国道49号 本尊岩隧道 再訪編  

公開日 2022.09.11
探索日 2014.09.26

 国道の大役を終えて封鎖された本尊岩 〜廃止翌年の再訪〜 


明治17(1884)年の会津三方道路の開通以来、長らく列島横断の幹線国道が土手っ腹を貫いてきた、阿賀野川右岸にそそり立つ巨大な岩峰の名が本尊岩(ほんぞんいわ)だが、平成25(2013)年3月30日をもって、おおよそ130年ぶりに車通りが止んだ。

昭和53(1978)年度の事業開始から、実に35年もの月日を費やして行われた一般国道49号揚川(あげがわ)改良事業の全線開通と引き換えに、岩の前後約4km区間の従来の国道は即日全面通行止となり、以来令和の現在に至るまで、一度も一般には解放されていない。 (参考:開通と封鎖を伝える記事

本尊岩が近い将来に大規模崩壊を起こすという危険性が予見される中で、致命的な道路災害を予防するべく、急ピッチに進められてきた揚川改良事業であったから、決して崩壊の危険自体が去ったわけではない本尊岩へ近づく旧道を残す選択肢は、たぶんなかったのだろう。
もっとも、国道と並行していたJR磐越西線の線路については、現在も同じ場所に据え置かれているが。

右図は、平成22(2010)年と令和3(2021)年の道路地図帳「スーパーマップルデジタル」の画像を比較したものだ。
図の中央の「本尊岩隧道」を通っていた国道が綺麗に消えている。
代わりに、川の南岸に長大トンネルを持つ現国道が出現した。
私がこれまでに探索した廃止旧道として、平成25年廃止は一番新しいかもしれない。しかも、実際に探索したのは平成26(2014)年9月26日だから、廃止から約1年半しか経過していない時点だった。

もっとも、本稿は普段のように、旧道の模様を逐次細かくレポートするものではない。
未だにグーグルストリートビューで現役当時の車窓を自由に見ることが出来る、それほど新しい廃道の些細なレポートをしても、新発見はあまり期待できないし、そもそも私自身が現役時代に何度も通っていて知ってしまっている道である。

本稿の主題は、このレポートの前回の主役だった、道路脇にある “あの穴” を探る活動の続きだ。
この3度目の探索によって、小さいけれども重要な新発見があったので、それを伝えたいというのが、本稿の主な内容である。


少しだけ復習するが、“あの穴”とは、本尊岩隧道の東口の横に口を開けていた、幅2m、高さ1m、奥行き1〜2mほどの小さな半円形断面をした謎穴のことである。

そこへ行くためだけに、国道の橋(芦田橋)のすぐ隣に1車線だけの細い謎橋が架かっていた。銘板もなく名前の分からない橋だった。

(→)
謎橋を渡ると、直ちに謎穴だったが、橋の路面と穴の洞床には50cmくらいの段差があり、橋の方が高かった。
この接続とも言えないような不可解な接触も、この橋と穴が普通ではない点だった。

狭い穴の内壁は鋼製セントルで巻かれており、奥の壁(切羽)にだけ未掘削の岩盤が露出していた。
また洞内には、岩盤の変位を計測する機材らしきものが取り付けられていた。

この謎穴と謎橋の存在には、平成18(2006)年6月25日の1度目の探索の際に気付き、穴の内部まで探索している。
当時既に本尊岩の崩落が懸念されていて、大規模な岩盤保全工事および大量のセンサーによる常時モニタリングが行われていたので、穴の正体についても、岩盤に直に変位計を取り付けるための場だと予想した。なお余談だが、現地で出会った警察官が、大崩落が起こるかも知れない本尊岩隧道を指して、「日本一危険なトンネルだ」と口にしていたことは、忘れられない想い出である。


探索当時、確かに穴は変位計の設置に利用されていたようだが、穴が作られた本来の経緯が全く別のものであったという“真相”へ辿り着いたのは、平成19(2007)年5月9日に行った2度目の探索のときだった。

この探索はテレビ番組のロケに参加したときのもので、現場に立ち会ってくださった国土交通省北陸地方整備局新潟国道事務所の担当者の方が、私の質問に答える形で、穴の正体をズバリ教えて下さったのである。
その内容は、当時の私には思いつかないもので、本当に衝撃を受けたのだが、曰く――

本尊岩隧道の断面を拡幅する工事が中止された跡だというのである。

昭和39(1964)年に開通した本尊岩隧道(明治以来2代目の隧道だった)は、最後まで、幅5.5m、高さ3.9m、全長40mという規模であった。
これは、列島を横断していわき市と新潟市を結ぶ、磐越両国の物流大動脈である国道49号の膨大な交通量に対しては、圧倒的に断面の大きさが足らず、歩道もなかった。
したがって、正確な時期は不明ながら、隧道の拡幅が計画されたことは必然であったのだろう。

謎の穴の正体は、本尊岩隧道の交通を出来るだけ遮断せずに拡幅工事を進めるために準備された、掘りかけの側設導坑であったらしい。
証言を裏付けるような文献や図面は未発見なので、以下は私の想像も少し含まれるが、計画されていた拡幅工事の流れとしては、まずこの側設導坑を本尊岩隧道の全長に沿って掘り進め、次に既存の隧道との間にある壁を取り払って、新たに両者を合わせた幅(すなわち10m程度)を有する大断面の“新本尊岩トンネル”を誕生させるつもりだったのだろう。
両側を川と鉄道に挟まれ、隣に新しいトンネルをゼロから建設する土地の余裕がない状況で、従来のトンネルを上手く生かして拡幅しようとしたのだと思う。

ただ、詳しい事情は不明ながら、拡幅工事は途中で中止され(経緯は後ほど考察したい)、やがて本尊岩隧道自体が廃止されてしまったのである。
まさしく、徒花。いや、“徒花のつぼみ”とでもいうべき、決して実らぬ悲しい未成遺構だったわけだ。

以上が、“謎の穴”に関して、これまでの2度の探索で把握した内容の復習だ。
とにもかくにも、2度目の探索で得た関係者の証言は真に値千金であって、これがなければ未だ真相には辿り着けていなかったろう。


さて、本稿は3度目の探索だが、前述の通り、本区間が廃止された翌年の平成26(2014)年9月26日に行った。
完全封鎖済みとはいえ、まだ経過した日数が浅く、廃道探索としての醍醐味は薄い。
だが、以前は止むことがなかった車の列が消えたおかげで、“謎の橋”について初めて気付けたことがあったので、その辺りを中心に紹介したい。


右図は最新の地理院地図に見る旧道の一部だ。
この「現在地」の位置から、「本尊岩隧道」を目指して探索をはじめる。

図の右側に見切れているすぐ外側に新道(=現道)との交差点があり、その辺りが阿賀町の中心市街地である津川地区である。
そこで分かれた新道と旧道は、阿賀野川の左岸と右岸に分かれて進んでいき、最終的には図の左端のもっと先で、新道経由約7km、旧道経由約8.5kmにて合一する。

