このレポートは、当サイトが山古志(やまこし)を採り上げる最初のものとなるので、ここで少しだけこの山古志という“オブローダーにとって興味深い地域”の概要を説明しておこうと思う。
山古志を端的に言えば、昭和31年から平成17年まで存在していた新潟県古志(こし)郡山古志村の事であり、現在は長岡市の山古志地区と呼ばれている。
ただし歴史的に見ると、山古志村の地域だけが元々「山古志」と名付けられていた訳ではなく、右図に緑色で示した旧山古志村の範囲の南側に接する小千谷市、旧川口町(現長岡市)、旧堀之内町(現魚沼市)、旧広神村(現魚沼市)のそれぞれ一部地域もともに古志郡に含まれ、山古志の総称の中にあった。
ようするに、旧来の山古志地域(主要な村が20あったことから山古志二十村ともいった)の北側2/3ほどが、最近の山古志村の地域であった。
しかし以後のレポートでは特に注釈しない限り、単に山古志といえば旧山古志村の範囲を指すことにする。
右の地図を見て貰えば明らかだが、さすが“山”古志というだけあって、村域は全て魚沼丘陵(越後丘陵とも)の標高200〜600m程度の山岳地帯にあり、しかも全国有数の豪雪地帯である。
村の広さは約40平方キロ(東京都江東区とほぼ同じ広さ)で、そこに合併直前おおよそ2000人が暮らしていた(江東区人口の約1/230)。
名産品としての錦鯉や伝統行事の「牛の角突き」はそれなりに有名であったが、この純山村の名前を全国的に知らしめたのは、平成16年10月に発生した新潟中越地震の最大の被害地域になった事だった。
この直下型の地震で震度6を記録した山古志村では、村へ通じる道路の大半が土砂崩れで一挙に不通となったために、人口の大半が一時期孤立する事態となったのである。
このような事態となったのは、山村の宿命というべきか交通基盤が十分ではなかったからであり、地震当時からこの地域を横断する2本の国道(国道291号と352号)があったものの、一方は土砂崩れで完全に寸断され、他方は元より未開通だった。
冒頭で山古志村が“オブローダーにとって興味深い地域”だと書いたのは、山村という立地条件から考えて交通に対しては熱心だろうという一般論からだけではなく、ここが村民の自営工事による手堀隧道としては日本最長といわれる中山隧道(中山隧道については、「廃道をゆく3」に紹介されています(執筆担当は私ではありません))の所在地であり、他にも同じように手堀で作られた経緯を持つ隧道が村内にいくつもあることが知られていたからで、私もずっと行きたいと思っていたのだが、地震のせいで村内が混乱している状況では探索どころではないだろうと自重していたのである。
だがそろそろ7年が経過し、いい加減大丈夫かなという判断で、平成23年5月に私は初めて山古志の地を踏んだ。
そして、中山隧道はもちろん、楽しみにしていた手堀隧道たちをたくさん堪能した。
ここで最初に採り上げる東(あずま)隧道も、そのような隧道のひとつである。
今回の山古志村探索の最大の目的は村内にある手堀隧道の現状調査であったが、準備期間が長かったこともあり、出来るだけ漏れがないようにと(私にしては珍しく)、事前に目的地のリストアップを行っていた。
その際、廃隧道が期待できるものについては歴代の地形図から抽出し、現役と考えられるものについては現在の地形図はもちろんとして、さらに平成16年当時(地震前)の「トンネル調書」という行政資料から山古志村内のトンネルをリストアップしておいたのだ。
そして東隧道の名前は、この「トンネル調書」に記載されていた。(要するに平成16年当時は現役扱いということ)
記載の内容を一部転記する。
東隧道 昭和9年竣工 全長134m 幅1.8m 高さ1.8m
ここでまず注目したいのは、竣工年の古さである。
有名な中山隧道(全長877m)の竣工は昭和24年といわれているから、それよりも15年も前に完成していた事になる。
もっとも、中山隧道の着工年は昭和8年であり、東隧道が中山隧道の1/7程度の長さである事も踏まえれば、東隧道の着工も同じ時期だろうと考えられた。
いずれにせよ、完成した時期でいえば村内でも有数の古隧道であり、かつ幅1.8mに高さ1.8mという緒元は自動車道として見た時の限界ぎりぎりの数字であるから、手堀隧道とみて間違いないだろう。
このような断面サイズの隧道が、平成16年のトンネル調書にはこれを含めて村内に3本、現役として記載があった。
そしてこのこと自体、山古志村の特異性を私に十分感じさせた。
しかし、東隧道は他の2本の手堀が疑われる隧道(そのうちの1本は中山隧道)と異なり、唯一事前には所在地が明らかでなかった。
トンネル調書にも所在地という欄はなく、頼みの綱の地形図にもこれに該当しそうな隧道は描かれていない。
もちろん、昭和9年竣工ということだから、それ以降の歴代の地形図も一通り目を通したが、やはり合致しそうな隧道は見あたらなかった。
結局、東隧道に関しては現地での偶然の発見を期待するとともに、場合によっては聞き取りをして見つけることにして、「所在地不明」のままリストに載せて現地へ向かった。
山古志村の探索は3日間にわたって行ったが、初日を終えた段階で東隧道は見つからず、その在処につながる情報も得ていなかった。
少なくとも平成16年までは現役扱いであった隧道なのに、村内の主だった道路を走り回っても見つからないというのは、それがマイナーな場所にある事を予感させた。
このままでは未発見で終わってしまう焦りを感じた私は、2日目に中山隧道を探索する途中で立ち寄った小松倉集落(山古志村の南東端にあり中山隧道の工事をほぼ独力で遂行した集落)にて、何となく詳しそうな雰囲気を醸していた、庭先でぜんまいを無心に揉み続ける古老に突撃した。
そしてこの老夫婦こそ村内隧道のマニア神のような人物であり、東隧道の場所も呆気なく明らかになった。
“隧道神”が私の持参した地形図(コピー)に書き込んでくれた東隧道の入口は、右図に示した位置である。→
そこは小松倉集落から西北西へ約2km離れた梶金(かじがね)集落内で、隧道はそこから東側の尾根を越えて芋川支流東川(この川の名前が隧道名の由来かも)の畔に出ていたと教えて貰った。
ただし最近は見に行っておらず現状は分からないというが、西口(梶金集落内)の場所ははっきりご存じだった。
それだけ分かればもう十分!
(実は探索初日、梶金から東川を渡り木籠(こごも)に出る道を自転車で走行していたのだが、隧道には全然気づかなかった…)
なお、“神”は場所を教えてくれただけでなく、東隧道建設の経緯に関わる重要な話もされたが、それは現地レポートの後にまた改めて紹介しよう。
前説がちょっと長くなってしまった。
“神”から教えて貰った場所で見つけた 東隧道の 奇妙な姿 を、まずご覧いただこう!