隧道レポート 利賀村の楢尾隧道 後編+歴史解説編

所在地 富山県 南砺市(旧利賀村)
探索日 2009.04.29
公開日 2014.10.16

美しき地平、 もう一つの利賀村へ



2009/4/29 13:51 《現在地》 

利賀側坑口から入って10分を経過し、おおよそ500mを探索済みとした。
百瀬川側坑口までは、推定あと300mである。
今いるのは洞内2回目の待避所であり、謎の駐車車両を背にしている。

この待避所も雑多なものの物置であり、おそらくここに掲げられている最高速度30kmの規制標識も、本来の規制とは無関係なのだろう。
規制標識の取り扱いは法的にシビアであり、道路法の道路であるなしを問わず、一般車両が通行する現役の道路へ設置する権限は公安しか持っていない。
すなわちこの一事を以て、本隧道が法的には廃道と見なされている(より正確な表現をすれば、「一般交通の道路ではない」と見なされている)ことが窺える。




再び1車線幅となった洞内を進んでいくと、その後しばらくは特に足を止めさせる発見もなく、利賀村の東側の地平が眩い光の中に見え始めた。

だが、この終盤で“滝潜り”の荒行を要求された。
出口まで50mほどの地点で1ヶ所、天井アーチの広い範囲が破れて、そこから著しく水が吐き出されていた。

この水垂れは激しく、土砂降りの音が辺り一帯に響いていた。
晴天続きでもこの漏水だから、雨天時などは本当に滝のようになるかも知れない。冬期間にいかなる氷柱が出来上がるのかも見物だろう。

(一般的に、隧道坑口付近の内壁が著しく傷む理由は、単に地表が近く漏水が多い為だけではなく、氷柱の発生と氷解によってもたらされる部分が大きい)





ぬかるんだ出口の向こうに見え始めた、百瀬川の地平。

この隧道が貫通するまで、村の中央部に車で出るためには、一旦村外へ迂回しなければならなかった。

なお、この日の探索で私が到達した利賀村内での最高地点がここで、海抜は約660m。



13:54 《現在地》

自転車で13分ほどかけて、いま隧道を完抜!

坑口付近は崩土が路上にだいぶ堪っていて、本来の鋪装された路面が見えない状態になっていた。
だがぬかるみには新しい自動車の轍もあり、日常的な出入りがあるようだ。
村の名義で設置した「通行止」の看板も、端によせられたままになっていた。



東口坑門も、西口と同じような特徴に乏しい作りであった。時代相応といった感じか。
ただ、坑口の左上胸壁部分には何か看板のようなもの取り付けていた形跡があった(東口にもあった)。

西口と異なっていたのは扁額の内容で、こちらはなぜか「楢尾とんねる」という風に、トンネルが平仮名になっていた。理由は不明だが、可愛らしい。




美しい村が、ここにもあった。

午前中を過ごした利賀川に較べて、この百瀬川は明らかに標高が高い。
それは隧道の両側にある坂道の長さ、険しさを較べれば、簡単に分かる。
本当に拍子抜けするほどすぐ目の前に村があり、田があり、そして現在の国道がそこを横切っていた。

地形的には何となくこちらの方が住みやすそうに見える。
これまで見てきた利賀側の集落は、そのすべてが谷底から100m〜200mも高い右岸山腹にあって(街道もそこを通っていた)、それゆえに集落全体が斜面であった。
これは利賀川がV字谷のようになっているためである。

対して百瀬川の地形はだいぶ穏やかだ(下流に険しい場所はあるが)。
川沿いに帯状の平坦地が続いていて、暮らすにも耕すにも通るにも便利そうに見える。



倒れて埋もれかけた標識(青看)があったので、発掘しておいた。

内容は、トンネル内に2ヶ所の待避所があることの告知で、百瀬口から246m地点と、利賀口から232mの地点に待避所があるとされていた(それぞれの待避所の中間地点までの距離と思われる)。これらの数字と中間部の340mを足し合わせると818mとなり、「平成16年度道路施設現況調査」に記載されていた延長と一致する。