ただし、先に見てもらったスーパーマップルと同じく、地理院地図でも旧道は途中で完全に消去されている。
抹消された区間は、単に封鎖されているだけでなく、道路法上の道路としての供用を廃止されている=法的に廃道であることを明示しようとしているのかもしれない。
いずれにしても、廃止からわずかな時間で、地形図がこのように大胆に書き換えられ、そこに誕生したのが、あまり見ることがない、“国道の行き止まり”という地図風景だ。

国道好きの方なら意識したことがあるかも知れないが、地図上で国道の表記が(その先に点線すらなく)途絶える場所は、案外に少ない。
多くの国道の端は他の道路と繋がっている。例外は海にぶつかって終わることが多い海上国道や港国道だが、いわゆる国道の未開通区間の末端でさえ、大抵は徒歩道とかに繋がって描かれている。

にもかかわらず、この本尊岩の旧国道は、両側ともぷっつりと国道表記の道路が途絶えている。
旧道となった約8.5kmのうち、中間部分約4kmの表記は抹消されているが、前後にある行き止まりの旧道は、未だ国道指定を解除されていないようで、そのためこのようにぷっつりと国道が行き止まる地図風景を見せてくれる。

なお、あくまでもぷっつりと切れているのは、地図風景の話だ。
実際の風景がどうなっているかは、たぶん皆様の想像通りであるが、これから紹介していく。




2014/9/26 6:13 《現在地》

新道と旧道が分岐する阿賀町津川の芦沢交差点から、前回来たときにはまだ現道だった、旧道となって1年半しか経っていない道を、自転車で進むこと約1.7km、初めて「通行止」を予告する大きな案内板を目にした。

分岐からこの地点までの旧道は、青看によって「津川駅」と「津川温泉」が行先として案内されている(以前はもちろん「新潟」などの遠くの地名が案内されていた)が、ここに来るまでに津川駅前を過ぎ、さらにこの写真の地点の直前にある津川温泉の入口を無視して旧道を直進したことで、とうとう案内すべき行先がなくなり、初めて「この先2.6km 通行止」の予告が現われるようになっている。




上記の通行止予告のすぐ先に、巨大な道路情報電光掲示板があるが、消灯している。
またその支柱には、国道49号を示す道路標識、“おにぎり”が誇示されている。
元一級国道を現わす二桁の番号には特別感があるが、この先は行き止まりだ。それでも国道指定が継続していることを、この標識の存在が物語っている。

なお、新道が開通するまで、この先の国道には連続雨量150mmの事前通行規制区間指定があり、前述の電光掲示板をはじめ、封鎖ゲート、信号機、サイレンなどの物々しい設備一式があった。
設備自体は現在も残っているようだが、これらはもう二度と使われることはないかも知れない。



大河と呼ぶのに相応しい川幅と水量を持つ阿賀野川。その右岸は旧道の独擅場で、角島、京ノ瀬、大牧の各集落が、本道を唯一のアクセスルートとして存続している。
冒頭の通行止予告の地点以降だと、京ノ瀬と大牧の集落があり、写真は前者だ。

ただ、当然のことながら交通量は激減している。10分の1や100分の1どころではなく、おそらく1000分の1以下だろう。津川温泉入口を過ぎれば、あとは京ノ瀬と大牧という小さな二集落へ行くだけの道だ。
交通量の減少を受けてのことだろうが、以前は橙色だったセンターラインも、白色に敷き直されていた。
たぶん、本来なら県道になることさえ難しい利用者数だろうが、未だに国道49号の指定を継続しているのは興味深い。

旧道となった後も国道の指定が継続されるケースは各地にみられるが、それは旧道に引続き多くの利用者がある場合、新道が全線開通ではない場合、新道が自動車専用道路であって歩行者等が引続き旧道を通る必要がある場合などに限られるのが普通だ。上記いずれのケースにも該当していないと見えるこの旧道の国道指定が未だ解除されていないのは不思議だった。
これについては机上調査をしたので、後述したい。




そして、新旧道分岐地点から約3.5kmで、旧道最奥の集落、大牧に達する。

冒頭の写真の地点からだと、約2km進んでいる。予告された封鎖まで残り600mだ。


ここまで来ることで、初めて見えてくる。



6:24 《現在地》

虹の祝福を受けた関門、本尊岩!

もちろんこれは偶然の巡り合わせに過ぎないが、凄いタイミングで、凄い位置に虹が架かった。

本尊岩から、対岸にある経岩へと、天の架橋の御技(みわざ)を披露された。

あの虹の元に、永遠の眠りについた国道が横たわっている。



さすがに、これほど特別のもてなしを受けるとは思っていなかったので、
思わず感無量になってしまって、しばらく立ち尽くしてしまった。
幸い、邪魔をする交通はほとんどない。稀に軽トラが通るだけ。

どうやら私は、本尊岩には愛されていたようだ。
その愛を自覚するのに、やや回数を要したが、このもてなしは愛しか感じない。



6:27 《現在地》

最奥の大牧集落も、終わりに近づいてきた。
集落の西端に近いところに少し上り坂があり、その頂上には、路上からとてもよく見える多賀神社がある。

この門前の路上に、結果的には最後通告であった2度目の通行止予告の看板があった。「この先500m 通行止」。
2車線にしては十分に広い、元一級国道らしい立派な道幅が下にあるので気付きにくいかも知れないが、先ほどの予告看板も今度の予告看板も、とても大きい。
そんな大きな看板に書かれている内容が、二度と解除するつもりもなければ、もちろん看板を付け替えるつもりもない、永遠の通行止予告というのが、この道の現実である。

また、この看板の太い支柱には、再び国道の標(しるし)があった。
いよいよ通行止目前だが、曲がりなりにも集落があるおかげで路上は完全に保たれており、交通量は極端に少ないが、景色は立派な二桁国道のそれを維持していた。


この写真は比較のために掲載した、2006年の1回目の探索時に撮影した同一地点だ。
路上の車列から、二桁国道に相応しい交通量の多さが伝わるだろう。
多賀神社の神さまも、今はやっと喧騒を離れて集落の鎮守に専念するようになって、ホッとしておられるかも知れぬ。

なお、現在は通行止予告が掲げられている標識柱には当時、「これより4.5km区間 連続雨量150ミリになると通行止」という、事前通行規制区間の始まりを告げる内容が掲げられていた。
標識板は取り替えられたが、支柱に取り付けられた“おにぎり”は、変化していない。
ちなみに、手前に写る「いわき市から192km」のキロポストも健在だった。

