隧道レポート 大沢郷の旧立倉隧道捜索作戦 第1回

所在地 秋田県大仙市
探索日 2018.11.26
公開日 2018.12.18


※このレポートは、隧道レポート『大沢郷の小戸川隧道(仮称) 最終回』から続いています。先にあちらをお読み下さい。


その時、私の体にが走った!!



『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』より転載

ずいぶんな書き出しだが、「その時」とは、2018年11月26日の12時30分頃、秋田県立図書館の閲覧室で読んでいた『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』に、右の画像の記述を見つけた瞬間である。

ズドーン!!

まさか、あの立倉トンネルに、旧隧道があったとは!!

長年暮らしてきた“自宅”に実は屋根裏部屋があったことを知ったような衝撃だった。

これは、今すぐ見に行きたいし、実際に行ける案件じゃないか?!

私の脳内にあるオブローダー・コアがフル回転で計算する。
現在時刻は12:35で、現在地である秋田市山王から大仙市の立倉隧道付近まで約50kmある。高速道路を使えば1時間以内で着ける。だが一旦探索道具を取りに秋田市内にある自宅(秋田の実家)へは戻らなければならない。カメラを持たずに探索しても仕方がない。自宅が逆方向なので、経由すれば60kmと少し。準備の時間も合わせて2時間以内ってところだろう。探索開始14:30、日没まで1時間50分くらいある。狭い範囲で小さな隧道を探すくらいならば、間に合いそうじゃない?

よし、決行しよう!


そう決断した私の行動は、実際に早かった。

図書館よさらば! と風の速度で走り出したかったが、複写や借り出しなど諸手続きを音の速度で済ませてから、光の速度で脱出した。
そしてこれをしながら…は、危ないから一旦立ち止まって、スマホでメールを書き書き!

subject: 緊急探索
大仙市大沢郷の立倉隧道に急隧道があった可能性が浮上したんで、今から見に行ってみようと思う。場所はここ。 https://goo.gl/maps/QqGhMRxSR4k

13:46 送信 ッと。

微妙に誤字っているのが緊迫感あるでしょ(笑)。
このメールの送り先は、“小戸川隧道(仮称)”を一緒に探した秋田市在住の探索仲間である ミリンダ細田氏 & 柴犬 に加えて、最近待望の単著本『廃道を歩く』を上梓したトリさんにも送信した。この人、ふだんは東京在住なんだけど、何の巡り合わせか、この日はたまたま秋田県内(しかも大仙市付近)にいることを知っていたのだ。

なお、メールには特に「一緒に行こう」というようなことは書いてないが、もし同行したいならば大歓迎である。もっともノロノロしていたら日が暮れるから、すぐ「行きたい」と返事してきた人と一緒に行く。

果たして、実家に戻って準備をしている僅かの間に、メールを送った3人全員から返事があった。
まず細田氏は、分かってはいたけれど、仕事中で参加できず。いただいたエールは、「ファスト・ルック ファスト・ロック ファスト・アタック ファスト・キル」。 いつもながらのセンスでやられた(笑) たぶん「見敵必殺」と言いたいのだろうな。 やらいでか!
次いで柴犬氏は、なんとこれが参加できるという! 平日だけど彼の仕事のシフトでは、たまたま休みにあたっていたか。ラックマン!
トリさんは、当然参加するそうです(笑)。 あなた、お母さんとお墓参りにきてたんじゃないのか?! まあいいけど。 しかもこの時点では、大仙市の大曲駅付近にいるというトリさんが、もっとも目的地に近いことが判明。

その後のやりとりで、秋田市組の私と柴犬氏は13:30に秋田北ICで落ち合って、私の車1台にまとまって出発。14:30に現地最寄りの“片倉集落”で、トリさんとも合流して探索スタートということにした。

やまいがだかつてない電光石火の探索行動――

名付けて、FFast LLook LLock AAtack KKill 作戦Operation” 開始!!

(当初、作戦名の“F”を“first(ファースト)”としていたが、読者さまから“fast(ファスト)”ではないかとのご指摘があり、ミリンダ細田氏に真意を確認したところ、ファストが正しいと分かったので、訂正しました!)




