道路レポート 国道113号東港線バイパス 机上調査編(前)

所在地 新潟県新潟市
探索日 2020.08.20
公開日 2022.01.23

 机上調査編  〜未成高架道路、幻の完成形を求めて〜


<1> 現地調査のまとめ

現地探索はいかがだったろうか。
どんな道路だってオンリーワンに違いはないが、イレギュラーな特徴の多さでいえば、なかなか比肩するもののないレアな逸材だったと思う。
そんな現地の模様を皆様にご覧いただいたところで、ようやく本稿の本題である机上調査編を始めたい。

未完成の高架橋が、本来目指していた完成形を、机上調査で解き明かす。
そしてもちろん、なぜ完成しなかったかの理由も知りたい。
加えて、今後の展望も、もしあるならば……!

現地探索のまとめとして、右の画像を用意した。
途切れた高架橋の周辺を撮影した現在の航空写真に、少し着色をしてみた。色を塗って区別したのは、高架の道路や、高架と地面の道路を結ぶランプウェイの位置を分かり易くしたかったからだ。

この図によって、東港線バイパス末端部の単純ではない曰くありげな構造や、現在使われていない未使用の路面の多さが一目瞭然になったはずだ。
果たして、この途切れた高架の末端から先には、どのような道を繋がるはずだったのだろうか。
皆様もぜひ想像してみて欲しい。





<2> 東港線バイパスの計画史

新潟市の歴史を網羅的にまとめている文献として、平成2(1990)年から平成10(1998)年にかけて刊行された『新潟市史』(全19巻)がある。
平成9(1997)年に刊行された『新潟市史 通史編5現代』に、東港線バイパスに関する記載があったので、まずはこれを紹介したい。
記述は、昭和40年代に大々的に進められた市内の幹線道路網整備について述べた部分にあった。

新潟市内や周辺の幹線網としては、国道8号線黒埼町大野から国道7号線海老ヶ瀬までの新潟バイパスが41年度に着工され、43年度には新潟バイパス紫竹山インターチェンジから横越村までの亀田バイパスの建設が決まった。(中略) 43年10月、旧栗ノ木川を埋め立てて6車線道路にする工事が着手された。東港線を起点とし、亀田バイパスに接続するもので、46年に完工した。41年、県事業として着工された東港線高架バイパスは、49年4月に供用開始された。旧栗ノ木川埋立道路と東港線高架バイパスは、「みなと大橋」構想と一体化する路線計画でもあった。

『新潟市史 通史編5現代』より

今日の新潟の道路網の中核を構成する新潟バイパスや亀田バイパス、栗ノ木バイパスといった東西方向と南北方向の幹線は、我が国が高度経済成長という果てしなき上り坂を驀進していた昭和40年代に、非常なハイペースで建設されたものであった。

新潟市に限ってみてもこの時期の成長は凄まじく、昭和39(1964)年の(全国初の)新産業都市指定、42年の新潟港の特定重要港湾指定、44年の新潟東港(ひがしこう)開港、47年関屋分水完成と、全国ニュースを賑わす開発事業が目白押しで、開発の基礎的要件である交通網の整備は、53年の北陸自動車道開通、57年の上越新幹線開業へ繋がっていく。

この幹線道路整備ラッシュの一角として、旧栗ノ木川埋立道路(=栗ノ木バイパス)と共に、東港線高架バイパスの名前が登場している。
そしてこの二つは、「みなと大橋構想」と一体化する計画であったと、早くもこの……未成の親玉と思しきヤツの名前が登場した。
「みなと大橋」に関する言及は市史にもまだもう少しあるのだが、東港線バイパスの名が登場するのは、上記一箇所だけのようである。
そのたった1箇所で「みなと大橋」との関わりが言及されているほどだから、関係が深かったことは想像に難くない。

しかし、これだけの記述では、東港線バイパスの素性を解明したとは到底思えぬ。
市史以外のソースがぜひとも必要である。
この辺りから、文献跋渉の旅を始めることとしよう。





『市報にいがた』(昭和43年10月5日号)より

新潟市の素晴らしいところの一つが、市の広報誌(市報「にいがた」)のバックナンバーを昭和30年代から最新版までPDFとして公開しているところだ。
昭和43(1968)年10月5日に発行された『市報にいがた第205号』に、旧栗ノ木川の埋め立てを伝える、右のような記事が掲載されていた。「6車線のハイウェー」という見出しにイケイケの勢いを感じるが、本文もホットである。

計画では、総工費は約13億円です。紫竹排水機場から東港線まで延長2940m、幅員は29mから広い部分で50mです。起点の沼垂竜ヶ島の東港線から国道7号線をまたいで、終点の新潟バイパス紫竹山インターチェンジまで6車線の道路となります。この道路は将来高速道路として利用できるように計画されており、新潟バイパスや亀田バイパスとともに、市内の交通を円滑にする重要な役目を持っています。
“港大橋”の構想が実現した場合は、西新潟と東新潟を結ぶ重要幹線道路となるわけで、この道路が完成する48年には、東新潟も大きく生まれ変わることになります。

『市報にいがた』(昭和43年10月5日号)より

栗ノ木バイパスは元来、高速道路として利用できるように計画されていただと?! こいつはマジでホットだぜぇ。
そして、やっぱり出て来た、“港(みなと)大橋”という構想の名前が。
加えてこの記事が美味しいのは、市史を読んでも分からなかった“みなと大橋”の位置が、簡単な略図としてではあるが、ちゃんと描かれていることだ。
この略図上には、当時建設中だったはずの東港線バイパスも「高架バイパス」という名前で登場し、三者は見事に接続している。

(←)万国橋で!

