道路レポート 和歌山県道230号高田相賀線 高田トンネル旧道 前編

所在地 和歌山県新宮市
探索日 2015.7.24
公開日 2017.9.19


この探索は、夕暮れ前のちょっとした“隙間時間”(探索にもこのようなタイミングはしばしば発生する)に行ったものだ。
特に事前の計画はなかったが、地図上に「手頃そう」な姿で載っていたので、ミニレポにでもなればいいやという軽い気持ちで夕暮れ時に乗り込んだ。

《所在地(マピオン》

そんな探索のターゲットになったのは、和歌山県道230号高田相賀線にある高田トンネルと下河トンネルの旧道である。
この県道は紀伊半島の南東部、三重県との県境になっている熊野川の畔に位置する和歌山県新宮市相賀(おうが)地区から、同川の支流である高田川を遡り、その源流部を占める同市高田(たかた)地区へ至る(県道の起点と終点はこれと逆)、全長約7kmの“ピストン”(=行き止まりの)路線だ。
高田地区住民の生活路線であると同時に、雲取温泉などを訪れる観光客も利用するが、全体としてはあまり交通量の多くない地味な県道だと思う。

最近の道路地図でこの県道を見ると(→)、全線のほぼ中間地点、相賀と高田の大字境の辺りに、下河と高田という名の2本のトンネルが描かれている。
高田トンネルは結構長く、地図読みで800mは下らない。あまり長くない県道なので、余計にトンネルの存在感が大きく見える。
そして、この2本のトンネルのすぐ傍を併走するように、明らかに旧道と思われる道がはっきりと描かれている。
しかも、下河トンネル脇の旧道には、「下河隧道」という注記がなされた“旧隧道”まであるではないか!
約1.3kmという旧道の長さといい、隙間時間の探索にはお誂え向きな趣だった。

それではさっそく、地図上の「現在地」地点から、探索を始めよう!



(旧)高田隧道との遭遇!


2015/7/24 16:42 《現在地》

既に17時近い時刻だが、夏の日差しはまだ山に隠されることなく、強烈な熱射をもって道路に陽炎を湧かせていた。
ここは新宮市相賀の国道168号分岐地点から、県道高田相賀線を2.5kmほど進んだ地点である。
ここまでの道は完備された2車線道路で、既に相賀の集落は過ぎている。
そして地図によれば、このもうすぐ先から、1.3kmに及ぶ一連の旧道が始まるはずだ。
私は車を駐めて自転車を下ろすと、いつもの出で立ちで探索をスタートさせた。




県道沿いを流れる高田川は、意外に思えるほど川幅が広く、水量豊富だった。
まるで入浴剤を溶かし込んだかのようなエメラルドグリーンの深い水が、音を立てず涼しげに滔々と流れていた。それは半島という言葉のイメージとは一線を画する、紀伊半島の地形的雄大を感じさせる風景だった。

そしてこれから向かう旧道は、この川の流れの畔にある道だ。
現道がトンネルによって隣り合うことを止めてしまった美しい川の景色を独り占め出来そうな予感に、心が躍った。
だが、そんな私の川に対する脳天気ぶりは、この後で思いのほか酷く叩きのめされることになった。



16:45 《現在地》

さてやってきた。
この道へ来るのは初めてだが、強い既視感のある眺め。
典型的という表現以上のものが思い付かない、新旧道の分岐風景である。
もはや説明は不要だと思うが、トンネルを避けて左へ行く道が、今回の探索目標である旧道だ。

トンネルの坑門には「下河トンネル」と刻まれた扁額が掲げられているほか、何かの花のレリーフが描かれていた。
一目見て、現代のトンネルだと分かるデザインだ。
旧道にもトンネルがあるはずだが、どんな姿をしているのか、楽しみである。




下河トンネルの坑門に掲げられた工事銘板もチェックする。(→)

注目すべきデータは竣工年で、2001年2月とある。
つまり、探索日を遡ること14年前に竣工したものであり、これから入る旧道は「14年もの」であることも分かった。
これは想定していた範囲内に収まっており、旧道もまださほど荒れていないだろうと予想した。




旧道は、廃道であるようだ。

現道との分岐地点こそ、舗装も綺麗にされていたが、30mほど入ると敢えなく車止めに遮られた。
しかもなぜか新旧と思われる2種類のの車止めが前後に並んで配置されており、より古そうな奥側の車止めには、新宮市の記名付きで「関係者以外立ち入り禁止」の見慣れた看板が掲げられていた。

とはいえ、あまり熱心に封鎖している感じはしない。
自転車のまま、鼻歌交じりでここを通過して、いざ、廃道である旧道へ!

