隧道レポート いすみ市の旧岩船隧道 後編

所在地 千葉県いすみ市
探索日 2014.12.09
公開日 2014.12.13
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旧岩船隧道の異様な姿


2014/12/9 11:10 

左図の地点にて、旧岩船隧道のものと思われる坑口を発見した!

左図は、大縮尺の地理院地図に私が坑口などを書き加えた物であり、通常の地形図程度の小縮尺では区別出来ない新旧隧道の位置関係を表現出来ている。
現時点で確認出来たのは東口だけだが、西口に繋がるであろう“旧道”も地図に描かれているので、それを探すのは難しく無さそうだった。

なお、現場にそれを示す手掛かりはないものの、『平成16年度道路施設現況調査』によれば、現在使われている岩船隧道の竣工は、昭和47年であるようだ。
また、歴代地形図を見較べてみても、昭和46年編集版までは旧隧道の描かれ方をしている。
以上の事から考えて、昭和47年まで旧隧道が現役だった(そして岩船港や岩船地蔵尊の入口であった)と考えられる。



隧道の前に、道は無かった。

このことがまず特記される。
では、なぜ道が無いのだろうか。

立地条件的に考えて、その原因は現トンネルにあるだろう。
現トンネルを低い位置に設けるべく、相当に深く掘り割りを作っている。
旧隧道に続く旧道は、この掘り割りによって完全に削り取られてしまったのかもしれないし、前回辿った“平場”が、その路面の一部であったのかも知れない。
いずれにしても、本来の坑口の大きさは、「赤色の部分」を最低限として、もしかしたらそれよりも下に大きかったかも知れない。

旧隧道の坑口は、尋常でなく背が高かったのである。
現道の工事が、旧隧道内部の路盤まで掘り下げる事まではしなかったと思うので、この天井の高さは現役当時からのものだと思う。



そして、この背の高い隧道内に、大量の土砂が詰め込まれていた。
これは明らかに廃止後の封鎖措置であるが、この封鎖の為の土砂の山の天辺付近に開口部(黄色の部分)がありそうで、そこを目指すのが次のステップになった。

坑口を塞ぐ土砂の山は、近付いてみると、三つの区域に分けられた。
一番下は、写真で茶色く見える砕石の壁で、隧道外である。高低差は3mほどだ。
真ん中は、白く見える土嚢の壁で、隧道内部である。高低差は2mほど。
一番上は、やはり白く見えるが、ただ土砂を盛っているだけの壁である。高低差は3m以上あり、天井付近まで積み上げられている。

本来の路盤の位置は、土嚢の下か、或いは一番下である。
天井までの高さは5m〜8mくらいもあり、横幅に較べて異常に高い。

そして、もう一つ忘れてはいけないポイント。
土嚢の下を潜る暗渠の穴があった。



暗渠の穴を覗くと、真っ先に風を感じた。

円形の穴の向こうには、針穴のような小さな光が見えた。
出口があるのだ!
そして、暗渠は出口へ向かって、かなりの上り坂になっていた。

おそらく、暗渠は従来の隧道路盤に置かれた状態で埋め戻されている。
わざわざ暗渠を通すために地山を削ってはいないだろう。
つまり、この暗渠の長さと勾配は、概ね本来の隧道の長さと勾配を伝えている。

さすがにこの穴を潜るのは無理そうだ。
また、仮にこの穴を通って反対に抜けたとしても、それはちょっと「隧道を体験した」とは言い難いだろう。
土砂の壁をよじ登り、天井を目指す事にした。



ザックザックと踏み込むと、ズシャーと沢山の砂が落ちて、辺りに砂煙が舞う。

ここを人が登る事は、はなから想定されていないに違いない。
足が地面に深くめり込んで、登りやすいのだが、あまり派手に土煙が上がるので、
悪いことをしている気分になる。(実際に、少しワルいことをしているような)


そして、いよいよ天井に到達!



高い!