多賀神社を過ぎると、道は下りに転じ、沿道にぽつぽつと数軒の民家がある。
そこが本当の集落の外れであった。




大牧集落を外れたところには、対岸の赤岩地区との間に相当昔に架かっていた昭和橋という吊橋の跡がある。
写真はちょうどその袂の位置から進行方向を撮影したが、150mほど先に道を塞ぐ障害物が見えている。

百数十年ぶりに復った沈黙が、この先の谷の支配者だ。

これより奥は、いよいよ阿賀野川峡谷である。飯豊山地と越後山脈を分けて、
会津の水の大半を日本海へと押し出す天与の開水路がここにある。
そして峡谷の中枢には、頂部を雨雲に隠しながら、下半に雲間の陽光を浴びる本尊岩が、
塞がれ終えた道を、なお執拗に塞ぐようにして聳えている。その岩根に見える赤いトラスは、
本尊岩隧道の入口にある芦田橋であり、今の目的地だ。



最後は特段新たに用意された転回所のようなスペースもないままに、

国道49号の秘められた小さな終点へ達した。

この先は、地図から完全抹消された道。

世界を隔てるフェンスはビックリするくらい新しく、そして、高かった。




 静寂に包まれた本尊岩での小さな新発見


2014/9/26 6:31 《現在地》

これまで二度、大きな看板で予告された距離の先には、この巨大なバリケードが築かれていた。よく見る造りのフェンスバリケードだが、見慣れたものの倍くらいの高さがあり、立ち入りを阻止したい強い気持ちが伝わってきた。
チェンジ後の画像のように、下が水面である川側に大きく張り出していて、私の常套手段である回り込みを許さない構えだ。

(→)川側がそうならば、山側もこんな有様。
密林の急斜面にぴったりと高いフェンスが寄り添っていて、こちら側も突破を許さぬ構えである。
なお、この上には線路があるが、藪が深くそこまで行くのも難しい。

……ん? 写真に変なものが写っている? 気にしてはいけないな。

この鉄壁ぶり……さすがは、“現役の二桁国道”の本線を直接封鎖しているバリケードといったところか。
もしも飲酒運転の大型トラックが全力で突っ込んでも、この太い支柱を2本ともへし折って進むことは出来ないだろう。

そして、ここから「通行止」であることと、その理由を説明する国交省管理の看板が、フェンスに直接取り付けられていた。
「この先落石等の危険につき立ち入り禁止」と、無難なことが書かれていたが、経緯を考えれば、この先約1kmの地点に鎮座する本尊岩の崩壊の危険性が、封鎖の直接原因に違いあるまい。
その近くまでは大きな危険が路上に差し迫っているとは思えないが、沿道に集落もない行き止まりの道を、コストをかけて維持したくないという思惑もあって、ここに封鎖ゲートが置かれたのだと思った。

(わるにゃん。)


6:41

封鎖区間内部へ突入!

風景への感想は一言。

車がいないだけで、まだ風景は現役国道そのものだな。

おそらく、オブローダー的な探索の旨味や撮れ高というものを重視するなら、最低あと10年は“熟成”させてから訪れると良いのかも知れないが、私は今回、新道が開通したということはニュースで把握済みだったが、旧道の封鎖状況については情報を持たず、軽い気持ちで行った立ち寄りの探索だったので、時期なんてことまでは配慮できなかった(笑)。

しかし今回は自転車を連れてきているが、この状態の道路を走るのには最高の相棒だ。
このリッチなスペックの国道を完全な貸し切り状態で走り回れる。常に高規格な道路の独り占めを愛する私にとっては、なんとも幸せな状況。




現役時代にはとても許されなかった、オレンジのセンターラインを気ままに踏みながらの快走。
やがて、釣鐘にも喩えられよう険しくも優美な曲線を誇る巨大な岩峰が、カーブの向こうに現われる。
平成19(2007)年以来、7年ぶりとなる本尊岩との再会は、かつてない静寂の中にあった。

なお、写真には本尊岩よりも奥の道路も写っているが、見える範囲は全て封鎖済みの旧道区間内だ。
この阿賀野川の峡谷は、明治初期にイザベラバードが舟で辿った記録もある歴史ある“峡路”だが、
昨年以来、約130年ぶりに陸路による接近手段が消えて、明治初期の状況に戻っている。

人の姿が消えた本尊岩に、私は一人、戻って行こうとしている。




6:44 《現在地》

本尊岩隧道前に着いた。

9年前の最初の探索は、この右側の駐車帯にワルクードを置いて行った。(写真

封鎖されて1年半という時間が経過しているが、驚くべきことに、
現役当時の道路風景を形作っていたあらゆるものが残されていた。
道路そのものはもちろん、その付属物である道路標識、電光掲示板や非常電話
といった道路防災施設、そして不幸にも本尊岩に崩壊が発生した際には、
即座に警報して同時に道路を封鎖するための物々しいゲートも、そのまま。

すぐにでも国道としての第一線利用を再開できそうな設備がキープされているが、
その一方、赤いトラスの芦田橋の袂に簡易な車止めが増設されているほか、
一連の道路封鎖に繋がる諸悪の根源となってしまった本尊岩隧道に関しては、
厳重な封鎖ゲートが追加されて、ここまで来た人間を、もう一段階厳しく拒絶していた。



チェンジ後の画像のウルサさよ(笑)。

2世代“プラスα”の道路と1世代の鉄道が、眼前の狭い範囲で本尊岩の土手っ腹をぶち抜いていた。
それに機嫌を悪くした本尊岩が崩壊を始め、遂に道路を立ち退かせたというストーリーを連想するが、本当に隧道の掘削や、交通による振動が、崩壊を早めた犯人であったかは分からない。そもそもこの手の岩盤は自然と崩れるものだからだ。

しかし現在も貫通している隧道は、道路と鉄道の各1本ずつだ。
三島通庸の計画によって完成した初代・本尊岩隧道は、2代目の本尊岩隧道が整備された後(正確な時期は今もって不明)に封鎖され、現状はコンクリートで密閉された坑口跡が、落石防止ネットの向こう側に、近づく術なく残るのみである。詳しい状況は初回探索を見て欲しい。おそらく地下の空洞も密閉済みだろう。

そして“プラスα”にあたるのが、正面の“謎の穴”だが、その正体は本編冒頭で復習したとおり、2代目道路トンネルの拡幅工事用導坑であった。
しかし、おそらく掘削開始から間もない時点で工事が中止され、結果ほとんど奥行きのない穴として残った。
“謎の橋”は、“謎の穴”に通じるためだけにある1車線の道路橋で、経緯から見て工事用道路ということになろうが、これに関して、今回の新発見があった。



