2011/5/16 13:07 《現在地》
さて、念願の東隧道に到着したわけだが、前回も書いたとおり、かなりインパクトの強い坑口である。
峠の反対側へ抜けるべく掘られた隧道がこれだけ急角度に下を向いているというのは、それだけで異様だ。
「地の底へ下っていくようだ」という形容が、これほど相応しく感じられる隧道もないだろう。
あるいは、「まるで鉱山の斜坑のようだ」といえば鉱山好きには分かり易いかもしれない。
この急勾配には、どんな意味があるのだろうか…?
また、坑門自体も変わった形をしている。
坑門は二段構えで、まずは雪崩や土砂崩れに対する備えとしてコルゲートパイプのシェルターがあり、その2mほど奥に本来のコンクリートの坑門が一段と天井を低めて存在している。
これが奥にある本来の坑門。
この地点より奥が、高さ1.8m幅1.8mという、激狭の隧道になっている。
素堀ではなくコンクリートで巻き立てられてはいるものの、そのせいで余計に狭苦しいというか、圧迫感を憶える感じがする。
特に高さ1.8mというのは蒲鉾形に膨らんだ中央部分を指しているのだが、私の身長に対して8cmしか余裕がない。
実際に入ってみると、自然と前屈みになってしまう。
そうしないと、僅かな地面の起伏や歩行の動作で天井に頭をぶつけそうな怖さを感じるうえに、頭の左右にアーチの壁が接近した状態になるわけで、上手く言えないが耳を濡れた土で塞がれたような気持ち悪さというか、とにかくたいそう居心地が悪い。
それこそ身長180cm以上の人にとっては、耐え難いストレスになるかもしれない。鉄道のガード下が低いのとは訳が違う。地面に穿たれた隧道の窮屈さは別次元のストレスだ。
そして長さは134mあるという。
前屈み状態で、光の見えない地の底へ下っていくという行為は、私を何とも言えない重い気分にさせた。
これこそが、この手の隧道の醍醐味なのかもしれないが……。
そんな隧道だから、一気に奥へ進む気にはならない。
入ってすぐに振り返ると、穏やかな春の光に満ちた地上はまだ手の届くところにあった。
このアングルだと、隧道のものすごい勾配がよく分かるのではないだろうか。
余り比較できる隧道が無いが、急勾配といえばやはり“釜トン”だろう。
あの釜トンと比較しても引けをとらない勾配に見えるが、具体的な数字までは分からない。10%はあると思うが。
釜トンは自動車の通る道だが、こちらはそうではないという違いがある。しかし釜トンも当初は工事用トロッコ用のごく狭い隧道だったというから、案外こんな姿であったかも知れない。
そして、坑門には存在しなかった銘板が、入ってすぐの内壁に設置されている事に気づいた。
もっとも銘板といっても、内壁のコンクリートに直彫りされた簡素なものだが。
縦書きで、「東隧道」。
はっきり言って、隧道を永遠に記念する銘板の意義を思えば、達筆とはいえない文字である。
最近のトンネルでよく見る近隣の小学生に揮毫を依頼した銘板に似ている感じもするが、隧道名の左にごく小さな文字で書かれているのは 昭和十年四月竣工。
まさに村人手作りの銘板といった感じであり、隧道自体が対外的な見栄えを気にする必要のないローカルなものであった事を感じさせる。
なお、事前の情報(旧山古志村のトンネル調書)によると昭和9年竣工ということになっていたが、銘板には昭和10年4月と書かれていた。
しかしこの違いは、あまり重要ではないだろう。
いずれにせよ山古志有数の古隧道である。
また銘板の下辺りまで帯状の土汚れがついていたのだが、最近まで土に埋もれていたのだろうか(上の写真も確認)。
隧道前の道の舗装が真新しかったこととあわせて考えると、案外最近になって大規模な手入れが施されたのかも知れない(これは未確認)。
それでは、頭上を気にしながら、
奥へ行ってみようか…!
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入ってすぐ、今度は銘板があるのとは反対の左側の壁に、
横穴が出現!
屈まなければ覗き込むことも出来ない小さな横穴の正体は?
おそるおそる、首をつっこんでみると…。
そこは、小部屋だった。
隧道内とは異なり壁は素堀のままで、高さはやはり大人の背丈ほど。広さも3m四方程度に過ぎない。
そして、樽やら桶やら壷やらの雑多なものが、壁際に山と積まれていた。
見るからに倉庫として使われていた感じだが、入口の処理を見る限り、当初からある横穴のように思われる。
防空壕を作るには少々時期が早いのだが、やはり倉庫目的だったのだろうか?
中山隧道にも用途不明の横穴が存在するのだが、この横穴も正体が分からない。
隧道しか見えない状態になると、この激しい下り勾配を写真から伝えることはたいへん難しくなる。
あとはもう文章で伝えて、皆様にイメージして貰うしかない。
天井から頭を守るように身体を前屈みにして、その姿勢で下っていくのである。
ともすれば前のめりになりそうな姿勢である。窮屈。
断面形も特徴的だ。
天井はアーチ形をしているが、申し訳程度の欠円アーチであり、垂直の側壁が目立つせいでシルエットは四角に近い。
対する洞床は未舗装で、しかも砂利ではなく土。車両交通には不適な土である。
こんな所からも、歩行者用の隧道であったことを感じさせる。
そして側壁。
昭和10年当時のコンクリートなのだろうか?
