隧道レポート 大沢郷の小戸川隧道(仮称) 最終回

所在地 秋田県大仙市
探索日 2018.11.21
公開日 2018.12.08

小戸川集落での古老聞き取り調査編


2018/11/21 13:30 《現在地》

峠を越えて辿り着いた舗装路を北へ歩き始めると、すぐにぽつぽつと民家が現われはじめた。
ここは小戸川(ことがわ)の集落だ。
このレポートのスタート地点として登場した秋通(あきどおり)を流れていた栩平(とちひら)川の別名を戸川といい、その支流である小戸川に面する丘の上に、細長く10戸ほどの民家が点在している。

大仙市大字大沢郷寺(おおさわごうてら)の最南端・最上流にある袋小路の土地であり、車道はここで行き止まりである。このような真っ先に辺鄙さをイメージさせる立地ではあるが、レポート開始直前に自転車をデポするため車で訪れた際に、郵便の赤いバイクが出入りしているのを目にしているから、無住地ではないことが分かっている。

ということは、

聞き取りをすべき住人がいるということに、ほかならない!



突然の戸別訪問は、迷惑を叱られる可能性もあるが、それでも我々はこの手段を探索中に排除していない。
私は迷うことなく、空き家ではなさそうに見えた大きなお屋敷の戸を叩いた。(右画像は集落内の風景であり、聞き取り対象者と直接の関係はない)

すると、可愛らしいおばあちゃんが現われて、まるで、「山を越えてきたヤッコ(乞食)」(細田氏言)のような酷いびしょ濡れの我々を邪険にしないばかりか、次に列記するような貴重な証言を多数いただくことができた!

まずはその前に証言者である古老のプロフィールだが、当集落の出身者で、現在はお一人でお住まいという、80歳代のご婦人であった。
そして、大前提として、我々が探索した隧道を、よくご存知であった。

我々が今しがた隧道を見てきたと言うと、「あいー、えぐあんたとこさ雨ふりん中えっだなー」と、大変感心されたが、その言いぶりからは、集落と隧道の間の身近さが滲み出ているようだった。

それではお待ちかね、小戸川集落の古老証言を、箇条書きでご覧いただこう。
項目が多いので、まずは証言者ご自身の通行体験談に関することから。



  1. 宿(しゅく、地名)にある小学校に通うために毎日あの峠の隧道を利用していた。
  2. 冬でもかんじきをはいて同じ隧道を通って学校へ行った。片道2時間くらいかかったが、峠までは親が一緒に歩いてくれた。
  3. 隧道は主に子供たちの通学に使われていたが、いまのように川沿いの道路が車道として整備されていなかったので、生活にも使われていた。南外の方から峠を越えてお嫁に来た人もいた。
  4. 隧道はとても短くて、中に入ればすぐに出口が見えるものだった。内部は岩が露出していて、木造の支えなどもなかった。
  5. 車やバイクが通ることはなく、歩くためのものだった。ただし、男子や若者の中には、自転車で通る人もいた(急な坂道は押して上った)。

隧道は主として、小戸川集落の子供たちの通学に使われていた。

この話を聞いた瞬間、探索中ずっと思っていた疑問が氷解していくのを感じた。
その疑問とは、決して車が通れないような山道に、なぜわざわざトンネルが掘られたのかということだ。

古い道路トンネルの多くは、ヒトとモノの交通の中でも、特にモノの運搬の便宜を計るべく、自動車や荷車など“車両交通”の実現を目指して建設されている。歩行者であれば階段や梯子のような急な通路でも往来は可能だが、物資輸送を効率化する最大の道具である“車両”は、そうもいかない。よく、「交通の発展は地域の発展の原点」とする言説があるが、これは生産活動のための交通、言い換えればモノの輸送のための交通を重視した考え方である。