“みなと大橋”の計画地は、ここにあったのか!
現地でもうすうすーとそのことは想像したが、確信に至るような材料が全くなかったので、口にはしなかった。

東港線バイパスと栗ノ木バイパスが着工し、まさに建設が進められていた当時の情報だけに、略図とはいえ信憑性があろう。
“みなと大橋”とは、現在の栗ノ木バイパスと東港線バイパスが平面交差する万国橋交差点から、栗ノ木バイパスの直進方向へ伸び、信濃川河口を万代島ごと乗り越える架橋の構想であったようだ。

この略図からは、さすがに東港線とどのように接続するつもりだったかまでは分からないが…。




『市報にいがた』(昭和43年6月5日号)より

同年の6月5月号にも関連する記事が掲載されていた。
この記事の主役は、当時建設が進められていた新潟バイパスであり、事業主体である建設省北陸地方建設局新潟国道事務所の課長が一問一答形式でいろいろな質問に答えている。そして、同じく新潟国道事務所が建設を進めていた亀田バイパスや栗ノ木バイパスについても言及があった。関連する内容を抜粋しよう。

――インターチェンジはどこに造られ、どの道路に接続するのですか。
花市課長 起点の海老ヶ瀬と黒崎と竹尾、紫竹山、桜木町、女池で、それぞれ都市計画街路の赤道線、港大橋線、昭和大橋線、白山浦線につながります。なかでも国道49号線と港大橋線に接続する紫竹山インターチェンジは規模の大きなものです。

――亀田バイパスは新潟市のどの街路に接続するのですか。
花市課長 新潟バイパスの紫竹山のインターチェンジに接続します。従って車は新潟バイパスへの乗り入れか、栗ノ木川を埋め立てて造られる計画道路を通り市街地にはいってくることになります。
(中略)これが完成しますと新潟バイパスとあわせて、新潟市は市の人口で車が混雑するという悩みから解消され、スムーズに市街地へ車を導入できるようになります。

『市報にいがた』(昭和43年6月5日号)より

なんと、この時点で都市計画街路(昭和43年に改正される前の都市計画法で指定されていた都市計画道路のこと)“港大橋線”なるものが認定されていたのだろうか。
まだ“みなと大橋”は構想扱いだと思っていたが、もしこの都市計画街路が正式名だったなら、既に橋の位置やルートが都市計画決定済だったということ? 謎が深まった。



『市報にいがた』(昭和43年6月5日号)より

これは記事に掲載されていた略図を拡大したものだ。

新潟バイパスの紫竹山と女池を結ぶ、新潟市街地を取り巻く環状線が、計画線を意味する点線で描かれている。
この経路は信濃川を2回横断しているが、どちらにも橋名は書かれていない。だが、東側の橋はおそらく“みなと大橋”で、西側の橋は、千歳大橋と思われる。

国道116号の千歳大橋は、昭和60(1985)年に暫定2車線で開通し、平成6年に4車線化しているが、このような環状道路の一部と認識している人はほとんどおられないだろう。通称としても、特に環状線などとは呼ばれていない。
だが新潟バイパスの建設が進められていた昭和43年当時の国や県や市は、このような環状道路計画を持っていて、その重要な一部として、“みなと大橋”を認識していたようなのである。

少し話が東港線から逸れてしまった。新潟市の都市計画の変遷については、次の次の章で改めて取り上げることにして、話を東港線バイパスへ戻したい。




市史や市報の記述によって、東港線バイパスは昭和41(1966)年に県の事業として着工し、49年4月に供用がスタートしたことが分かった。また、同時期には栗ノ木川を埋め立てて道路化する栗ノ木バイパスの整備が国の手で進められており、これらの道路は、“みなと大橋”の構想と万国橋付近で繋がることを想定されていたことも分かった。

しかし、そもそも東港線バイパスとは、どういった経緯から計画された道路なのだろう。
最初から、“みなと大橋”ありきだったのだろうか?
だとしたら、現在の“万年未成”という状況も頷ける徒花ぶりだが……。
この辺りの事情を探ってみたい。


『道路三倍増論』。
これは昭和40(1965)年に新潟日報事業社が刊行した書籍のタイトルだ。著者の五十嵐真作氏は、終戦後すぐに新潟市土木部長を努め、昭和30年代に市助役も経験されている。これは五十嵐氏による新潟市の道路に関する現状分析と将来への提言に満ちた1冊である。

同書によると、昭和30年代後半において、既に新潟都心部の自動車交通はほぼパンクという状況で、2km離れた県庁へ登庁するのも、バスに乗るより歩いた方が早いことが常態化していたらしい。
酷い渋滞の原因は、信濃川を挟んだ西新潟と東新潟を行き来する大量の交通が、信濃川の橋に集中することで起きていると分析し、対策として、橋の増設は当然としても、周辺の道路も大幅に増強し、表題のような大胆な道路増設が必要だとしている。
そして、具体的に市内の主要な渋滞ポイントの交通量を分析したうえで、特に交通量が多い東港線については、次のような具体的な改良計画を提言している。

立体交差は平面交差に対し交通量が概ね2.5倍といわれている。
港湾、工業地帯と都心を結ぶ最も重要な経済動脈とも言うべき東港線の立体交差は、県営埠頭の出入口に支障があるので東港線は現幅員のまま臨港埠頭、工業地帯の専用道路の性格をもたせ、県営埠頭出入口付近から山ノ下橋付近まで東港線の西側(ママ)に並行して高架バイパスを新設することになっている。

