隧道レポート 柏崎市の谷根隧道 第3回

所在地 新潟県柏崎市
探索日 2020.03.07
公開日 2021.05.09

 藪深き新道を詰めて、隧道擬定地を目指す (東口捜索)



ステージ2を始めよう!


2020/3/7 11:59

探索は、ここが折り返し地点だ。
先に“古道”で峠を越えてきたが、今度は“新道”で同じ峠へと引き返す。そして隧道で峠を越えて、スタート地点である谷根へ帰る。
もっとも、その明治生まれの隧道が現存しているかどうかは、不明だった。

左図は、レポートの冒頭でも紹介しているが、明治44(1911)年の地形図と、最新の地理院地図の比較である。
明治の地形図には、地理院地図からは抹消された峠の隧道が描かれている。
そこへ通じる道ももちろん描かれており、その大部分が地理院地図にも受け継がれている。つまり、隧道だけが消滅したような表現になっている。


(→)
で、新道へ最初の数歩を踏み出したのが、この画像。
ここは柏崎だよと言われなければ、雪国を感じない景色だ。雰囲気だけならめっちゃ房総、あるいは紀伊半島とかの南国っぽい。しかもこれ5月上旬なのに、なんか妙に緑が濃い。
ちなみに、分岐地点に道標とか立て札とか石仏とか、そういう目印は全く見当らなかった。

肝心なのは道の状況だが、やっぱりいきなり良くない。
歩いて通れないわけではないが、自転車を持ち込まなかったことに即座に安堵するレベルだ。路面と言えるほど平らな場所がない。全体が斜面化してしまっている。
そんな道が、沢から付かず離れずに上流を目指していく。



冒頭、かなり荒れていたが、少し進むと良く原形を留めていると思われるような場面があった。
道幅が3mくらいある。
明治時代の車道だったとしたら十分な幅であるし、山側の法面が綺麗に切り取られているのが、一定の道幅を確保したいという強い思惑を感じさせた。
なるほどこれは、峠に隧道を掘り抜くほどの“意志力”を持った道づくりだったような気がしてくる。

もっとも、これが本当に明治時代のままの姿であるかは分からない。
先ほどの旧地形図をよく見ると分かるが、当時この谷にはずっと奥まで「田んぼ」があったようだ。そこに集落は描かれていないが、近隣からの出作りが行われていたと思われる。
そしておそらくだが、全国平均的な傾向に照らして、この耕作は戦後しばらくまで続けられていたと思う。
そうなると、仮に隧道の廃止が早かったとしても、耕作が続く限り、そこまでの道は維持され続けたことだろう。



12:08 《現在地》

分岐を出て10分後、谷全体がやや広く明るくなり、7〜8m下の谷底や対岸の斜面に小さな廃田の跡が幾つも現れ始めた。

GPSで現在地を見ると、10分で150m進んでいた。
自転車のような大荷物がないことを踏まえると、時速1kmに満たないこのペースはだいぶ鈍足だ。
春の陽気で私があまり急いでいないのも理由の1つだが、最大の理由は、全般的に藪がうるさいことである。
踏破の難しい場面はないが、笹、ツタ、倒木、稀にイバラといういつもの藪メンツ(いつメン)が、ほぼ途切れず邪魔をしている。

書き忘れていたが、分岐から隧道擬定地までの推定距離は約1kmである。
決して長い距離ではないが、私には、この谷の藪に苦しめられたひろみず氏のレポートを読んだという“記憶”がある。
藪を恐れる私は、もっとも藪を制しやすいこの春先を選んで探索している。



12:19

さらに10分後、現在地は省略するが、ほぼ同じペースで前進しており、分岐から300m付近の位置まで来た。

この間、特に難所も見どころもなく、淡々と藪漕ぎを進めていた。勾配もあまりなく、坦々とした道だ。
写真は、久々に道形がよく現われてる場面を見つけたので撮影した。

こうして道形がしっかりしている場所でも、自動車の轍とか、砂利とか、或いはガードレールとか、そういう現代道路的なものは全く見ない。
かといって、古道で私を迎えてくれたような石仏の姿もなく、全体として淡泊な仕事道……、まさに農道という印象だった。

