隧道レポート 針ヶ谷坂の明治隧道捜索 前編

所在地 千葉県長柄町
探索日 2018.2.25
公開日 2018.3.09

明治隧道の手掛かりを求めて、峠をゆく 


さて、現地探索だ。
もちろん、時期は冬を選んだ。緑濃い房総の探索は、冬を選ぶのがセオリーだ。
今回の探索の最終目標は、『長柄町史』に存在が示唆されていた“針ヶ谷坂隧道”(仮称)の発見にあるが、出発前に穴が空くほど町史を眺めても在処を突き止められなかったので、ピンポイントに探すことはできない。

また、私がこの針ヶ谷坂を訪れるのは今回が初めてで土地鑑もないので、まずは地図にある道を辿りながら、周囲の地形の機微を観察してみることから始めよう。
基本的に古い時期の道路ほど単純なルーティングであることが多く、地形を見れば自然と道や隧道の在処が絞られてくることが多いと思う。
広大な山域から見つけるのは困難だが、たかだか100mほどの峠なら、このような半分行き当たりばったりでもなんとかなることを期待している。

具体的な作戦としては、机上調査によって推定された「近世以前からの道」(左図の緑線のルート、以下「古道」)を辿ってみることにした。
この道に隧道があるわけではないようだが、町史に「現在の道路より東側の泉谷を通り、トンネルをぬけて権現森の東中腹を通って長柄山に至る」や「明治16年泉谷の先にトンネルをほり、権現森の南に出るものに改め」といった記述があるので、とにかく「泉谷(いずみやつ)」という場所は隧道に近いらしい。
「泉谷」は現在の地理院地図には記載がないが、旧地形図では古道が通る谷にその名が注記されている。

……「泉谷」が怪しいぞ。 取り調べだ!



2018/2/25 14:45 《現在地》

午後3時前の探索スタート。なんでオメーは探索の開始時刻がいつもおせーんだよというツッコミを受けそうだが、忙しいんだよ探索で! 本日はこれが自転車を車から降ろして臨む4箇所目の探索箇所であった。時間があまりないので(常套句)、案ずるより易く隧道が出てくることを願うばかりである。

ここは長柄町針ヶ谷の県道13号(県道147号重複)上で、目の前にある何気ない脇道(矢印)が、針ヶ谷坂を越える古道の入口である。
2車線の県道はこのまま直進し、200mほど先にある大きな青看がある三差路を右折すれば、針ヶ谷坂を越える県道147号の「千葉」方面へ。左折は県道13号の「市原」方面となる。

この景色だけを見れば、現県道は昭和以降の新道のような雰囲気だが、明治36年の地形図に描かれた「府県道」が既に現県道と同じルートであることを机上調査で確認済みだ。
ようするに、ここが明治の新旧道分岐地点ということだ。


おっとこれは!
古道の入口という立地と、四角四面の佇まい。
明らかに近代以降の道標石っぽい。

さっそく間近に寄って見てみると、確かに三方向の道を案内する道標石だった。
それぞれの記載内容は次の通り。

(正面)
☞ 本村立鳥ヲ経テ長南及茂原ニ至ル 【A方向】
☜ 長柄山ヲ経テ浜野千葉ニ至ル 【B方向】
(右面)
☞ 山根ヲ経テ鼠坂方面ニ至ル 【C方向】
(左面)
大正八年七月日吉村青年会泉谷
(裏面) 記載なし


大正8(1919)年に建立されたというこの道標の理解を助けるべく、比較的に近い時期の地図を用意した。右図は昭和19(1944)年の地形図である。

ポイントになるのは、私が針ヶ谷坂への古道だと考えている「C方向」へ案内の内容が、針ヶ谷坂を越えていくものではなく、全く別方向である「山根」から「鼠坂」へ至るものになっていることだ。
針ヶ谷坂を越える道は、現在の県道と同じ「B方向」に「浜野・千葉」へ至るとして案内されており、碑が建立された当時の針ヶ谷坂越えが、現在と変わらないルートであったことを教えている。

期待の道標だったが、目指すブツの尻尾は掴めず。やはり今回の探索、少し手こずりそうな予感がするぜ。




ここが泉谷の集落だ。地理院地図だと「針ヶ谷東部」という味も素っ気もない地名が書かれているから、現在は泉谷とは呼ばれていないのかも知れないが。
その名の通り水豊かな土地であったことが、「角川日本地名大辞典 千葉県」に出ている。近世以前から周辺の村々の田畑まで水を提供してきたらしい。
そんな歴史があるせいかは分からないが、大きな構えの屋敷が多い。街道沿いでもあったはずだが、街村的な景色ではなく、きわめて農村的だ。