『道路三倍増論』(昭和40年)より

東港線の高架バイパスは昭和41年に事業化されたが、その前段階においては当然、必要性や切迫性が認識されていたのである。
なお、同書も“みなと大橋”について言及があり、昭和45年までの早急な実現を目指すべきとしているが、東港線との一体整備については触れていない。

昭和39(1964)年2月の新潟県議会定例会で次のような発言をされている吉田吉平議員もまた、東港線バイパスの初期の提唱者であったとみられる。

新潟飛行場におきましても、知事はじめ地元の市長は、対ソ空路の起点として、ぜひ今後開発していきたいというようなことも述べておられるが、いまの状況では、何ともいたしかたがないのでありまして、私は一案を2、3年前から陳情申し上げましたりなどいたしておりますが、その案をここにあらためて御説明申し上げますと、万代橋を渡りまして、現在の東港線を通りまして、万国橋の少し先から地盤沈下対策によって不用になりました八間堀――これは俗に8間と申しますが、11間ありまして、20mばかり幅員がございます。そこを通りまして、現在の山ノ下橋に第二山ノ下橋を新規建設いたしまして、松島通に出まして、臨港線の下をガードでくぐり、日本鋼管の前に通ずる1km何がしか、2kmばかりの道路を新設いたします。そういたしますと、これはこの鉄道の路線を1本だけ高架にまたぐことによって、ほとんど踏み切りによって阻害されるというようなことなく、飛行場に参られる。

昭和39(1964)年3月5日 新潟県議会定例会一般質問より

新潟空港は、昭和33(1958)年に米軍から返還され民間機が就航する一般の空港となったことで、都心と空港を最短で結ぶ東港線を通過する交通量が更に増えることが見込まれていた。

吉田議員が提案しているバイパス道路案(吉田案)は、右図の赤破線の位置と考えられる。
そのルートは、現在の東港(とうこう)線バイパスを包含したもので、終点は同じ万国橋だが、起点は現在の紡績角交差点ではなく、東へ1kmほど離れた錦町付近にある。
おそらく、レポート第1回で登場した長者町交差点から東へ延びる都市計画道路山ノ下東港(ひがしこう)線のルートだろう。吉田案は、地図読みで全長2.5km前後とみられ、現在の東港線バイパスの倍くらいある。
(ややこしいが、東港線は「とうこう」と読み、山ノ下東港線は「ひがしこう」と読む。理由は、前者は新潟港の東岸の路線という命名で、後者は新潟東港(ひがしこう)と山ノ下を結ぶ路線だからである)

そしてもう一つ、吉田案には現在の東港線バイパスとの大きな違いがあったようだ。
吉田案は全体を高架道路とはしていないのだ。
臨港線を指して、「鉄道の路線を1本だけ高架で跨ぐ」としていることから、それが分かる。(ちなみに、昭和57年に市の都市計画道路事業として山ノ下東港線が臨港線を潜る地下道が実現している)
だが、この当時は臨港線のほか、沼垂駅から中央埠頭へと伸びる専用線が存在していて、東港線を横断していた。吉田案は、これを踏切でも高架でもないどんな方法で横断しようと考えたのか。その答えはおそらく、「地盤沈下対策によって不用になりました八間堀(中略)を通りまして」というところにある。

吉田氏は、現在の東港線高架バイパスに相当する部分の大半を、高架道路ではなく、河川跡を利用した半地下道路として建設することを考えていたように思われる。
栗ノ木川が埋め立てられて栗ノ木バイパスになったことは前述したが、廃川跡を整備して半地下道路として利用したケースも初期の首都高速道路(昭和37年開通区間)などに実例があって、年代的にも合致している。


『日本都市地図要覧』(昭和41年)より

右図は、昭和41(1966)年に人文社が発行した『日本都市地図要覧 都道府県庁所在都市篇』に見る、昭和40年頃の東新潟の地図風景だ。(比較は最新の道路地図)

現在ある東港線バイパスの大部分が、八間堀という堀川の跡地を流用していることがよく分かる。
具体的には、通船川を渡る橋から市道南1-53号線を跨ぐところまで、約600mの区間がそうだ。
また、現地探索では高架橋の延伸予定地ではないかと考えた、市道南1-128号線がある【帯状地】も、八間堀の跡だったことが分かった。
そして八間堀の末端は、やはり道路化した栗ノ木川と繋がっていた。

道路構造としては、吉田案の地上構造ではなく、『道路三倍増論』の五十嵐氏が提唱した高架構造が実現したが、八間堀の跡地をバイパスに利用しようという根本の考え方は吉田案の通りになった。
しかし、例の空間を高架橋の延伸予定地だと安易に考えていた私は、「×」を一つ付けられた感じがした。侮れないぞ……。


ところで、この章の最後に一つ付け足しておこう。
東新潟の市街地を流れていた栗ノ木川や八間堀は、なぜ相次いで廃川となり道路化されたのだろう。道路を増やしたいという理由から、わざわざ川を他に移したのだろうか。

実はそうではなかった。
昭和30年代から40年代初頭にかけて、東新潟の都市部一帯で特に大きな問題となった公害があった。
地盤沈下である。
原因は、有望な地下資源とみられていた液化天然ガスを、地下水ごと大量に汲み出していたことにあった。それで地下水位が下がりすぎて、地盤低下が起こっていたのだ。

この静かな公害が、市民生活に決定的な打撃を与えたのは、昭和39(1964)年6月に新潟市を直撃した新潟地震(M7.5)のときだった。
地盤沈下が、地震によって発生した津波や液状化現象による市街地の浸水をより深刻化長期化させたのである。

地盤沈下自体は天然ガスの採取規制などによって次第に収まったが、都市部に広がる広大なゼロメートル地帯の水捌けを早急に解消するためには、低地の水が集まる鳥屋野潟や栗ノ木川などの川を地下化して排水機場に集め、そこから強力な揚水ポンプで信濃川へ強制放流するよりなかったのである。(興味のある方はこちらもどうぞ)
このような人間社会の事情から、東新潟のいくつかの河川は陸地化し、道路化することになった。




次章では、昭和43(1968)年に印刷された、東港線バイパスの事業概要と呼べる資料を紹介したい。
現状とは異なっていた旧計画の姿が、白日の下に……?!




