隧道レポート 太郎丸隧道(仮称) 解説編

所在地 新潟県長岡市
探索日 2012.06.01
公開日 2012.12.31


現地探索の結果、現在の地形図に描かれている太郎丸隧道(仮称)(以下、「新隧道」と呼称)の近くには、これに並行する旧隧道と、さらに古いと思われる旧旧道(掘割)の存在が確認された。

また、太郎丸集落での2人の古老からの聞き取り調査によって、新旧の隧道については以下の情報がもたらされた。

新隧道に関するAさんの情報>
  • 戦前からあった。
  • 山の裏側の田んぼへ行くための通路だった。
  • 掘ったのは太郎丸集落の住民たち。
  • 丑松洞門は法末の人々が掘ったもので、太郎丸隧道とは無関係。
新隧道に関するBさんの情報>
  • 昭和36〜37年頃に2年くらいかけて太郎丸の住民が掘った。
  • 失業対策事業だったのではないか。
旧隧道に関するBさんの情報>
  • 荷馬車が通る隧道で、幅6尺(1.8m)くらいあった。
  • だいぶ前に崩れてしまった。

以上は全てレポート本編で公開済みの情報であるが、情報はこれで全てである。
探索を終えても謎が沢山残った。
新隧道についても、旧隧道についても、旧旧道についても、分からない事が沢山ある。
そこで私は『小国町史(小国町史編集委員会1976)』と『旧版地形図』にこの謎解きの答えを託した。

前者は大著でありながら、太郎丸や法末の隧道について、いかなる記述も持っていなかった。
これにより、隧道の正確な竣工年やその経緯を知るためには、再び現地へ赴く意外に無いという事を覚悟したのであったが、そんなときに(このレポートの第6回公開直後だった)、ある読者さんからメールが届いた。

メールを下さったSKAIPE氏は太郎丸集落の在住者で、自宅にあった『太郎丸の歴史を探る』という書物の中に、「隧道に関する話が少し書いてあったので、(誌面を撮影した)写真を添付したいと思います」とあった。そしてメールには数枚の画像ファイルが添付されていた。


そして、興奮しながら添付ファイルを眺めてみると……


いろいろ分かっちゃった〜!

SKAIPEさん、マジありがとうございます!




(『太郎丸の歴史を探る p341〜345』より引用。以下全ての引用元同じ。)

小国に数少ない隧道の一つに、太郎丸の隧道がある。

同書はここから約4ページ分にわたって太郎丸隧道とその周辺の道路の歴史について解説しているが、隧道名は特に明示していない。
しかし地域内に隧道が複数あるのでない限り、それを名前で区別する必要が無いのは当然である。(太郎丸の場合は二つあるが、新隧道と旧隧道で通じるだろう。)
また上記の表現から見て、敢えて名前を呼ぶならば「太郎丸隧道」が最も相応しいと思われる。

この後の記述は、まず旧隧道から始まる。



地元では、明治30年代の竣工と考えられている旧隧道。

(旧隧道の)掘られた年度は不詳であるが、明治27年に作成されたとする更生図は、品沢・小兵衛山どちらの図面も道は山の上を越えるように図示されている。
法末の隧道が明治27年、28年の2ヶ年にわたって掘られているので、太郎丸もおそらく明治30年代には掘られたのではないだろうか。

今まで不明であった丑松洞門(=法末の隧道)の竣工年が明治28年と判明するなど、かなり重要な内容であるが、いきなり現在の地形図はもちろん、旧版地形図にも記載のない地名が出て来て、多少の混乱を感じた。

まず、「更生図」という言葉が初見であったが、これはいわゆる公図のことであった。
明治政府が地租改正を行なうために全国の土地区画を図面に描かせたものが公図の始まりであるが、最初の公図(字限図などという)の抜けや不正確さを補うために作らせたものを「更生図」と呼んだそうである。

そしてこの明治27年の更生図では、「品沢・小兵衛山どちらの図面も道は山を越えるように図示されている」というのであるから、これらの図名は太郎丸隧道周辺の地名から取られたものだろうと推測される。
端的に言えば、明治27年の図面に旧隧道は描かれていないということだ。

