道路レポート 多々石林道 第1回

公開日 2015.7.01
探索日 2015.6.02
所在地 福島県南会津町


南会津に一部の林道ライダーに知られた大荒れの林道があるという情報は、「国道?酷道!?日本の道路120万キロ大研究(←7月16日発売です。皆さまよろしくお願いします!)の打ち合わせの際に、実業之日本社の磯部祥行氏に教わった。

その林道の名は多々石林道
標高1320mの戸板峠を越えて旧田島町の針生と旧伊南村の古町(現在はいずれも南会津町)を結ぶ道で、右図のように最近の道路地図にも林道名とともに描かれているため、そこまで荒れているようには思えないが、実際は相当にひどいらしい。

旧版「会津の峠 下」(歴史春秋社発行/昭和51(1976)年)によると、戸板峠は江戸幕府が定期的に派遣していた巡検使の通路であり、天明8(1788)年の巡検使に随行した紀行家古川古松軒も、「東遊雑記」に戸板峠のことを次のように書いている。
針生を出て針生峠(戸板峠のこと)という大難所の坂ありて、この山中に見馴れざる草木多く、朴、柿、楓など二抱えもある大樹数多くあり、これらは上方には絶えてなき大木なり」。

このように「大難所」と表現された戸板峠だが、山深い南会津の生活に欠かせない貴重な峠道で、駒止(こまど)峠(標高1135m、国道289号旧道)にバスが運行される以前に伊南村の人たちが田島へ出るのに通った道であるという。(田島は古くから郡役所の置かれた、この地方の中心都市)


右図は、昭和33年要部修正測量版5万分1地形図「糸澤」に、幅3m以上の町村道(達路)として描かれた戸板峠の道だ。
当時、峠が伊南村と田島町の境になっていたことや、伊南側に少し下った道沿いに集落があったことが分かる。

生活道路としての戸板峠の利用度は、駒止峠の路線バス運行開始や冬期除雪の開始(昭和45年頃)、さらに駒止トンネル開通(昭和57年)など、駒止峠の改良に伴って低下した一方で、かつて古松軒を驚かせた豊富な森林資源の開発を目的に林道の整備が進められ、昭和47年に戸板峠を越えて古町と針生を結ぶ多々石林道が開通した。
今回探索する林道である。


右図は新旧の「山旅倶楽部」の地図(国土地理院の「電子地形図25000」をベースに作成された地図)に描かれた戸板峠の描かれ方の変化である。

平成17年頃のデータをもとにした「初版」では、幅員3〜5.5mの車道として描かれているのだが、「最新版」(平成26年版)では、線形こそ変わらないが、破線の徒歩道へ落ちぶれている。

これは非常に分かり易い、「道路が荒れて車道たり得ない状況になっている」ことの表現とみられ、なるほどこいつは探索する価値がありそうだ。

というわけで、実際に探索をしたのが今年の6月2日、探索の足は例によって自転車、そして単独行、旧伊南村古町より多々石林道に入り、戸板峠を越えて旧田島町針生に出る行程を取った。
そして、目論み通りに私は荒れた林道とガチバトルを繰り広げることになるのだが、

それとは異なる、情報にない意外なものにも出会った。



伊南川の谷底平野から、高原地帯の多々石開墾地へ


2015/6/2 5:54 【現在地(マピオン)】

ここは南会津町古町。平成18年まで伊南村の役場が置かれていた旧伊南村の中心集落で、古川古松軒が歩いた時代には沼田街道の古町宿という、なかなかに栄えた宿場だったという。

古(いにしえ)の沼田街道の呼称は現在の国道401号へ継承され、伊南川沿いの幹線道路として十分に整備されているが、その名の示す関東地方(群馬県沼田市)への連絡は、尾瀬沼の自然保護問題から何十年も昔に頓挫したまま国道未開通であり、それゆえに全国的な道路網の中では袋小路に属するという平穏と閑却の狭間にある。

ここの地形としては、伊南川を中心とする広々とした谷底平野であり、山国である会津の奥地にこんな開放的な風景があることの意外さがある。
そして私はここに、前述した袋小路性と相俟って、隠れ里的な別天地の匂いを感じるのである。



「古町タバコ屋前」のバス停がある上の写真の十字路から東(左)に折れると、目指す多々石林道へと通じる道に入る。
センターラインはないが、道幅は国道並みに広く取られている。十字路に青看がなかったのが不自然に思えるほどの、どこかへ通じていそうな気配のある道路風景だが、現実にはこの先通り抜けはほぼ不可能なので、行き先の案内が無いのも道理であった。

