隧道レポート 芋川小松倉隧道(仮称)  後編

所在地 新潟県魚沼市〜長岡市
探索日 2011.5.16
公開日 2012.7.02


2本目の隧道から、小松倉まで


2011/5/16 6:50  

案の定“廃”になっていた隧道を1本発見。

隧道から出て来た道は、現在の市道の舗装された路面と重なり合いながら、約500m先の尾根を目指すことになる。




その尾根には、昭和6年版の地形図において短い隧道が描かれており、「芋川小松倉2号隧道(仮称)」の擬定地となっている。

果して、この調子で2本目の隧道にも巡り会えるであろうか?! 
いざ、終盤戦へ。




そうは言っても、目的地はもうこんなにも“あけすけ”だ。

なお写真では道が2段になっているように見えるが、
下が市道、上は作業道だった。



切り通しの少し手前で、道は谷筋をトラバースして越えている。
そこに橋などはなく、洗い越しというまでもないゆるゆるとした水溜まりを、直に跨いでいた。

そして、特にそれと分かる表示は何も無いが、地形図によれば、この場所が市境である。
手前の芋川側は魚沼市、向こうの小松倉側は長岡市であり、ほんの数年前までは広神村と山古志村の境だった。




6:54 《現在地》

大芋川集落から最初の尾根に達したときのようなワークアウトは一切無く、ほぼ平坦な道のまま、私は標高350mに位置する2つ目の尾根へ辿りついた。

そこは顕著な切り通しであり、隧道があった事を信じるに十分足る地形であったが、逆に言えばこの切り通しの他に隧道の擬定地を求め得る希望がない、絶望的な隧道開削跡現場であった。




もちろん、即座に隧道の現存を諦めたわけではなく、私なりに切り通し前後の数箇所を疑ってみた。

切り通しの直前にある、この写真の盛り土も疑わしい場所のひとつで、比較的最近に施工された雰囲気がある。
この人為的な盛り土の向こう側に旧坑口が眠っている可能性はあるかもしれないが、しかしここから地中にもぐったとしても、反対側の坑口らしい場所がない(切り通しの側面にぶつかっていた?)という問題もあり、決定的では全くないのだった。




切り通しを越えるとすぐに道はご覧のような急な下り坂になっており、その途中に坑口があったように仮定すると、芋川側ではわざわざ、下りながらトンネルに入るような線形を想定するしかなくなる。
そういった不自然さもあることから、やはり現在の切り通しこそが2号隧道の開削された跡地だろうと言う結論に至った。

また、この後に行った小松倉集落での聞き取り調査においても、「隧道は1本だった」という証言が得られており、この2号隧道は実在したとしても、実際に地形図から消えるよりも遙かに早く開削されていた可能性が高いと私は考えている。
歴代地形図を見較べてみたところ、1号・2号隧道とも昭和6年版に初めて現れ(大正3年版には存在しない)、その後は昭和37年版まで変らず描かれている。




さて、一勝一敗という成績で2本の隧道の現地調査が終了したので、そのまま市道を通って小松倉集落へ下りることにした。

2回目の切り通しから小松倉集落近くの国道合流地点までは、終始一貫して急な下り坂になっていた。
写真はその途中、切り通しから500mの地点にある林道との分岐地点であり、小松倉へは右折する。
ここで標高は280mまで下がっていたので、わずか500mで70mを下降していた。
そういう急坂なのである。




そこから国道合流地点までは、さらに350mの下り急坂。

そして最終的には、まだ水の張られていない水田が段々に連なる、この広い谷筋に降り立つ。

谷奥の険しい稜線の上には、ますます明るくなった太陽が燃えており、そのあまりの眩しさから、下にあるものを思わず見逃しそうになったのであるが、確かに見えていた。

私が初めて出会う、近代土木遺産のうち、隧道の部の重鎮…

これまで何度も名前だけ出して、本体出ずにゴメンナサイ…

オブローダーたるもの、山古志に来たからには一度は挨拶しておきたい…




“手堀”中山隧道!!

