2021/11/18 15:02 《現在地》
峠の切り通しの全天球画像をご覧いただいている。
前後に伸びる切り通しは、西日が射し込んでいる側が太郎丸、反対が外沢だ。
切り通しの規模としては、旧隧道の上で9年前に見たものよりも心持ち小さいだろうか。
とはいえ、峠を少しでも低くして越えやすくしようという人の強い意思が感じられる、
自然地形と見紛うことの決してない立派な切り通しである。そして良く形を留めていた。
私は、明治時代に生まれた2本の隧道が、僅か200mの範囲に長く併存したという
H氏の証言に大きな驚きを覚えたが、現にこうして同じ時代に使われていただろう
切り通しが、僅か200mの範囲に並立していたのである。そのことをいま確かめた。
これらの二つの切り通しが、明治時代にそれぞれ隧道化を果たしたのだと考えれば、
それらの両立も、さほど不自然なことはなかったのかも知れない。
ここまでの流れを一度振り返ってみよう。
当初、探索前に想定していた最良のプランというのは、新隧道の西口を出発して、今いる切り通しへ登っていく途中で“じゅうぜんの穴”を発見するというものだった。
しかし、残念ながらそのようにはなっていない。
私は、登り始めてすぐに見つけた道形らしきものに導かれるように南へ進むことになった。その結果、新隧道と切り通しを結ぶ最短コースからは大きく外れ、尾根を通ってここに至った。
この途中、もしかしたら【隧道跡地かと思える地形】はあったものの、出来れば間違いであって欲しいと思っている。
麓との比高はせいぜい100mそこいらという低い峠だが、西側の視界がとても良かった。
東頸城丘陵が織りなす浪のような多層的起伏の向こうに、越後富士とも呼ばれる霊峰米山が、西日を背にしてひときわ輝いていた。
私が古い峠に立って眺めを楽しむとき、必ず考えることがある。
それは、ここを歩いた古の旅人も、同じ景色を眺め、同じような感動を持ったに違いないという、時間を跳躍した感情のリンクだ。
廃道からの眺望には、多層的な価値があると感じる。
ここを訪れた探索の目標はまだ達せられていないが、既に得るものはあった。
少しだけ肩の荷が下りた気分になって、私は峠の地べたに腰を下ろして休憩をとった。
約5分後、行動再開。
この写真は、切り通しから東側の外沢を見下ろしたものだ。
西側の風景に感動したばかりだったが、今度は、ひと目見ただけで、暗澹たる気持ちになってしまった。
いままで歩いていた西側は、これよりは、よほど恵まれていたのだと思える状況だった。
まず斜面が非常に急である。
しかも、斜面全体に灌木とススキがモザイク状に密生していて、見通しが非常に悪い。季節には恵まれているのに、これだ。
しかも、藪がどうのという以前に、地形そのものが、切り通しが歩かれていた当時からは大きく変化してしまっているのではないだろうか。
なぜなら、切り通しを出た最初の1歩目から、道がないのである。
大袈裟ではなく、本当に道がない。1歩目を右へ行くべきか左に行くべきかさえ、全く分からなかった。
……つらいな。
この斜面で“じゅうぜんの穴”の東口を捜索するのは…。
重い気持ちになってしまったが、とりあえず、先に西口の捜索を終えよう。
まだ西口の捜索が終わっていない。
西口が見つけられれば、自ずと東口の範囲は絞り込まれることになろうから、頑張ろう!
15:07
峠での5分間の休憩後、切り通しの西側へ下り始めた。
が、こちら側も、切り通しを出ると忽ち、道が消失してしまった。
画像のように、切り通しを左にカーブしながら出ていくところまでは間違いなくあるおだが、そこから数メートル先はただの斜面となり、そのまま歩いて行けないことはない傾斜ではあったが、そこを闇雲にトラバースしていっても、少し前に歩いた稜線の下をただ戻るだけのことで、隧道探しという本懐を遂げることは難しいと思った。
そこで、すぐに道を外れる決心をした。
灌木が邪魔で大変見づらい写真となり申し訳ないが、私が道を“諦め”て進もうと思った先は、切り通しの直下である。
隧道を探すなら、ここだけは最低限探さねばならないという定番のポイントだが、まだ私は探していない。
出来れば道を辿っていって出会いたいが、それらしい道を見つけられない以上、ピンポイントに探すしかないだろう。
この見づらい写真は、ほぼ切り通しがある高さから、切り通し直下の地形を見下ろしたものである。
そこは凹んだような地形になっているが、鞍部の下に水が集まり谷を作るのは当然だ。しかし、谷の中に“じゅうぜんの穴”が存在していたかもしれない。
ここへ下降することにした。
この下降は、密生する灌木のみを手掛かりに、ノザルの手際で進められた。
すぐに鞍部の20mほど下にあった窪地が近づいてきたが、それはどこまで近づいても、自然地形の窪地としての平凡から、逸脱する気配を見せなかった。
このとき私の中にあった期待感は、みるみるうちに萎んでいった。
強く脳裏に浮かぶのは、ここから200mしか離れていない土地で目にした、9年前の旧隧道だ。
あの隧道も切り通しから2〜30m下に口を開けていたが、坑門の周囲は、まるで【巨大な竪穴のような地形】になっていた。
それは、坑口が崩壊を繰り返し、後退した結果の地形だったのだろうが、隧道の存在を明らかにする極めて特徴的な地形であった。
そういう地形がここに見られないことに、私は一足早く…………、
絶望を察してしまった…。
切り通しから、窪地の底の近くまで降りてきた。
窪地の底まで、あと2mくらいだ。
比高は20mくらいだった。かなり急なんで、戻るのは大変だな。
あった!