内部に2ヶ所の待避所があるトンネルといえば、随分昔のレポートだが、秋田県北秋田市の根子隧道(全長576m)にそっくりだと思った。




そのまま国道へ。

次の目的地である栃折隧道は左折(下流方向)だったが、
最後に現在の楢尾トンネルを見ていくことにした。




13:57 《現在地》

昭和63年に完成した、全長947mの新楢尾トンネル。
もちろん完全2車線、おにぎり付き。

峠越えのトンネルではあるが、百瀬川の集落と同じ地平に口を開けていて、全く峠っぽくない。




内部にも少しだけ入ってみた。

こちらも特に変わった作りではないが、旧隧道とは違い、拝み勾配になっていた。
もっとも、その頂上は圧倒的に百瀬川寄りにあり、利賀川からだと大半が上りという、自転車にはありがたくない作りといえる。
しかしこの勾配からも、利賀と百瀬川の集落立地標高の違いが感じられた。



トンネル内で引き返し、再び旧道入り口へ。

この後は国道を直進し、牛岳車道と並ぶ利賀村の重要な出入り口、栃折峠を目指した。

利賀村とその周辺で過ごしたこの日は、本当に退屈のない、楽しい一日だった。





歴史解説編 「楢尾隧道、苦難の歴史」


旧楢尾隧道が難工事であっただろうということは、全長818mという長さはもちろんのこと、洞内に著しく水が漏出している地点があることや、昭和40年代当時としては大型高性能の工事機材を導入しづらい僻遠の立地などからも、それを想像する事は難しいことではない。
だが、そんなありきたりな想像だけで、前回「苦闘の歴史があった」と煽ってきたわけではない。
現在残っている隧道の姿を見ただけでは容易に想像出来ないような苦労が、苦闘が、この隧道の誕生史には秘められていたということを、これから語りたい。



まずはこの地図をご覧頂きたい。(→)
平成5年に大阪人文社が発行した『富山県広域道路地図』に記載された利賀村の中心部である。
ここには既に新旧のトンネルが並んで描かれているが、どちらも無色で描かれている事に注目して欲しい。

これは、旧道はもちろんのこと、新道もまた開通当時から県道や国道ではなかったことを意味している。
そしてこの地図が発行された同じ年に国道471号が誕生すると、地図中に見える県道47号や県道229号のそれぞれ北半分とともに、新楢尾トンネルの区間がそこに組み込まれたのであった。

国道昇格直前の新楢尾トンネルの道路法上の格付けは、利賀村道であった。
利賀村道利賀百瀬川線というのがその正式な路線名であり、道路法上では一番下の格付けにある市町村道が、県道や主要地方道を飛び越えて一気に国道昇格を果たすという、全国的に見ても稀な国道指定であった。(この指定に至るまで、利賀村の東西を連絡する県道以上の道は存在しなかった)

そこには利賀村を全国的な国道網に組み入れてほしいという地元の熱心な陳情があったが、当時既に国道と見ても恥ずかしくない立派な新楢尾トンネルが村道として整備されていた事は、村にとって大きく有利に働いたに違いない。
山脈によって東西に隔てられた利賀村を一つに結びつける楢尾トンネルの建設は、村の古くからの大きな大きな願いであり、その実現のために費やされた有形無形の労力が、『利賀村誌』に多くのページを割いて記録されている。
その歴史を辿っていこう。



村の中央部と東部をそれぞれ流れる利賀川と百瀬川に沿って多くの集落が立地していた利賀村だが、この両谷を結ぶ尾根越えの道は、最終的なトンネル建設が果たされた楢ノ尾峠の他にも数多く有った。

右図は昭和5年版の地形図だが、中央付近の楢ノ尾峠の他に、北の方に越道峠という注記がなされた道があり、さらに地図上には無名の峠道が数多く描かれている。
これらはそれぞれに固有の歴史や名前を有する、日常生活のための道だった。