町道に入ると、すぐに短い急坂で顕著な河岸段丘を一段上る。
下が古町集落で、上は多々石集落と呼ばれている。小さな段丘斜面によって集落がわかれているのが興味深い。

なお、スタート地点の古町は標高約570mで、目指す戸板峠は遙か標高1320mにある。その比高は750mという大きなもので、おおよそ10kmの道のりで克服する。
どこから道が荒れているのかの情報は無い(敢えて聞かなかった、その方が楽しそうだし。その分、時間に余裕を持たせてきた)が、なかなか本格的な“山チャリ”を楽しめそうである。



多々石集落を過ぎると、またも谷底平野の広々とした風景があった。
これは目指す戸板峠辺りから流れ出る小滝川が作った平野で、いかにも「日本の原風景」と言いたくなるような平穏の田園風景なのだが、奥に累々と折り重なる高い山脈の姿は、その裏側に目的地を持つ私にとって、単なる美しい背景として甘受する事が出来ないものだった。アツイ!

戸板峠は、伊南川と大川(田島を流れる川)の分水嶺をなす山脈の中にあって、目立つ鞍部といえるほどの低まり方をせず、峰と峰の間の少し低い場所を越えていく感じであるから、遠くから見ても、このぶ厚そうな山壁のどこを越えるのか分からなかった。

とはいえ、この正々堂々とした第一印象を好ましくも感じた。
まだ遠い麓にいる旅人に、「お前が越えるべき峠は高いから、ちゃんと準備をしてから来い」と励ましてくれるような眺めである。そんな峠が私は好きだ。




6:05 【現在地(マピオン)】

入口から2km、標高620m辺りの風景。

風景的にも地形的にも、里と山の境となるのはこの辺りであるが、特に林道の起点を示す標柱とか、「この先通行止め」といった警告、或いは封鎖されたゲートのようなものは、何一つ現れなかった。
相変わらず良く整った舗装路が続いており、正直、私はこれまでの展開に一抹の不安を憶えはじめていた。

それは、オブローダーとしての不安である。
普通の道路利用者の心境とは全く逆の不安。
すなわち、私が求める荒れた道は解消されていて、このまま最後まで立派な舗装路で峠越えを果たせてしまうのではないかという、そんな「真っ当ではない」不安である。

経験上、地図上に道が描かれているのに普通車が通り抜け出来ないほど荒れている道には、里から山へ入る段階で何らかの警告があることが(圧倒的に)多い。
それが無いというのは、普通に通り抜け出来る可能性が高い。



山間部に入っても、小滝川沿いに整備された道路が続く。
しかし勾配はしっかりと付いており、高い峠へ登る道の仕事を黙々とこなしている。当然、私の自転車の漕ぎ足には大きな力が必要で、疲労を溜めないように休み休みしながら進んだ。

それにしても、今日の路傍の緑には、気が休まらない。
なぜなら、今年の奥会津は“当たり年”なのか、これで例年通りなのかは知らないが、ケムーシの発生が凄いのである。草葉1枚に毛虫1匹が漏れなく付いているのではないかというほどの数で発生しており、死骸も含めて路上にも大量に溢れて散らかっていた。
大量発生が良く報じられるマイマイガの幼虫(黒っぽい小さい毛虫)らしく、オブローダーとしては見慣れた毛虫ではあるが、今年これだけの大発生を見るのはここが初だった。
ちなみに去年の2014年も毛虫を各地で大量に見たが、2013年以前にはこんな事はあまりなかった気が…。



6:38 【現在地】

その後も「イイ道」を走り続け、入口から5.2km地点で木地沢橋という橋を渡った。
地図を見ると現在地の標高は約800mで、この辺りを境に道は谷沿いから山腹へ主戦場を移すという境の橋である。

なお、ここに至るまでも何本か橋を渡っており、その都度、銘板をチェックしていたのだが、奥に進むにつれて刻まれた竣工年が新しくなっていた。
具体的には、麓近くにあった「くりゅうさわはし」が昭和57年、その次の「さすのくぼさわはし」が昭和59年となり、今回の木地沢橋は平成2年9月となっていた。

事前に調べていた多々石林道の開通年度は昭和47年という話しだったが、おそらく林道らしい林道であった当初の道が、現在の立派な舗装路として面目を一新するための工事が、昭和末から平成にかけて順次行われていたことが伺えるのだ。


そしてその大規模な改良工事は、林道を町道として生まれ変わらせるものであった可能性が高い。
というのも、この木地沢橋の4枚の銘板のうちの1枚に、「村道多々石線」という路線名を刻んだものがあったのだ。
一瞬、「林道多々石線」と思ったが、良く見れば村道と書いている。

林道と村道の違いは色々あるけれど、基本的には、林道は林業のための専用道路で、村道は日常生活に密着した生活道路という性格付けである。
昔は重要な生活道路であったという多々石峠の道は、その役割を終えた後の昭和47年に一度は林道として生まれ変わったが、その後に再び伊南村道多々石線として、麓から徐々に整備が進められたようなのである。果たして、この整備が峠まで辿りついたのかどうか、これから明らかになるだろう。

