隧道レポート 信州新町日原西の明治隧道捜索作戦 中編

所在地 長野県長野市
探索日 2015.10.07
公開日 2015.10.28

探せ探せ探せ!道を探せ!隧道を探せ!!


2015/10/7 8:15 《現在地》【旧地形図での現在地】

ここは置原から信級(のぶしな)へ通じる市道の途中であるが、この写真のカーブの地点から左方向へ分岐する道があって欲しい。
自転車を停めて、じっくりと写真の「赤丸」の辺りを観察する。

旧地形図では、この辺りで柳久保川を渡って橋木へ通じる道があり、その途中に目指す隧道が描かれているのだ。
距離的にはもう300m以内には近付いているが、擬定地へ行くためには最低限、この柳久保川の対岸へ行く必要がある。
もちろん、かつては橋が架かっていたはずで、その痕跡でも見つける事が出来れば、隧道(あるいはその跡地…)へ導かれる未来も見える。

だが、現在の地形図からは綺麗さっぱり消え去ってしまった道は、そう易々と姿を現しはしないようだ。路上からの観察では、分岐する道を発見しなかった。



だが、見つからない道の代わりになる発見かは不明だが、「赤丸」の辺りの草むらには、なぜか無数の石材がごろごろと転がっていた。
なかば土と草に埋もれていて全体の数は把握できないが、10はあるだろう。
石材と表現したとおり、単なる自然石ではあり得ない。
いずれも長さ50cm、太さ20cm四方ほどに成形された角材で、表面には手作業で削ったときに残る鑿の痕が鮮明に残っていた。

明らかに現在の鋪装された市道に似つかわしくない、廃石材の山。
ここが明治隧道の擬定地に近いことを考えれば、この石材の正体に関する妄想は捗る。
あるいは、隧道よりもっと近くにあっただろう橋に関係するものなのか。

いずれにせよ、現道よりも遙かに古い時代の土木構造物を想像させるものではある。
と同時に、それが“散乱”しているという事実は、“解体”という残念な末路を想起させもした。



探し求めている明治期の里道(現在の国道19号の前身である府県道長野飯田線のさらに旧道)は、これまで辿ってきた(現代の)市道と完全に重なっていたとは限らない。
大体近い位置を通ってはいたと思うが、両者の路面が同じ高さで接するような“分岐”地点が、そもそも存在しなかった可能性もある。

とりあえず自転車を残し、石材の山を踏み、路外へ出た。
周辺の地形をさらに観察したい。
まだ秋の深まりは不十分で、濃い緑の路傍へと分け入るのには少しばかり覚悟を要したが、どこかで道を踏み外さなかったら、今回の探索はその答えに辿り着けなさそうだ。




ここから先の探索ルートを文章と写真だけで説明するのは難しいので、大縮尺に拡大した地形図(→)を用いて、私がここで考えていたルートの方針を説明しようと思う。

現在地点と隧道擬定エリアを隔てているのは柳久保川という小さな谷で、かなり激しく蛇行して流れている。
旧地形図ではこの蛇行が省略されているので、道がどこで川を渡っていたのか不明だが、とりあえず対岸へ辿りつくことを第一目標に、現在地から西へと延びる川の蛇行に囲まれた小尾根の上に進路を取ろうと思う。
このルートならば、どこかで隧道へ通じる道と出会える公算が高いと踏んだわけである。




路外へ出ると、そこに待ち受けていたのは草藪や森林ではなく、猛烈な密度の竹藪だった。
そしてその笹藪の中には、一筋の刈り払われた通路が、秘かに存在していた。

それは私が求める“明治道”というレベルのものでは無く、あくまでも人一人がぎりぎり通れる幅を鎌で払っただけの踏み跡だが、極めて視界の悪い笹藪では進路を選択する余地は無く、自然と私の進路となった。おそらく、山仕事のための作業道か何かだろう。

そして市道から10mほど離れると、右手に急な崖が現れ、柳久保川の清んだ水面に落ちていた。
今自分は、痩せ馬の背のような細い尾根の上にいるのである。
左側は笹藪で見通せないが、やはり柳久保川に向かって急な下りの斜面である。

刈払い道は間もなく、尾根から左へ逸れて下り始めた。
私もそれに倣う。



刈払い道に従って数メートル下ると、そこにはやや平らな場所があった。
まだ河床ではなく、斜面の中腹である。
だが、猛烈な笹藪の一角を占めるその場所は、明らかに周辺の地形から浮いた平らさがあり、しかもそれは斜面に沿って帯状の連なりを持っていた。

こういうものを見たときに、我々オブローダーが真っ先に疑い、また期待するのは、「これは道の跡ではないか?」ということである。

果たしてこれは、私の目に道の跡として映った。
あまりにも笹藪の密度が濃く、立っていては1m先も見通せないが、姿勢を低くして見ると、平場は細長く尾根に沿うようにして、まさに、私が隧道を疑う方向へ向かって、延びていたのである。

写真ではほとんど判別出来ないであろうが、私はこの平場の行方を確かめる事にした。




が、ここで馬鹿正直に平場を辿るのは、良手では無いように思われた。
この藪の中で唯一まともな速度で移動出来る刈払い道は、まるで平場など無かったもののようにあえなくそれを放棄し、平場よりも下にある河床近くへ下っていたのである。

私は刈払い道に従って河床まで降り、そこから平場の行く末を確かめる事にした。
下から見る平場は、ちょうど斜面を横切る日影の断線となって、思いのほかよく見えたのである。
そしてこの観察の結果、いよいよ平場は尾根の先端へ緩やかに下りながら続いている事が了解された。
その先にあるのは、間違いなく柳久保川を渡る橋であろう。

位置的に見ても、これこそが探していた府県道長野飯田線(国道19号の前身)である可能性は高いと思われた。
遂に、隧道があった道の明確な遺構を捉えたか!!