“じゅうぜんの穴”が
残っていた!
よくぞ残っていた!
そして、よくぞ見つけた!
たった5mも離れただけで、こんなに見えにくくなってしまう。
でも、場所的には超絶シンプルに、切り通し直下だった!
↑ココ!
9年もかかったが、太郎丸住人の協力を得て、
明治44年の地形図に描かれていた“謎の隧道”の真相に、
ようやく辿り着いた。
本当に3本目の隧道が存在していた。
「●●●さん! やったよー!」
レポートではH氏という仮の名で呼ばせて貰っているが、メールに書かれていた本当の名を口にしながら、とても大人げなくはしゃいでしまった。
まさに宝物を見つけ出した子供の仕草であったかと思うが、本当に嬉しかった。今年一番嬉しかったかも。
が、いつまでもはしゃいではいられない。
探索を“次の段階”へ進めなければならない。
ここから必ずやらねばならないと思えることが、3つある。
1.洞内探索と、2.反対側の東口の捜索と、3.今いる西口にある道がどうやって現道に繋がっているかの確認だ。
一応、私の中での優先度順に並べたが、どの順序でやるかを決めないと。
決めた。
3→1→2の順でやることにする。
これが一番最小限の移動で完了させられる流れだと思うから。
ということで、まず「西口にある道がどうやって現道に繋がっているかの確認」をする。
GPSによって《現在地》を座標的な意味ではかなり正確に把握しており、自転車を停めてある【新隧道の西口】から、直線距離で50m以内のごく近いところにいるはずなのだが、目視はできなかった。
新隧道に通じる新道(=現道)と、“じゅうぜんの穴”の道が、どうやって繋がっているかを知りたい。
写真は、穴の前で振り返った景色だ。
あまり大きくない掘割りがあり、それと分かってから見れば確かに道形なのだが、切り通しから見下ろした時点では、侵食によって生じた天然の地形の可能性が高いと思っていた。
この掘割りを出よう。
15:13 《現在地》
ここからは、“じゅうぜんの穴”の西側道路探索である。
レポートを進める前に、この道路を何と呼べば良いのか悩んでしまった。
「新道」と「旧道」と呼ばれている道が既にある。ここは「旧道」よりも微妙に新しいらしいが、「旧道」も同時に使われ続けたらしく、そして「旧道」とともに、「新道」の開通によって役目を終えたという。
こんな“第三の道”を適切に表現するワードが思いつかないので、工夫がないが、“じゅうぜんの道”と呼ぶことにしたい。
“じゅうぜんの道”の西側坑口に通じる切り通しの前には、明らかなる平場があった。
この平場も天然の地形ではない。
おそらくだが、この平場の正体は、隧道を掘ったときの残土(ズリ)を均したものだと思う。ズリを遠くまで運び出すことがほとんどなかった古い時代の手掘隧道にしばしば附属する坑口前のズリ広場、その典型的な状況に見えた。
切り通しを出ると右カーブがあり、そこから下り坂に。そしてすぐに、九十九折りが現れた。
“じゅうぜんの穴”については、その規模や利用状況についていくらかの情報を得ていたが、“じゅうぜんの道”については、そういうものがなかった。
果たして歩きだけの道だったのか、荷車や自転車のような軽車両も通ることが出来たのかという、道の規模に関することは全く謎だった。
だがこの九十九折りの存在は、車道らしい勾配緩和が意識されていたことを伺わせた。
もっとも、道幅は非常に狭い。
全て目測だが、直線部分は1.8m程度で、切り返しのカーブ部分もせいぜい2mくらいしかない。
大八車のように梶棒が長く突きだした車輌は旋回出来なさそうだ。もっと車長の短いリヤカーとか、荷を負った牛馬の通行を想定した道の造りのように思われた。
こういう考察の機会を得られただけでも、道を辿った甲斐があったと思う。
この道、急坂でダダダーッと現道へ下り込むかと思いきやそんなことはなく、連続した九十九折りで勾配を厳しく抑制しつつ、慎重に下っていこうとしている。そういう意識が強く感じられた。