<3> 東港線高架バイパスの事業概要

市史にはほとんど言及がなかった東港線の高架バイパスだが、この事業の概要をまとめた資料が発見された。
財団法人都市計画協会が発行する月刊誌『新都市』昭和43年2月号に掲載された、「東港線高架バイパス計画について」という6ページからなる記事だ。国会図書館デジタルコレクションの図書館送信サービスでこの資料を見つけたときには、興奮して思わず「ガタッ」としてしまった。



『新都市』(昭和43年2月号)より

これはかなり長い記事なのだが、東港線バイパスについてこれほど詳細にまとめた記録は他に見つかっておらず、他の資料からは得がたい内容が豊富なので、この章を全て費やして紹介したい。
記事の内容は、1.計画の由来、 2.交通量関係調査、 3.高架バイパスと現道拡幅による立体交差計画との比較、 4.東港線高架バイパスの概要とその効用、という4節に分かれている。特に第1節と第4節の内容が、私が知りたかったことを多く含んでいた。

最初は「1.計画の由来」から始まるが、さっそくにして現在ある東港線バイパスと異なる部分が出てくるので注目して欲しい。
未成となった高架橋の全貌が、姿を見せ始めるぞ。


1.東港線高架バイパス計画の由来
(1) 東港線について

東港線とは都市計画街路1.3.13東港線であって、起点を昭和橋右岸橋詰にとり、終点を紡績角とする延長3640mの本線と、水産物物揚場付近より分岐して、同じ点を終点とする延長1520mの支線よりなる都市計画街路である。(図-1参照) 

『新都市』(昭和43年2月号)より

文中の「図-1」は、右のチェンジ後の画像として拡大表示したものを指している。
上記の文章や右の画像から、現在ある東港線との違いがいくつかあることに気付いただろうか。
まずはそのことを説明したい。

まず、現在の東港線の正式な路線名は、都市計画道路3.3.518号東港線という。昭和43年に都市計画法が現行法に改訂される以前の都市計画路とは命名規則が違っているので、路線名の数字部分が変わっている。
さらに、本線や支線の起点の位置や長さも現在と違っている。表にまとめてみた。

路線名起点終点延長
昭和43(1968)年都市計画街路
1.3.13号東港線
本線昭和橋東詰紡績角3460m
支線水産物物揚場付近紡績角1520m
現在都市計画道路
3.3.518号東港線
本線上所交差点紡績角4290m
支線万国橋紡績角1180m

今回の調査で重要なのは、東港線バイパスにあたる「支線」の起点の違いであろう。
「水産物物揚場」というのがどこにあったのかを調べてみた。



『日本都市地図要覧』(昭和41年)より

昭和41年の市街地の地図(→)を調べてみると、この当時、水産物物揚場(地図上だと「水産物荷揚場」)は、万国橋より200mほど西側の埠頭に立地していたことが確かめられた。
これにより、支線の長さが340mほど違っている理由を推測できた。

当時は、万国橋より340m西側まで高架のバイパスを伸ばすつもりだったのではないか。

これはさっそくにして、未成計画の全貌にまつわる大きな収穫だった。

記事は続いて、東港線に課せられた交通上のの役目を5つ列挙して、その重要性を説いている。

  1. 新潟市の市街地中心部と東新潟の工業地帯である山ノ下地区を結ぶ幹線街路である。
  2. 新潟市中心市街地と新潟空港を結ぶ幹線街路である。
  3. 新潟西港右岸の港湾地域、特に水産物物揚場、中央埠頭、後背の産業道路である。
  4. 沼垂、山ノ下地区の地区内幹線街路である。
  5. 主要地方道新潟村上線として、新潟市―松浜―東工業港村上市を結ぶ幹線である。
『新都市』(昭和43年2月号)より

どれも地図上から窺える役割だが、最後の項目だけ説明を加えたい。
現在の東港線バイパスは国道113号の一部であるが、昭和43年当時は異なっており、主要地方道新潟村上線の一部であった。
国道昇格は昭和57(1982)年で、この時点では国道345号(新潟市〜山形県遊佐町)に組み込まれていた。(同国道の起点が村上市から新潟市に延長されたことで国道に昇格した)
さらに平成5(1993)年、国道113号(新潟市〜福島県相馬市)のルート変更に伴い、当該区間は国道345号との重用となった。このため地図や青看では番号の若い国道113号が優先して案内されるようになって現在に至る。

記事は続いて、東港線バイパスが計画された区間における交通輻輳(渋滞)の問題を、5つの理由を挙げて説明する。
この辺りの内容は全て、東港線バイパスの必要性を説明する事柄である。


『日本都市地図要覧』(昭和41年)より

この東港線の水産物物揚場付近より紡績角の間1.4kmの交通事情を見てみると、この東港線の中央埠頭付近における交通量は41年5月の調査においては、23000台を示している。この区間においては通過交通と港湾関係の交通が錯綜し、これに次のような悪条件が加わって、東港線の交通事情を益々悪くしている。