(国道291号 旧中山隧道)

(と、鼻息荒い割に「山行が」で登場する予定はナシ。好きだけどね。)




市道が国道にぶつかる直前に、この橋がある(振り返って撮影)。

橋名は「こいどの川橋」。
なぜか平仮名なので、ロマンチストなら「恋殿川橋」と漢字を当てるだろうが、おそらく本意は「越え処(ど)の川橋」なのだろう。
橋の袂から細い山道が分かれており、それは中山隧道の開通以前使われていた中山峠道への入口であった。
峠はこの「こいどの川」の谷詰めにあるのだ。

また別の銘板には、国道と県道以外では珍しく、路線名が刻まれていた。
路線名は「村道小松倉芋川線」であり、山古志村から広神村へと村界を跨いで集落を結ぶ村道(多少レア)であった。
現在は路線名そのままに、おそらく市道の扱いになっているのだろう。




中山トンネルから出て来た国道291号に合流し、そこを左折して、小松倉集落を目指す。

この行程も緩やかな下り坂で、合流地点から500mほど進むと集落の最初の1軒が現れる。
そしてそのまま、標高250mから210mの斜面に細長く広がる集落へ車窓は移り変わっていく。




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7:07 【現在地:小松倉集落】

大芋川集落を出発してから小松倉集落に到着するまで、今回の所要時間は40分くらいだったが、いろいろ参考にならない。
自転車で脇目も振らず行けば20分くらいであろうし、車なら10分以内、徒歩でも1時間はかからないかも知れない。
しかしそれは舗装路が完備されていたからであり、2本の隧道とそれに繋がる旧来の山道であったら、もう少し増えるであろう。

いずれにせよ、大芋川から小松倉の間は、いかにも“隣村”(ここで言う村は行政村ではなく、藩政村的ニュアンス)という表現がぴったり来るような隔絶度合であり、「昭和十」が手彫りにされた小さき廃隧道がそれを象徴する、生活感のある峠道であったと思う。

現地探索はこれで所定の成果(昭和6年地形図の隧道の現存有無の確認)をあげる事が出来たので、この小松倉集落到着をもって「完結」となるが、本稿の冒頭に挙げた「疑問点」に対する解決がまだである。
それがどのような「疑問」であったかの詳細は初回を見返してもらいたいが、ようは「大芋川集落では昭和6年の時点で小松倉集落との隧道を介した連絡路を持っていたが、昭和42年になるとその道は消え去り、新たに反対方向の水沢新田集落と繋がる長大な隧道(旧芋川隧道)が開通していた。普通であれば道は時と共に四方へ増えていくのに、なぜ大芋川では所属を“乗り換える”ような交通路の選択が起きたのだろうか。 それはただ地形図制作上の都合によって、そのように描かれただけだったのだろうか?」 というものだった。



最後にこの疑問について考察してみようと思うが、正直私にはまだピースが足りなかったので、中山隧道の産みの親の末裔が住うこの民宿から、情報を補給させてもらった。

このご主人には、本当にお世話になった。
「芋川小松倉隧道(仮称)」に関する情報はもちろんのこと、数時間後に探索することになる「東隧道」の所在地を教えてくれたのも、前日の夕暮れ時に探索していた「七曲隧道」や「雪中隧道」についての貴重な情報の一端を提供してくれたのも、ここのご主人であったのだ。

さて、それでは早速。「芋川小松倉隧道」に関する聞き取りの成果を述べよう。

――芋川集落と小松倉集落を結ぶ道は、芋川集落の子供たちが小松倉の学校に通学するための通学路であり、隧道は通学を安全にするために、小松倉と芋川の人々が掘った。

――芋川は、かつて小松倉集落から分家に出た人達が開発した村である。

――やがて芋川の人口増加とともに子供たちも増えたので、芋川に小学校の分校が開設された。分校の完成後は自然と隧道も使われなくなった

――(隧道があっても、子供の足には通学路が長く)芋川の子供たちは朝7時に家を出ても、小松倉の学校に着くのは9時過ぎになってしまい、授業は2時間だけ受けたら、もう帰らなければならなかった。