「法末の隧道が明治28年竣工だから、太郎丸の旧隧道も明治30年代に掘られたものだろう。」
そのように推測する理由は次に書いてあった。


薪(たきぎ)を小兵衛山・地子山に大きく依存していた時代には、大事な道であったので、最後の急坂だけでも楽にしたいとの思いから、隧道掘削が考えられたのではないか。 
工期工費など記録がないので不明だが、畚(もっこ)で土を運び出しただろうが大事業であったと思われる。

これはやや意外な情報で、古老から聞き取った隧道の目的は、山の向こう側にある田んぼへ耕作へ通う便利のためであったが、当初はそれよりも「薪の運搬」が大きな目的であったように取れる。古老の情報は新隧道に関するものなので、旧隧道が作られた当初は薪輸送がメインの目的であった可能性が高い。


また薪の産地として古兵衛山の地名が再び現れているほか、新たに地子山という地名も出て来ている。
問題は、これらの地名がどこを表わしているかであるが、私は右図のように考えた。

更生図の図面をなんとなくイメージして四角く区切ってみたのであるが(地子山という図面があったかは定かではない)、東西に長い太郎丸地区(=旧太郎丸村)である。集落の中心部から隧道への経路となっている細長い沢が「品沢」で、隧道がある山並みが「小兵衛山」、そしてその東側を区切る小国沢の東側にある法末地区の山域が「地子山」ではないだろうか。
こう考えると、地子山や小兵衛山で集めた薪を隧道や峠越えで太郎丸へ運び出していたイメージに適合する。

以後、このように解釈して進むことにする。


続いては、現地で私を大いに戦慄させた、旧隧道内部の大崩落に関わる記述である。


洞内は二つの地質からなり、現役当時から崩壊が相次いでいたという…。

 当時は牛馬が運搬の重要な役割を果していたので、隧道も最初から大きく掘られたと思うが、約半分が砂利層で、半分近くが軟岩の地質であり、崩壊するため年々大きくなったものと思う。
 冬になると西側の入口に風除けをしたこともあったが、それでも冬の間に崩落する土砂は多かった。
 毎年青年会が穴凌(さら)い(穴“浚”いの誤字?)をした。穴凌いというのは、隧道の中の崩土を外へ運び出して通路を綺麗にする作業である。

う〜〜ん、ナマナマしい!(苦笑)

旧隧道は生まれたときから“崩落病”という持病を持っていたようだ。
しかも地質の悪さに原因があることも既にバレていた。
もう半世紀以上もやっていないと思うが、今から「穴凌い」をしたら、地中には驚くべき大空洞が出現するだろう。
(穴凌いオフとかやったら、普通に全滅できそうだが…)

また、冬場に西側坑口に風除けを設けたというのは、日本海側の冬の強烈な季節風やそれに伴う雪の吹き込みが隧道を破壊すると考えたのだと思うが、風除け目的で隧道に工作を行なった記録は相当珍しい。
有名な初代栗子山隧道(明治14年竣工…近代土木遺産)の西側坑口が折り曲げられていた理由を「風除け」とする説が濃厚だが、はっきりした記録が残っていないのである。もちろん、誰があの構造を指示したのかも分かっていない。(薩摩出身の三島県令や高木土木課長の発案とはどうも思えない)
明治期の隧道建設において風除けが実際に行なわれていた記録として、旧太郎丸隧道のこの記述は貴重と考える。


続いては、いよいよ旧隧道よりも古い旧旧道についての記録である。
ここではかなり意外な事実が判明した。



旧隧道へ繋がる馬車道は、大正末期の竣工だという。
つまり、旧隧道と同時に竣工したものではなかった?!

 更生図にあるように、昔の道は品沢の真中ほどから南側の山の裾を通って峠へ通じているが、やがて荷車が入ってきて、荷車の通れる道が必要になり新道が開削されたものと思う。
 旧道との分岐点は現在と変わらないが、北側の山裾を行きコモシゴで右へ曲り、山の中腹を隧道まで行った。
 竣工は大正末期で花火が打ち上げられたとのことである。

これを読んだときに私は少なからず混乱した。

更生図というのを見れれば一番良いのだが、容易に手に入るものではないし、地名を想像しながら読み進めるしかない。
まず、「昔の道」というのは旧隧道よりも古い、峠の掘割りの道の事であろう(=旧旧道)。
そしてやがて荷車を通すために、「新道が開削された」のであったが、その「新道」との分岐地点は「コモシゴ」という地点であったという。
「コモシゴで右へ曲がり、山の中腹を隧道まで行った」という部分が、私が探索中に「旧道」として歩いた道である(右の写真の道)。
で、この「新道」が開通したのが大正末期であったというのだ。