【位置図(マピオン)】

こうして結成された私たち “第二次大沢郷で隧道探し隊” は、現地へ向かったのであるが、さすがにこんな勢いだと、読者諸兄を置いてけぼりにしてしまいかねない。
ほとんどの読者さまは、未だ「立倉トンネル」と言われても、ポカンとみかんを入れて欲しそうに口を開けていらっしゃるはず。
本編に入る前に、立倉トンネルに関する概要の説明と、机上調査で得た(あまり多くない)情報の解説をしたい。

左図は(だいぶ小さくて申し訳ないが)、前回(今回の5日前)に探索した“小戸川隧道(仮称)=南沢長根の洞門(仮称)”と、今回探索する“立倉トンネル”の位置関係を示している。
いずれも栩平(とちひら)川の流域にあり、両者は直線距離で約4km離れている。

立倉トンネルがある峠は、明治22年から昭和30年まで存在していた仙北郡大沢郷(おおさわごう)村の南端付近にあり、越えれば同郡南楢岡村であった。
昭和の大合併以降は、それぞれ西仙北町と南外(なんがい)村となり、平成17年(平成の大合併)には遂に大仙(だいせん)市の一員として統合された。

旧大沢郷村を明治22年に誕生させた近在の7つの近世村のうちで、最も南にあって役場に遠く、最も山深かったのが、円行寺(えんぎょうじ)村だ。立倉トンネルの麓でトンネル名の由来になった立倉集落は、この村の一部であった。『角川日本地名辞典秋田県』は、円行寺村について、「山道により郡内の南楢岡や由利郡方面にも通ずるが完全な山村」と書いており、全般に交通不便だった旧大沢郷村の中でも、立倉集落一帯は際だって不便だっただろう。



右図は、立倉トンネルがある峠道の全体像を示している。

旧大沢郷村と旧南楢岡村を隔てる山域は、標高こそ高くないがなかなか肉厚で、峠道の全体は約5kmにおよぶ。その間の集落は南楢岡側へかなり下ったところに寺沢があるだけだが、落合まで行けば土地が開けて、景色も大きく変わる。
もっとも、立倉から峠へ行くだけならば600mそこいらだから、近いといえる。

私はこの道を一度だけ全線通して自転車で走ったことがある。平成13(2001)年4月19日のことで、当時は廃道探索目的ではなかったのだが、既にトンネルが「通行止め」であったことを覚えている。
廃道探索目的での再訪は、レポートにもしている平成15(2003)年7月24日で、立倉集落からトンネルまで行って戻っている。

今回の探索は三度目で、15年ぶりの訪問となる。
この間にトンネルの「通行止め」が解除されていないとしたら、その荒廃の度合いは熟成が進んでいることも予想される。しかしあくまでも今回のメインターゲットは、「立倉トンネル」ではなく、その存在が急に示唆された、初代・立倉隧道である。
これまでの2回の探索で全く存在に気付けなかったことから考えても、普通に道を走っていたら見つけられないもののようだ。



右図は、昭和9(1934)年版と昭和44(1969)年版の地形図の比較である。

今回は図書館で全ての版をチェックしているが、立倉にトンネルの記号が描かれるようになったのは、昭和39年改測版からということが分かった。ここに掲載している昭和44年版は、前後の道も含めて、昭和39年版とほぼ同じ描かれ方である。

“南沢長根の洞門”が描かれていた昭和9年版では、この峠にトンネルは描かれていない。破線の徒歩道があるだけだ。
当時もし存在していたとしたら“初代隧道”だろうが、描かれなかったのは、まだなかったからなのか…。昭和28年版も表記は変わっていなかった。

改めて、冒頭に画像として掲載した『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』のトンネルに関する記述は、以下の通りだ。

立倉部落から南外村落合部落へぬける洞門は前後二回掘っている。現在利用しているのは昭和二十三年に、戸川、立倉両部落の人たちが、金と労力を出し合って六郎という人の設計にもとずいて掘ったものである。前の洞門は現在のものより上に位置して掘られたが、何かと不便をかんじていたことから、さらに新しく掘りかえたようである。
『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』より