(→)
さらに数分進んだ辺りで撮影。
いつのまにか、思いのほか谷底との比高が出来ていて、一応滑落注意の高さだが、基本的に常に手掛かりとなる障害物が多いので、怖さを感じる場面はなかった。

こうして見下ろすと、穏やかな小川の両側には猫額の平地があって、かつて田が営まれていたようだ。
道は洪水を避ける意図か、耕地の潰れ地を避ける意図か、その両方からか、出来るだけ谷底ではなく斜面を通るように作られているようだった。


12:25 《現在地》

分岐出発から25分で、約400m前進できた。
着実に目的地へ近づいているが、まだまだ道半ばといったところ。隧道に近づいているような気配も全くしない。

谷がさらに広くなったようで、道が谷底に近づいている。
道の周りは放置された植林地になっており、その林床の一画に苔生したコンクリート製の水場(井戸?)を見つけた。雨の直後ではないはずだが、なみなみと水が蓄えられており、昔人の息づかいを感じるようだった。




この水場のすぐ近くで、さらに発見があった。
何かの機械のパーツが転がっていた。金属製で、長辺70cmくらいあって結構大きかった記憶がある。
咄嗟にエンジンのパーツかと思ったが、撮影したものを帰宅後に調べてみた。しかし独力では何も分からず、ツイッターで情報提供を呼びかけたところ多くのコメントを頂戴し、おそらく正体が判明した。

tak氏@huagdkmtツイートによると、これは興国農機という農機具メーカーが生産した耕耘機「オネスト2型理想号」の部品であるようだ。
形状や、陽刻された「New Tractor KōNō」という文字が一致する。
正確な製造時期は不明だが、ヤフオクで取引された昭和33(1958)年版のパンフレットにも掲載されているので、その頃であろう。

先ほど推理したとおり、昭和30年代以降まで耕作が続けられていたのは間違いないようだ。



12:32

“水場”の先は、道は非常に谷底に近いところを通るようになり、一層藪が深くなった。
この写真のところは、左端のよく分からない斜面が道なのだが、藪が濃い上に、土が湿気っていて滑りやすく、辟易した。

こうなるとついつい、すぐ下にある田んぼ跡を歩いた方が楽そうに思ってしまうが、所々に水が見えている春先の廃田は、大体がトラップだ。
底なし沼とまではいかなくても、長靴くらいは簡単に銜え込んで下半身が絶望的な状況に陥ることが少なくない。よほどのことがなければ入らない方が無難である。

……なんて、半分やせ我慢を口にしながら、忠実に忠実に、道を辿っていった……。




12:37 《現在地》

分岐地点から約40分。
ここでようやく、分岐から隧道擬定地までの間において唯一、地理院地図上での特筆すべき地点といえる“奥の分岐”に到達した。

この分岐は明治の地形図にはないが、地形との関わりにおいても特筆すべき地点で、このすぐ先で薬師堂川(仮称)を渡って右岸から左岸へ移り、そこから隧道のある高さへ登っていく。

隧道を目指す上では非常に重要な分岐地点だが、注意深く見なければ、分岐の存在に気付かず終わるかも知れない。
しかも、隧道へ通じているだろう右の道は、特に分かりづらかった。



分岐のすぐ先で、カラフルな空き缶を見つけた。

今は売っているところを見ない「カルピスソーダ」の「オレンジ味」で、アルミ缶なのでそこまで古くはないと思ったが、飲み口はステイオンタブではなく分離式のプルタブだった。おそらく1990年代の空き缶だろう。
このような空き缶1つをわざわざ取り上げたくなるほど、ゴミの少ない廃道だった。




右の道を選ぶと、すぐに沢を横断しにかかった。
低い築堤がカーブしながら対岸へ向かっていく様子が、草が枯れ雪の重みで潰されたこの状況では、辛うじて見て取れた。
夏場などは猛烈な草藪に溺れ、この道は全く見えなくなっているだろう。