この写真は最初の九十九折りを過ぎた直後の風景である。
直前の九十九折りは道形が鮮明だったが、それ以外は道の内外を問わず灌木が密生していて動きづらい。
さっきから「杉林」と画像に注記しているのは全部同じ場所を指しており、次第にこの小さな杉林の一角に近づきつつある。そして、杉林に突き当たったところでまた切り返しているように思われた。
15:17 《現在地》
切り返しているように思われたが――
その先に道形はなかった。
隧道からここまでは明瞭な道形があったので、唐突な消失にどうしたことかと戸惑ったが、道は確かにここで途切れている。
坑口から僅か7〜80mしか道を辿っておらず、GPSが教えてくれる現在地と現道との間には依然として30mの水平距離と20mの落差があった。
しかし、道が途切れてしまった先端から斜面を覗き込むと、見覚えのある草色の路面が見えた。新隧道西口50m手前付近の現道だ。
まだこれだけの落差があるので、ここで道が終わってしまうのはいかにも不自然なのだが、眼下の斜面をよく見ると、九十九折りの名残とも思えるような“段々”が、いくつも見て取れた。
しかし、どの段も水平過ぎる気がする。これは九十九折りというよりは、段畑の跡に見える。
そういえば……、9年前の机上調査で読んだ『太郎丸の歴史を探る』に、新隧道建設時の逸話として、「隧道入口へ向かって桑畑を掘り下げていくと右側へ残った畑が押し出してきて、それをかたづけるとまた押し出すなどで、入口へ到達するめどがつかないので、掘り手は反対の東側から掘ることにした。
」というのがあった。
当時、新隧道の西口の周囲には桑畑があったのだ。
しかも、この辺りはよほど軟弱な地盤だったらしく、新道の工事をきっかけに崩れ初めて、収拾が付かなくなってしまったという。
このときに“じゅうぜんの道”も桑畑と一緒に崩れてしまったのかも知れない。
画像は、ここへ来る前に新隧道西口から撮影した写真だが、切り通し、そして“じゅうぜんの穴”、さらにそこから伸びる“じゅうぜんの道”のおおよその位置を示した(切り通し以外はここからは見えない)。
またチェンジ後の画像は、“じゅうぜんの道”の末端から見下ろしたときに見えた路上から撮影した写真だ。ピンクの枠の範囲内に切り通し、“じゅうぜんの穴”、“じゅうぜんの道”などが収まっていたことになる。
今回、“じゅうぜんの道”と現道の分岐地点の特定は出来なかったが、隧道を掘っただけあって勾配の緩和を強く意識した道であったことが、探索出来た僅かな区間から感じ取ることが出来た。
西側の“じゅうぜんの道”、探索終了!
“じゅうぜんの穴”の西口へ戻ってきた。
写真は坑口前最後のカーブの部分で、ここから切り通し直下の短い掘割りへ入っていくのだが、ここは特に藪が濃いので、本当に隧道は見つけづらい状況にあった。
今回、たまたま切り通し側から下ってくる展開になり、そこでピンポイントに開口部へアクセス出来たのは、ラッキーだった。
素直に下から登ってきた場合にも隧道を見つけられたかは、ちょっと分からない。
ここを道だと確信できれば、よく探して穴を見つけ出せたかと思うが、遭遇の状況次第では、この藪を道とは判断しなかったかもしれない。
15:20 《現在地》
戻ってきた!
ちゃんと隧道は待っていた。
さすがに心配性過ぎるけど、この短時間に何か想定外のトラブルが起きて、洞内探索が出来ないようなことになったら、悔いても悔やみきれなかっただろう。
たった10分足らずぶりだけど、ちゃんと再会できて、とてもホッとしている。
が、
こんな姿の隧道に立ち入ることへの怖さは、もちろんあった。
外見的には、ほとんどケモノの巣穴である。
先ほどの発見時、ほんの一瞬だけ覗いてみたのだが、見下ろす感じに奥行きがありそうだった……。
本当に、よくぞこんな小さな穴が残っていたと、驚いている。
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