これを読む限り、昭和39年の地形図に描かれているのは、昭和23年に掘られた2代目ということなのだろう。
それ以前からあった初代隧道は、いつ作られたものであるとか、誰が作ったかといったことは書かれていないが、とにかく2代目より「上に位置」していたという。
「上」と言われても、なかなか漠然としているが、経験上、昭和9年の地形図に描かれている徒歩道の峠道に沿って探すのが良かろうと考えた。



それはそれとして、同じ日に図書館で読んだ『西仙北町郷土誌近代篇』に、以下のような記述や写真があることは無視できない。


『西仙北町郷土誌近代篇』より
大幹線林道完成
昭和48年8月25日、大幹線林道(大沢郷地内)完成竣工式を挙ぐ。44年度より継続事業とす。事業費2億1300万円延長11235m(内トンネル123m)巾員4m。(47年度完了)
『西仙北町郷土誌近代篇』より

さて、これはどういうことなのか?

私が2001年と2003年に訪れた「立倉トンネル」が、この「大幹線林道」という道のものであることは、右の写真からしても間違いないはず。
まさかまさか、3代目なのか?!

おそらくは、2代目の立倉トンネルを改築したものが、今のトンネルだと思うが、このことも現地を見てちゃんと確かめたいと思う。

……いやぁ… 侮れないなぁ……。
私の中で10年以上捨て置いていた立倉トンネルが侮れない。
灯台もと暗しというのかなー。(実際、昔に攻略を終えた道には、こういう“抜け”がたくさんありそう。)


『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』より

ちなみに、大幹線林道については、たびたび引用している『郷土史資料』『郷土誌』ともあまり情報がなく、妙に大仰なネーミングが外部でも通用する正式なものなのかも疑問である。おそらく事業主体は西仙北町だったのだろう。県や国からの補助は受けたかもしれないが、町が計画して整備した林道だったと思う(国の林道事業名にはこういうものがないので)。

情報が少ないなりに、その整備の主目的は想像できる。
林道といいつつも、主目的は林業開発ではなくて、旧大沢郷村(林道開通当時は西仙北町)の南部、円行寺地区の生活道路であったかと思う。
右図は、『郷土史資料』に掲載されていた地図だが、大幹線林道が県道(図の上端付近に見える)と同じ太さで描かれている。
前述したとおり、円行寺地区は旧大沢郷村の中で最も山深く、中心部との交通がすこぶる不便であった。
そこで、既に国道や県道が通じていて交通至便な南外村との間に、大型自動車が通れる山越えの林道を開くことで、大沢郷南部の生活環境を改善しようと考えたのだと思う。
そしてそれは、一度は確かに実を結んだのだろうとも思う。

開通から30年も経たないうちに、この林道の要である立倉トンネルは、通行止めになったわけだが…。


まとめると、今回の立倉トンネル再訪で確かめるべきことは、次の二つだ。

  1. 初代隧道の現存の有無を確かめる。
  2. 2代目隧道と現在ある立倉トンネル(3代目?)の関係性を確かめる。

1がメインミッション、2はサブミッションとといったところだ。
それでは、本編いってみよう。



立倉集落にて、「カンパイの碑」を読む


2018/11/26 14:32 《現在地》

ここは、大仙市大字円行寺にある立倉集落。
ちゃんと時間通りに3人はここへ集まった。再開の挨拶もほどほどに、探索の身支度を調える。私は写真を撮り始めた。時間がないので急ぐ。

この足元の道は県道315号西仙北南外線だ。この立倉集落では、県道315号と、出羽グリーンロードと、大幹線林道が、一同に会する。
そのように書くと交通の要衝っぽいが、実態はグリーンロードの一人勝ちで、グリーンロードから見た集落の存在感はとても薄い。
昭和48年に鳴り物入りで開通した大幹線林道も、国道並みに高規格な道として昭和60年前後に開通した出羽グリーンロードこと「出羽丘陵広域農道」によって、あっという間に過去へ追いやられてしまったようだ。