この通り読めば、明治30年代に隧道が建設された当初、前後には荷車が通る道がまだ無かったという事になる。



以上のことを地形図上に再現してみたのが右の図である。

更生図にあるという最も古い峠越えのルートは、ピンクのラインで示した旧旧道である。
品沢の中ほどから「南側の山の裾」を通って峠に至ったとされる。
(探索では未確認であるが、掘割りの前後は確認していないので、このようなルートがあっても見逃していたはずだ)

そして「最後の急坂だけでも楽にしたいとの思い」から、明治30年代に旧隧道が掘られた。

さらには「荷車の通れる道が必要になり」、大正時代に新しいルートが切り開かれた。
それが図中に赤いラインで示した旧道である。
この道は品沢から「北側の山裾」を通って「コモシゴ」で右に曲がって旧隧道へ達したもので、大正末期に開通したという。

隧道は最初から車道目的だったと考えていたが、そうではなかったらしいことが判明。
「最後の急坂だけでも楽にしたいとの思い」が、いかに峻烈なものであったかが伺えると共に、来るべき車道化を念頭に置いていた可能性も棄てがたく、当初計画者には先見の明があったと思える。


次は旧隧道の利用の実態についてである。

 旧隧道は現在崩落土で埋まり通行不能であるが、昔ボヨ出しの時期になると峠に近い人は山から直接隧道まで、遠い人は追分まで中出しをして、そこから隧道まで人の背中で運んだ。
 隧道入口付近の置場所が限られているので、順番待ちの時もあり、峠が賑わう時であった。
 峠から家までは荷車が使われた。

まず、「ボヨ」とは薪のことである。
薪を峠の東側の山域から集落へ運び出す作業を主題に、隧道を含んだ峠道をどのように利用していたかが書かれている。
追分」という地名が初出であるが、これは先ほどの地図中に示したとおり、新旧道の分岐地点を指すと仮定した。

ポイントは、追分に中出しされたボヨが、そこから隧道まで「人の背中で運」ばれたという記述である。
先ほどの地図中に赤い破線で示した旧隧道の東側区間は、荷車が通れなかったと読み取れる。

せっかく隧道まで作っておきながら、これではかなり不便があったと思われる。
そして案の定、次にはその事が言及されていた。


 外山まで車が行けば、峠へ担ぎ上げる難儀が解消できるということで、新しい隧道の構想が浮上した。
 時代と共に荷車も増えてきたので、今までの山道では車の交換ができないので道幅をもう少し広げたい、との願望もあった。

ここから登場してくるのが、現在の太郎丸隧道建設の話である。
もっとも、まだ想定されていたのが自動車でなく「荷車」であることに年代や地域性を感じる。

で、いよいよこの新隧道の構想が具体的に動き出すのであるが、その時期は戦後であった。


 終戦後、上小国村では失対事業を導入して道路改修に取り組んでいた。
 保坂貞次、中政政栄両村会議員の農道改修に失対事業が導入されることになり、崩沢農道から始めることになった。
 崩沢の工事が終り、品沢へ移ったのが昭和32年であった。村はずれを起点として、延長約1000m、幅員3m、コモシゴまでが第一期工事であり、工事委員は…(略)

太郎丸の新隧道建設に向けた工事は、昭和32年に集落側から始まった。
出典元の記述に拠れば、この第一期工事は総事業費が114万円で、66万円が県の補助、村の負担金が48万円、そのほか一戸につき二人の「無償義務人夫」が課せられたという。

…明治じゃないんだよな。
明治の三島通庸の工事ならば分かるが、昭和30年代にも地方ではまだ道路工事に沿道住民の義務人夫制度が生きていたのかー。
というか、失対=失業対策事業で工事をやっても、無償義務人夫じゃ何の役にも立たないんじゃ…?
無償云々を差し引いても厳しいよなー。ネットしてる最中にトントンって扉叩かれて、「家の前で工事ヤッから明日から義務人夫な〜」とか言われたらどうする?