14:51 《現在地》

入口から500mほど進んで来たところで、この写真の分岐地点に突き当たった。
針ヶ谷坂への古道は直進の道だが、入口にあった道標の行き先へ通じていたのは、右の道だったと思う。
ただし、最近の地図だと右の道は行き止まりで、道標の通りにはなっていないようだ。

なお、ここにも四角い石碑があり、道標であることを期待したが、違っていた。
正面に「皇太子殿下御降誕 昭和九年●●」などと刻まれており、裏面には碑中最大の文字で「堀口」とだけ刻まれていた。
すぐ近くでも同型の碑を見た(その裏側には「山王」の大書きあり)ので、かつて地区内で競うように建立したのかもしれない。




14:58 《現在地》

さらに350mほど進んでくると、再び道は二手に分かれた。
また、ここまで来ると沿道に建つ家屋も減ってきて、ほぼ集落の外れまで来たことが感じられた。
正面に横たわる稜線中央のこんもりした辺りに、机上調査でしばしば名前が出てきた権現森(海抜173m)があるのだろう。

二手に分かれる道のうち、太い直進の道が針ヶ谷坂への古道を踏襲している模様だ。
道はここまではずっと平坦だったが、ここから一気に左の尾根へと登っていく。この尾根上に県道が通じており、合流して一緒に尾根伝いで針ヶ谷坂頂上を目指す形である。

対して右前方へと通じる細い道は、現在の地理院地図にも、過去の5万分の1地形図にも、迅速測図にも描かれていなかったが、谷の奥まで続いていると予想できる。奥まで水田が広がっているので、耕作道なのだろう。

古道を辿りながら地形の機微を探り、隧道の在処を探すという当初の目論見に従って、ここも直進した。
そして直進後の坂道にかかって間もなく、右側のガードレールが切れた辺り(写真の赤○地点)に気になるものがあった。


それは坂道の路傍に居並ぶ4基の石仏だった。

おそらくだが、これらの碑はもともとここを通っていた古道沿いにあったのだろう。
だが、今この碑の前にある道は明らかに古道の姿ではなく、かなり大規模な改築を受けている。その過程で移設され、あるいはまとめられる形でここに並べられたように見える。
左から2番目の石仏(地蔵)には記年があり、「天明四甲辰年」と読み取れた。天明4(1784)年は浅間山大噴火の翌年で、この噴火を原因のひとつとした有名な大飢饉の最中である。路傍で何気なく目にする碑としては、なかなか古い。他の碑は読み取れなかったが、この地と道に根ざした人々の息づかいの長さが感じられた。

なお、一番右の碑(チェンジ後の画像)だけは、石仏というよりも四角四面の道標を思わせるような形をしていた。この形の馬頭観音なども目にするが、刻まれた文字は見慣れぬもので、正体がまるで分からない。
正面は「卅」という字が1文字目か。右面の1文字目は「峠」のような気もする。探している道との関わりはないかも知れないが、内容が気になるので、“解読班”の応援を要請したい。 →原寸画像

2018/3/22 追記

この道標石かも知れない碑の正体が判明した。 ……道標石でした!
平成2(1990)年に千葉県教育委員会がまとめた『千葉県歴史の道調査報告書十三 大多喜街道』に、現在と同じ状況で路傍にあるこの碑が登場しており、解読がなされている。

旧道を下りきる手前左側に四基程の石造物が祀られ、そのうちの一基が道標である。道標は庚申塔を兼ねたものらしく、正面に「享和■三年 青面金■ 間正月吉日」と彫られ、左側面に「此方 てうな■ おゝたき」と、右側面に「此方 江■」とある。行先表示からみて、原位置は道の右側にあったと思われる。

「長南、大多喜」と「江戸」を行先表示にした享和(1801〜1804年)の道標だったわけである。


…う〜ん。

古道感は薄い なぁ…。

残念ながら、この道はだいぶ変わってしまっているようだ。
綺麗な舗装と、幾何学的な線形と、高い法面によって、現代的な景色になっている。
だが、一点だけ古道らしいと思える部分があった。
それは、勾配の急さだ。
そこだけは、車道になる前の道の特徴が残っているようだった。
この急坂は長さが約250mあり、県道が通じる尾根上まで30〜40mの高低差を一気に駆け上がっている。