現代では林道の開設が進んだ事で、これらの古い峠道の多くが自動車で越えられるようになっているが、楢ノ尾峠に最初の自動車道トンネル(現在の旧隧道)が開通した昭和44年からしばらくの期間、他の自動車が通えぬ峠は廃れていたという。

このように「村の東西を結ぶ」という意義において共通する効用を持ついくつかの峠が古くから存在し、かつそれぞれの峠に付属する集落が存在するとき、どの峠を優先して開発するかという点で、同じ村の住民の間でも利害の対立が生じる。

利賀村においてそのような対立が表だって現れたのは、昭和10年のことであった。
経緯を利賀村誌は次のように書いている。下の地図と合わせてお読みいただきたい。

八尾町から利賀村百瀬川に至る自動車道は、昭和十年までに栃折峠の開鑿を終え、開通を目前にしていた。村は、この路線を県道に昇格して平村まで貫通させる構想を持っていたが、どの峠を通って百瀬谷から利賀谷に渡るかをめぐり、村を三分する論争が起きた。



まず、前文に出ている栃折峠とは、以前紹介した栃折隧道がある峠のことである。(栃折隧道の完成は昭和34年で、車道開通後に冬期間の人の行き来の便宜のため、人道用として建設されたものであった)

この栃折峠の開通を契機に本格化した利賀村内の東西連絡道路開設計画は、当時、横貫道路計画と呼ばれた。
横貫道路とは、昭和9年に利賀村会が富山県会への建議を決定した、八尾町〜利賀村〜平村を結ぶ県道であり、利賀村内においては現在の国道471号の計画の原点であった。(ちなみに、砺波平野から利賀谷に沿って利賀に至る牛岳車道は大正8年に開通していたが、これに加えて八尾町や平村への車道を完成させることで、袋小路の村を脱却する目論見だった)

横貫道路自体は村民の多くが賛成であったが、利賀谷と百瀬谷の間のルートについては、三つ巴の主張がぶつかり合う事になった。
当時郵便路線に指定されていた越道峠を推す小豆谷(まめだん)などの北部集落、役場に近い楢ノ尾峠を推す利賀や島地などの中部集落、林業経営上の利便性を根拠に上坂峠を推す上坂などの南部集落の陣営である。(なお、楢ノ尾峠とセットで薄尾峠の開鑿も主張された。理由は栃折峠の地盤が悪く危険であることと、冬期間の交通に難があるというものだった)

村誌には、それぞれの陣営が村長に宛てた長文の陳情文(それも一度ではない)が収録されており読み応えがあるが、人口比率的に最も多くの賛同者があった楢ノ尾峠越えの主張は、他の2ルートとは異なる “ある点” を含んでいた。昭和10年2月24日の村長宛請願文から当該部分を引用しよう。

此ノ秋ニ方(アタ)リ 薄尾峠、楢尾峠、山ノ神峠ノ難関ヲ断然隧道トシ以テ距離ノ短縮ヲ図リ冬期間ノ通行ニ便ゼシメラレムカ 之ガ実現ノ暁ハ宇宙ニ人類ノ存スル限リ偉大ナル御尊下ノ御功績ヲ賛美敬仰スルハ一点疑ノ余地ナキヲ確信致シ候。

村長の功績よ宇宙に轟けとばかりの後段の表現の大仰な所ばかりが目に付くが、重要なのはこの昭和10年という当時にあって早くも3箇所の峠すべてに隧道を開鑿し、距離の短縮と冬期間の交通の利便を図るべしという先進的な主張である。
この点で越道峠や上坂峠の主張よりも規模が大きく実現性で劣ったが、これが楢ノ尾峠の車道開鑿に隧道を言及した最初であり、またかつ同峠の開鑿は当初より隧道をもってする方針であったことが分かるのである。

