隧道レポート 信州新町日原西の明治隧道捜索作戦

所在地 長野県長野市
探索日 2015.10.07
公開日 2015.10.22


【位置図(マピオン)】

つい先日、ネタを求めて旧版地形図を眺めているとき、秋田の盟友ミリンダ細田氏から電話がかかって来た。その内容は確か他愛ないものであったと記憶している(いや、これは「記憶してない」というのが正確か)が、電話で話しながら目線は旧版地形図を追い続けていた。
そんな友だち甲斐の無い私の目が、怪しく光ったッ!

そのときに見ていたのは、大正元(1912)年測図版5万分1「大町」で、犀(さい)川という大きな川の畔に1本の小さな隧道の記号が描かれているのを見つけたのである。
いわゆる“明治隧道”の発見であるわけだが、単にそれだけであったなら、この日からわずか10日も経ず現地を確認しに行くほどには、テンションも上がらなかっただろう。

だが、私はこの小さな隧道の立地を見た瞬間、ほぼ確定的に廃隧道と予測できた。
明治隧道は大好きだが、それ以上に私を興奮させるのが、“明治隧道の廃隧道”である! 大好物中の大好物!!

これを即座に廃隧道と予測した理由はいくつかあるが、同時に比較しながら眺めていた昭和28(1953)年版において、早くも隧道が旧道らしい状況に追いやられているということが第一であり、さらに――


――現在の最新の地理院地図と比較すると、隧道前後の道もろとも、完全に表記が消えているのを見た時点で、確信にまで変わった。

ところで、先ほど掲載した大正1年と昭和28年の地形図、そして現在の地理院地図という計3枚の新旧地形図を見較べる事で、この犀川沿いの道路事情の大きな変化を感じ取ることが出来る。
具体的には、大正1年の犀川沿いには太く描かれている道が全く存在しなかったのに、昭和28年版では突然に極めて太く描かれた「国道」が出現している。
このことは本編の導入として重要なことなので、もう少し書き加える。

長野県の二大都市圏である長野と松本の間を途中に峠道を介さず結ぶ唯一のルートが、筑摩山地を貫流する犀川に沿ったルートである。
しかし、この川沿いの地形は狭く険しいため、川沿いに車道を作る事は容易でなく、近世末に開始された犀川通船が明治大正を通じて活躍した。
大正11(1922)年に府県道長野飯田線のルートが、従来の善光寺街道(現国道403号など)から犀川沿いに変更されたことを契機に、ようやく県レベルでの本格的な車道の整備が始められた。
たとえば、昭和28年の地形図には犀川を渡る「川口橋」が描かれているが、これは昭和8(1933)年にはじめて架けられたものである。
このような犀川を跨ぐ大きな橋を何本か完成させ、長野から松本まで犀川沿いの車道が全線開通したのは、昭和13(1938)年のことである。

昭和27(1952)年にこの一連の道は一級国道19号に指定され、我が国の最も重要な道路網に組み込まれるという栄誉を手にした。
以後、左図に描かれている日名橋や置原橋の架設など、さらに多くの改良が施され、現在の一般国道19号の坦々たる姿となったのである。
以上は、「角川日本地名辞典」の記述などからまとめた、ごく簡単な犀川の道路改良史である。

今回探索… というか捜索する“明治隧道”は、犀川沿いに現在のような立派な道路が作られ始める以前にあったものである。
したがって、「国道19号の旧道」という表現はもちろん使えない。せいぜい、「府県道長野飯田線の旧道」であり、それさえも、この隧道の歴史の終盤にかかったに過ぎない。
隧道が誕生した当時の路線名などは、名前も知らない一介の里道(現代の市町村道クラス)であった。(地形図でもそのように描かれている)

このようなことを念頭に、地形図から完全に抹殺されてしまった古隧道を探す。
それが今回のテーマである。



橋木から出発する


2015/10/7 7:48 《現在地》 

地形図にこの隧道を見つけてから10日も経ないうちに、私は探索を実行することにした。
車を駐車し、いつもの自転車を降ろしたのは、隧道の擬定地点にほど近い橋木という集落だ。
長野市内ではあるが平成22(2010)年までは上水内郡信州新町に属しており、今でもここは大字信州新町日原西というように、地名に旧町名が入っている。