それと、本書は新隧道掘削の理由を今までよりも広い車道を開通させるためとしか書いていないが、おそらく旧隧道が毎年のように「穴浚い」しなければならないネックを持っていたことも考慮されたのだと思う。
新道の距離における短縮効果はさほどでもないし、また一から隧道を掘り直そうという決断はなかなかされないと思う。

で、この次はいよいよ隧道の工事である。
かなり記述の分量が多いが、興味深い内容が色々と書かれていた。



桑畑が次々押し出してきて、
坑口まで辿りつくのに苦労したという西口。
今は周囲に桑畑があった痕跡は皆無だ。

 第二期工事は、役場の計画では隧道を含め延長490m、工費72万円、補助金45万7500円、地元負担金26万2500円、これはあくまでも失対事業の計画であり、実態とは違うことをご理解願いたい。このほかに用地買収費、補償費、坑木等の資材費があり、地元負担金はもっと多いはずであり、一期工事の事業費を上回ったと思うが、資料がないので分からない。

 昭和33年8月18日着工。
 前年度工事の終点を起点として、隧道入口までまず道路を作り、隧道入口へ向かって桑畑を掘り下げていくと、右側へ残った畑が押し出してきて、それをかたづけるとまた押し出すなどで、入口へ到達するめどがつかないので、掘り手は反対の東側から掘ることにした。
 掘り手の技術人夫として、保坂正、小林寅衛、北原英男の三名に依頼し、鶴嘴(つるはし)を焼くための鍛冶場も設けた。
 西側は、岩の上の土をほとんど出して、やっと坑口へ着くことができた。

桑畑が次々押し出してくるところは、笑ってはいけないが、想像すると何だか可笑しい。
そして、いきなりの難工事っぷりである。
しかしともかく、昭和33年に隧道を掘り始める準備が整った。


さあ、掘るぞ!


隧道の断面は、幅2m、高さ2mと記録されていた。

 隧道の大きさは高さ2m、幅2m、カンテラの灯りで掘り、土は一輪車で運び出した。大体1日1m前後掘ったと思う。地質の軟弱な所では2mも掘ったと聞いたが稀であり、そんな所はすぐ坑木を立てなければ危険であった。山を越えて東側へ行く時は、坑木を1本担いで越えてもらった。
 30m位掘り進んだ10月末頃、東口と西口の高さが違うのではと指摘され、11月5日再測量の結果2.9mの差があることが判明。

エエーッ!! 2.9mって、結構デカイだろ。ヤバイだろッ!

幸い西側はまだ掘り始めていないので、隧道内外で西側へ下り勾配にすることで修正した。
 その後、「役場の測量は信用できない、法線は大丈夫か」となり、役場に内緒で、保坂亭治に山の上へ上ってもらい、測量の結果、「法線は間違いない、これで掘り進んで良いだろう」と言われてホッとした。  (法線=土木用語で隧道などの構造物の軸線の方向のこと=進路)

(笑) けっこーゆる〜い感じで工事が進んでいるみたいですね〜。 これも村営工事の味わいか。
しかし西口を掘り始める前に気付いて本当に良かったし、そういう意味では“桑畑さまさま”だったわけである。
神さまが、まだ掘らない方がいいよって、言ってくれたのかも知れないなー。

また興味深いのは、「荷車がすれ違えるように道幅を広げたい」という動機で工事を始めたにもかかわらず、隧道の断面は旧隧道と同等か、下手したらそれ以下にしている点である。この理由も気になる所である。


和やか工事は、翌年も続く。

 12月25日、現場を整理して一輪車、スコップなどを集荷場へしまって、この年は終る。
 翌34年は、田植が終って6月16日から工事を再開した。
 今度は西口からも掘削を始めて、両方から掘り進んだので仕事も捗るようになり、そのうち、向側の鶴嘴を打ちつける音が聞こえるようになり、今にも貫通するかと喜んだが、後で考えると、まだ30mくらいもあったんだなと思った。

…なるほど。随分と実体験的な話が続くと思ったら、執筆者はかなり深く工事に携わっていたようだ。

だんだん向こう側の音が大きくなり、明日は、明日はと1週間ほど過ぎて、8月3日遂に貫通した。延長は103m。このとき東側の隧道出口から約30mくらい道路も作られていた。

キター!!

