道路レポート 和歌山県道230号高田相賀線 高田トンネル旧道 中編

所在地 和歌山県新宮市
探索日 2015.7.24
公開日 2017.9.21

オブローダー垂涎の廃道“孤島区間”


2015/7/24 16:54 《現在地》

前半戦の状況からは全く予想できなかった、後半に入ってすぐに現れた、強烈な道路決壊シーン。
高田川に面した2車線の道路は、舗装や路肩の擁壁といった道路としての形をあっという間に失って、その進路を狭め、果てた。
この道が廃止されてから時間が経っていたら原因の特定は困難だったろうが、平成17(2005)年という最近までは現役の県道であったことが、並行する現道(高田トンネル)の竣工年から判明している。




目の前の道の状況……これはもう道ではないが……からは俄に信じがたいが、ここは探索の10年前まで現役の県道だった。
しかも、直前までの道路の状況を見る限り、1.5〜2車線の普通の道だ。ことさら“険道”と罵られるような道ではなかったはず。

旧道になってからの10年間の出来事を振り返ってみれば、川沿いの道にこれほどの破壊をもたらした原因は、一つしか思いつかない。
この半島にある全ての川に濁流の地獄をもたらした、百年に一度レベルといわれた大水災、平成23年台風12号による“紀伊半島大水害”




道幅の全幅が完全に消失している長さは、目測で20mくらいだ。

この間は、まるで橋でも架かっていたかのように、そしてその橋が橋台さえも残さず消えてしまったかのように、路面も地面もない。
そのため、現役時代を知らない私には、ここにどんな道があったのかを確言することができない。
それほど激しく破壊されている。
というか、あらゆる人工物が根底から洗い流されてしまっている。




実際のところ、ここには橋があった可能性が高い。

右の画像は、昭和51(1976)年に撮影された航空写真だ。
旧道が現役だった当時のもので、1.5車線の道が川縁にはっきりと写っている。既に舗装もされていたようだ。
そして現在地付近には、道を横断するように谷があったように見える。
橋自体が見えるわけではないが、地形的に見て、橋があったと考えるのが自然だろう。

しかしその橋は、いかなる痕跡も残さず、地上から消え去った。
堅牢な橋台さえも残らないとは、洪水の凄まじい破壊力に畏怖するよりない。



次の一手に悩む場面だったが、最終的に私が下した決断は、自転車をここに残し、身軽な状態で正面突破を狙うというものだった。
自転車を後で取りに戻るのは面倒だが、とてもじゃないが、担いで突破出来そうな現場ではなかった。

自転車に別れを告げ、裸の姿となった岩肌に四つん這いで入り込んだ。
一旦河原まで下りて、それから対岸の岩場をよじ登って、見えている道の続きに復帰するのだ。

道は完全に失われていたが、跡地に1本の太いホースが這わされていた。
おそらくだが、電線などのインフラを収納したものだと思う。
現役であるかは不明だが、被災以降にも人手が加わっているようだ。




降り立った水辺から振り返ると、独り佇む相棒の姿が寂しげだった。

それにしても、現代の道路がここまで跡形もなく破壊されるとは、本当に恐ろしい。
100年に1度の規模と学者も認めた大洪水は、現実にこの渓流を100年前の景色まで逆戻りさせてしまった感がある。

今ここに露出しているゴツゴツとした川岸の岩場は、人が手を加える以前の天然の風景を思わせるものだ。美しいが、道の姿とは相容れない。
人は長い年月の間に、石垣やコンクリートの擁壁でもって岩場を埋め立て、その上に道幅を確保してきたのだが、数日の洪水が全てを取っ払ってしまった。
しかも、水は擁壁を押し流したばかりでなく、遙か見上げる高さにある路面を蹂躙し、そこにあったアスファルトの舗装までをも流失させている。
げに恐ろしき、洪水の破壊力である。



水辺から見上げる、険しい岩場の谷。
これを横断するには、やはり橋をもってするよりなかっただろう。
だが、橋があったとして、その橋桁はどこへ消えてしまったのだ。
コンクリートの巨大な躯体が、荒波に揉まれる小舟のように、いずこかへ流れ去ったというのか。