隧道の擬定地は、この橋木集落と隣の置原集落の間の犀川左岸にあるのだが、いきなりそこへ突撃する前に、犀川に架かる見晴らしの良い橋の上から、擬定地付近の地形を確認してみることにした。
そしてその橋(橋木橋という)から眺めた橋木集落の写真がこれ(←)だ。

なんか天気予報だと今日は快晴らしいのだが、相当低くに雲が垂れ込めていて、川の水量も充ち満ちていて多い。
慣れない土地での探索の始まりとしては、少し不安になる雰囲気だった。



そしてそんな漠然とした不安は、

この橋の上から眺めた“現実の光景”(→)の前で、

大きな塊となって、前途に覆い被さってきたのである。


橋木と置原の間の現在の地図に描かれていない旧道の長さは、せいぜい500mほどであり、簡単な廃道ならば数分で踏破出来る目論見であった。
しかし、この眺めを見た時点で、「簡単な廃道」ではないことが、確信された。
それどころか、こちら側からは、隧道擬定地まで辿り着ける気がしない!!

まあ、こう言う状況をある程度覚悟してはいた。
これまで色々の廃道を見てきたが、その立地条件として、大河の川縁ほどに劣悪な環境は、あまりない。
特にこのような水流の衝にあたる斜面の廃道は、時間と共に道形が侵食され、やがて完全に消えてしまうのである。

当初は素直に橋木集落から擬定地を目指すつもりであったが、この区間の完全踏破は極めて困難であると同時に、遺構発見の期待も薄いといわざるを得ないので、ここは迂回して反対の置原集落側から擬定地を目指す事に方針を転換した。



7:52 《現在地》

橋木橋を渡って川口集落へ入る。
ここも今は長野市内だが、平成17(2005)年までは更級郡大岡村に属していた。現在は長野市大字大岡甲という。

集落の山手を国道19号が通っており、そこから川岸にむかって緩やかに傾斜している舌状地に家や農地が点在している。
このように集落の立地に適した地形を持つ右岸に対し、隧道擬定地(=旧道所在地)の左岸は犀川の蛇行する流れの衝にあたっていて、現在進行形で激しい浸食を受けている。

その鋭く切り立った川崖は、集落の家並みの向こうにもよく見えるのだが、さて、あそこが目的地だという私には、なかなか重苦しい眺めだ…。

そもそも、探すべき隧道は、今も残っているのだろうか……?



隧道の在処をさらに詳細に遠望すべく、川口集落の川縁にある堤防にやってきた。

ここから真っ正面に見る対岸の辺りが、隧道擬定地付近である。
さきほど橋木橋の上から見た“道の跡”らしきラインの先がどうなっているのか。
ここで確認が出来るはずだ。






これは…

ちょっと厳しいかも知れないな…。

まず、対岸の斜面に見える“道の跡”っぽいラインが、本当にそうだと仮定した場合についてだが、この場合、残念ながら隧道が現存している期待度は、ちょっと厳しいと思う。
既に道があった斜面ごと、隧道も失われた可能性がある。

ただ、完全に絶望というわけではない。
“道の跡”っぽいラインの正体が単に地層の模様であって、道はもっと高い森の中に隠れているとしたら、まだ可能性はある。



また、明確な道や隧道は見あたらないものの、岸辺に沿ってかなりの量のコンクリートの残骸が散乱しているのが気になった。(この写真の左右にも広く点在)

これはなんだろうか。

私には、浸食されて崩された旧道の護岸擁壁の残骸のように見えるのだが、最早全く原形を留めていないので確信はない。
それに、仮に護岸擁壁の残骸だとしても、遙か上流から流されてきたものである可能性も棄てきれない。

果たして、この対岸のどこに道があったのか。
隧道を探す以前に、その大前提となる道の位置さえ疑わしいという…、なんとも苦しい立ち上がりであった。




ちなみに、いま見ている対岸の地形は、ちょうどこの図の「擬定エリア」の辺りである。

犀川左岸の岩壁のすぐ裏を、支流の柳久保川が流れているため、両河川に挟まれた岬状の細長い地形がある。
目指す明治隧道は、この岬状の地形を潜っていたと予想しているのだが、今のところ、明確な痕跡は見出せていない。