  1. 遮断時間が3時間あまりになろうとする中央埠頭国鉄臨港線との平面交差がある。
  2. 東港線と県道新潟港沼垂停車場との丁字交差。
  3. 山ノ下橋右岸より紡績角まで延長240mの間の幅員の狭小。
  4. 万国橋より山ノ下橋の間における中央埠頭、北埠頭、沼垂貨物駅専用道路の出入のための三つの丁字交差の存在。
  5. 東港線に対する多量の横断交通の存在などが考えられる。
『新都市』(昭和43年2月号)より

右図は列挙されている渋滞ポイントを図示したものだ。
こいつはひでぇ! もう手の施しようがねぇ!
当時の関係者はそんな匙をも投げたくなる想いで、東港線の終わらぬ渋滞を連日眺めていたのではないだろうか。


『新都市』(昭和43年2月号)より

現在であれば、新潟中心市街地から村上方面へ向かうルートはいろいろ選べる。中でも6車線もある無料の新潟バイパスが最有力候補であろう。だがこのバイパスが出来たのは昭和48年だから、当時まだない。
さらに、栗ノ木川を埋め立てて造られた6車線の栗ノ木バイパスもまだない。現在は市道南1-53号線となっている道路が、当時は県道新潟港沼垂停車場線と呼ばれていて、栗ノ木バイパスの前身にあたるが、この道路もまた狭かった。

海沿いに東へ向かうには、辛うじて片側2車線の幅を有する(それも紡績角付近で片側1車線になる)東港線しかなかった。
しかも、上記のようなさまざまな悪条件まで重なっていた。

左の画像は、この当時の東港線の道路状況を撮影した写真だ。
よほど奇特な渋滞マニアでもなければこの状況は愛せまい。
私はノーサンキュゥだよぅ。

さあ! 記事の読者に「バイパスが必要だ!」と納得させる準備は整った。ここで最後のダメ押しで、全読者を完膚なきまでに納得させる。(↓)

この東港線は新潟地震のとき、路面の破壊、沈下、浸水等の大被害を受けて、長期間交通がストップした。このため新潟市特に山ノ下地区の住民は非常に大きな苦痛を味わい、この路線の重要性を再認識したことは記憶に新しいことである。
早急にこの区間の交通対策を講じなければ、遠からず交通量の増加により、交通麻痺をおこし、地震時の混乱を再現するであろうことは明らかである。このために東港線バイパス計画は進められたものである。

『新都市』(昭和43年2月号)より

それでは、計画の中味について、徐々に語っていただきましょう。
でもまだ焦っちゃいけない。次は第1節第2項、「計画の生い立ち」ダヨ。


(2) 計画の生い立ち

東港線と臨港線との平面交差の解消と港湾地帯の交通緩和のため、水産物物揚場付近より紡績角に至る1.4kmの間を鉄道敷を利用して高架バイパスを計画しようとする思想はかなり以前からあった。

『新都市』(昭和43年2月号)より

ここでまた、いきなり思いがけない内容が出て来た。
鉄道敷を利用、だって?!
八間堀という川の跡を利用するって話なら分かるけど……。

どうやらここにも、私の見落としがあった。
八間堀の跡も、確かに利用するのである。
だが、そうではない部分があったのだ。
次の地図をご覧いただきたい。


『日本都市地図全集第一集』(昭和32年)より

右の図は、昭和32(1957)年に人文社が発行した『日本都市地図全集第一集』に掲載されている新潟市の地図の一部だ。
(チェンジ後の画像は現在の道路地図)

これを見ると、現在ある東港線バイパスの一部が、鉄道の廃線跡をなぞっていることが分かる。
区間としては、市道(元・県道新潟港沼垂停車場線)との交差点から万国橋交差点までの、僅か200mほどである。

(←)現地では全くそんなことは考えなかったが、これらの写真の高架橋は、実は廃線跡をなぞっていたらしい。

鉄道廃線に精通している人には常識的な話なのかも知れないが、私は山間部ならまだしも市街地の廃線跡には疎いので、そもそも廃止直前は貨物専用駅であった沼垂駅が実は明治以来長い歴史を有する旧信越本線の駅だったことや、新潟駅が移転していることを知らなかった。

後に国有化されて信越本線となる前の私鉄・北越鉄道は明治30(1897)年に沼垂駅、そこから延伸して明治37年に初代の新潟駅を開設した。
明治40年に国有化された後も、長らくこの線路が信越本線として使われたが、市街地の迂回が大きいなどの問題から駅の移転が計画され、戦後の昭和33(1958)年に当時は貨物線であった現在の位置へ移転した。同時に沼垂駅は貨物駅になり、沼垂と旧新潟駅を結ぶ旧線は廃止となった。

旧線はもともと八間堀を橋で渡っていたが、埋め立てられた八間堀と、レールが撤去された旧線跡を組み合わせてそこに高架道路を整備しようというのが、東港線バイパスの冴えた計画だったのである。
廃川だけでなく廃線も利用したとか、マジで跡地利用のプロだ。


地震時における東港線の重要さが認識された結果、地震復興計画においては、東港線の改良計画が主要道路計画の一つに挙げられた。このときまず考えられたのは、港湾後背地帯の現在幅員22mを40m程度に拡幅して、この中に立体交差をつくることと、国道7号線との交差点(万代橋右岸橋詰付近)の立体化であった。しかし調査、計画を進めて行くうちに、まず国道7号線との東港線の交差点の立体化は、前後の道路の拡幅が既に不可能であるとされ、又港湾後背地の東港線を拡幅して、その幅員の中に立体交差を拡幅することは、後に詳しく述べる理由により不適当であるとされるに至った。そして最後に八間堀を利用する高架バイパス案に落ち着いたわけである。