写真奥の道が立倉トンネルへと通じる大幹線林道だが、15年前の記憶と変わらず、封鎖こそされていないが、車通りがありそうには見えなかった。
下手に封鎖されているよりも、「存在が忘れられている」という感じが出ていて悲しいものがある。

そして、15年前のレポートにも【登場】しているが、写真右手のフレーム外(トリさんのジムニーの後ろあたり)に、大きな石碑がある。
その名も、感佩之碑(かんぱいのひ)。



“感佩”は「かんぱい」と読み、深く心に刻んで忘れないという意味。
さらに、石碑の裏には小さな文字でびっしりと、その“忘れない”出来事が記されていた。 内容は、思いっきり要約すると、開通の喜びそのものである。

上記文章は15年前のレポートからの引用だ。今読むと、驚くくらいざっくりしてるな(笑)。そもそも、15年前の私はちゃんとこの碑を読んだのだろうか。写真を撮影していなかったうえに、内容についての記憶もなかった。そこで今回、その「びっしり」とした碑文を読み返してみた。日没までの時間があまりないから、急ぎたいのはやまやまだが、この碑文によって探索に成否に関わる重大な情報が判明するかも知れないので、後回しにはしなかった。
以下が、感佩之碑の全文だ。

(表面)
感佩之碑     西仙北町長 田村綏 書

(裏面)
碑文
  佐々木六郎氏に捧げる感佩の碑の賦  この石文は現在の幹線林道トンネルが出来た
昭和四十七年をさかのぼる二十数年前 人の手と汗で掘られた洞門の記録である 工事は
斉藤多三郎外六名の共有山林 六反四畝 毎戸二十人の人夫計一四〇人の條件を以て立倉
部落と請負契約を結び賛助寄付金を合せ施行され 規模は洞門の長さ八十間 洞内の高さ
八尺 巾九尺 東西の切割四十間 測量着工昭和二十七年九月 翌二十八年五月竣工した
賛助をいただいた芳名は 南楢岡村 落合商人 伊藤恭一 上戸川部落 中宿部落
大場台有志等である 旅人よ現代人よ当時の峰越のけもの路冬は往来不能な山道を想像し
てみませんか昭和二十七年代残雪の峰に立って よしここに洞門を掘ろうと一念発起した
一人の男がいたその人の名は佐々木六郎四十八才 戦災の都会から逃れ郷里に帰って間も
ない彼の眼に郷土の発展は交通の確保しかないと写ったに違いない やがて彼の念力は識
者の理解を得 部落を動かし同志を糾合して開始された 測量は彼と斉藤茂二そして勘
工事は手掘モツコの土工彼と部落の人々の苦斗の姿は正に「人見るもよし人見ざるもよし
我は咲く也」であったであらう 岩をも通す懸命の努力は遂に報われる 昭和二十八年五月
陽春である待望の陽光がさし込む 貫通である 万才だ この時人々は確かな将来をみた
必つと自の手に幸福がやつて来ると この偉大な成果に近郷の民衆は誰もが目をみはり
喝采した 旅人よ「愚公山を移す」に似たこの当時の快挙こそが現大トンネルの生みの親とな
り 今日地域の利便経済圏の構築に莫大な貢献の基礎になつたことを回想して下さい

 題字碑文 当時南楢岡村長 渡部任之助 撰
 石工 八代目渡部宇太郎
 立倉部落  上戸川部落  武藤鉄五郎 書

なんだか、読んでると熱くなってくる。名文かは分からないが、熱に当てられるのだ。
なぜか建立日が書かれていないが、西仙北町長に田村綏氏が初当選したのは昭和53年らしいから、その頃の碑だ。
大幹線林道(碑文では幹線林道とある)の開通を祝して建てられたというよりも、その要となった立倉トンネルの来歴に関する碑であり、末文にあるとおり、“現大トンネル”の生みの親となった“当時の快挙”こと先代の“洞門”を言祝ぐものだった。