6:45

左右の親柱を結ぶ位置に車止めが設置されたほかは、往時と変わらぬ姿を見せる芦田橋。

位置的に分かると思うが、これは本尊岩隧道と同時に整備された橋で、昭和39年の竣工だ。それまでは山側にあった初代隧道と橋が使われていた。

昭和36(1961)年、東北電力は現在地の約3km下流で阿賀野川を堰き止める揚川ダムを着工し、38年にこれが完成すると、ダムから津川付近までは湖面となって大幅に水位が上昇した。
旧道も一部が水没し、その公共補償として、湖畔の国道が大々的に整備されたのであった。
なお、この道路整備が進められていた昭和38年に、それまで二級国道115号新潟平線だった本路線の重要度が認められ、一級国道49号へ昇格している。

この橋と隧道は、まさに国道49号と共に誕生した無二のパートナーであり、廃止の道行きまで共に歩いた。

(→)
着雪防止用の尖りが格点に取り付けられた、雪国仕様のトラス橋。
その天井を透かして見る本尊岩の切り立った先端には、交通が止む最後の日まで活躍していた、岩盤の変移を常時モニタリングするセンサーへ通じる工事用通路が見えた。
撤去せずそのままになっているようだが、このままだとやがては雪の重みに耐えきれず、あるいは風化によって、倒壊することだろう。



↑この写真に、“新発見”あり!

あなたが気になる部分は、どこですか?

私が気になったのは、ここです! ↓



隣の“謎の橋”の床板からこちらへ突出する、たくさんの鉄筋。

これは、将来的に構造物を継ぎ足して一体の強固な構造物を作るための準備、継ぎ手だと思う。

反対側の側面にこのようなものはないことを確認済みで、こちら側にだけあるのは不自然だ。



以前からこの“謎の橋”については、コンクリート製の床板の存在などから、いまいち工事用の仮設橋らしくないと漠然と思っていたが、もし私の見立てが正しければ、“謎の橋”の秘めたる計画として、“謎の穴”を活用した本尊岩隧道の拡幅により仮称「新本尊岩トンネル」が完成した際には、現状の橋が横に継ぎ足されて、芦田橋を完全に置き換える、新たな仮称「新芦田橋」の一部になる予定だったのではないだろうか。

この大胆な推測については、現在まで机上調査の成果はなく、資料的裏付けは取れていないものの、本尊岩隧道の現道拡幅には、芦田橋の拡幅も必須のタスクであったはずだから、この橋の架け替えを出来るだけ交通を止めずに達成する手段として、工事用道路橋を活用した段階施工という工法を計画していたのではないかと推測する。
(同じことが行われた別のケースを探しているが未発見)

なおこれは、皆様が再訪に期待したような、大きな新発見ではなかったかも知れない。
そもそも、工事の専門家でもない私の見立ては、全く誤りかも知れない。
継ぎ手は、工事上の設計変更か何かの理由で、たまたま露出しただけかも知れない。

しかし、紹介したいという気持ちを、正体が不確定だからという理由で、押さえ込むことは出来なかった。
本尊岩というものの機嫌次第では、今でもこの場所で、姿を大きく変えながら立派に活躍していたかもしれない、本尊岩隧道。
ここに、関係者証言の他に頼りのない、まさに幻と呼ぶべき新トンネルと新橋が計画されていた痕跡があるのならば、それは残らずに記録しておきたかった。

私は、こういう未成道の小さなエピソード、特に知られている道路史からは零れ落ちた一滴を、ことさら愛してしまう質なのだ。
だから推測でしかない本論を核に本稿を編んだのである。だって、もうここへ来て新たな観察をする同胞は、あまり現われてくれないと思うし…。
いろいろと書いたが、より専門的知見がある方々の見立てをいただければ幸いである。



本尊岩隧道に関する新たな発見は以上だ。

入口を施錠封鎖された本尊岩隧道の内部を覗くと、静寂が戻っていた。
この隧道が消灯している姿も初めて見た。反対の出口もフェンスで閉ざされているが、
イレギュラーな立ち入る手段がまだ残されている。そのヒントは写真にある。

封鎖された旧道自体は、まだまだ続いているが、
今回紹介したい現地探索の内容は、ここまでだ。




 机上調査編 〜「本尊岩隧道拡幅計画」のまとめ〜


これまでの3度の探索の成果をまとめると、この本尊岩隧道東口で計画されていた拡幅計画は、右図に示したようなものであったと推測が出来る。

特に今回の新たな成果としては、従来は側設導坑へアクセスするための工事用道路橋と考えられていた橋が、将来的に現道側へ幅員を継ぎ足されて新道用の橋の一部となることが出来るような準備構造(継ぎ手)の存在が発見されたことだ。

当初は工事用道路として利用した橋が、あらかじめ拡幅によって完成道路の一部となるように準備されていたというケースは、これまで各地の道路改良を見てきた私も聞いたことがなく、大変興味深い。
そもそも、こういうふうに工事が途中で中断されたまま終わらなければ、気付かず終わった話だったかも知れないのだ。




左図は、本尊岩隧道の西口の状況だ。
これは西口じゃなくて洞内じゃないかと思われるかも知れないが、実は奥の赤色に着色した部分(全長40.0m)だけが本尊岩隧道(昭和39年開通)で、その手前は全て後補の大型ロックシェッドだ。本尊岩からの落石に備えるべく、廃止時点ではこのように大掛りな構造物になっていた。

これは以前の探索でも紹介済みの内容だが、後補のロックシェッド部分と元来の本尊岩隧道の断面サイズが大きく違うために、これを摺り合わせるべく、蛇腹のような複雑な形状の側壁があった。
本来は、このロックシェッドと同じ断面まで本尊岩隧道を拡幅する計画があったのだろう。



 「工事用道路橋」に、橋梁銘板が存在していた!
2022/9/21追記



OEFC氏提供写真

読者の OEFC (@yegorovacomさま より、本編公開後に情報の提供を頂いた。

恥ずかしながら、私はこれまで3度も訪れながらすっかり見逃していたのであるが、今回の追記の主役となった“謎の橋”こと工事用道路橋には、橋梁銘板が存在している。

これはしたりだ!
気付かなかったのは完全に私のミスだが(最近はいつも藪が濃くて、覗き込みずらかったんだよね←言い訳)、ご提供頂いた写真を見ると、鋼桁の上流側の側面に、右写真のような銘板が、塗装表示と隣り合うように取り付けられていた。
ちなみに撮影時期は、国道の芦田橋が現役だった当時である。

まず、銘板があったこと自体に驚いた!!

銘板があるというのは、やはり単なる工事用道路橋ではなかった証しと言っても言い過ぎではないと思う!
工事が終わったら取り壊すだけの橋に、工事銘板を取り付けているケースは、ほとんど見た覚えがないのである。

私は今回の再訪探索で、この工事用道路橋は将来的に横に桁を継ぎ足されて新たな国道橋の一部となる用意があるのではないかと推理したが、そのための【継ぎ手】があるのとは反対側の側面に、銘板は取り付けられているのである。
このことも、私の推理を後押しする発見だといえると思う。



OEFC氏提供写真

銘板の内容にも、大きな驚きがあった!