ここまで全て、目論見通り。




14年前まで県道だったであろう道へ入った。
道幅は1.5車線程度へ狭まったが、ガードレールや舗装はまだまだしっかりしている。
行き止まりの3桁県道だと思えば、これでもそう悪くはない整備状況だろう。
両側からの緑の浸食は激しいが、それでもこの道が藪に覆われるまでには、まだ相当の年月を必要とするだろう。

そしてまだ100mも進んでいないが、早くも前方に、本探索のメインディッシュと目された旧隧道の気配が。
次のカーブを右に折れれば、そこに口を開けていてくれる……
それを願っている。
完全に塞がれていたら、残念引き返しのパターンとなるが、果たして?!




16:47

よっしゃ! 廃隧道ゲット!

しかも、塞がれてなかった。

くり抜いた岩盤にコンクリートを吹付けただけの野趣溢れる坑口だ。
この手の坑口が珍しいとは思わないけれど、やっぱりこの迫力には興奮を憶える。

坑口前は直角に近いカーブになっていて、手前からはトンネル内部が見通せない。
これは現代の道路として目に余る悪線形であり、隧道が廃止されねばならなかった原因の一つになったと思う。

また、素掘隧道の多分に漏れず、扁額は存在しない。ここに隧道名などを知る手掛かりはなさそうだ。



開口に続いて、貫通も確認!

坑口前は酷いブラインドカーブだったが、トンネル内は見事にまっすぐだ。
このようなカーブの配置だけでも、これが明らかに最近のトンネルでないことが分かる。設計が古い。
そして、トンネル内部もゴツゴツとした岩肌の凹凸が続いている。コンクリートの吹き付けは行われているものの、おどろおどろしい印象だ。

さて、この旧隧道の緒元については、二つのデータを持っている。
どちらも当サイトではお馴染みである『道路トンネル大鑑』(昭和42年度末のトンネルリスト)と『平成16年度道路施設現況調査(国土交通省)』だ。
両資料に掲載されている緒元を比較してみよう。

資料名隧道名全長幅員高さ竣工年路線名摘要
道路トンネル大鑑高田隧道160m4m3.7m大正10(1921)年(一)高田相賀線素掘、路面舗装あり
道路施設現況調査高田隧道156m4.2m4.1m昭和30(1955)年(一)高田相賀線素掘吹き付け、路面舗装あり、旧道

以上のように、昭和40年代の資料と平成16年の資料とで、緒元の一部に食い違いがある。
中でも竣工年が異なっていることは注目に値するが、別に旧々隧道がある様子はない。
これは、昭和40年代以降に隧道の拡幅や壁面の吹き付け工事などの大規模な改修が行われた結果であると思われる。
その場合でも、「昭和30年」という竣工年がどこから出てきた数字かという疑問は残るが、古地形図からも(内容は後述)、昭和30年より前からここに隧道が存在したことは疑いがないので、おそらく「大正10年」に、高田隧道は初めて開通したのであろう。
最初の開通後、何度も拡幅改修を受けながら、廃止までおおよそ80年間にわたって使命を全うしたものと思われる。
古い隧道の多い紀伊半島ではあるが、こいつもその一翼を担うに足る、歴戦の隧道ファイターである。

なお、現地にそれを示すものがない隧道名は、「高田隧道」が正しいと思われるが、スーパーマップルデジタルは「下河隧道」という注記を入れている。
また、この隧道の所在地は新宮市大字相賀にあり、大字高田はまだもう少し先である。にもかかわらず高田を隧道名とした理由は、高田の玄関口にあたる隧道だったからという説と、昭和31年以前は相賀も高田も同じ東牟婁郡高田村に属していたので、村名を冠したのだという説が考えられる。



(←)坑口前は非常に広くなっている。スペック的に大型車のすれ違いが出来ない(小型車でもぎりぎりなので実際的に内部での離合は困難だろう)隧道であるうえ、坑口前がブラインドカーブという悪線形を少しでも緩和すべく、広めの待避スペースを用意していたのであろう。

(→)カッパでも出そうな深い淵から始まる、隧道上流の高田川。この先で川は大きく蛇行し、160m先の隧道出口で再会するまでに1.4kmも遡る。ここでの隧道による短縮効果は絶大だ。


それでは、高田隧道いざ参る!



意気込みと共に飛び込んだが、廃隧道としては拍子抜けをするほど、洞内は綺麗だった。
入口に車止めや「立ち入り禁止」の看板があったので廃道なのは間違いないと思うが、地下という安定した環境で過ごす14年は、耐用年数を超えて廃棄されたわけでもなさそうなこの隧道にとって、まだまだ変化を刻みつけられるには短過ぎる時間なのだろう。
とりあえず洞内だけを見ていれば、現役のトンネルと変わっているところは、ほとんどない。

唯一、天井の照明が点灯していないことが、廃隧道らしい部分である。
いずれ、この照明たちが、留め具の老朽化によって転落を始める。それが廃隧道としての最初の目に見える変化になるのではないかと予想する。