現在の立倉トンネルが完成する以前、人の手と汗で掘られた“洞門”があったという。
それは立倉部落が事業の中心となって建設した全長80間(約145m)のもので、昭和27年に着工され、翌28年5月に竣工したそうだ。
発起人となったのは、佐々木六郎という人物であったことも書かれている。また、測量は彼と斉藤茂二であったと。

残念ながら、これらの人物の来歴は分からない。“南沢長根の洞門”を調査したときに名前が登場してきた人物たちとも違っている。
この碑に書かれていることは、私が図書館で行った机上調査より遙かに先を行っていると感じる。
おそらく、地元には詳しい人物がまだいる。ただ、尋ねる時間は今日はなさそうだ。

この碑文からは、昭和28年に先代のトンネルが作られたことがはっきり分かるが、これは今から数時間前に図書館で見つけた記述とは異なっていた。
『郷土史資料』には、「現在利用しているのは昭和23年に、戸川、立倉両部落の人たちが、金と労力を出し合って六郎という人の設計にもとずいて掘ったものである。前の洞門は現在のものより上に位置して掘られた…」と、書かれていたのである。

先代トンネルの建設に関わったのが(佐々木)六郎氏であったことは共通する記述だが、その完成年は昭和23年と28年で5年のずれがある。
そして、感佩之碑には、先々代というべき、これから探しに行く初代隧道の記述がない!

果たして、碑文と郷土資料の間にある矛盾の原因は、どこにあるのか。
そして、碑文からは脱落しているように見える、先々代=初代の隧道は、本当に実在したのか。
この場でそれを解明することは不可能だ。
ただ一つ、いまはっきり言えるのは、立倉トンネルがとんでもなく熱いということ。

ちょうど仲間たちの準備も終ったようだ。 先を急ごう!




15年ぶりに再会した立倉トンネルは…


14:36 《現在地》

大幹線林道の入口には、栩平川を渡る橋が架かっている。無名ではないと思うが、無銘のため、名前が分からない。
橋の前の路面がずいぶんと傷ついているが、おそらくこれは冬の間、除雪車がここに雪を捨てていくのだろう。その際に、車両の排土板と接触して傷がついたと想像する。
相変わらず立倉トンネルは封鎖されたままなんだろうなということが、このうらぶれた雰囲気から、容易に察せられた。

15年前の写真と比較してみると、季節の違い以外にも、この路面の傷の有無や、ガードレールの錆び方など、小さな変化が見て取れる。




ちなみに、橋のすぐ上流側にも、使われていない小さなコンクリート製の橋脚が、ポツンと1基だけ立っている。
大幹線林道が昭和48年に完成する以前の橋の跡だと思われるが、詳細は不明だ。




橋の先から振り返って眺める、立倉集落の風景。

ここの住人が中心となって隧道を切り開き、集落の名前を分け与えたのだ。その結果、この地が大沢郷の南の玄関口として輝いた時代が少しはあったはず。しかし、いまは専ら通過されるだけの土地となり…。
寂しい。

まあこれには、雪国特有である、積雪直前頃の時期的な印象もあるとは思う。
実際、この次の週には大積雪となり、もう同シーズン中は探索へ入れる状況ではなくなった。

なお、15年前の写真と比較すると、スギの木の生長がはっきり見て取れる。



入口から立倉トンネル坑口までは、約600mの距離がある。
やや広い谷がだらだらと続くが、谷底は入口から全部がススキの原っぱになっていて、かつて耕作されていた名残りも薄れつつある。
周囲の山はなだらかであり、スギ林と雑木林が半々くらいなるのだが、手入れのために人が出入りしている様子もなかった。

こんなに集落から近く、封鎖もされていないし、ここまでは崩れているわけでもないのに、道には全く新しい轍が感じられなかった。
それでも舗装がされているお陰で、まだ自転車が通れるくらいの道幅が、雑草の浸食を耐えていた。(探索メンバーのうち私だけ自転車で、2人は歩き)