銘板がある以上、橋名も当然書かれていたのであるが、曰くこの橋名は――

足駄(あしだ)橋。

何度も名前が登場している、隣の国道のトラス橋の名前は、芦田(あしだ)橋。

隣り合う同音異義語の橋名とは、意表を突いている!
芦田はいかにも地名っぽいが、足駄というのは雨の日などに履く高下駄のような履き物を指す名詞だ。それぞれ、どうしてこの橋名を選んだかは不明だが、おそらく本尊岩がワルさをしなければ、いずれは足駄橋が芦田橋に成り代わるという、そんな現象が発生することになったのだろう。
もし、同音である2橋が同時に活躍することになったらいろいろと不便そうだが、そうはならないことを命名者が知っていたかのような命名だ。 てか、知っていたんだろう。

そしてこれも貴重かつ重要な“新情報”だが、当初はトンネル拡幅工事のための作業路として作られたこの橋の竣工年がわかった。
竣工は、平成2(1990)年12月。

ここは追記なので、多くの読者は既に下へスクロールした先の本編を一度は最後まで読み終えているかと思う。
そんな先を知る人たちなら、分かるはず。
この橋が平成2(1990)年竣工というのは、この後で述べる、本橋によって最終的に実現しようとした国道の拡幅が中止された経緯と照らし合わせて、最も矛盾がない。

本橋銘板の発見は、本橋の特異な立ち位置を物語るアイテムとして、小さくとも重要な意味を持つ発見だといえる。ありがとうございました!



以上のように現地での成果をまとめたうえで、この机上調査編では次の二つの謎について、調べたことを解説したい。

  1. なぜ本尊岩隧道の拡幅は中止されたのか? (国道49号揚川改良事業の経過)
  2. なぜ旧道となった区間の国道指定が未だに継続しているのか?

この二つはあまり関わりのなさそうな内容だが、共に現地で私が感じた謎なので、それぞれについて調べてみた。


 調査1: なぜ本尊岩隧道の拡幅は中止されたのか? (国道49号揚川改良事業の経過)


『揚川改良だより 創刊号(平成22年4月)』より

上の2枚の図は、国土交通省北陸地方整備局新潟国道事務所が発行していた、『揚川改良だより』という機関誌からの引用だ。
同誌は事業名「一般国道49号揚川改良事業」の進捗状況を広報する目的で、平成22(2010)年4月の創刊号から開通翌月の平成25(2013)年4月の最終号まで、合計11号が発行された。

このうち事業概要をまとめた左の図によって、揚川改良は昭和53(1978)年度に事業化されていたものの、事業中は「揚川道路」と仮称された全長7.5kmの新道(=現国道)の工事着手は平成12(2000)年度であり、事業開始からそこまで22年の長い年月を経ていたことが分かった。
どうやら、この22年の間に秘密がありそうだ。
揚川改良事業の原点を探るべく、昭和63(1988)年に国交省北陸地方整備局の前身である建設省北陸地方建設局が発行した、『北陸地方建設局三十年史』を紐解いた。


『北陸地方建設局三十年史』より

右図が同書掲載の事業名「一般国道49号揚川局改」の概要図だ。
局改とは局部改良の略で、比較的に小規模の改良事業を指し、道路構造令へ完全準拠した抜本的な改良ではないものを含む。
どうやら昭和53年に事業着手された当初は、揚川改良ではなく揚川局改という事業名だったようである。

その対象の区間も、右図の通り、最終的なものとは大きく異なっていた。
なんと、平成25年の新道開通で旧道となった区間内に、全ての事業区間が含まれていた。全長は6900mで、そこには封鎖された本尊岩隧道も含まれていた。

……やはりそうだったか。 そうだと思ったよ。
当初から対岸に新道を整備するつもりはなかったからこそ、本尊岩隧道の拡幅というプランが、途中まで実行されたのに違いないのだ。
なお同書は、事業の概要を次のように解説していた。

現国道は、東北電力(株)揚川ダム建設に伴う付替道路として整備されたものである。その後、昭和45年頃より、川側擁壁に沿って舗装面の沈下が現われてきたが、昭和52年7月に栃森橋取付部川側の倒壊事故が発生し、数日間にわたって通行不能になった、これを契機に昭和53年度から局部改良が事業化となり、川側の補強のほか、山側に対しても落石、雪崩等への対策を施している。
地形的には揚川ダム調整池とJR磐越西線に挟まれて、施工上制約の多い区間であり(中略)昭和62年度末現在までには、小花地区と谷花地区を合わせて、延長870mが完成している。

『北陸地方建設局三十年史』より

このように、当初は(現在の)旧道を対象とした、川側と山側の補強・防災対策がメインの局部改良事業だったことが分かる。
本尊岩の大規模な崩壊の危険性はまだ予見されていなかったようで、川側の補強が警戒の中心があったようだ。貯水池の湖畔は地盤が不安定になりやすく、その対策が急務だったのだろう。
当時既に川の対岸に長大トンネルを想定した磐越自動車道(東北横断自動車道)の計画があり、抜本的改良は高速道路の整備に委ねていたとも考えられそうだ。

こうして、“空白の22年間”と、本尊岩隧道の拡幅計画が結びつく環境は整った。
あとは、その資料的裏付けを見つけたいが……、
平成3(1991)年7月に北陸地方建設局がまとめた技術研究会論文集に、「一般国道49号「本尊岩地区」のフラットスラブの設計と施工について」という論文が掲載されているのを見つけた。

揚川局改区間は(中略)昭和53年度から防災対策のための事業化に着手し拡幅及び線形の改良を行っているものである。
なかでも、平成元年度より工事に着手した「本尊岩地区」は特に地形条件、現場条件が厳しい地区である。
本報告ではこの地区のうち、「フラットスラブ部」の設計・施工方法について報告するものである。

『北陸地方建設局管内技術研究会論文集. H3』より

このような書き出しがあり、(現在の)旧道を対象とした局改事業が、平成元年から、いよいよ本尊岩地区で着工したことが分かる。
本論文の主題はフラットスラブというもので、あまり聞き馴染みがないかと思うが、路上においては右写真のように見える構造物の一部だ。

この写真、本尊岩隧道のすぐ西側の旧道路上(封鎖区間内)であるが、川側に橋の高欄が取り付けられている。ずっと先までそうなっているが、これらは桟橋で、最大で道幅の半分程度が、揚川ダム湖上に迫り出す構造になっている。
こうすることでダム湖と鉄道に挟まれて拡幅余地のなかった国道を無理矢理拡幅していたのである。
この連続桟橋を建造する際に一部で用いられた工法が、フラットスラブだった。
路上からは区別が難しい、まさに縁の下の力持ちであった。