『新都市』(昭和43年2月号)より

ここにも貴重な情報が盛られている。
東港線の計画が具体化したきっかけは、新潟地震からの復興計画にあったという。
この新潟地震復興計画については、昭和41(1966)年に新潟市が発行した『新潟地震誌』にある程度詳しい内容が書かれているので、後の章で紹介したい。


『日本都市地図全集第一集』(昭和32年)より

東港線の改良は、復興計画の中に主要なものとして盛られたが、しかし最初から八間堀を利用するバイパスが計画されたわけではなく、当初は右図のような整備を検討していたそうだ。

第一の改良案は、国道7号萬代橋と東港線の交差点を高架化することだった。
(←)当該の交差点は、現在その名も「東港線十字路」と呼ばれる市内屈指の交通量を誇る地点だが、今も高架化はされていないし、計画もない。東港線改良の一環として検討された際に、既に拡幅の余地がないとして断念されていたのだった。

第二の改良案は、水産物物揚場から北埠頭まで1100m区間の東港線を幅40mに拡幅して、その中央に4車線の高架バイパスを抱き込むものだった。
この計画の詳細と不適当とされた理由については、同資料第3節「高架バイパスと現道拡幅による立体交差計画との比較」に紙幅を割いて詳述されているのだが、北埠頭の高架終点と山ノ下橋の間隔が狭くて急勾配のランプになるなど縦断勾配が悪いこと、側道となる従来の道路が狭くなり渋滞をさばききれないこと、拡幅に伴う立ち退き補償費が多額に及ぶことなど問題が多いとされ、八間堀を利用した別線の高架バイパス整備に落ち着いたのだという。



『新都市』(昭和43年2月号)より

そしてこれがみなと大橋、栗ノ木道路、新潟バイパス、49号バイパスといった一連の新潟市幹線道路計画に高められていったのである。(図-3参照)
新潟バイパス、49号バイパスは建設省直轄事業として着々進行しているが、東港線高架バイパス計画は41年度より事業化した。又栗ノ木道路は昨年計画決定が行われ、本年はその事業化が進められる。又西新潟においては、西北地区の都市改造事業の調査が行われており、地震復興計画の大計画は着々前進しているといえよう。このように東港線高架バイパスは局部的な東港線の改良計画でするとともに、新潟市幹線道路計画の一連であるということに大きな意義を持つものである。

『新都市』(昭和43年2月号)より

ここではじめてあの“みなと大橋”の名前が登場したが、一緒に栗ノ木バイパス、新潟バイパス、亀田バイパスといった、同時期に整備された大きなバイパス道路の名前も列挙されている。
これらはいずれも、東港線の改良計画と同じく、新潟地震復興計画から高められていった新潟市幹線道路計画の一員であり、いわば同期の桜であったらしい。

右図は、本文中で参照されている「図-3」である。これは新潟市幹線道路計画の模式図である。
東港線はこの中に、上掲した各種バイパスと繋がるものとして描かれている。
今日における新潟バイパスや栗ノ木バイパスの大成を知る者として、同期の中で、なぜ東港線とみなと大橋だけが大きな挫折を味わうことになったのか、ますます興味を深めるのであるが、本稿の著者はもちろん未来人ではないから、東港線バイパスの成功を疑ってはいない。
しかもそれは、国の事業である新潟バイパスや栗ノ木道路に先んじこそすれ、決してその付属品のような局所的道路整備計画ではないと意義の大きさを誇っている。


なるほど、私は少し前まで、東港線の計画は“みなと大橋ありき”のものではなかったかと疑っていたがが、必ずしもそんなことはないようだ。
東港線には、それ単体でも改良されるべき事情が十分にあったことを理解できた。

「東港線高架バイパス計画について」の記述は、これで第1節が終わり、第2節「交通量関係調査」、第3節「高架バイパスと現道拡幅の比較」と続くが、これらは省略して、最後の第4節「東港線高架バイパスの概要とその効用」へ紹介を進めよう。





(4)東港線高架バイパスの概要とその効用

高架バイパス計画は図-4で見るように、万国橋の西約300mの水産物物揚場付近を起点として、万国橋の手前より南に分岐し、旧鉄道敷、八間堀を利用して山ノ下橋の上流約上流(ママ)の地点で通船川を渡り、都市計画街路河渡線の交点に接続する延長約1400mの高架道路である。この間栗ノ木道路、県道新潟港沼垂停車場線、沼垂貨物駅専用道路、及び国鉄臨港線を高架で越える。
なお、地域の利用を考慮して、起点、終点の外に、東港線よりの上りランプ、及び新潟港沼垂停車場線への下りランプを計画した。(図-4、図-5、図-6参照)

『新都市』(昭和43年2月号)より


『新都市』(昭和43年2月号)より

まず一つ言わせて欲しい。

著者さま、そして編集者さま。
出版するまえに、誌面の校正を充分にしてほしかった。
上記の本文を読む限り、この稿には附属する図が4枚あったはずだ。
だが、実際に誌面に掲載されているのは、この右に掲載した「図-4 東港線高架道路断面図」一葉のみである。
しかも文中には「図-4」が二度登場しているが、内容的には明らかに異なる図を示している。

確かにこの断面図も従来は知り得なかった稀少な情報であり有用だが、本来の「図-4」は、本稿において最も重要と思われる、バイパス全体の平面図であったに違いないのである!
そこが欠落しているというのは、むむむむむむむむむむぅむむむ!!!(涙)

そしておそらく、右の断面図は正しくは「図-5、図-6、図-7」なのだろう。
この図は、2車線の本線高架橋、4車線の本線高架橋、1車線のランプ部高架橋という3つの断面図からなっている。
そして、現在の東港線バイパスには2車線のみの高架部分は存在しないので、これこそが、建設されず未成に終わった部分を描いたものだと考えられるのだ!

