくるときに“気付いた”かもしれないが、ともかくここで何気なく振り返ったことが、これから始まる計画外探索のきっかけだった。

振り返ります。




スケールが違いすぎるでしょ!(笑)

あの山というか、岬というか、ともかくそこに横たわる巨大な障壁の向こう側にあるのが、須築だ。

須築はさっきほんの5分ほど前に車で通り過ぎており、その際にはことさら変わった集落とも思わなかったが、
こうして振り返ってみることで、その立地条件の凶悪なさまが、実感できた。これと比較すれば、
横滝トンネルが越える障害などものの数ではないと、探索前から良からぬ侮りを感じてしまうほどの落差だった。

古地形図には、海面から240mも高い尾根(おそらくぴょこんと凹んでいるところ)まで上って乗り越える古道が描かれていた。
昭和44年までは国道229号に指定されていた可能性のある古道だが、明らかに徒歩道と思われたから、
今回の私の探索の対象にはリストアップしていなかったのである。


だが…、
↓ あれはなんだ! ↓




岬の海岸伝いにも、道形らしきものが見える!!

近づいてみれば、案外立派な道かも知れないが、とりあえずここから見る印象は、“ひっかき傷”だ。

巨人の岩肌に刻みつけられた、取るに足らないひっかき傷のような道。

それでも私の目には、兎みたいに尾根を乗り越えていた目に見えない道よりは、遙かに頼もしく感じられたのだった。

事前の地形図調査では「ない」と判断していた、
須築トンネル建設以前の“車道”が「あった」可能性に、
私のボルテージは一気に高まった!

私はここで進路を反転、当初の探索目標に背を向け、車で通り抜けたばかりの須築トンネルを目指して漕ぎ出した。




9:50 《現在地》

卵形の断面が印象的な須築トンネルが近づいてきた。

長さは596mあり、まっすぐなので、ここからもう出口まで見通せる。

先ほど見つけた海岸沿いの道形も、近づいたことでいっそう鮮明に見えるようになってきた。

やはり、見間違いなんかではなかったようだが!



隧道あるじゃん!!!

こいつは、やべぇぞ。 あっちィ……。

ただし、車道ではなさそうである。

車道としては、道が険しすぎるし狭すぎるし急すぎる。やっぱりこれは、“ひっかき傷”如きものだ。

でも! 隧道ある! 探索しなきゃ!




探索は凄く楽しみだが、ちょっと海況がよろしくないのが気がかりだ。

天気は申し分ないのだが、風が強く、波も高い。

結果、この遠望の段階で、本道が現役時代に抱えていたであろう(おそらく)最大の問題点が露呈している気がした。

それは荒天に弱いということだ。なにせ、道形の一部が高波を被るらしく、真っ黒く濡れているのである。

これは怖い! 無事に隧道まで辿り着けるのか…。




須築トンネル直前の風景。
旧道が分岐しているような気配は全くなく、ただ2車線の道が幅員を強烈に狭めながら、辛うじて車線数だけは維持しながら闇へ吸い込まれている。

現在この国道229号で活躍している50本を越すトンネルの中で、須築トンネルの昭和44年開通というのは、意外に古い部類に入っている。
もっと古いトンネルがかつては多くあったが、大半が防災目的で新トンネルへ更新され、このように見るからに古さを感じさせる狭断面のトンネルは、もう国道229号では希少な存在になっているのだ。

なお、この写真からは分かりづらいが、トンネルの手前には1本の橋が架かっている。左側は防波堤で見えないが、右側にだけ高欄が見える。
そしてこの橋には特徴がある。




滝が、橋のすぐ上から落ちているのだ。

この滝は地理院地図にも記載があり、「藻岩の滝」の注記がある。海食崖を舐めるように落ちる、落差10m弱の綺麗な滝だ。ちなみに沢の名前は「藻岩川」となっている。
なんとなくだが、わが国に未だ誰一人遡行を達成していない沢があるとしたら、地図上では地味な存在だが、入口からして立ち入らせない、こんな沢ではないかと思ったりもする。

また、橋の名前も変わっている。
銘板に「隧道の沢橋」と書かれていたのである。
もう1枚の銘板には「平成6年12月完成」と書かれており、新しい橋なのだが、「隧道」を名乗るとは古風だ。というか、この沢の名前は藻岩川ではなかったのか。そして、隧道というのは現国道の須築トンネルのことなのだろうか。



“No Escape!”

視界いっぱいトンネルだ! 熱い!
装飾の少ないなかでひときわ目を惹く巨大な御影石製の扁額には、1枚1文字の贅沢さで「須」「築」「ト」「ン」「ネ」「ル」と刻まれており、歴史的な“陸の孤島”を開放する誇らしさが滲み出ているようだった。
こんなに味のあるトンネルを、ただ車で通り過ぎるだけで終えようとしていたのは勿体なかったな。

須築トンネル
1969年 11月
函館開発建設部
延長596M 幅6.0M
施工 株式会社松本組

約600m先にある出口の光は小さい。

あそこまで、連れて行ってくれるだろうか――




トンネル脇の岩場に刻まれた、ひっかき傷のような旧道は。

いまこそ、安寧からの逸脱!