「本尊岩地区」は「阿賀野川県立自然公園」のなかで特に景勝地と言われているが、阿賀野川も最狭窄部であり、国道49号のなかでも線形条件が悪い箇所である。
当該区間は昭和59年度より地質調査を行い、その後落石調査等の結果に基づき実施設計を行った。

『北陸地方建設局管内技術研究会論文集. H3』より

このようにも書かれていて、本尊岩に対しても地質調査を行ったうえで、旧道を大々的に拡幅・線形の改良を行うことが決定されていた。
まだ、本尊岩の崩壊の危険性が露見していなかったか、見逃されていたか、単純にこの後で不安定となったのか。

本論文自体はフラットスラブに関することが記述の大半を占めているが、「おわりに」として、次のように、将来のトンネルや橋梁の拡幅に言及している部分があった。


『北陸地方建設局管内技術研究会論文集. H3』より

「本尊岩地区」の「フラットスラブ部」の施工は、平成3年3月に完成した。引続き、「ロックシェード」、「トンネル」、「橋梁」の施工を平成3年度以降に計画し、「本尊岩地区」の幅員狭小区間の解消、線形改良を図るものである。

『北陸地方建設局管内技術研究会論文集. H3』より

残念ながら、「トンネル」や「橋梁」の拡幅がどのような工法によって計画されていたかに言及した文献は未発見だが、間違いなく、当時の揚川局改の事業には、本尊岩隧道と芦田橋の拡幅が含まれていたことが分かる。

右図も同論文からの引用で、図中の「トンネル」とあるのが本尊岩隧道で、その右側の「橋梁」というのが芦田橋だ。
下に小さく施工年度が書かれていて、「ロックシェッド」と「トンネル」は平成3〜5年度に工事を行い、「橋梁」は平成元〜2年度に第1期工事を実施済で(これが“謎の橋”の建設か?)、さらに平成5年度に第2期工事を行う計画だったことが分かる。

これはかなり重大な情報である。



←これも今回の探索のなかで撮影した画像で、本尊岩隧道の西口前だ。
ちょうど「フラットスラブ」が施工された辺りであるが、山側の擁壁に、かつて道路利用者へ向けて飾られていた1枚の大きな写真パネルがそのまま残されていた。

この色褪せたパノラマ写真の主眼は、道路上の崖地を対象に廃止直前まで長らく行われていた防災工事だろう。一度目の探索当時も盛んにやっていた覚えがある。

「良き道たどれば良き郷あり」

――まさに至言といった感じがあるが、いったい誰の言葉だろう。検索しても分からなかった。ご存知の方は教えて欲しい。
ただ、ここには少しだけ、闇が垣間見える。
だって、この“良き道”というのは、現実にはここが(地元警察官さえ誹るほどの)“悪き道”だったことがバレてしまった結果、このような写真パネルを設置して利用者に知らしめるべき大規模の防災工事が生じたわけで、しかも最後には新道の開通と引き換えに一欠片の憐憫もなく封鎖されて放置されたのである。それって“良き道”か……?


そんなチャチャはさておき、この写真パネル(廃止される数年前の撮影だろう)に写っている道路構造物と、先ほど見ていただいた平成3年度撮影の施工年度予定の画像を照らし合わせると、どこまで実際の工事が進められ、どこで中止されたかが、だいぶ絞り込める。

例えば、「施工予定」の写真では、「ロックシェッド」の部分はまだ完成していなかった。だが、写真パネルには、これが完成して存在する。
つまり、この部分の工事は予定通り進められた。

「トンネル」と「橋梁」についても、本来は平成5年度までに拡幅を終える計画だったようだが、実際に拡幅は行われず、現地で見た“謎の橋”と“謎の穴”という、拡幅工事の準備工事の跡だけが残されている。

この事実と符合するのが、前回のレポートでも記した、アンパンマン氏の独自調査による以下の提供情報だ。

(芦田橋の隣に)もう1本橋がかかっており気にかけておりました。本日、関係事務所にお尋ねしたところ、「R49の拡幅のために架橋したところ平成2年頃、落石事故があり危険と判断された為、その後の工事が中断されたままになっている」と調査していただき、2時間後程でご丁寧な電話返答いただきました。

アンパンマン氏調べ

『土木学会論文集No.722/III-61,315-330,2002.12
一般国道49号本尊岩地区岩盤斜面の安全性評価と防災対策』より

まず問題となるのが、「平成2(1990)年頃に工事が中断された」という部分の正確性だ。
もしこれが平成2年度であるなら、論文が掲載された時点で、既に工事の中断が検討されていた可能性があり、少々不自然だ。
しかし、あくまでも「平成2年頃」であるから、実は3年か4年だったかもしれない。
だとすると、落石事故が原因で、本来は平成5年度に完成予定だったトンネルと橋梁の拡幅が中断されたというのは矛盾がない。

具体的に、当地の既往災害歴を、平成14(2002)年の土木学会論文『一般国道49号本尊岩地区岩盤斜面の安全性評価と防災対策』から見てみると、平成4年3月と翌5年4月に、本尊岩の西側に連なる花谷岩体で、それぞれ約200㎥と約800㎥の岩石崩落が発生していた。いずれもJR線路の擁壁で大半を阻止できたが、一部がその下の国道路面に飛散した被害があったそうだ。(右図の赤枠部分)

このときは甚大な被害はなかったが、国道の遙か上方にある巨大な岩崖が相次いで崩壊し、落石が国道のすぐ上にあるJR線の擁壁まで届いたことで、この位置の国道を将来も使い続けることへの疑念が関係者に生まれ、善後策を広く検討すべく、ひとまずこの段階では未成だった本尊岩隧道と芦田橋の拡幅を中断したのであろうか。
これは可能性の高い説だと思う。

そして、本尊岩隧道と芦田橋の拡幅を残した従来の揚川局改事業が事実上中止となり、完全な別線による新道整備を骨子とした揚川改良事業へと変化する直接のきっかけは、右図の青枠で囲った平成7年4月に起こった災害だった。
このことは複数の資料によって裏付けが取れている(後述)。

約5000㎥の岩石崩壊により、斜面上のJR防護施設が全壊した。径3mの岩塊がJR脇の擁壁を大破して停止。最大径7.5m×4.0m×3.0mの岩塊がJR防止柵手前で停止、国道へは小岩片が飛散した。

『一般国道49号本尊岩地区岩盤斜面の安全性評価と防災対策』より

平成4年と5年に続いて7年にも同じ季節に同じ谷花岩体が崩壊し、しかも今回の崩壊量は遙かに多かった。
JR線路の防護施設を破壊し、国道そのものへの被害は今回も軽微だったものの、安全確認が出来るまで通行止になった。
仏の顔も〜の諺ではないが、この出来事によって、昭和53年度から多くの費用をかけて整備してきた従来の国道は敢えなくレッドカードを切られることになった。