だがまだ諦めるには早い。
続いては、柳久保川の流れているこの裏側、すなわち置原集落側から旧道の跡を探し、それを辿ってみることにしよう。
そうすれば、隧道についても自ずと決着が付くはずだ。

再び、移動開始。



河川敷から国道19号に戻り、北へと向かうと、間もなく川口橋に差し掛かる。

この橋は冒頭の解説にも名前が登場しているが、昭和8(1933)年に当時の府県道長野飯田線の一部として、はじめて架設されたという記録がある。
現在架かっている橋は2代目で、昭和56(1981)年に架け替えられたものだ。
旧橋は現在の橋のすぐ上流側に並行していたようで、古いコンクリート製の橋台が残っていた。
全長120mほどで、昭和初期の橋としては、かなりの規模である。
(なお、路上に掲げられている看板だとアーチ橋のようだが、実際は単純な鋼桁橋である。ちなみに旧橋は鋼プラットトラスだった。)

現在の川口橋は平凡な現代の橋だが、先代川口橋の架設が、捜索中の隧道から「府県道」の看板を奪ったはずで、この両者の関係性は深い。



8:00 《現在地》

川口橋を渡ると再び犀川左岸の旧信州新町の領分に入り、置原集落の入口に差し掛かる。そしてここに写真の分岐地点がある。

直進が現在の国道19号で、奥にも橋が見えるが、あの置原橋と、そのすぐ先にある日名橋で、矢継ぎ早に犀川を飛び越えて、川の蛇行を最大限にショートカットして進む。開通年ははっきりしないが、昭和末から平成初期であろう。
それ以前の旧道は、ここを左折して後は素直に犀川の左岸を進む。

目指す隧道擬定地への最短ルートは左折(旧道)だが、ちょっと寄り道で、現道をこのまま進んでみることにした。


そのまま現道を進むと、やはり橋長150m前後はある置原橋と日名橋を連続で渡り、直線的に右岸と左岸を行き来するのであるが、橋と橋の間で一瞬だけ取り付く右岸に、変わった名前のバス停がある。
その名も、吐唄。
字面からして特徴的で、明らかに難読地名なのだが、読みは「とっと」というらしい。旧信州新町に属する小さな集落である。
(この集落名は冒頭で紹介した旧地形図にも書かれており、大正1年版はふりがなを「トットー」、昭和28年版は「トットウ」としている)
この変わった地名は、全国にある「とどろき」「どどめき」などの音を持つ地名と同じく、川がドドドと流れる音に由来するのだろうか?



8:05 《現在地》

さて、更に進んで日名橋の北側橋頭へやって来た。
ここは先ほど川口橋の北側で分かれた旧国道と再び合流する地点である。
旧版地形図上で現在地を示せば【ここ】だ。

これから、この旧国道を通って隧道擬定地点へ向かおうと思う。
だが、途中の置原集落までは、今の置原橋や日名橋が開通するまで国道19号だった区間だから、道はちゃんとしている。
しかし元を辿れば、ここもまた隧道と同じ時代の道である。
何かしら古い時代の遺物が残っているのではないか、そんな期待を持ってこの寄り道をしている。




旧国道は、犀川左岸の険しい斜面に沿って、やや高巻き気味に通じており、路肩のガードレールを覗き込めば、ほんの数分前に渡った現国道の日名橋や置原橋を一望にする事が出来た。
橋と橋の間にある集落が、前述した吐唄集落である。

今では川の両岸とも同じ長野市に属しているが、ほんの数年前までは別々の自治体だった。
そしてその状態が、明治からずっと続いていた。
暮らしの自然なまとまりが自治体の原点であるならば、このような大きな川によって隔てられた両岸が異なる自治体に属するのは、ごく自然なことであったのだ。
しかし、現代の土木技術が実現したこのような景色は、川をして境界とする意味を多分に消失させている。