……といったような話を伺うことが出来た。

デジャブを感じた人もいるかも知れない。
そう、この話は、以前紹介した東隧道や雪中隧道の時とそっくりである。

つまり芋川小松倉隧道もまた、子供たちが安全に学校に通えるように親たちが計画(或いは建設も)した隧道だったのである。
もちろん、大人たちも出来上がった隧道を通行したであろうが、あくまでも通学路としての利便性が建設の主目的にあったというのは真実だろう。
いずれの隧道も自動車が通るような道に建設されたものではなく、人道サイズであるという共通点がある。


通学を主目的に建設されたとされる、東、七曲、雪中、そして芋川小松倉という、全て旧山古志村の東竹沢地区にあるこれら隧道の違いというのは、通学に関わる学校と集落の違いであった。
右図のように、その対応関係は明確である。
<例>梶金集落→(東隧道)→梶木小学校、 木籠集落→(七曲隧道)→梶木小学校

また、通学の対象となったこれらの学校は、全て同時に存在していたわけではなく、時代とともに移転や改廃があった。
例えば、梶木小学校と芹坪小学校が、昭和52年に合併して東竹沢小学校となった。
そのため、芹坪小学校に通っていた小松倉の児童は、新設の東竹沢小学校へ通うために、冬期には雪崩の心配が大きい谷沿いの道を通学する必要が生じた。
それで小松倉の父兄たちが中心となり、はじめ自らツルハシを握り、やがて県の事業として認められて開削されたのが、全長550mにも及ぶ「雪中隧道」であった。
雪中隧道の完成は昭和52年であり、ここでも通学という目的が隧道を生んだことは明白である。

こうした法則性を理解すれば、芋川から小松倉への通学のために新たな隧道が掘られたことも、違和感はない。



通学のため隧道は建設され、分校建設に伴って使われなくなった。

これで芋川小松倉隧道の改廃の謎は、解き明かされたといえそうだ。

だが、より大きな芋川集落にまつわる交通路変遷の謎は、これで全ての要素が明かされたわけではない。

そこには通学だけではなく、暮しの全体に関わる大きな理由が存在していたようだ。


厳しい山村で“現代”を生き抜く人々の必死さが、次の新旧2枚の地図には滲み出ている。



昭和6年当時、芋川集落は、新潟県古志郡東竹沢村に所属していた。
このことは、小松倉の古老が語る芋川集落誕生の経緯(分家)からも良く納得出来ることである。
詳しい時期は不明ながら、この当時に芋川集落内には東竹沢村立芹坪小学校の分校が設置されたことがあったという。
そのために(少なくとも小学生については)、小松倉集落まで隧道を通って通う必要はなくなったのであった。

そして、昭和31年3月31日に東竹沢村は隣接する竹沢村、大田村などと4村合併し、新たに古志郡山古志村を発足させたのであるが、この直後に異変が起きた。

↓↓↓

山古志村誕生から6ヶ月余り経った昭和31年10月1日、芋川集落を含む一帯が山古志村を離脱し、隣の北魚沼郡広神村との合併を行ったのである。

これにより芋川集落は従来の古志郡ではなく、北魚沼郡に所属するようになり、当然のことながら、山古志村立となった芹坪小学校の分校を集落内に存続させることも出来なくなったであろう。
そもそも立村の経緯からして、芋川の住民はそのほとんどが小松倉の住民と親戚関係にあったはずだが、そうした血族的な繋がりよりも、隣村である広神村との関係を選んだというのは、なかなかに衝撃的な離村・合併劇であるように思う。この決断には、芋川住民の相当の決意が込められていたはずだ。



これは、本編中で何度も名前の出て来た旧芋川隧道である。

全長約400mもあるこの隧道が完成したのは昭和32年で、それは芋川分離合併の翌年のことである。
当然、分村が行われた当時まだ隧道は建設中で、その建設にあたっていたのも芋川集落の住民たちであった。
そして隧道の完成により、芋川は名実ともに広神村の一部となったのである。