2011年まではおそらく実在し、2005年までは現役だったに違いない橋だが、姿はおろか、名前さえ知ることが出来ないでいる。
読者の中には、通行した経験を持つ人が一人くらいはいると思うが、何か覚えていることはないだろうか。




同じく水辺から遠望した、進行方向でもある上流側。

とりあえずここから見える2〜300mの区間内には、大きな道の欠落はなさそうだ。また、100mほど先には、堅牢なコンクリートの護岸擁壁が残っているのが見えた。
そしてそこには、中ほどで真っ二つに折れた1本の電信柱が、転落した無残な姿をさらしているのも見て取れた。
擁壁の上の路面は深い緑に包まれており、状況はまるで窺い知れないが、電信柱の惨状を見る限り、この先の旧道も平穏は望めないかもしれない。

次に右の草付きがある岩場を慎重によじ登り、その上にある路面へ復帰した。



16:57 《現在地》

よじ登ってみると、どこにでもありそうな1.5車線の廃道が再開した。
思わず、自転車を持ち込みたい衝動に駆られたが、実際に持ってくるのは難しい。
それに、この先にもどんな崩壊が待っているか分からないのである。ここは大人しく歩きで進もう。

未踏の領域へ向け、前進再開!



一見すれば、取り立てて語る言葉の思いつかない、敢えて言うなら美しい、平凡な川沿いの旧道だ。
だが、路上に散乱する大量の流木の存在が、この川がかつて見せた修羅の表情を、如実に物語っていた。

路上に散らばっているのは流木だけではなく、制汗剤スプレーのような、本来この場所にありそうもない家庭ゴミを含んでいた。
これも恐ろしい洪水の名残と思われる。

この辺りの路面状況は、水位の低下によって地上に現れた、ダム湖の水没廃道によく似ていた。
しかし、隣にある川はダムではない。自然流下の河川の水位が、これほど高まったという事実に、驚きを禁じ得ない。



16:59 《現在地》

決壊地点からおおよそ150mで、道は川縁からほんの少しだけ離れて、植林された杉林へ入った。旧道入口からの距離は約600mであり、一連の旧道の中間地点付近である。

そして、杉林の中の道も決して無事ではなかった。
待ち受けていたのは、道の全幅を覆う規模の土砂崩れである。
山からもたらされた大量の泥が、現場周辺の路上に薄く広がり、一帯を舗装路とは思えない緑の道へ変えていた。
こんな末路を予感したわけでもなかろうが、辺りに集中的に配置されていた落石注意の標識や看板が、なんとも真に迫っていた。




この土砂崩れ跡の突破自体は容易だったが、安息角(崩れた土砂が自然に作り出した傾斜の角度)の小ささが、外見の穏やかさとは裏腹に、大変気持ち悪かった。
安息角が小さいということは、それだけ流動性に富んだ土砂崩れであったことを示している。
確証はないので断定は出来ないが、この大規模な土砂崩れもまた、平成23年台風12号の数日間に発生したものである可能性は高い。

廃止からわずか10年しか経過していない廃道の600mの間に、既に二度も、道を完全に寸断するレベルの崩壊現場と遭遇している。
普通に考えれば、あり得ないレベルの荒廃の進行度合いだった。




土砂崩れ現場の直後は、電信柱よりもさらに高い垂直の崖が法面としてそそり立つ、典型的な難所を伺わせる場面があった。
川の上に道を張り出させるか、トンネルにする以外には、これ以上の拡幅は難しそうな地形であり、結局は後者の選択肢を採って抜本的な改良工事が行われたようである。

そうした決断と工事の実行が、100年に一度の大災害に数年の差で間に合ったことは、この道を生命線として暮らす高田地区の住民にとって、不幸中の幸いであったと思う。整備に関わった関係者には、先見の明があったというべきかも知れない。

杉林を抜けると、道はカーブミラーのある右カーブに差し掛かった。
高田トンネルがショートカットしている川の曲がりの突端であり、旧道の出口までは残り500mである。そしてこのカーブを曲がることで、いままで見えなかった道の行く手の遠望が、一気に開けることにもなった。



さあ、この先はどうなっている?!



あっ!あうっ!



アウトー!!