洞内は現役さながらだったこともあり、最初から真っ正面に見えていた出口が迫るのには、まるで時間を要さなかった。
出口の光が近づき、その先に現道の姿が鮮明に見えてくるにつれ、私の中には早くも、この一連の旧道に対する、安堵と落胆が混ざり合ったような心境が生まれていた。
このままなら、あと10分もしないうちに残りの1kmほども走り抜けて、探索は終わりになると予想した。

そして辿り着いた高田側坑口は、土砂降りだった。
もっとも、短い隧道を潜っている間に天気が急変したのではない。
出口付近の天井から、コンクリートの吹き付けを突き破って、大量の水が洞内に降り注いでいたのである。
地下水脈の影響だと思うが、出口付近の洞床が一面水浸しになっており、廃隧道の未来を先取りしたような風景だった。

それから、地上へ戻った私が、真っ先に振り返り見た坑口は――



16:50 《現在地》

いいねぇ!

この坑口は、特に素晴らしいよ!!

断面のサイズ自体は先に見た相賀側坑口と変わらないと思うが、コンクリートの吹き付けではなく、
地肌のままの岩盤が、落石防止ネットによってガッチガチに抑えられていた。
しかもその絶壁は、路面から20mくらい上まで垂直に立ち上がっていて、大迫力だ!
大正時代に最初の隧道を掘り抜いた当時から、ここはあまり景色が変わっていなさそう。萌える。

(坑口の上部に白っぽい釣鐘状の部分が見えるが、自然の岩である。蜂の巣かと思ってギョッとした)



坑口脇には少しの余地もなく、高田川の水衝部にあたる険しい絶壁が落ちている。
この位置より右側に隧道を設けようにも、川岸に道を延ばすのが至難であり、やはりここが初代からの唯一無二の隧道位置だったと感じた。




旧道の高田隧道と、現道の下河トンネルが、かなり近い位置に並んで西口を空けている。名前も違えば姿もまるで違う新旧のトンネルだ。
廃隧道の探索としては淡泊だったが、雰囲気のよい古隧道に出会えたのは、大きな収穫だった。



さて、旧道へ入ってまだ300m足らずだが、ここからは後半戦と言っても良さそうだ。
下河トンネルに対応する旧道が終わり、続いてこのまま高田トンネル対応の旧道区間が始まる。
しかし、地形的には既に、最も険しいと思える部分を隧道で抜けている。
さすがに消化試合という表現はあまり好ましいと思えないが、内心そういう気分がなかったと言ったら嘘になるだろう。

なお、地図にもそのように描かれているが、現道の2本のトンネルに挟まれた短い明り区間は、旧道と極めて近い位置にある。
高度的にも同一なので、歩きなら簡単に行き来が可能だが、道自体は接続していないし、現道側はわざわざガードレールでバリアもされている。

だが、これは私の推測に過ぎないが、一時的にここで現道と旧道が接続していた時期があったのではないかと思う。

というのも、現道の高田トンネルの工事銘板を見ると、竣工年が平成17(2005)年12月になっており、下河トンネルより4年も後なのである。
先に下河トンネルだけを部分供用し、その際はここに仮設の渡り線があったと考えた方が合理的だと思う。




16:52

全長833mという高田トンネルを右に見送って、旧道は独り、川の流れる音がする方へ。

今度の区間は、2車線道路だったのか。センターラインが見えてきた。


でも、なんか…… 変じゃない?



え? え? え?!

道は、どこへ?



最新の道路地図や地理院地図にも、この旧道は極めて平然と描かれているのだけど……。



(←)剥がれたアスファルトが板状のまま、アスファルトの路面の上に敷かれている。
まるで、大量の水に押し流されたかのように。

(→)完全にアスファルトが剥がされた道は、路肩どころか、2車線あったはずの道幅の7割以上を喪失し、川面に何の守りもなく晒されていた。




これらは、あからさまな、洪水の痕跡。

当然脳裏によぎるのは、平成23(2011)年8月に日本各地を水災の渦に巻き込んだ、平成23年台風12号のことである。
特に紀伊半島での洪水被害は極めて甚大で、紀伊半島大水害とも呼ばれている。
それは探索の4年前にあった出来事だが、未だ各地で復旧工事が行われているのを見てきたし、荒れたままの谷もたくさん見た。

高田トンネルは、平成17(2005)年に開通しているはずなので、旧道になってから、あの凄絶な水害に見舞われたものと考えられる。
当然復旧など行われるはずもないから、この先の800mの旧道は、いったいどれほど破壊されてしまっているのか……。
計り知れないものがある……。

容易いと思った旧道探索は急転直下。前途は、隧道の闇より濃い暗雲に覆い隠された。



早くもこの先が、嫌な予感に満ちている……。

ぜったい、やばい…。



寸断されてる……!


侮っちゃいけなかったんだ……。