しかし太平洋戦争へと突入していくこの時期にあって、結局栃折峠以外の開鑿は実現せず、村の東西連絡道路は戦後へ持ち越されることになった。



楢ノ尾峠の開鑿が再び本格的に議論されたのは、戦後の混乱も収まりつつあった昭和25年の通常村議会であった。

昭和二十五年の通常村議会には、議員全員が連著の上、百瀬川筋―利賀川筋間の楢尾峠を貫通し、さらに利賀―大牧間を貫通して庄川筋へ結ぶ隧道(トンネル)掘削の意見書を提出した。

ここでは越道峠や上坂峠の主張はなりを潜め、村の東西連絡道路は楢ノ尾峠(または楢尾峠)の隧道開鑿に一本化されている。
だが、それだけでは終わらないのが利賀村らしいと思うが、この計画には利賀からさらに西の山を貫き、大牧へ至る隧道が含まれていた。
大牧は利賀村の中心地から見れば(他町村を経由せず)直接行く術のない庄川沿いの地区であり、現在の大牧温泉付近である。
ここは村中心部とは高低差もかなり大きく、間に聳える山地の幅も楢ノ尾峠の倍以上はある。
この計画は果たしてどうなったのか、続きを見よう。

実現すれば陸の孤島化が一気に解消される夢のような計画であった。これを受けて、村ではさっそく坂上出身の県議会議員須河信一を介し、県にその実現を目指して大挙して陳情を行ったが、県当局は村の陳情団を「誇大妄想狂」と決め付けて取り合わなかった。

笑ってはいけないが、この計画は中央官吏の目から見て分不相応と写ったのだろう。
結局この計画も実現にはいたらず、楢ノ尾峠の開鑿はまたしても空中分解した。


この頃、世の中は着実にモータリゼーションの時代を迎えつつあった。
利賀村にも昭和25年頃より井波と利賀を結ぶ路線バスが利賀川沿いに運行を開始し、昭和32年からは八尾から百瀬川沿いの路線バスが入った(いずれも運行は冬期を除く)。
だが、相変わらず村の東西を自動車で行き来することは出来なかった。

これまでの陳情は、昭和10年の時も、昭和25年の時も、どちらも県に対し県道開設の要求として行った。
しかしそれでは上手く行かないらしいということが、村当局の共通認識となっていった。

昭和二十五年には楢尾隧道の開設を求めて一大運動が展開されたが、利用区域の住民数からみても、あまりに壮大な計画で日の目をみなかった。

村誌に書かれたこの反省は的を射たものであったろう。 村は広くとも人口に乏しく、公共事業の費用対効果は余りに乏しかった。
そしてこの反省の上で、村は新たな方策を立てたのであった。


何としても、どんな形でも良い。

まずはただ、ただ1本の隧道が欲しかった。






『利賀村誌』より転載。

村誌に納められていた1枚の写真。

私は、これととてもよく似た隧道に見覚えがある。
きっと皆さんもあるだろう。
昭和34年完成したとされる栃折隧道の姿に酷似している。
人道用と明らかに分かる小ささも、せせこましくも頑丈そうなコンクリートの坑壁も、誇らしげなる扁額も、皆そっくりだ。

だが、これは栃折隧道の姿ではない。
これこそが、昭和31年に初めて誕生した、初代の楢尾隧道の姿なのである。
今はもう見る事が出来なくなった幻の風景だが、この隧道は今も存在している。それどころか、既にこれをお読みの皆さんも私と一緒に通過しているのである。

ここまでいえば、この隧道がどうなったのか、もうお分かりだろう。



通常の地方財源による道路整備を待っていては、村の隧道に実現の順番がいつ回ってくるのか、誰にも分からなかった。
だが、隧道を実現する手段は道路整備だけでないということに、ある時誰かが気づいたのである。
そしてこの小さな隧道が、遂に実現した。
一体“何”に気づいたのか。