谷底の笹藪を少し歩くと、薄暗い川の流れる畔に出た。柳久保川である。
刈払い道を辿っていたら自然と自然とそうなったのだが、そこに橋などと言う上等なものは見あたらず、それどころか刈払い道自体が行方知れずとなった。
すくなくとも、素直に川を渡って対岸へ通じているわけでないことは、そこが切り立った崖になっていた事から予想できた。
となると、道の続きはこの河原そのものということなのだろうか。

私は先ほど見た“平場”の進路を予想しつつ、それが川を渡っていたであろう地点、すなわち川の蛇行するカーブの先端(=尾根の突端)へ向けて狭い河原を歩いた。


8:20 《現在地》

河原に出てから1分足らずで、呆気なく川のカーブの先端に辿りついた。
写真は下流側からカーブを見通したもので、右側に流れが見切れていくところが先端である。

そして正面には明るい朝日に照らされた小さい尾根の凹みが見えるが、あれが少し前に犀川の対岸から遠望した、「隧道擬定地」付近の痩せ尾根の裏側と思われる。

ちなみに、“橋”はやはり見あたらなかった。廃道になってから時間が経過し過ぎたのか、そもそも道がここへは来ていないのか?
架かっている橋は無論、橋台や橋脚の残骸さえ見あたらず、先ほどせっかく見つけた道跡(平場)の行方を見失った…



…かと思いきや!

対岸の水際に平場が忽然と出現していた!!

橋台も橋脚も見あたらなかったが、ほんの少し前まで右岸に平場はなかったのであるから、さっき左岸に目撃した平場が“消えてしまった橋”を渡って、ここに移動してきたのだと考えるよりない。また、これが刈払い道の続きでないことは、ただ地面の表面を刈り払っただけの道とは明らかに違う、明確な土工の存在が教えていた。

道を辿れば自ずと隧道の跡地は判明し、その現状(現存 or 消失)を確定させることが出来る。
ここでの道の発見は、大きな前進だった。



平場の続く先を求め、私が興奮と共に走らせた視線は、立ち位置を少しずつ変えながら何度か同じことを繰り返してみても、決まって一つのポイントに行き着いた。

それは先ほども述べた痩せ尾根の凹んだ所、その直下だった。

まさに地形的に見れば最も隧道の存在が疑われる地点ではあるが、既にその犀川側に開口する坑口が存在しない事が明らかになってしまっている。

これで隧道の所在地は、擬定“エリア”ではなく擬定“地点”と言えるくらいにまで狭められた。

紛れもなく、家に居たままでは成し遂げられなかった、大きな成果、

しかし同時に……

落胆を余儀なくされる(よくある)結末が、すぐそこに迫っていることを予感した。



柳久保川右岸に現れた平場に“上陸”した。

写真はスタート地点の市道方向を振り返って撮影。
左岸の猛烈な笹藪がまるで幻ででもあったかのように、ここには凛として侵されない明瞭な道形が残っていた。
辺りは鬱蒼と高木が生い茂り、地面にはほとんど光が届いていない。
飛び越えられそうな小川を挟んで、両岸の様相はあまりにも違っていた。

写真に重ねて、府県道長野飯田線の失われた線形を再現してみた。
市道からここまでの距離はわずか150mほどに過ぎないが、外からは全く窺い知れない空間が、この薄暗い谷底に隠されていた。
そしてその一端が、隧道の擬定地点へと通じている。




この路盤の位置、高さ、進路、

もう、間違いない。

隧道“擬定”地点は、いま後少し前進することで、隧道“跡地”へと確定的に昇格するであろう。

現在位置からは、赤線で示した尾根の凹みのすぐ手前に、水色の線で示した掘り割りの冒頭部が見えている。
その奥は見通せないが、この状況の先に予測されるものは、隧道しか無い。
いま、今回の探索ではじめて、まともに“廃道”を歩いている。
柳久保川によって削り取られつつある河岸の廃道を前進して、掘り割りの入口を目指した。



やってきた、掘り割りの入口。

道はここで左に進路を転じ、柳久保川に背を向ける。
そこに掘り割りがあり、さらに先には削り残されたように小さな尾根が、その行く手を阻む。
尾根の上の凹んだ部分からは、まばゆい朝日だけでなく、大量の水が岸の凹凸にぶつかるときに奏でる音が間断なく聞こえていた。
人はそれを川の音という。
ささやかな柳久保川は奏でていない、大河の音。
このことは、尾根の裏側のごく至近の距離に犀川の岸辺があることを教えていた。

やはり隧道は、この薄っぺらな尾根を穿っていたのか。
これまでに見てきたいくつかの場面が、1本の道の有り様として、堅い繋がりを持って脳内に整理されていく。
惜しむらくは、目的の隧道が既に埋もれてしまっていたことか…。



え? 開口部?




8:27 《現在地》

隧道残ってるぅッ!!


はっきり言って、土木遺産的な価値はほとんど無さそうな(崩壊によっても価値が失われている)土塊(つちくれ)の穴。
幾ら私が道路を褒めて育てる気質の持ち主だとしても、この隧道の技術的な価値を讃美する言葉はあまり浮かばない。

しかし、私にとってはそれでも十分だ。ここに隧道があったという、なによりも堅い証拠を掴んだ意義は大きい。
最も文字通りの意味での“求道者”にとって、その現物を目にしたという成果に勝るものは無いと感じる。

両側を川に切られたこの特異な状況で、隧道が完全に失われていなかった幸運に感謝しながら、
またひとつ明治隧道をこの手で暴き出すことが出来た喜びに、一人舞い踊った。




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