対岸の景色を楽しみながら進んでいくと、行く手に一瞬トンネルを思わせる闇が現れた。
しかしこれはトンネルではなく、落石覆い(ロックシェッド)だった。

そして、その向こうに見える穏やかな河岸平野にあるのが、置原集落だ。
この辺りの地形は終始こんな感じである。筑摩山地に刻まれた大きな河谷の底を犀川が蛇行し、両岸に互い違いの平地を形作っている。
こうした地形は、現代ならば多数の橋を架けることにより、集落だけを選んで行くという“おいしいとこ取り”が可能だが、それが出来なかった昔には、非常に陸路の発展を阻む特性を持っていた。
右岸と左岸の集落間で、どちらに新道を通すかという競争が生じやすく、それが新道全体の計画を遅らせることがある。
また、どちらの岸に道を付けたとしても、集落と集落の間では、この場所や隧道擬定地付近のような、川の流れの衝にあたる“難場”を克服しなければならず、道を作った後も洪水の度に削られ、維持費が嵩んだ。
自然と古い陸路は、このような山中の蛇行する大河川を嫌い、そこを専ら河川交通の場として使っていたのである。
逆に河川交通にとっては、蛇行する大河は流れが比較的に緩やかで、使いやすかった。

…そんな地域の特性を考えさせられる、廃道探索の前哨戦的旧道探索だった。



旧国道にあった古ぼけたロックシェッド。

銘板などはなく、名称や竣工年は不明だが、昭和40〜50年代のものだろう。
今も現役で頑張ってはいるが、山側のコンクリートの吹き付けられた法面は、ひび割れて浮き上がり、今にも崩れて来そうである。
やはり旧道に降格して、手入れが不足しているのだろう。



8:10 《現在地》

置原集落内にある分岐地点にやってきた。
直進する幅の広い道が旧国道で、右折の狭い道が、隧道擬定地へ向かう道である。
旧版地形図だと、【ここ】だ。

この分岐地点を最も完結に説明する適切な表現は、旧道と旧々道の分岐地点というものである。
昭和8年に川口橋が完成するまで直進する道は存在せず、府県道長野飯田線は、自然な形で右へ通じていたはずである。

それでは、そろそろいろいろ温まってきたので、明治隧道を目指して、旧々道へいきませう。




旧々道へ入ると、すぐに置原のバス停と、多くの石造物が私を出迎えた。
石造物の内訳は、庚申塔や二十三夜塔といった石仏、石灯籠、そして耕地整理記念碑である。
最後の碑以外は近世以前のもので、この道の長い歴史の一端を感じさせるものがあった。




集落の端まで緩やかに登ると、そこからは犀川を見下ろす急斜面の狭路となった。
現在の地図を見ると、道はこれから柳久保川の谷に入り、信級(のぶしな)地区へ通じている。
これは長野市営のバスも通る市道なのだが、いつまでもこの道を辿って行くわけにはいかないはずだ。

なお、出発した時点では気の滅入るようなどんより空だったが、どうやらあれは雨雲ではなく、快晴の朝の放射冷却が引き起こした、谷に蓋する朝霧であったようだ。もし高い山の上からこの一帯を眺めたならば、綺麗な雲海を見る事が出来ただろう。
今は特に風が押し流しているわけでもないのに、白雲は急激に薄まりつつあり、そこかしこの山肌に、遅れてやって来た朝日が眩しく照り始めている。
間もなく本格的な探索があると思うが、良い気分で始められそうだ。



8:15 《現在地》【旧地形図での現在地】

良いニュースと、良くないニュースが、同時にやってきた。
良いニュースは、ほんの少し前に予感したとおり、天候が申し分なくなったこと。
良くないニュースは、このカーブの辺りが隧道擬定地へと通じる旧旧道の入口と思われるのに、それらしい分岐が見あたらないこと。

隧道が「ある」のを確かめるのはシンプルだ。見つけてしまえば済むのだから。
だが、何らかの事情で失われてしまった隧道について、それを確かに「ない」と確信するのは遙かに難しい。
ローラー作戦的に広い範囲を捜索する必要があり、しばしば現存しない物を探しまわって、徒労に近い時間を過ごすことになる。
しかしそれは、オブローディングに新たな成果を求めようとするならば、避けがたいことである。徒労を覚悟して、稀にある成果を探すのだ。

…… と も か く !

まずは「道」を見つけなければ始まらない!



路肩から見渡す、柳久保川の深い谷と、取り付く島のない対岸の地形。

このどこかに、明治の道や隧道が残っているのか、

それとも、残っていないのか。


果たして私は無事に、白黒を付けられるのだろうか。




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