残念ながら掲載されずに失われてしまった、本来は「図-4」として存在したはずの平面図を、文章の説明から再現してみたのが次の図だ。

当時の都市計画街路東港線支線の全長は1520mで、このうち1400mを高架バイパス化する計画だった。
高架バイパス区間の起点は、万国橋から300mほど西にあった水産物物揚場付近で、終点は現在の長者町交差点(当時の都市計画街路河渡線交点)である。

ルートとしては、起点から万国橋交差点までは既存の東港線道路上、そこから八間堀交点までは信越線の旧線跡上、さらに通船川までは八間堀の廃川上にそれぞれ高架を敷設する。
出入口は、起点と終点の外に、県道新潟港沼垂停車場線へのオフランプと、万国橋付近で東港線からのオンランプが計画されていた。

そして、以上の建設計画を令和4年現在の東港線支線と比較すると、建設されなかった部分がどこにあったかが完全に洗い出された。
未成区間は、起点から東港線オンランプまでの本線、推定340mだ!

やっと、未成道を考えるうえで最も基本的で、最低限ともいえる情報を、知ることが出来た……!


……が、やっぱり、「図-4」が無いのは惜しいなぁ……。

代わりの図とか、どっかにないのかなぁ……。

ありました!

こんな“怪しい”地図を見つけてしまった。↓↓




『新潟市』(昭文社)(昭和51年)より

この地図は、新潟市立図書館で資料を漁っているときに出会った、昭和51(1976)年6月に昭文社が発行した『新潟市』という地図帳(原版は確かカラー)の一部だ。
出典がちょっと怪しいのが申し訳ないが、この地図をよくよく見ると、昭和51年当時の道路としては、明らかに異常なのである。

何がおかしいかって、この2年前に供用を開始しているはずの東港線バイパスの描かれ方がおかしいのだ。
図中の2箇所の矢印の間に高架橋の記号が記されているが、よく見ると、万国橋で栗ノ木バイパスを跨ぐようになっているではないか!

実際には建設されなかった万国橋以西の高架橋が、はっきり描かれてしまっている!
しかも、昭和43年当時に生きていたバイパス計画をなぞる形で……。

実はこの地図以外にも、同じ間違いを冒している地図が複数存在するという情報を得ている。
おそらくこのミスは、計画中や建設中の予定線をうっかり完成した道路と誤認して描いてしまったために発生したものだろう。
年代的にもあり得る誤りだと思う。

ちょっと苦しいかも知れないが、こうした地図帳が複数存在してしまっているという事実を以て、東港線バイパスの本来計画を記した、失われた平面図の補足としたい。



さて、『東港線高架バイパス計画について』は続いて、計画の技術面における基礎的情報である「設計概要」を記載している。
次に掲載する図が、その全部である。




『新都市』(昭和43年2月号)より

この設計概要は、一字一句でも間違えると意味が全く変わってしまう恐れがあるので原文をそのまま掲載したのであるが、これらの機械的な数字や語句の列記から何が分かるだろうか。

まず最初の項目、延長の内訳についてだが、ここのある「擁壁」というのは、高架の出入口にある擁壁構造の【スロープ道路】を指している。起点と終点2箇所の擁壁を合わせて326.5mなのだろう。
そして「橋梁」とは、【通船川を渡る橋】のことであろう。
残りの高架橋部分が「陸橋」で、973.5mとされている。

現実に建設された高架道路の長さは、現在の支線の全長である1180mから高架構造ではない紡績角〜長者町交差点の120mを除外した1060m程度であり、1400mとの差は340mである。これが未成区間の延長と考えられる。

次の項目は「幅員構成」である。
高架橋全体で5種類の幅員が計画されているが、一番上の行にある幅10mからなる2車線の本線高架「東港線接続部」が、実在しない。
外は、4車線部分、3車線部分、そして上りランプと下りランプ、いずれも建設されており、正確に計測したわけではないが、この設計概要通りの幅を持っていると思う。

本線のうち2車線である部分が建設されなかったということが分かったが、未成に終わった340mは、おそらく全てこの2車線区間だったと考えている。(本来の図-4があればはっきりしたはずだ)

また、現地で私が珍しいと感じた3車線という中途半端な幅員を持つ部分には、「みなと大橋接続部」という名称が与えられていることは大いに注目したい。

右図は現状の高架橋の車線数を航空写真上に記したものだが(ただし2車線部分は建設されていないので想像)、3車線部分に「みなと橋接続部」と明記されているということは、図に緑○線で示したような“みなと大橋へとの接続用のランプウェイを、将来建設することを想定して、東港線バイパスの設計が行われたと推理される。

このような接続用の準備構造が設けられるほどだから、“みなと大橋”は当時既にかなり確度が高い計画と考えられていたのだろう。
もっとも、接続ランプウェイがどこを通って“みなと大橋”と接続するかについては、具体的な情報がまるでないので、想像でしかない。
最も安価に仕上げるなら、現在の市道南1-128号線がある八間堀跡を利用するのがよいとは思うが、あくまでも想像だ。