これは天井に頭を付けた状態で撮影しており、現役当時に通行人が見ていた風景とは言えないが、
東口の異常な形態がよく分かるだろう。これほど天井が高い理由ははっきりしないが、普通に考えれば、
隧道に続く道路の勾配を緩和するために、後の次代に切り下げが行われた事が疑われる。

なお、写真の赤い部分の下に現トンネルの坑口がある。
黄色い矢印は想像される旧道の線形で、坑口前に急カーブという悪線形だ。



隧道は辛うじて天井部に隙間があった。
そして、思いのほかに短かった。

現トンネルは全長100mちょうどだが、旧隧道は20mにも満たないのではないか。
もっとも、これは水平に近い天井部の長さであって、勾配があったと見られる洞床で計れば、いくらか長いだろう。

また、片側の坑口がラッパのように広がった片勾配トンネルといえば、現トンネル北側にある“例の私設トンネル”が、
まさにその通りの姿をしている。偶然であるにせよ、似たような姿の隧道が、極めて隣接して存在していた時期があったかもしれない。



天井の隙間は、下が土砂であることもあって、
四つん這いになれば通りぬけられそうだったが、
見通せる反対側は、民家の庭先である気配が濃厚だ。

変な誤解を受けて通報でもされたら困るので、隧道の通行は断念した。
洞内にわざわざ入らなくても、その全容が坑口から見通せたということも、
侵入を躊躇わせた大きな理由であった。

東 口 、探 索 完 了。




現トンネルを通って、西口へ回る 


11:17 《現在地》

昭和47年竣工、全長100m、幅7m、高さ4.4mというスペックを持つ岩船隧道を潜って、反対側へやって来た。

こちらも地名はいすみ市大字岩船で変わらない。
大字が明治22年以前の村名に由来することを思えば、もともと岩船隧道が掘られていた稜線というのは、人々の日頃の交流を分断するほどのものではなかったのだろう。

明治36年の地形図では、内陸側に「岡岩船」の地名表記があり、岩船にはもともと農業で生計を立てる“岡方”の人々と、漁業に暮らす“浜方”の人々が共に暮らす村であったのだろう。このような例は全国の海岸集落で見られる。




さて、現トンネルの西口は、両側に岩肌が露出した掘り割りになっているが、その一角に右写真のような小径が分岐している。

これこそが旧隧道に繋がる道であったが、この冒頭の急坂は、現道との接続のために改築を受けた部分であろう。
もともとは現道の掘り割り自体が存在しなかったのだから、このような急坂は必要なかったに違いない。

自転車の前輪が浮き上がりそうなほどの猛烈な急坂を僅かに登ると、本来の旧道であろう、なだらかな道になった。



この探索では初めて自信を持って「これだ」と言える旧道の風景である。
昭和47年までは、この道を岩船地蔵堂行きの路線バスなども通行していたのだろう。
現在は数軒の民家の生活道路として、細々とではあるが、活用されている。

道は7〜80mほどで稜線に突き当たり、この谷間に並ぶ一番奥の民家の敷地で、行き止まりになっていた。




明らかに、ここから先は私有地っぽい。

だが、立入の許可を受けるべき人影を見つける事が出来ない。
辺りは静まっている。

正面に見えるコンクリートが吹き付けられた壁は、稜線だ。
そしてその一角に黒く見える部分があるが、あそこがきっと…。

ドキドキしながら、ふわふわと(挙動不審に)近付く。



11:19 《現在地》

見付けたぜ!

しかし、 こ れ は …。




同じ隧道とは思えないほど、小さな入口!
幅は同じだが、天井が異様に低いッ!

しかも、坑口付近の天井に、奇妙な段差がある。
まるで天井を更に掘り広げようとして、それを途中で断念したかのようだった。

そして洞床は平坦であった。
廃止後に民家の敷地へと組み込まれる過程で、傾斜していた洞床を平坦になるまで嵩上げしたのだろう。
本来の洞内を西口から見れば、東口に向けて急激な下り坂になっていたはずだが、実際にこの西口に立っても、それを感じさせない。

右の写真の下に暗渠の呑水口が見えるが、ここから下って東口に出る勾配が、本来の隧道の勾配だったろう。
もしそうでなければ、洞内の天井はあまりに低すぎ、とてもバスなど通行できそうにない。バスが通っていたという確証はないが、それにしても低すぎる。
天井に“奇妙な段差”があるのも、地面が洞奥に行くにつれて急激に下っていたからこそ、坑口付近の天井を掘り広げただけで事足りたのではなかろうか。