おそらくゴール直前の辺りで、またしても道は川によって、

手酷くやられちまってることが確定!

近づいてみないとなんとも言えないが……、突破出来るだろうか?



17:06 《現在地》

ゴール前に立ちはだかる大きな障害を目の当たりにして、私は激しい緊張を憶えた。
しかしそれと同時に、いまいるこの場所が、オブローダーである自身にとっては特別に有意義な、世間から隔絶された“本物の廃道”だということが実感され、緊張に負けない興奮と高揚感を憶えた。

私というオブローダーは、なんだかんだ言って、廃道に苦しめられることが大好きだ。その障害が大きければ大きいほど燃える。
こればかりは、少しくらい年嵩を重ねても変わらない、私の核心である。
戦い抜いた果ての道の姿を、誰よりも最後に見届けたい。私はいつもそれを欲望している。

……探索開始からわずか20分強で、こんな自分語りをさせるほどに私を没頭させた廃道は、やはり侮れない。



この少し前から、道幅が2車線分を超えて大きく拡幅されている。
ここまでしばらく大型車がすれ違えない1.5車線の区間が続いていたので、見通しのよいこの場所に大きな待避所を設けていたのだろう。
だがこの場所も、何かが大きく崩れているわけでもないのに、路面は酷く荒れ果てていた。
大小の石が密に散乱していて、まるで河原のようだ。

……まるで河原……といえば、原因は説明不要だろう。

そしてこの山側の法面に、「雲取温泉」の文字と矢印が描かれた1枚の看板が発見されたが、ほとんどシダに埋もれかけていた。
また、その反対の川側路肩にも、私をさらに高揚させるアイテムが発見された!




旧県道に由来する廃道の華、言わずと知れた“ヘキサ”こと、県道の案内標識だ!
旧国道の“おにぎり”も同じだが、廃止された時点でちゃんと回収される場合も多いようなので、見つけられるとやはり嬉しい。旨く表現できないが、賭けに勝ったような気分になる。

“ヘキサ”の内容自体には、何も変わったところはない。設置時期や都道府県によって微妙にデザインや補助標識の使い方に違いが見られる“ヘキサ”だが、これは和歌山県の標準パターン(そしてこれは全国的に最もよく見る)の内容だ。

しかし、平成17(2005)年という最近まで現役の県道だったことを伺わせる“普通さ”が、周囲の惨憺たる荒廃の風景の中では、妙に浮いて見えてしまう。



まるで川原。

それ以外の表現が思いつかない。

こんなに沢山の有り難くない贈り物をくれやがって、高田川のやつ…。



私の目には、路上にある全てが激しい水の影響を帯びているように映った。

散乱する砂利や石塊ばかりではない。
ギョッとしたのが、山側の路肩に立っていた落石防止柵の金網部分。
そこに、高密度すぎてグロテスクに見えるくらいに大量の木っ端がこびり付いていた。
山から路上へ流れ出した濁流に対し、フェンスが濾紙のような役割を果たした結果なのだろう。

この生々しい光景は、5年前の水害の痕跡ではなく、もっと最近のものかも知れない。
いずれにしても、廃止された路上はおびただしい水災の傷跡に覆われていて、今の乾いた路面は苟且(かりそめ)に過ぎないという、過酷な自然環境の存在を物語っていた。
そして、このような土地に道を維持することの難しさも、同時に感じることが出来た。




傾き、あるいは倒れたままの電柱に、垂れ下がったままの電信線。
古そうな手積みの石垣も、無残に崩れたままである。
そして相変わらず、路上には大量の漂着物。

全てが、洪水という災害によって廃止された道路に見えた。
現実には、廃止後に災害を受けて、そのまま放置されているのだと思うが、廃止から被災までの時間が空いていないため、逆であるように錯覚する。
そして、被災した道路がそのまま放置されるという、行政サービスが行き届いたこの国では、滅多に起こらない状況を錯覚する。

災害の風景を喜ぶわけではないが、自然の暴発した威力に興奮するのは、如何ともしがたい。




ゴールが見えた。現道が見えた。

だけど最後に、もうひと難関ヤマだ!


そしてここに、今回の探索で私に 最大の衝撃 を与えた光景が……!