この旧芋川隧道のわずか700mほど北側には、同じ尾根を越えて小松倉と広神村内を結ぶ全長877mの旧中山隧道が、昭和24年に小松倉集落の人々によって完成しており、芋川の住民はその完成に大いに刺激されて芋川隧道の建設にあたったといわれている。『手掘隧道物語 (とき選書)』より)

2つの集落は時に助け合い、時に切磋琢磨をし合う理想的な兄弟のようであったが、弟はやがて、より良く導いてくれる新たな親を求めて家を出たという感じだろうか。
両者の決別など、地図の上では“線1本”に過ぎないものであるが、それでも行政的には平成の市町村大合併劇を経てなお、長岡市と魚沼市という風に厳然と分離し続けている。


そもそも、小松倉集落による中山隧道自体が、東竹沢村の中でも南東の端にあっていろいろと不便に耐えねばならなかった人々が、「もし裏山を隧道で抜けれれば、上越線の駅もあり、山古志にはない繁華の地でもある小出(こいで)の町へ容易に出かける事が出来るではないか」と構想した、そんな行政の枠には捕らわれない反骨の精神から生まれたのである。
その同じ血を分けた(同様の不便をより深く受けていた)弟が、隧道と共に離村の道を選んだとしても、それは決して突飛な事ではなかったと思える。


しかし、実際のところ、どのような“理由”から離村を選んだのか。
その詳細は、今日刊行されている『山古志村史』にも『広神村誌』にも、記されてはいない(いずれも大著であり、私の読み込み不足の可能性あり)
唯一見つける事が出来たその“理由”とは、『角川歴史地名辞典:新潟県』の『芋川(広神村)』の項に記された、次のわずか1行の記述である。

――東竹沢村が山古志村の一部になる際、当地域は、通学などに交通の便のよい広神村に編入。(『角川歴史地名辞典:新潟県』より)


なんと、ここでも再び「通学」というキーワードが現れたのだ。

分離前夜の芋川の住民たちは、翌年には開通するであろう新たな隧道を睨んで、こんな事を話し合ったのかも知れない。

この新たな隧道を通学路にしたならば、わが子を分校という不自由な環境ではなく、ちゃんとした(隣村の)本校に通わせられるかもしれない。
しかし、そのためにはなんとしても隣村の学区に入る必要がある。
それには、隣村と合併してしまえば良いではないか。

村の子が中学、そして高校と進学するにしても、自らが(主に冬場の)就業の場を求めるにしても、小出の町はなんとも頼もしい。
それに較べて、役場への用向きを済ませるとき、合併後の村の役場の位置は余りにも我々から遠いではないか。

「我々は、山古志村から離脱しよう!!」




……以上が、山古志の東竹沢地区に数多くある手作りの隧道たちにまつわる、親と子と村が綾なす物語のその一端らしきものである。
多分に私の思い込み(つうか思い入れ)が入っていて、正確性の保証は全くしかねるが、一応大きな矛盾はないのではないだろうか。




【蛇足稿 〜山古志村における小・中学校の変遷について〜】

『雪中隧道』の執筆時に製作した、山古志村における小・中学校の変遷についての図を、ここに一部修正して転載する。

昭和31年の山古志村制定当時には村内に5つの小学校(本校)があったが、昭和52年には4校となり、平成12年には1校に統合された。 昭和31年の山古志村制定当時には村内に5つの中学校(分校含む)があったが、昭和47年に2校となり、平成4年には1校に統合された。

村に住う親たちが、どれほど我が子から通学の苦労を取り除こうと願っても、行政は時に非情な効率化を求めなければ立ちゆかなくなる。
そのため学校数の減少は、人口が少ない地方ほど深刻であるが、広大な面積に少数の人口が点在する山古志村の場合、特に深刻な状況になっているといえる。

それでも子供たちがちゃんと通学出来ているのは、ひとえに“歴代の親たち”が、交通に改善に意を注いできた賜物なのであろう。
山古志の交通史には頻繁に現れる親の愛情は、いまも伝統としてきっと息づいているに違いない。