荒れた林道という下馬評(というか事前情報)に反する綺麗な舗装路は、経歴の紆余曲折を色々と想像させる余地があった。



この道に入って最初の見晴らしのある場所に来た。
朝の涼しい空気が、充実した登りに火照った身体を優しく労ってくれる。

眼下には、さっきまで自分がいた小滝川の谷が広がり、その向こうの古町のある広い谷間は見通せなかったが、
揺るぎない視座の高まりに、スタート直後に遠く眺めた厚い山壁に立ち向かっている現状が理解された。



入口から約7kmの地点にて、4本目の小さな橋と出会う。
銘板に書かれた名前は穂積橋とあり、標高900mを越える山腹に似つかわしくない稲作連想のネーミングであるが、この名には見覚えがあった。それは、出発前に読んだ「会津の峠 下」の戸板峠の頁に、こんな文章があった故である。

多々石の奥にはわりに平坦なところがあるので終戦後は地元の部落の人たちが、穂積開墾、その奥に入谷開墾地を作った。そしてそばや大豆などを栽培していたが、今残っているのは一軒であるという。
この本が出たのは昭和51年で、その当時既に残り1軒だけになっていた戸板峠沿いの二つの開墾地の片方が、穂積開墾という名前であった。
山間部に似つかわしくないこのネーミングも、豊作の新天地を願った昔人の名付けと思えば、愛さずにはいられないのである。

なお、本橋の竣工年は平成9年と記されており、昭和末に始まった工事の槌音も、いよいよ“現在”へと近付いてきた。




7:09〜7:21 【現在地】 

入口から7.5km、穂積橋を渡ってやや進むと唐突に、明るい広い土地が見えてきた。

標高は950m付近で、地形図には分岐する道と数軒の家屋が描かれているが、地名は特に記されていない。
だが、おそらくはここが穂積開墾という戦後に入植の行われた開墾地と思われる。

昭和30年代の地形図には道沿いに多くの家が描かれていた穂積開墾地(と思われる)辺りの道路沿いの景観は、次の写真の通り、息を呑むほどに美しいものだった。




現行地形図にも描かれている数軒の家屋は、案の定、今も人が住んでいる民家ではなくて、農業用倉庫のようであった。
だが、かつてはその周辺に母屋があって、暮らしが存在したのであろう。多くの廃村がそうであるように、定住者なくなってからもしばらくは出作が行われていたと思うが、今はその様子もなく、スキー場のゲレンデを思わせるような楚々とした草地が広がっているばかりだ。

この場所も今でこそ走りやすい舗装路が通じているため、さほど僻地という感じはしないが、それが整備される以前は麓の集落から5km以上も離れ、標高も300m以上高い当地の淋しさは生半可ではなかったと思う。戸板峠の往来に賑わいがあった頃ならば、まだしも。しかも、冬場に至っては猛烈な積雪に閉ざされるに違いない土地だ。
入植したのは地元の人たちだというから、もとよりこの地を知り尽くしていたのだろうが、彼らの心の糧は何であったのか。

こうして通りがかりで足を休めるには、これほど幸せな眺めもない感じだが……(あまり気持ちよくて10分以上も休憩した)。


峠を目指して再び自転車を漕ぎ始める。

既に峠までの7割方を走破したが、未だに通行止めや行き止まりを予告するものは無く、その一方で通り抜けて来たらしき対向車と遭遇することもなかったのだが、いよいよもって「大荒れの林道」という情報が過去のものなのではないかという気がしてきた。

しかしそれでも、この道の先を確かめたいという欲求には、序盤に増して確固たるものがあった。
一帯が開墾地であった名残であろうか、沿道風景は開放的な状況が続いている。
相変わらず上り坂はシビアで、進行のペースも早いものでは無かったが、カーブを曲がる度に次はどんな風景が広がるのだろうかとワクワクした。



7:32〜7:42 【現在地】

既に見た穂積開墾との境目がどこであるかは分からなかったが、その更に奥(高地)にあったという入谷開墾地というのは、この辺りではなかったかと思う。

古町の国道分岐地点から実に8.2kmの奥地、標高1100mに迫ろうというこの辺りにも、広々とした開墾跡地を思わせる空間の広がりと、そこに点在するいくつかの(無住の)家屋が見られた。

会津地方の標高1100mといえば、その寒冷の度合いや冠雪期間の長さを考えたとき、幾ら地形的に緩やかな広がりがあったとしても、おおよそ農耕に適さない環境ではないかと思われるのだが、現に入植して“そば”や大豆を作っていた人々の存在した証しがこうしてあるのだから、なんとも逞しい。
その逞しさにあやかって、私もこの長い峠路を強く乗り越えたいと思うのだった。