現地ではこのことに気付かなかったが、レポートを書くために15年前の写真と比較してみたところ、道に沿って点々と設置されていた電柱が、全て撤去されていることに気付いた。
立倉トンネルにはそもそも照明施設がなかったので、トンネルを越えて南外側へ通じる電線だったようだが、わざわざ電柱を撤去したようである。



今年は山へ入るたびに異常な高確率でクマと遭遇するので、今日も危ないかも知れないなどという、笑えないトリさんの話を聞きながら、早めの歩速で歩き続けることおおよそ6分。
ススキの谷が狭まってきて、道が自然と掘り割りの底にあるような感じになると、もうトンネルは間近だ。
途中、15年前の私が「オカマヨッキ」となったカーブミラーは見当たらなかった(これも撤去されたのか)。

我々のオブローダーとしての眼力が試される場面は、この辺りからだろう。
これまで2回の訪問では、その存在を疑うこともなかった旧隧道が、立倉トンネルに存在したというのである。しかもそんな旧隧道が、2世代分ある可能性を排除できない事前情報の錯綜があった。

とにかく目を皿のようにして探すのだ。
旧隧道へと我々を導く、なにがしかの糸口を、見逃すな!!




14:45 《現在地》

出発から徒歩10分足らずで、さっそく見えて来た!

懐かしの立倉トンネル。


なんだか様子がおかしい。

あんなに坑門の色って黒かったっけよ……?

15年前のこのトンネル感じた嫌な予感が、既に現実となってしまった予感…。




…天井が、抜けてるじゃないか…。

一同、一瞬、言葉を失う。

頑丈だった坑門部分を置き去りに、坑門のすぐ奥の天井が、大規模に落盤していた。
その結果、外の光がいびつに注ぐ新たな天井開口部が、坑門よりも奥に誕生していた。

廃隧道にとっての15年という月日の重みを、突きつけられた気分…。
特に15年前と変わりがなければ、すぐに周りの山へ分け入って旧隧道探しをしようと思っていたが、
ちょっとこれは捨て置けない。今回で、このトンネルとの今生の別れにもなりかねないと思える状況だ。

とりあえず、入るぞ! これも緊急探索だ。




坑門と坑道は、ともに最後まで支え合って、人に作られた構造物としての使命を全うすべきだったのに。
その睦(むつみ)は、冷たい土の重みによって、無残に打ち破られていた。

未亡となったのは、坑門だ。
同時に無能となった、哀れな坑門。
坑門は、こうして裏の顔を人に見せてはならないのに、これは潰滅の証明である。

しかし構造物としての使命を語るならば、既に役目を終えたと見なされた後の潰滅だったことは、ちゃんと労われて欲しいと思う。
立派な記念碑が麓に建てられるほど華やかだった開通とは裏腹に、もしかしたら。建設当初からなにがしかの構造上の問題を抱えた存在だったのかも知れない。
普通であれば、コンクリートで巻き立てられたトンネルは、完成から半世紀も経たずに潰滅はしないのだ。

昔から、おかしくはあったのだ。
このトンネルは私が最初に目にした17年前……完成からわずか28年目という時点で、通行止めになってから1年くらい経っているような感じだった。
そしてその原因が、この西口付近の両側側壁に見られた異常な地膨れ(変状)にあったことは、たぶん間違いない。

左の写真は、15年前の再訪時に撮影した内壁の変状の様子である。

普通のトンネルは、コンクリートの覆工だけでも十分な強度があるはずだが、このトンネルには、コンクリートをさらに覆う頑丈な鋼鉄製の覆工が全長にわたって施工されていた。それが建設当初からのものであったかは不明だが、頑丈すぎるほどの備えには当然理由がなければならない。

脳裏に浮かぶのは、つい数日前に古老の口から聞かされたばかりの“南沢長根の洞門”の話である。一切の覆工を持たなかった、素朴な素掘りの隧道は、常に崩壊の危険に晒されていて、毎年のように補修工事が欠かせなかったという。そしてとうの昔に完全潰滅してしまっている。

15年前の私は、鋼鉄の覆工が激しく歪んでいる状況を見て、ただごとではないと感じた。そこには紛れもなく致命的な事態が進行していたのだろう。
それが私のような素人の目にも明らかな異変であったから、ずっと封鎖されたままだったということが、幸いだった。



坑口付近に出来上がった天井へと迫る高い崩土の山への登頂を果たした私が、

次に目にした洞奥の風景は、さらに予想外だった!!
↓↓↓




なにこれ…?