思わぬところから“みなと大橋”との接続に関する重要なヒントが得られたが、東港線側の準備構造としては、この“イカの耳”(←)が全てであったようだ。

しかし、建設当初からあったこの“イカの耳”は、現在も繋がる相手がないまま存在し続けており、現地では何のために造られたのか分からなかったが(栗ノ木バイパスへのアクセス用と考えていた)、これが“みなと大橋”へのアクセス用に設計されたものである可能性が高いというのは、興奮する。
ただ、この構造だと西行きの1車線分しかジャンクションがないので、逆方向についてはどのようにアクセスさせる予定だったのかなど、謎はある。

上記の幅員構成に続いて、設計概要の最後の項目は「構造」であるが、これについては現状と比較して特記するような違いはないかな。
以上で設計概要のチェックは終わり。


設計概要に続いて、事業費が掲載されていた。
この記事が編纂された段階では、本事業はまだ中途であるから、予算であろう。
曰く、本事業の総工費は15億円とある。

内訳としては建設費が約10億円で、外に用地費1.7億円、補償費1.3億円などが大きな項目となっている。
しかし、既に開発が進んでいる都市部における高架道路の建設の割に、用地費や補償費が占める割合が小さいことは、用地として廃川や廃線跡を主に利用した効用だったはずだ。
ちなみに、後の章で詳しく説明する“みなと大橋”の総工費は約300億円と見積もられていたので、それと比較すると遙かに事業規模は小さかった。

執行年度執行率累積執行率
昭和41年度1%1%
昭和42年度14%15%
昭和43年度18%33%
昭和44年度22%55%
昭和45年度24%79%
昭和46年度21%100%

事業費の次は、「都市計画決定及事業決定」という名目で、各年度ごとの予算執行計画が記載されていた。
内容は右に転載した表の通りである。(原文は割表示だが%表示に改めた)

これを見ると、またしても現実との差異に気付かされる。
当時の計画では昭和46年度内の完成を予定していたようなのだが、市史には昭和49年4月の供用開始と記されていたし、また現地に架かる高架橋の製造銘板にも「昭和48(1973)年3月」と書かれたものがあるなど、実際には2〜3年遅れたことが分かる。
そのうえ、全体の長さの4分の3程度を建設したところで工事を中断し供用開始したのであるから、当初の計画からは大きく遅れたということになろう。

なぜ遅れたのか。
なぜ計画が変わったのか。

残念ながら、本記事がそのことを明かしているはずもない。
だが少なくともこれが編まれた昭和43年初頭頃の段階では、計画変更を予感させるような大きな問題は、現れていなかったのではないだろうか。


大変多くの情報を与えてくれた本記事も終わりが近づいてきた。
いよいよまとめの項目に入ってくる。
東港線高架バイパスの効用と題して、次の6つの項目を列記してある。

東港線高架バイパスの効用

  1. 万国橋山ノ下橋間の通過交通をバイパスさせる。
  2. この通過交通に対しては、中央埠頭臨港線の踏切除切となる。
  3. 山ノ下地区と新潟バイパス、49号バイパスを栗ノ木道路を経由して、大きなパイプで結ぶことになる。
  4. 西新潟と山ノ下地区をみなと大橋を媒体として直結する。
  5. 港湾後背地の道路の利用を合理化し、ひいては新潟西港の合理化に有利である。
  6. この高架バイパスは自動車専用道路であるから、都市交通の能率化に極めて有効である。
『新都市』(昭和43年2月号)より

新たな内容といえるのは、最後の項目だろう。
現状の道路構造からして、自動車専用道路っぽいとは誰もが思うところだろうが、明記を得たのはやはり意義深い。
私は、自動車専用道路になるべく建設された高架橋を、自転車で走破したことが、はっきりした。
こういう体験は、草木トンネル以来だろうか。

最後の最後だ。
この記事の著者である「新潟県計画課長」の役職者(氏名不詳)が、次のような少し長めの「あとがき」を記しているのである。残念ながら計画通りは終わらなかった事業であるが、思いの丈を拝聞しよう。


あとがき

以上で大体東港線高架バイパス計画の概要説明を終えた。この計画はたびたび述べたように新潟市幹線道路計画の一つであり、その先駆として極めて重要な意義を持つものと私は確信している。
この東港線バイパスは41年度より国庫補助事業となり、41年度11400千円、42年45000千円の事業費の投入を見たが、全体事業費15億円から考えると前途には気の遠くなるほどの距離がある。しかし私はいずれ数年のうちには都市計画において爆発的なエネルギーが生まれることを期待し、この事業の一日も早い進行を心から願うものである。
(新潟県計画課長)
『新都市』(昭和43年2月号)より




東港線バイパス建設概要の読破、おつかれさまでした。

ここまでのまとめとして、東港線バイパスの“完成形の一つ”を、ご覧いただこう。

東港線バイパスの完成形は、一つではなかった。

ここで挙げるのは、第一の完成形。
ソースは、『東港線高架バイパス計画について』。
すなわち、昭和43年当時に、昭和46年度末に出現すると見込まれていた、東港線バイパスの完成形である。

(チェンジ後の画像は、比較用に現状を示している)


それではどうぞ↓↓↓




“みなと大橋”に関する部分は、確度が高くない私の想像に過ぎないが(まだ情報が足りなさすぎるのだ)、

東港線バイパスについてはについては、かなり正確に描けた自信がある。

この道路なら、どうだろうか?

皆様のお眼鏡に、かなったかな?

現状よりは、さすがに利便性が高そうだよね。

なんでこの形に着地できなかったんだろうね。昭和43年当時は、順調に行ってそうだったのに…。





本章はこれで終わり、次の章から、“みなと大橋”に焦点を当てたい。