銘板が存在していたことを考えれば、おそらくそうなんだろう。
矢板を当てていた模様が鮮明に残っており、所々は地下水の影響などから欠けたりしているものの、あんな大地震の跡にしては大きな亀裂も補修の痕も無く、しっかりしている印象である。
私は常から、隧道というのは地震のとき地盤と一緒に動くから、意外に安全ではないかと考えている。
昭和10年生まれのこの隧道が「震度7」に耐えたとしたら、持論はますます支持される。
天井部分の拡大写真。
矢板を当てていた痕は全体に見えるのだが、右の所にはその模様の上に何か不思議な“しわ”が見えている。
これはおそらく建設当時、打設したコンクリートの養生のため、シート状のものを当てていた痕ではないかと思う。
村民の自営による中山隧道の工事は、主に農閑期(冬)に行われていたそうである。
おそらくこの隧道の場合も同様だと思う(竣工が4月というのもそれを裏付ける)が、だとすると中山隧道には存在しないコンクリートの打設において、極寒期の養生には苦労したはずだ。
結露や氷結を防ぐため、何かのシートを当てていたのだろうと想像できる。
ふと気づくと、左側の壁に一条のビニルパイプ(たぶん電線)が這わされていた。
外にはこれにつながるような電線は見あたらなかったが、撤去されたのだろうか。
…未だ、出口の光は見えない。
既に30〜50mは進んでおり、入口の光もほとんど届かなくなった。
この写真はフラッシュを使って撮影したので、急に色合いが変わっている。
外の光に照らされていると白っぽく見える隧道も、実際にはこのように壁も床も、赤みがかっている。
外からの光が届かなくなったことで、あるものが欲しくなる。
そこで現れた、あるもの。 すなわち照明。
壁に現れたビニールパイプは、その布石だったわけだ。
さすがにこれは後付けのものだろう。
使われている照明は細長い蛍光灯で、錆び付いてはいるが、そんなに古いものでは無い。
この錆びた照明の存在は、隧道がいま現役ではないということと同時に、廃止されたのがそんな遠い昔ではないということを教えてくれた。
ところで、奥へ進むにつれて洞床の両側に掘られた側溝を流れる水の量が、徐々に増えてきた。
更に進むと、壁からの水の滴りが目立って多い20mくらいのエリアに差し掛かった。
いわゆる出水帯というやつだろうか。
壁に残された石灰分の白い模様が、出水の激しさを物語る。
ここだけ、軽く雨降りだ。
こうして隧道内を流れる水が増えると、側溝と歩道部分の分離が曖昧になり、大河の下流のように奔放に流れはじめた。
これだけの水は、当然出口へ流れ出なければならない。
しかし逆にいえば、これだけの水が流れ込んでいても未だ水没していないという事実が、隧道の貫通を示唆しているのではないか。
光も風もない洞内では、私と進行方向を同じくする地下水にさえ、ほのかなシンパシーを憶えた。
…一緒に向こうの地上へ出よう…。
!
これは!
…地震の影響だろうか…。
こんなに綺麗に剥がれちゃってる。
まさに、卵の殻を剥いたようだ。
ここまで来て、はじめて通行に少しの支障を感じる崩壊が現れたわけだが、崩れているのは面白いようにコンクリートの覆工だけで、その向こうに隠されていた茶色い地肌には、少しのひびも見られなかった。
まさに一枚岩である。
そしてその表面には、本来なら永遠に隠されるはずだった、村人たちの生々しい苦心の爪痕…鑿(のみ)の痕が、一面に残されていた。
私はそれを見てしまった。
…グッと来た。
13:11
入洞から4分後。
とはいえ進行はゆっくりなので、まだ100m来たかどうかというところだったが…。
ここで
重大な問題が…。
裏切りだ。
水が、裏切りやがった。
溜まってやがった。
ここまで、次第に増えていく水を黙って見守っていた私に対し、最後はこんな仕打ちが待っていた…。
入口の雰囲気は、閉塞隧道に見えなかったんだが。
それにここに至るまでの洞内も、一箇所崩れてはいたが、閉塞を予感させるほどではなかった。
ただ、いつまで経っても出口が見えなかったので、出口側は封鎖されているのではないかと思っていたが…、結局はこれ。
こいつは、紛れもない廃隧道だ。
閉塞水没廃隧道。
しかし最後にこの場面が出たことで、なかなか上手く伝えられなかった洞内の激しい下り勾配が目視できるようになった。
すごい勢いで沈んでいく隧道の姿を、見て感じて欲しい。
濡れ場…気持ち悪すぎる…。
水際付近はちょっとしたデルタ地帯になっており、本来は洞床を形作っていた土が泥と化して堆積している。
そのため長靴を履いていても足を取られ、とても水の中まで進むことは出来ない。
ただの水没ではないのである。
無理に進めば泥に嵌って、脱出不可能になる危険を感じた。
そのためカメラの望遠を使い、水が溜まった原因であろう閉塞壁を確認した。
水蒸気のためフラッシュ撮影は出来ないので、光量はこれが限界だ。
しかし、この奥に写っているものが土砂なのか、それとも茶色い壁なのかは、目視では判断が出来なかった。
いずれにせよ隧道は天井まで完全に閉塞しており、通り抜けは不可能である。
水は少しずつ抜けているのであろうが…。
頭を下げたままに踵を返し、入口を“見上げる”。
結果がこれでは、もう引き返すしかない。
出口の小さな光は、まっすぐ中央に見えた。
全長134mのうち80〜100mくらいは来たかと思うが、サイズがサイズなのでピンと来ない。
光の見え方からも分かるが、隧道は完全な直線である。
村民自営の工事でありながら、測量は確かな技術に因っていたことが分かるのだ。
あとは気楽だ。
光を真っ直ぐ目指して行けば、この暗く狭く冷たい地の底から生還できるのだから。
閉塞壁の向こう側は、いったいどんな場所なのか。
次回、明らかに。
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