この大きな計画変更の意思決定については、新潟国道事務所の関係者らがまとめた『揚川改良の整備効果について』という文章に次のように明言されている。

昭和53(1978)年度に揚川改良として事業化し、落石防止のための法面対策や、狭隘な幅員への対応として阿賀野川へせり出す道路拡幅工事などを進めてきた経緯がある。
しかしながら、本尊岩・谷花地区において発生した平成4(1992)年および平成7(1995)年の新潟県北部地震の余震による大規模な岩石崩落や、平成8(1996)年2月に北海道で発生した国道229号の豊浜トンネル岩盤崩落事故を契機として、「国道49号本尊岩地区防災対策検討委員会」を設置し同地区の防災対策工の検討や、日常の点検、監視体制などの検討を行った。
委員会での検討の結果、「本尊岩・谷花地区は岩盤斜面やその亀裂状況、岩盤の劣化等を考慮すると抜本的対策は困難であり、現道の危険性を考慮すると恒久対策としては別線ルートで回避する以外にない」との結論に達したことから、落石監視システムによる24時間体制の監視を行いながら平成12(2000)年度より(中略)別線ルートの整備に着手し
……

『揚川改良の整備効果について』より

ここでも“豊浜”の事故が出てくるのだな。
もう山行が最多回数登場の隧道名かもしれないなあそこは。(その場所のレポートは書いていないが…)
もちろんそれだけでなく、平成4年と7年の岩石崩落も重大な要因だったことが述べられている。
そして、よくよく調査した結果、もうだめぽとなって、一から新道を整備することになった。
これが本当に一からなのが凄いところ。従来の事業区間の全てを捨てての再出発だからね…。


以上まとめたような経緯によって、本尊岩隧道と芦田橋は拡幅工事を打ち切られたまま、なおも10年以上、24時間の厳重な落石監視体制のなか、私の2度の訪問を含む多数の人々を行き交わさせたのだった。
なんでもあの旧道は、49号という路線名と災害への脆弱さをかけて、地元住民によって「始終苦労(しじゅうくろう)」なんて呼ばれていたそうじゃないか…。

でも、もう改良の未来はないと死刑宣告を受けたような状況で、最後まで従順に働き続けた国道に、まずは最敬礼である。
同時に、最後まで大きな事故を起こさなかった道路管理者の勤勉と、それを許した本尊岩に宿る天の神の慈愛に、感謝したい。





 調査2: なぜ旧道となった区間の国道指定が未だに継続しているのか?


平成25(2013)年3月30日に、揚川改良として整備が進められてきた新道区間7.5kmが一挙に開通し、同時に従来の国道約8.5kmが旧道となった。
旧道のうち沿道に集落が存在しない中間部分(本尊岩隧道を含む部分)約4kmは、この日の15:00に通行止となり、以来今日まで継続している。

最近の道路地図や地理院地図を見ると、通行止区間は道自体の表記が消えており、このまま廃道になることが約束されているように感じるが、不思議なことに、そこへ繋がる前後の旧道区間約4.5kmは未だに国道として表記されている。

旧道となった後の(封鎖されていない)国道の処遇はケースバイケースで、統一の処置があるわけではないが、交通量が少ない山間部の旧道の場合は、ほとんどが県道以下に降格しており、市町村道まで降格するケースが大半だ。

当地に残された旧道のうち、西側部分は県道にそのまま接続しているのでまだ交通量があるが、東側部分は津川温泉を過ぎると行き止まりへの一本道となり、途中に京ノ瀬と大牧という2つの集落があるだけだ。本編でも見てもらったとおり、末端部分の交通量は非常に少なく国道時代の広い道幅を持て余しているが、旧道となって9年が経過した現在も、この区間の国道指定は解除されていないようである。

なぜそうなっているのかを調べてみた。


この旧道の全区間を擁する阿賀町の町議会が、同町が誕生した平成17年度以降の会議録を公開しており、これが本問題の内情へ部外者がアクセスできる現状唯一のネット上にあるソースかもしれない。

国道49号は同町の東西を結ぶ唯一の一般道であり、最重要のインフラであるため、その一翼を担う旧道の存廃問題については、何度も議論されていた形跡がある。
しかし、そもそもこの問題については、旧津川町と旧三川村が合併して阿賀町が誕生する以前に、元の当事者間(国、新潟県、旧町村の4者)で、措置が決定していたようだ。平成12(2000)年に新道整備の方針が決定して翌年には着工しているそうなので、時系列的にもそうでなければおかしい。
次に掲載するのは、阿賀町が誕生した年(平成17年)の9月定例会でのやり取りの抜粋だ。


◎建設課長
(平成)16年9月30日付で調印しているわけでございますが、津川町大牧地先から三川村谷花地先まで、及び揚川トンネル区間を廃道とするということ。それから、その廃道区間に際しましては、さく等を設置して車両及び歩行者を通行どめにするということ。それから、津川町の津川地先から津川町の大牧地先まで、及び三川村谷花地先から三川村白川地先までは町または県の管理とすると、こういう文書になってございます。

阿賀町議会 平成17年9月定例会 会議録より抜粋

新道開通後の旧道の扱いについては、中間部分を廃道として、残りの部分は町、または県の管理とすることが、平成16(2004)年9月30日に関係者間で調印されていたそうである。

これは、一般的な扱いと全く同じだと思う。
想像だが、西側区間は接続している新潟県道17号新潟村松三川線の一部になったと思うし、東側区間はちょうど対岸に存在する新潟県道512号西津川線の例に倣って、新たな県道として採番されて大牧津川線にでもなっただろうか。これに県が難色を示せば、全区間か一部の区間は町道に降格した可能性もあろう。

いずれにせよ、平成17年当時は、旧道になった後も国道として維持管理していくという話ではなかったことがはっきりした。
そしてこの内容の確認は、平成20(2008)年3月定例会でもほぼ一字一句変わらずに行われているのを見た。

ところで、町議会だからいろいろな意見の人が当然議論に参加される。
なかには、既に当事者間協議で決定していた本尊岩部分の廃道化を覆して、旧道の全区間を県道として管理していくことが出来ないだろうかという意見を町長に述べる議員もいた。
その時の神田敏郎町長の発言というか、率直に言えば反論が、私は好きだ。
これは、平成23年12月定例会での一幕である。

◎町長
いや、私は覆す気はありませんよ。こんなもの、管理なんかこっちでやれなんて言ったってできる話じゃありませんから。それが、スクラップ・アンド・ビルドでもあるわけでしょう。新しくあれだけの多額の金をかけて、そうでなくても高速道路があるじゃないかと。高速道路があるのに、今、バイパスをつくるんだから、県の負担もあるんですよ。(中略)国道ですら、あの本尊岩の危険を回避することができないということで、あの部分はこうだというふうになったわけでありますから、これを覆してまたこの、どこで管理するんですか。新潟県で管理なんかしませんよ。もちろん、町はこんな管理が耐えられるわけありません。
そういうことから、やはりせめて大牧の振興をこれからも考えていかなければならないということで、行きどまりになるわけでありますから、(中略)どういうような振興策があるか、こちらでたたき台をつくって、いずれ区の皆さんとも相談することも必要だろうというような話までしているくらいですから、ぜひその辺はご理解いただきたいと思います。