土砂が天井近くまで積み上げられている洞内の様子。
様々なものが置かれていて、倉庫としても使われているようだ。
無理矢理通行しようとしなくて、正解だった。

乾ききった洞内には、交通路として使われていた当時の面影は、もう感じられなかった。
私は、激しい下り坂になっていただろう、往時の特徴的な景観を想像する事の難しさに絶望を感じながらも、
とりあえず 「地形図に感じた違和感の正体を解決する」 という当初の目的を達成したことには納得し、

この探索を終えた。





帰宅後、旧隧道の現役当時の写真が無かろうかと、思い付く範囲を探してみたが、まだ見付けられていない。
昭和47年まで現役であったとしたら、郷土誌に頼らなくても、皆さまの家のアルバムの中に、普通に写真があっても不思議ではないと思う。

残念ながら、この隧道の背景などについても、判明している情報は多くない。
房総には膨大に存在する、地域生活の必要性から民間の手で掘られた素堀隧道の可能性が極めて高いが、根拠は無い。
開通記念碑的なものが現地にあれば良かったが、そうした物も未発見だ。

だが、それでも机上調査によっていくつかの成果はあったので、お伝えしたい。



まずは、旧岩船隧道の古さに関する、“新発見”だ。

これまでは明治36年の地形図に描かれた姿が“最古”であったが、それより20年も古い、明治13年から18年頃に関東地方の分が作成された「迅速測図」という2万分の1の地形図にも、この隧道が描かれていたのである。

明治隧道自体は房総において珍しくないが、明治前半のものとなると、さすがに限られてくる。
房総半島全体で見ても、古い方から数えて十指に入りそうだ。

また、この迅速測図を見る限り、現在のいすみ市から勝浦市に跨がる海岸部においては、後の国道128号である「房総東往還」さえも差し置いて、ただ1本描かれた隧道であった。
この地域では最初に誕生した隧道だったのかも知れない。

現在は、国道でも県道でさえもない市道だが、当時としては相当に要な道だった、とも考えられた。




『大原町史』より転載。

いすみ市の前身である夷隅郡大原町の町史に、右の図が収録されていた。
これは、大正9年に発効した旧道路法下における、大原町内の千葉縣道と夷隅郡道の図である。

そして、この図の右下の辺りに「郡道8号線」として示されているのが、岩船隧道を通じた路線に他ならないのである。
岩船隧道は、郡道だったのだ。

続いて、大正12年に刊行された『夷隅郡誌』を紐解くと、夷隅郡道8号線について、次の記述があった。

郡道
 (中略)
第八號線 小沢―岩船
本線は浪花村小澤に於て府縣道第九十三号號線より分岐し同村岩船港に至るものとす。

たったこれだけではあったが、「郡道」というところに、私は悲哀を感じてしまった。運命の悪戯と言えば、大袈裟だが。
ご存じの方も少なくないだろうが、我が国の道路法の元で正式に「郡道」と呼ばれる道が存在していたのは、大正9年から11年までのたった3年間だけだった。
大正11年に郡制廃止に伴う郡道の一斉廃止が行われ、元郡道の多くは、その重要度に応じ、格上の府縣道か、格下の市道および町村道に編入された。
そして、岩船隧道を通る郡道8号線は、どうやら格下げとなったようで、そのまま今日まで最下層の地位に甘んじているのである。

余談だが、上図の中の「郡道9号線」、国道128号と大原港を結ぶ路線は、現在も立派に県道の地位を保持しているし、大原港も伊勢エビの水揚げなどでは全国屈指という勇名を馳せている。大原港と岩船港は、港としては完全に明暗を分けることになった。



停泊する漁船も疎らな現在の岩船港。

他のどこよりも早く隧道が作られたのは、どんな経緯によるものなのか。

そしそれは、この港にどんな意味をもたらしたのだろうか。

残念ながら、今回の謎解きはここまでだ。情報が足りていない。


しかし、そんな事情とはお構いなしに、

この地はさらに過酷な隧道探索を、私に与えた。

その話を、【次回】にしよう。




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