村当局は農業関連の補助事業に着目し、新農村建設計画の導入を目指して運動を展開した。そして、昭和二十八年に利賀村が「新農村建設計画樹立指定村」になると、いよいよ構想が現実のものと成った。
楢尾隧道は、利賀・岩渕地区に九○町歩の開田計画を立て、そのかんがい用水を百瀬川に求める目的で水路隧道として公共事業の承認を受けたもので、水路の上には村の単独事業として高さ二メートル、幅一メートルの歩道を設置することになった。


諮ったな!(笑)

楢尾隧道は、もともと水路として設計されたものだったというのである。

しかし、この記事を読んだ瞬間、私の中に閃きがあった。
それは、現地で隧道の内部を見通した際に、最初に感じた違和感に関することだった。

私はこの眺め(→)を前に、「この隧道には、峠越えの長大隧道の多くが持つ、“拝み勾配”が存在しない」ように見える事を違和感だと書いた。

だがそれは当然だった。
水路隧道であれば、拝み勾配は選択し得ない。
当然、片勾配でなければならないが、水路はほんの僅かな片勾配でも足りるので、そこにまでは気づかなかったのである(平坦だと思っていた)。



百瀬川の上流から取水された灌漑用水路は、この写真の百瀬川側坑口前で道路の下に入り、そのまま道路と一緒に利賀側の地平へ導かれていたことになる。
それゆえ、利賀側坑口前には「開拓記念碑」があった(←未撮影…涙!)わけである。

ああ、すべてのことが一つの結論に結び付いているかのようだ!




もちろん、この灌漑用水路建設は単なる方便などではなく、ちゃんと灌漑事業としても実を挙げたそうだ。
とはいっても村にとっての一番の大きな成果は、県や国の大きな補助を受けて建設された水路隧道の上に(村単独で)小さな隧道を追加掘削し、この部分を楢尾隧道と名付けて自由に通行できる歩道としたことであろう。

ちなみにこの隧道を通っていた灌漑用水路は、今の旧隧道の路面下にも存続しており、上水道として使われているそうだ。(平成16年の村誌発行当時の情報、現在は不明)



なお、この隧道工事は昭和28年に入札によって野原組と城岸組の手に委ねられ、まもなく開始された。
湧水や岩盤などに阻まれる難工事であり、1名の尊い殉職者も出たが、昭和30年9月12日に至り貫通した。
確証はないが、村誌の記述などから総合的に判断して、これが利賀村内に誕生した最初の隧道であったと見られる。
また、この水路兼用隧道の長さは832mと記録があり、現在よりも14mほど長かったようだ。

こうして完成した楢尾隧道により、利賀地区の東山一帯が稲穂のゆれる豊かな美田に変わったことはもちろんであるが、利賀川・百瀬川の両流域が村の中央部で結ばれ、交通上にも画期的な変革がもたらされたのであった。




現在の旧隧道に取り付けられた扁額に昭和44年7月竣工とあるが、実際にはそれよりも14年を遡る昭和30年に楢尾隧道は誕生していた。
しかしこれは前述の通り人道用であり、続く昭和34年に完成した栃折隧道がその原初の姿を今日に伝えていると考えて良いだろう。

楢尾隧道は村の暮らしに「画期的な変革」をもたらしたとされるが、しかし世界の進歩は留まるところを知らないのであった。
村の東西を結ぶ唯一の隧道を自動車が通行できるようにしたいという要望が開通当初より村に存在したことは、これまでの経緯を踏まえれば当然であった。

村議会は昭和三十七年に拡幅工事の建議書を決議し、村も実現に向けて「楢尾隧道改良既成同盟会」を結成するなど、猛運動を展開した。
この工事には巨額の資金を要する事から、国・県の関係部局も対応に苦慮していたが、幸いに同四十年五月、山村振興法が制定された。