阿賀町議会 平成23年12月定例会 会議録より抜粋

国道ですら本尊岩の危険を回避することは出来なかった。いわんや県道、町道においてをや。
まさしくそんな文脈で、廃道区間の存続を強く否定している。

しかし、残された行き止まりの区間の末端となる大牧地区の振興をどうするかという問題が、クローズアップされている。
常に私が行ったときのように虹でも出ていれば、もてなしとしては最高だが、実際はそうもいかないわけで、通りがかりの車が皆無になる地区の振興問題は、廃止旧道が抱える基本的な問題だろう。

具体的な施策についてもしばしば議論されたようであるが、その中で未だ実現していないアイデアとして、行き止まりになること自体を回避するために、対岸の道路と結ぶ橋を架けることが議題に上ったこともあった。本編でも名前だけ登場した“昭和橋”という今は主塔だけが残る吊橋が、かつて大牧と対岸の赤岩地区の間にあって、今でも町道に指定され続けているそうである。この架橋を復活させるというアイデアだったが、もし実現すれば…………うん。まあ、厳しいよな。

それと、やはり本尊岩の部分の景勝を惜しむ声は、多くの議員が述べていた。
ここは阿賀野川ライン県立自然公園の要所であり、本尊岩は単体の観光地として利用されることはほとんどなかったが、景観としてよく愛され、沿線のシンボルとして捉えられていたようである。
景観の良さは私も完全に同意したい。たぶんここが阿賀野川の下流域では一番綺麗な景色であろう。
だからこそ、歩行者のみとか、自転車道としての存続なども、議論されたようだが、危険を推してまでということには、どうしてもならなかったようだ。(一方、並走する磐越西線の危険性については、議題に挙がった様子はない)
結局、現在では船下りによる観光利用を考えているようである。

……そんなことを話し合っている間に、平成25年に新道は開通し、旧道は…………なぜかそのまま、国道のままになっている。


平成27(2015)年3月定例会で、このことがしれっと話題に上っていて、町がこの状況を当然のこととは考えていないことが伺える。

◎町長
旧国道49号であります国道交差点から大牧間の道路管理につきまして、平成10年の国・県・町の三者協議において国から県または町に管理移管することが既に決まっておりますが、そのための協議を現在継続しているところでございます。

阿賀町議会 平成27年3月定例会 会議録より抜粋

平成16年なのか平成10年なのか、たぶんここは単純な間違いで正しくは16年だと思うが、いずれ旧道は県または町に管理移管することが既に決まっていたけれども、そのための協議がまだ整っていない(からそのまま国道として管理されている)ということらしい。
ようするに、方針は決まっていても、細部は決まっていなくて、その部分が纏まらないと、方針通りには進められないよということだろう。でもそこは開通前に纏めておかないといけなかったヤツだよね? ……何があったんだろうか?

そして、この協議が整わないままの状況が、現在まで継続している模様なのである。
ごく最近の平成30(2018)年の3月定例会、この冬は例年よりも雪が多く、当地方でも除雪車が足らずに大変だったようだが、そのことを振り返って……

◎議員
国道・県道除雪についてであります。特に今回は、国管理であります49号線バイパスができてから、今現在、国が管理しています小野戸から大牧までの区間であります。この間については、国は国道49号線の除雪を最優先するために、なかなか除雪が手配されません。車線の確保ができない、すれ違いができない、はたまた除雪車が来ないために、女性のドライバーは危険極まりない行動が見受けられました。(以下略)

◎町長
麒麟橋から大牧区間までの国道を引き継ぐに当たって、新潟県、または阿賀町のどちらになるかは協議中でありますけれども、町としては県道として引き継いでいただきたく、強く要望しておりますことから、この区間については町の除雪車での対応ではなく、今は考えられているわけでありますけれども、なかなか県も「うん」とは言っておりません。「うん」と言ってもらうように努力しなければならないと思っております(以下略)

阿賀町議会 平成30年3月定例会 会議録より抜粋

このやり取りではっきりしたのは、平成30年の時点でも旧道は国道であり続けていて、しかも管理者は国土交通省であり続けているということだ。
国道の管理者というのは実は複雑で、国道だから国が管理していると考えるのは誤りだ。国道には、国土交通省が指定した区間と、それ以外の区間とがあり、原則的には前者(指定区間)だけを国が管理している。後者は原則的に都道府県が管理している。
同じ国道でも、路傍のデリニエータなどに「国土交通省」とあれば指定区間内で、都道府県名であれば指定区間外と見分けるヒントがある。

また傾向としては、二桁国道(元一級国道)には指定区間が多く、三桁国道(元二級国道)には指定区間ではない区間が多いが、決してその限りではない。
二桁国道でも、酷道として有名な“非名阪”区間の国道25号など、指定区間ではない部分もある。また、北海道に限っては、全ての国道が指定区間である。

で、国道49号であるが、この路線は令和の現在も全区間が指定区間ということになっている。
指定区間の改廃は政令で公告されるので明確に行われる。
ということはつまり、あの行き止まりの末端まで、現在も国土交通省が管理しているということになる。この点で沿線の各県が管理している“非名阪”とは異なっている。

だから、除雪も国交省が行う必要があるが、どう考えても優先順位が低いから、除雪が行届かなくて困るというのが、先の議論の内容だ。
また、どうして未だに協議が纏まっていないのかも、少し垣間見れるやり取りがあった。
国道を引き継ぐに当たって、新潟県、または阿賀町のどちらになるかは協議中でありますけれども、町としては県道として引き継いでいただきたく、強く要望しております」というところだ。

県道にするのか町道にするのかを、未だに新潟県と阿賀町は決定できていないようだ。
そのために、国が引続きこの約4.5kmの旧道の管理を続けているということのようである。
管理者を決定できていない理由は明言されていないが、ほぼ間違いなく、管理費を誰が負担するのかという問題だろう。それしかあるまい。


……私の調査は、こんなところだ。

将来ここはどうなるんだろう?

このまま何十年も先まで、行き止まりの盲腸区間を国が管理し続けるのだろうか?
全国的に見ればかなりのイレギュラーだと思う。
国も沿線集落住民の生活がかかっていることなので簡単に管理の匙を投げたりはしないだろうが、現状がイレギュラーであることは明らかなので、いずれ収まるべき形に収まることが望まれる。

ここの地図から不自然な国道の色が消えた後、黄色になるか、無色になるか。私はそれを見届けられるか。