…ってな感じであったろう。
着工から350日ほどで見事に隧道は貫通し、その全長は103mであった。
で、とりあえず隧道が開通したと言うことで、次にやるのはやっぱり……。


 8月27日、竹部源一町長などを招いて、午後2時から隧道入口で安全祈願祭と開通式が行われ、午後4時から真福寺で、集落上げて祝賀会が盛大に行なわれた。
 それからすぐ、失対事業は町の直轄事業となり、集落の手から離れた。


あっ……。


ちょっと俺、ウルッとしちゃった。
盛大な祝賀祭は予想通りだったけど、最後の行で“何か”来た。

 「集落の手から離れた」 って。

さっきは無償義務人夫ひでー!みたいに思ったけど、ちょうどこのくらいの時期が限度だったんだろうな。
農家の人達が普通に道路工事に携わり、自ら使う道路を自ら普請する意識や習慣が残っていたのは。
おそらく都会の住民からは既にこの頃失われていた美徳だと思う。
(昭和31年に小国村と上小国村が合併し、小国町を成立させていた。)

…やや感傷的な気持ちになりつつ、読み進めよう。ゴールは間近である。


 水吉からと大日影からの川の合流点の上の所までが、この年の第三期工事の計画であったが、降雪前に終った。
 第四期工事は、昭和35年追分まで施工され、引き続き昭和36年37年と工事が行われ、終点の渡場の橋の先まで6月完工した。

続々と新たな地名が出て来たが、それぞれ右図のように判断した。

このうち、追分や渡場は間違いないと思うが、水吉と大日影はどっちがどっちか分からない。
普通に考えれば、南北方向に細長い谷が大日影だと思ったので、右図のようにした。

いずれ品沢農道として着工した一連の工事は昭和37年までに全て完了し、太郎丸の人々が「外山」と呼んだ小国川沿いの地域と集落は1本の車道で結ばれたのであった。

ところで、ここに登場した「水吉」なる地名に、聞き覚えがないだろうか。
水吉はおそらく「ミズヨシ」と読むと思うのだが、ここで述べた通り、平成16年の道路トンネル台帳に「ミズヨシトンネル」が記載されているのである。
(記載内容→「ミズヨシトンネル(竣工年不明、全長130m、幅2m、高さ2m)」)
高さと長さのデータは、本書が記録している太郎丸隧道と一致するが、長さが27mばかり長いのが気になる。
しかし、小国町の中で水吉という地名が他にどれくらいあるかと考えると…。
また、これが丑松洞門を示している可能性もある。
丑松洞門は、現地の案内板に拠れば、幅1.8m、高さ1.8m、長さ139mと近似している。

この謎はまだ、解けていない。


隧道完成後にあった出来事も、現在の太郎丸隧道の“奇妙な光景”へ直接結び付くものであるだけに、興味深い。



隧道内でひときわ違和感を放っていた、コンクリート製の枠。

(完成から)10年程経過すると、細い坑木が朽ちてきたのが出て来たので、大事に至らないうちにと考えたのが、木材に代えてコンクリート製の支柱にしてはと、昭和49年試験的に作り、現場へ立ててみた。これなら朽ちることはないだろうと言うことで、その後数年間、毎年作って木のものと取替えた。これに対しては毎年町からも材料費の補助を受けた。

うんうん。
やっぱり「集落の手を離れ」てはいなかったんだな。 まだまだ面倒を見続けています。
そして、予想通りのお手製&オリジナルアイデアだった、コンクリート製支保構造物。
相変わらず緩い感じもありますが…
今も立派にお役目を果してますよ!

なお、新隧道の内部には、旧隧道を壊滅させた“良くない地質”が見あたらず、最初から最後まで砂岩質のようだが、これは偶然だったのか予め地質を調査ないし予測して掘ったのかも、気になる所である。


集落の人々は太郎丸隧道への可愛がりは、まだ続く。


コルゲートパイプもまた、集落の愛情の顕れだった。

 毎年春になると融雪と共に隧道の両方の入口が崩落土により塞がれる事が多かった。そこで町へ要望して、道路敷き2m位になるようなコルゲートを付設してもらう事になり、昭和56年東側へ業者請負で、翌57年は西側へ集落請負で施工して今日に至っている。

現場で最も「完成時期不詳」な存在であったコルゲートだが、これは昭和56〜57年に増設されたものであったことが判明。
時期的には私が産まれた後だが、こんな狭小断面の隧道を、ばっちり活用し続けていたのである。

ただし、コルゲートの内側にある“つっかえ棒”の正体や目的は、不明のままである。
コルゲートよりも後に設置されたことは間違いないだろうが、こればかりは追加聞き取り調査が必要か。




以上見てきた通り、

明治以来、太郎丸の人々が一貫して造成と管理に携わってきた、太郎丸と外山を結ぶ峠道。

しかし現在、3世代ある道は全て廃道状態になってしまっている。

その原因はなんだったのだろう。


いよいよ、最後の場面である。




砂防ダムよ、おまえか。 お前だったのか!