昭和40年に議員立法によって山村振興法が制定される以前、人口が少ないために費用対効果の乏しい山村にとって、生活のための村道を独力で整備する事すら、財政的に困難であった。特に工費を要する隧道や橋梁はそうであった。
それゆえ利賀村では農林省の補助事業を利用することで何とか人道用の隧道を完成させたのであったが、この山村振興法によって林野率など一定の条件をクリアした自治体は、村道整備、水道整備、教育施設などのインフラの整備に、大規模な国庫補助が認められることになったのである。
当時林野率97%にも及んでいた利賀村は当然対象となった。

村道利賀百瀬川線はすぐさま山村振興法による村道整備事業の認定を受けた。そして昭和41年から楢尾隧道および取付道路の拡幅工事が着工された。
この工事にあたったのは、銘板にも名前が刻まれている大當興業と城岸組であった。
今度は約4年にもおよぶ難工事となったが、昭和45年8月18日に盛大な竣工式を挙げるに至り、遂に村の東西を大型車を含む自動車が行き来できるようになったのだった。
(この翌年の昭和46年の秋冬から、庄川から利賀川沿いに村中心部に至る県道が初めて冬期間も除雪が行われるようになった。この時期は村にとって有史以来最大規模の変革期であったものと思われる)




さて、楢尾隧道をめぐる歴史の旅も、本稿の最初で紹介した「村道からの直接の国道昇格」という記念すべき場面が近付いてきた。
だが、その前に忘れてはならないのが、村道利賀百瀬川線の新道として建設された、全長944m、完全2車線の新楢尾トンネルである。

この隧道が建設された経緯は、昭和40年代後半から利賀村でも盛んに押し進められた観光開発と関係が深い。
同50年代にかけ、百瀬川流域に合掌文化村、五箇山スキー場、少年自然の家などが建設されたことで、村外からも多数の観光客がマイカーで来村するようになったが、彼らにとって旧来の楢尾隧道は非常に不評であったという。

利賀村の道に不慣れな運転手にとって一車線のトンネルは不便なものであった。楢尾トンネルには中間に二ヶ所の待避所があり、村民ならだれもが対向車のライトで瞬時に距離を見極めて、どちらの待避所で待つべきか判断していたが、村外の観光客には不評で、また、トンネルの手前に急坂のカーブがあり、冬季にはスリップをして立ち往生する車も多かった。

こうしたことから村は2車線の新楢尾トンネルの建設を要望し、国や県に対して陳情した。
しかし村道であることから簡単に事は運ばなかったが、やがて関係者の熱意が通じ、昭和57年に県代行工事で起工式が挙行されたのであった。
厳しい財政状況もあり、今度は6年がかりの長い工事となったが、昭和63年7月19日に無事開通式を挙げることが出来た。

この新道が村道から一挙に国道まで上り詰めるのは、それから5年後の平成5年のことであった。
なお以上の経緯を見ても分かるように、今回紹介した楢尾隧道はあくまでも旧村道であり、国道471号の旧道であった時期はない。




ほとんどが村誌からの受け売りだったが、それでも随分と長い話しをしてしまった。
しかし最後くらいは私の感想も述べておこう。


行政センター(旧役場)に置かれた第26・27代
村長野原清治氏の像。楢尾隧道の拡幅完成、
県道除雪の実現、合掌村完成などを指揮した。

利賀村の道路整備の歴史には、村誌が意図的にそういう表現を多用したわけでもないだろうが、とにかくたくさんの「陳情」が出てくる。
そして反対に、村人が独力で隧道を掘ったとか、道を整備したというような“美談”は、余り記述されていない。
少なくとも昭和以降についてはそう思う。

利賀村の歴代村長は次から次へと村の陳情をまとめ上げ、足繁く県庁に通って、それを開陳してきたという記録ばかりだ。
この楢尾隧道をめぐる歴史だけをみても、歴代村長はいったい何度富山参りをしたのかと思う。まず数え切れない回数であろう。
時には「誇大妄想狂」などと顰蹙や失笑を買いながら、片道20kmの山道を麓の駅まで繰り返し繰り返し上り下りしたのである。