なお、この辺りを地形図で見ると、標高1150mの付近に麓側の緩傾斜と峠側の急傾斜が明確に変化するラインが見て取れるのであり、地形を素直になぞっていたであろう歩き道の時代には、自然と旅人たちが足を休める最後の休憩場所になっていたことが想像された。
案外そんなところで旅人相手の暮らしをはじめた誰かが、広大な開墾のきっかけになったりしたのかもしれない。



さて、路傍の風景にかつての暮らしの名残を求めるのどやかな時間は、この入谷開墾地跡地をもって終わりとなる。
この先は、生粋の峠路だ。
そんな風に自分を奮い立たせる理由は、ここから急になっていく地形の他にもあって、最新の地形図では、この場所から道が“破線”へと変わっていた。

だから、「大荒れの林道」の情報を得て地図を見たとき、きっとこの場所からそれが始まるのだろうと自動的に確信していた。

だが、現実はそうではなかった。

ここに至ってもなお、大荒れの気配は皆無であった。
最後の集落跡地と思われる場所を過ぎ、この先は峠越え以外の目的で進入する人もいないだろうという境地に至ったのに、一切の封鎖もなければ予告も無い。



その代わり(?)のようにあったのは、道の舗装の境目(この先はさらに鋪装が新しそうだ)と、白い見馴れた1本の標柱だった。
林道好きならば誰もが見たことがあるだろう白い標柱の正体は、言わずと知れた、路線名や全長などを記した「林道標」。
そして、そこに書かれていた路線名は、予想外にも道路地図に書かれていた多々石林道ではなく、全く見覚えのない奇妙なものだった。

「林道 田島・舘岩 I 線」

林道名にローマ数字が入っているのも珍しいし、田島や館岩という旧町村名には見覚えがあるが、それを組み合わせた路線名は初見のものだった。
また、標柱の別の面には延長と幅員の欄があったが、幅員5.0米、延長の欄は空白だった。
…延長が空白というところに、本日初の“怪しい匂い”を少し感じたが、とりあえず目前には、今まで以上に新しく、そして綺麗な道が、あるばかりだった。



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林道田島・舘岩 I 線は、地形図に破線で描かれている旧来の多々石林道と同じ位置を通っている(GPSで確認)ようだが、明らかに真新しい。
路肩のガードレールひとつを取っても、最近になって各地で見られるようになった、自然景観との調和を重視した配色である。

麓から開墾地までの村道多々石線も、途中の橋の銘板を見る限り、昭和50年代から平成10年頃までに順次整備されたようだったが、それに続くこちらの林道は、さらに新しいものである事が伺えた。
或いは、村道の整備自体が、この林道との接続を念頭に置いていたのではないかと思われたりもしたが、私をここへ導いた「荒れた林道」という情報と実際の風景の乖離は、ただただ広がるばかりで、私はこの後で何を見るのか予想のできない状況になっていた。


そして、

何の前触れもなく それ は現れた。




ん? 道かな?

真新しい道を、林道標の地点から700mほど登っていくと、

自分がいる道のすぐ上にも、ガードロープを乗せた、新しげな路肩が現れた。

この光景にはじめは、この道が間もなく九十九折りになっていて、その先が見えているだけなのかとも思ったが、
地図にはそんな線形はなく、どうやら本当に、
地図に無い道が現れたらしかったのだ。

な、何事だ??




7:51 【現在地】

地図にない道は、車線だった!!

こ、これは?!

ここまでで林道田島・舘岩 I 線は終わりなのだろうか?

もしそうなら、ここで出会った地図にない道の正体は、なに?

見る限りこちらも新しいが道ではあるが、建設中ではないようだ。
だって、交差点の右も左も普通に解放されているし、今にも車が通りがかりそうな立派な2車線道路である。

これほどの道があるのに地形図には描かれていないことの異常性が、私を不思議の世界へと誘っていた。




地図にないこの2車線道路は、標高1150m付近に忽然と出現した。

右にも左にも行く事が出来るが、左はおそらく戸板峠へ通じる地形図の破線道と重なっている。
だが、右は完全に地形図には描かれていない道である。



右へ行ったら、どこへ通じているんだろう…?

丁字路に案内標識は存在せず、特に右は地図にない道であり、どこへ行くのか皆目見当が付かない。

だが、私の目的地から遠ざかることは容易に想像出来るし、この道の立派さを見る限り、
取り返しが付かないほど遠くの山へと連れて行かれてしまう可能性があるだろう……。


う〜〜〜〜〜ん、

自転車で確かめるには、リスクが大きいが…

気 に な る … 。




行ってみよう!


虎穴に入らずんば虎児を得ず、だ。



へ?