更に登っていくと、道はやや深い切り通しとなった。
切り通しの中を右にカーブしながら登っていくが、不思議なことに道幅の3分の1くらいがガードレールで仕切られて使われていない。ここだけを見ると歩道のようだが、明らかにそうではない。
このような造りになった原因ははっきりしないが、落石への消極的対策だろうか。

そして、チェンジ後の画像だが、おそらくこの場所で撮影されたものだと思う。
掲載されていたのはお馴染み『長柄町史』で、「旧針ヶ谷坂(権現森下への道)」とのキャプションがあった。最初に見たときからどこなのか気になってはいたが、多分ここだ。

町史が編纂された昭和58年頃は、このような旧態依然の状態で古道が残っていたようである。
古写真のような道だったら、脇にぽっかり使われていない隧道が口を開けていても不思議ではないと思えたが、現状の景色からは正直、そんな期待を抱くのは難しい。
隧道は、「子供達が「こうもり」をとりにいったりしていた」とあるくらいだから、子供の足で行けないような深山ではなく、こんな感じの場所にあったような気がするんだけどなぁ…。



15:03 《現在地》

本レポートのスタート地点であった古道入口から約1.1km。
隧道に関してはこれといった収穫を得られぬまま、最初に分かれた明治以来の新道と合流した。
道標のような目印になるものは何もない、平凡な丁字路だった。

右折して峠の頂上方向へ進路を向けると、2車線幅の見通し良い道が続いていた。
舗装の状態も良く、交通量も地方の3桁一般県道にしては多いと断言できる。
歩道がない中で、周囲の地形をきょろきょろと観察しながら自転車を漕ぎ進めるには、なかなか気を遣わされる交通量だ。しかも車の速度がかなり速い。
明治以来ずっと一線で活躍してきただけあって、交通すること以外の余興を許さなそうな空気感があった。(あと、残念ながら路傍のゴミが目立つ)




15:09 《現在地》

合流地点から200mほど峠方向へ進むと(この間にも一度、自転車を路上に止めて路外の藪に頭を突っ込んで見ているが収穫なし)、山側にコンクリートで固められた法面が立ち上がり始めた。麓からここまで尾根上を辿ってきた道が、権現森を頂点とする尾根の急激な上昇に追従を断念し、脇の山腹へ妥協することを選んだ場面だと表現することができるだろう。

だが、歩行者を相手にしていた古道なら、こんな妥協を選ばなかったのではないか。
ここまでにも一度は強烈な上り坂があったし、このまま尾根へ進んだのではないかという、経験則から導かれる予想があった。
それに何より、事前に見た明治36年の地形図明治16年の迅速測図にそのような道が描かれており、それこそが古道であると判断していた。

正直、この路上から見た景色だけでは、とても右側の藪の中に道があるようには見えなかったのだが、いちおう中を覗いてみることにした。
あまりに藪が濃いため、道があって欲しいとは思いつつも、ここではない方が助かるなという、複雑な気分だった。



あるよ… 道だこれ…。

古道というには幅の広い、明らかに岩場を人工的に削って作り出されたらしき細長い平場。
それがまさに思い描いた通り、県道法面の上昇に合わせるように登りながら、藪の向こうへと続いていた。

この廃道状態の道を見て真っ先に脳裏によぎったのは、この先に件の隧道が眠っているのではないかという、期待感だ!
だが、おそらくそう単純ではないだろう。この道に隧道があるなら、歴代地形図に描かれていても良いし、
短すぎて描かれなかったというような理由があったとしても、私の推測ではこれは近世以前からの古道であり、
明治16年から大々的にトンネルを含む新道として建設された道ではないはずなのだ。

個人的な興味の対象としても、近世以前の古道は、近代以降の廃道より劣る。
それだけに、この見るからに猛烈な藪に飛び込むことには躊躇を感じた。



でも飛び込むのだ! …と、思いきや、飛び込まないのだ。

今回は時間があまりないこともあるので、間違いなく時間を費やしそうな激藪の古道を調べる前に、舗装された現道(繰返しになるが、明治新道である)で一通り峠を走って、広い範囲に目を向けたい。もしかしたら(可能性は低いだろうが)、この現県道沿いに目指す廃隧道が存在している可能性もある。

明治以来の現道は、さすがに細かな線形改良を多数受けてきているようだ。
写真の場所はカーブの外側に封鎖された大きな半月状の空き地があり、明らかに旧道敷と分かる。
カーブを緩くするために、左の谷に盛り土をして道をずらしたに違いない。
この封鎖された旧道敷にも足を踏み入れてみたが、隧道やそれに繋がりそうなものは見当たらなかった。