万が一にも橋なんか残っていないだろうなと、ほとんど諦めの心境で横断地点に臨むと……



橋桁はおろか、橋台さえなく、ただ笹に覆われた土の岸辺が、春の小川に洗われているばかりであった。

まあ、そもそもここは大層な橋を架けるような地形ではなく、対岸に道形が続いているだけで満足しなければならないと、そう思い直す。

ともかく、これで道は初めて隧道がある側の岸に取り付いたのであり、1時間前に古道を歩いた尾根を潜る“たった1つの地点”を目指して、ここから登り始めることになる。
ここからは、今まで以上に道の周りに目を光らせてやる必要がある。
隧道に繋がるいかなる手掛かりも見逃してはならない。
見つけられないことと、見つからないのは現存しないからだと確信できる発見をすることの差は、探索者にとってあまりにも大きい。




ぐわーっ!!
激藪だーっ!

これでも時期が良いために辛うじて道の位置が斜面に見えるが、笹と灌木とツタ植物が絡み合った最悪クラスの藪道が、小川の対岸を伝って上っていくのが見えた。
耕作のため比較的遅くまで使われていた区間を外れ、より廃止の早い廃道区間に入った印象だ。

「いかなる手掛かりも見逃してはならない」と決意したばかりだが、さすがにここが隧道ということはないはずなので、この路盤には登らず、下の休耕地をちょっとだけ迂回して進もう。
もし下から見えなくなったら無理矢理でもよじ登って路盤へ復帰するつもり。




12:53 《現在地》

藪!ヤブ!やぶ! 激藪!!!

50〜100mほどの間、谷底の休耕地を迂回して進んでいたが、
路盤との比高が大きくなってきたので、意を決して復帰したのが、この場面。

これは、時期を考えないとマジで発狂しそうな激藪だ。
距離がさほど長くないことだけが、救いだろう…。

ともかく、一度よじ登った以上は、もう迂回はしないつもり。
あとはこの道に食らいついて、隧道を極めるぞ!



幸いにも、猛烈と表現すべき密度の藪は、
私が路盤に復帰した地点から間もなく抜け出すことが出来た。

同時に、道は薬師堂川から外れ、古道のある尾根に刻まれた小さな枝谷に入る。
するとこの写真の通り、道の進路は尾根に正対するようになる。

ここに初めて、隧道の存在を期待させる場面が登場した。



だが、そのまま尾根の直下…、
隧道があるならここぞと思える領域に近づいていくと……、

またも猛烈な笹藪!!!

これは、ひろみず氏の苦闘を再現しているのか……。
なんとも間の悪さを感じてしまう展開に、少しテンションが下がる。
こんな藪の中で、一体私は何を探せるだろうかと、不安になる。

しかし、足元の道形をひたすら忠実に辿っていくと――



12:58 《現在地》

山に突き当たった。

いかにも絵に描いたような隧道跡地であった。

しかも、末端はいかにも坑口が埋れた跡のように、漏斗状に凹んでいた。


そのうえ…

地理院地図の道が、ここで終わっている。


以上のことを、総合的に判断して―

ここが埋没した隧道擬定地である。



――と誤認する恐れが大きい“魔の谷”だった。

そう。

前述の展開はフェイクであり、実際はこの谷は隧道擬定地ではなく、
地理院地図にはない道がこのようにターンして、次の谷へ向かっている。


このことは、事前に新旧の地形図を比較して、ここが隧道擬定地の谷ではないことを予期しない場合や、
藪の時期が悪く、現地でこの写真に写る道が見いだせない場合には、典型的にハマりがちな罠だと思う。
典型的な隧道擬定地的な地形と、地理院地図の中途半端な表記が作り出した、悪辣な罠。



罠地を脱し、枝谷と枝谷の間の小尾根を切り返して、仕切り直し。

ここに来て急に展開が早いが、

次の枝谷の奥こそが、私の真の隧道擬定地だ。

谷根を出発してから2時間半、新道に入ってからちょうど1時間。

この探索における最大の決着が、迫った。



――今回、隧道の有無を伝える初報を、現地一発撮りの動画でご覧いただきたい――


↓↓↓



続く




お読みいただきありがとうございます。
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口

このレポートの最終回ないし最新回の
「この位置」に、レポートへの採点とコメント入力が出来る欄を用意しています。
あなたの評価、感想、体験談などを、ぜひ教えてください。



【トップページに戻る】