便利な都会の住人が、利賀村の整備手法を「他力本願」と評するのは容易いことだ。
だが同じ日本という国に生まれても、生まれながらの暮らしやすさは平等ではない。
かつての利賀村には、日本の広い範囲では当然とされる自由が無かった。それは法的ではなく物理的な制限だった。
例えば、冬に村外へと安全に出掛ける自由は著しく乏しかった。
この村には長らく「ネコホメ」という言葉が伝わっていた。
冬の旅路で不意の吹雪に見舞われると、どこの家も気兼ねなく泊めてくれた。
しかし吹雪は何日たっても吹き止まぬ。遂には家人との話題も尽き果て、「良い猫ですなぁ」と、その家の猫を意味もなく褒めたという、冬の極限状況を言う。



利賀村中心部の眼下、利賀川の
谷間に建設が進む工事用道路。

小さな利賀村の為政は、本当に力強かったと思う。

昭和25年、県サイドから「誇大妄想狂」と一蹴されたとされる、利賀村の中心部と庄川沿いの大牧地区を結ぶ数キロを下らない長大トンネルの構想。
この計画までもが今、実現にむかって工事が進められているのである。

これは平成に入って利賀村が誘致に成功した国土交通省(旧建設省)利賀ダム建設にかかる工事用道路であり、近年の情勢から工事は遅れているようだが、いずれ完成すれば国道156号から利賀村中心部までは冬季でも10分程度で達するようになるであろう。
これは大半がトンネルという、贅と技巧を尽くした山岳道路となる。

また、昭和10年の横貫道路計画で建設が期待された山の神峠のトンネルについては、昭和40年に至ってようやく林道として実現したが、その後も熱心な陳情を続けた結果、林野庁の大規模林道大山福光線に組み込まれ、平成5年には村内最長の新山の神トンネル(全長1430m)を含む完全2車線道路が完成して平村とも短距離で結ばれた。



さて、最後も村誌からの引用で締めたい。
これは楢尾隧道の歴史を含む、村の交通史を述べる章の中の文章だ。
この言葉こそが、利賀村で行われてきた交通整備の真理であると思う。



「政治とは夢の実現である」

これは村の歴代為政者が幾度となく口にしてきた言葉である。


村役場の隣に「道の資料館」を建てちゃうような利賀村は、やっぱり凄い村だった…!







オマケがある。
いや、オマケというには勿体ない代物だ。
本編で使いたかったが、性質上ずっと見られるかは分からないので、ここで紹介するに留めたい。

紹介するのはyoutubeで見る事が出来る動画で、投稿者説明によると昭和30年代に撮影された利賀村の映像だという。
26分強ある白黒映像の冒頭から、いきなり牛岳車道と思しき未舗装路を利賀村行きのバスが走る場面を見る事が出来るが、4:00あたりからは、村の子供達が人道時代の楢尾隧道を通行するという、本稿にとって極めて核心的な模様が描写されている。
それ以外もかつての利賀村のくらしを理解する上で非常に貴重な内容となっているので、ぜひ最後までご覧下さい。

【ほんとの空 〜利賀村秘蔵映像〜 】


4:27付近で、ナレーターが楢尾隧道の長さを330mと述べている。
これは実際の隧道の長さ818mとはかなり差があるのだが、原因は不明である。
ただ、村誌によるとこの隧道の工事は、百瀬川側332mを城岸組が、利賀側500mを野原組が行ったとのことであり、何らかの手違いでナレーション原稿が城岸組建設分の長さとなった可能性がある。

以下の画像はすべて上記映像から切り出したものである。

 ↑百瀬川側の坑口遠望。【現在の風景】  ↑百瀬川側坑口。扁額もある。  ↑洞内にはカンテラの灯りはあるが、素掘。
 ↑洞内から利賀側坑口。
 足元の下は水路なのだろう。
 ↑利賀側坑口。足元の小さな橋は
 【村誌の写真】にもある。
 下は隧道を潜った水路であろう。
 ↑利賀側坑口から見る利賀谷。
 ここに小中学校はまだない。


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