外山へ砂防工事がなされ、これに関連して沢中から自動車の通れる道路が付けられたので、隧道並びに外山の道路については、道路としての利用には今昔の感がある。

うおーーー!!

ツイテイル、ツイテイルとばかり思っていた、砂防ダムによる今回の探索序盤のナイスフォロー。
あれがなければ自転車同伴で隧道を突破することは出来なかったし、時間的に旧隧道の探索に行けなかった可能性もあった。

だが、この砂防ダムの造成こそ太郎丸隧道へ引導を渡すものだったとは!

ちなみに、砂防ダムの完成年は未確認だが、本書の発行日は平成17年なので、それ以前なのは確実。

もちろん、誰も傷付いてなんていない。
ようやくあの狭小極まりない隧道から解放され、自動車で田んぼへ働きに出られるようになったのだから、喜びこそすれ。


隧道的に救いなのは、太郎丸集落側の道がまだ維持されていて、簡単にそこまで来られることだ。
そういう意味では、まだ集落の人々は隧道を見捨てていないと思う。
ぶっちゃけ、途中からは廃田しかないのにちゃんと維持されていたのだから、これは現地でも不思議であった。

うんうん。
愛あるところに、道路あり。
これからもそうであればいいなー。





今回はまるっきり人の助けを借りっぱなしだったが、でも凄く充実した探索が出来たと思う。
国が関わっているような大きな土木事業で作られた道路ではないし、ともすれば「変わった隧道だなぁ」だけで終ってしまいかねない小さな隧道や峠に、これだけ深い歴史や想いが秘められていたのだ。
そしてそれがちゃんと記録され、残されていた。

そんな所に私は改めて、道と人の関わりの根源的な深さを感じた。



そうそう、最後に補足。

今回の冒頭に書いたように、歴代の『旧版地形図』も入手したので、せっかくだからご覧頂こうと思う。

まあ、上にこれだけ詳細な歴史を書いた後だから、特に新たな発見は無いと思うけど…さ。


← まずは、これ。

昭和41年測量版 である。

当時は、新隧道を含む新道が開通した4年後であり、ちゃんと車道の太さで描かれている。
まあ、実際は最後まで“荷車だけ”の車道だったようだけど。

意外だったのは、旧隧道がちゃんと描かれていた事だ。
まあ昭和37年に新道が開通するまで毎年の「穴浚い」で交通が確保されていたとすれば、時期的に描かれていても不思議ではないのか。

また旧隧道の西側の道は、大正末期開通の旧道ではなく、旧旧道時代のルートを示している。
これだと旧道は一度も、地形図に描かれることなく消えていったっぽいな。



← お次は、昭和27年応急修正版である。


…あの〜。

なんで、新隧道が描かれているんですか?

あなたは、昭和33年に着工し、34年生まれのはずでは?

え?

え?!


そういえば一人目の古老は、戦前から(新隧道が)あったような事を言ってはいたけれど…。



← 最後は、明治44年測図の地形図。

かんっぜんに、張り付いてる!

2本の隧道が、地形図上に時代を問わず、完全に張り付いたみたいに描かれ続けてる!!

こええぇえええ!

えええ??!!

しかし、予知能力者が書いた地図でない限りは、これが真実なの?

つまり、明治44年の時点で、既に新隧道が実在していたッ!てこと?


訳が分からん。


… わ か ら ん … …。



旧隧道が明治30年代に建設されたとして…。

それから明治44年までの間に崩壊が酷くなったから、新隧道を掘っていたってこと?

じゃあ、昭和の農道工事は掘り直しだったってこと? 

ま、まさか、集落の誰も知らない3本目の隧道が、どこかにあった?!



さすがにこれは、地形図側の誤記なんだと思う。



なんか、どの隧道も長すぎるし、適当な感じがするぞ。




ああ〜〜〜ん!!!泣泣泣泣泣


これ書いた奴、俺の前に出て来いよぉー…。






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