おかしいだろ。 これは……。

崩土の山の奥には、崩れ残った坑道が大きく開けていると予想した。それが当然であるはずだと思った。

しかし実際には、足元の崩土の山を上回る大容積の瓦礫が、素掘りの天井すれすれまで堆積していたのである。

天井から崩れたにしては、おかしいだろ。容積的に考えて!  まさか、外から運ばれた土砂で人為的に埋め戻された…?




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↑ 一同、状況がいっとき飲み込めず、ポカンと洞奥を見るの図。



あっ 分かった!! 

私が見ている、この洞奥を埋め尽くしたかに見える瓦礫の山は、実はほとんどが空洞だったのだ!
この瓦礫の山の中には、このトンネルの坑道そのものである鋼鉄製の覆工が、今も残っているんだ。
私が見ているのは、鋼鉄製の覆工の外壁だ。これまた通常ならば絶対に人の眼には触れない、トンネルの裏の部分。壊れるまで決して見えなかった部分だ。

そして私は、このときに至って初めて気付いた。
これまでの17年間、このトンネルの構造について、全くの思い違いをしていたことに!

先ほど私は、このトンネルはコンクリートの覆工の内側に、さらに補強のために鋼鉄製の覆工が重ねられているのだと書いたが、それは間違いで、実際は、素掘り隧道の中に鋼鉄製のアーチが建っているだけだった。


このトンネル、どうも万全を期してはいなかったようだ。

きっと崩れやすい、トンネルには良くない地質であるにもかかわらず、なぜか当然のコンクリート覆工を行わず、素掘りの壁との間に大きな空洞を残したまま、鋼鉄の覆いを建てただけだった。それは、細かな崩土が通行人に降り注がないように? あるいは、見た目を素掘りではなくするようにか? 
そんなうわべだけの、隠れ素掘り隧道だったのだ。

このトンネルの構造と現状を図にすると、右の通りである。

坑口付近の天井が抜けてしまったことで、大量の崩土が鋼鉄製の覆工にのし掛かり、ついにはその重みに負けて押しつぶされてしまったのが、現状である。
強固なアーチ構造を強引に押しつぶすほどの重量とは、どれほどだろうか。恐ろしい。

そして、私がいまいる場所は崩土の山の上だが、この崩土の下には、まだ押しつぶされていない坑道が残っている可能性が高い。
おそらく残っているだろう東口へ回り込んで調べれば、確かめられると思うが…。



押しつぶされず残っている洞奥の坑道へと通じる“抜け穴”が、
ここにもまだあるかも知れない!

瓦礫の山の一部から露出した、ひしゃげた鋼材のスキマに、その可能性を見出した私は、
まだ十分に状況を飲み込めていなさそうな2人(このトンネルの往時を見ていなければ、間違いなく理解に苦しむ状況である)を残して、

ほぼ垂直の小穴へ飛び込んだ!




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絶対に長居は遠慮したい地中の小部屋を、発見!


そんな小部屋には、ひしゃげた鋼壁の破れた場所が二つあり、一つは私が入ってきた上の穴。

もう一つは、巨大な黒い闇の空間。



“抜け穴”発見!!

立倉トンネルは、まだ完全に閉塞はしてはいなかった!



まだ無事だった残り100m以上の隧道を背にしながら、仲間が待つ西口崩壊地点を振り返る。

現代のトンネルでさえ、敢えなくこのような姿を晒す……、

この地のトンネルを愛さない恐ろしさを、まじまじと思い知らされた。



柴犬氏が撮影した、この隧道を探索している我々のダイジェスト動画を、ツイッターで公開中。ぜひご覧下さい! →リンク

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