これは次のカーブ。
今度は左の谷側に広い旧道敷が取り残されており、対する山側は相当高い切り取りになっている。
あらゆる“車”が非力な肉体動力であった明治の頃は、全体的にもう少し緩やかな道であったと思うが、同じ道を百人力の自動車が活躍するようになって、それに見合った姿に変貌してきた。

この封鎖された旧道敷は谷側が崩落しつつあるようで、土嚢が積まれて物々しい光景になっていた。
谷の向こうに横たわっているのは、この道が登ってきた細長い尾根である。
自然の地形を上手く生かして緩やかな峠道が造られている。
そこには、いまいち隧道の介在する余地を感じない。 …困ったな。



お! これが最後の登りだな。
ラストスパートという言葉を連想させるような風景だ。切り通しの急坂の先に、峠を知らせる勾配の変化と景色の広がりが見える。
針ヶ谷坂の頂上は、間もなくだ。

ここの路面に、懐かしい「40高中」の道路標示が残っていた。
平成4(1992)年の法改正まで道路交通法に定められていた車両の種類(高速車、中速車、低速車)ごとの最高速度制限の名残である。
この「40高中」という標示の場合、高速車(法定最高速度60km/h)と中速車(同50km/h)の最高速度は40km/hに制限され、低速車は法定最高速度が30km/hなので、そのまま最高速度30km/h制限だった。




15:17 《現在地》

海抜100mにて、針ヶ谷坂の頂上へ到達。
昭和30年の長柄町誕生までは、日吉村と長柄村の村境だった。
なお、峠の名を知らせるようなものはどこにも見当たらない。針ヶ谷坂という名前も、町史を読まなければ知らないままだったろう。

さて、峠道における隧道の在処としては、その頂上が最も頻出の場である。
だが、この針ヶ谷坂の頂上には、あまりピンとくるものがない。全体的に起伏が緩やかで、明瞭な鞍部でもないからだ。それでもここに隧道があったとしたら、とうに開鑿されて消滅したというオチだろう。昭和58年編纂の町史に「トンネルは現存する」とは書かれそうにない。


峠を越えた県道はそのまま緩やかな下りに転じるが、峠の頂上から北に2車線道路が分岐している。
案内標識に「千葉市少年自然の家」という行き先が表示されているこの新しげな道は、先ほど【激藪に消えていく姿】を見送った古道の続きに繋がっている可能性大。

探している隧道は間違いなく峠の南側にあるはずなので、ここで引き返すことにする。
しかし、ただ来た道を引き返したのでは、これまでの成果の薄さを覆すような進展はなさそうだ。
まだ探していない領域へ果敢に足を踏み入れる必要があるだろう。

…あの激藪の古道から逃れることは、どうやらできないらしい。
折り返して、後半戦へ。




探索スタートから30分あまりを経過した現在、隧道に関する成果は皆無と言って良い。片道を終えてのこの状況に、少なからず焦りを感じ始めている。日も傾いてきた。
もしここにちょうど古老が通りかかったりしたら、躊躇いなく教えを乞うただろうが、それをするなら最初から集落でやれという話で、峠の頂上に古老なし。

今いるこの道は、針ヶ谷坂の古道を上書きする形で付けられていると思うが、県道の頂上からさらに登っている。
かつての峠の頂上は、県道の頂上よりも権現森にさらに寄った高い位置にあった。
しかし、残念ながら古道の風情の欠片もなかった。


15:19 《現在地》

「少年自然の家」へ通じる道に入って200m進んだ地点で、分かりにくい分岐が現れた。
歩道の縁石が切れているので、辛うじて分岐だと分かる。
GPSで現在地を確かめると、確かにこの辺りから右へ古道が分かれていると思われた。

なお、舗装路はこのまま登り続けているが、古道はここから県道方向へと下っていくようだ。
すなわち、この辺りが古道時代の針ヶ谷坂頂上ということになるのだろうが、正直言って、美味じゃない。

ここからの古道探索で、なんとか楽しくさせて欲しい。
そのための一番は、隧道があることだ! あってくれ!



つ!

つまんなそー… (←言っちゃた…)


大丈夫かこれ? ボツネタじゃないの?!

実際、レポートになるかどうかを考えながら探索しているけど、
当初の期待値の高さに較べて相当の低空飛行が続いており、そろそろ心配になってきたぞ。
せめて、隧道があった痕跡くらいは見つけたいが…。 ←余計なフラグ立ってない?




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