だが、私はこれまでの全国での探索のなかで、こうした初期の道路トンネル建設の動機付けには、物資輸送の効率化と異なるベクトルのものがあることを知った。
そうしたトンネルの具体例としては、豪雪地で知られる新潟県長岡市山古志地区周辺の東隧道芋川小松倉隧道(仮称)、伊豆半島の山中にある青市隧道(仮称)などがあり、いずれも小断面で歩行者専用という特徴を持つトンネル群である。

これらはいずれも、子供を安全に学校まで通学させるために、地区の親たちが建設したという共通点があった。
つまり、物資輸送ではなく、通学のためのトンネルだ。
大人に比べれば体力も判断力も劣る子供たちに、少しでも楽で安全な通学路を与えたいという親心のようなものが、ほんの数十メートルの距離と高さの短縮を実現するトンネル建設に、大人たちを駆り立てることがあったようだ。
また、人家の少ない山間部では、トンネルが風雪を防ぐ避難シェルターとして機能することも期待されていたようである。
江戸時代までは存在しなかった、通学という種類の交通が、それまでなかった道路トンネルを生み出すきっかけとなったのだ。

これらの証言について、具体的に地図上での検証を行ったので、後段の机上調査編を読んで欲しい。

続いて、本隧道の誕生や終焉の時期、名称については、次のような証言が得られた。

  1. 隧道を誰が作ったのか、いつ出来たかといった話は、聞いたことがない。小学生の時にはもうあった。
  2. 隧道があまり使われなくなったのは、集落から学校へ通う子供が少なくなった50年くらい前だと思う。
  3. 川沿いの道路を車が通れるようになったせいで、大人たちも通らなくなった。(時期ははっきりしない)
  4. 隧道が崩れて埋もれた時期は分からない。
  5. 隧道に固有の名前はなかった。

これらの話の中で特に印象的なのは、集落から学校へ通う子供が少なくなった(いなくなった、だったかもしれない)ために隧道が使われなくなったという話である。
あくまでも、メインは通学のための隧道であったことが伺える。
そしてその時期が50年くらい前というのは、少々驚く“古さ”だ。昭和40年代だろうか。確かに、地方における過疎化の現象は既に顕在化していたと思うが、学校に通う子供が集落から(ほとんど)いなくなるというのは、数十年後の限界集落化を決定づける先触れであり、想像するとリアルに怖いものがある。

最後に私は、奇跡の新発見を夢見るスケベ心を胸に秘め、「同じような隧道が他にも周辺にあるかどうか」を聞いてみたところ、なんと1本ご存知であった。
だがそれは、我々がここに来る途中で目にした【栩平川の河川トンネル】のことであった。
古老は義務教育の8年間をずっと、我々が本日辿った道を往復しているわけだから、あの河川トンネルを知らないわけがないのであった。


15分ほど話し込んでしまったが、最後は懇ろに礼を述べて辞した。
隧道の正体を知ったことで、私は今さらながら、ここにはない隧道へ愛着の深まりを感じていた。
あの大人でも寂しい濡れた峠道を、この小さな集落の子供たちは、6才から14才になる年まで毎日のように通っていたのか。ずいぶん遠くにある学校へ。

雨の日も、雪の日も、風の日も、

時には、親に手を引かれ、
時には、闇夜に声を押し殺し、
時には、朋と語らいながら、
時には、初恋の誰かと夢のように軽やかに、
時には、試験の苦みを噛みしめて、
時には、時には、時には………

毎の日に、暖かな親の元を目指して越えた、峠道だった。



私はすぐに仲間二人とも別れ、全速で自転車をこぎ始めた。
目指すは秋通のスタート地点に置いてきた車(ワルクトレイル)だ。車を回収して仲間二人を迎えに戻ってくるつもりである。

小戸川と秋通の行き来は、峠越えをすれば約2kmだが、右図の矢印の径路で川沿いの車道を回ると、約4kmまで倍増する。
大したアップダウンはないので、自転車ならば比較するまでもなく遙かに楽な行程だが、それはあくまで川沿いの道が車道として整備されているからだ。
そうではなかった時代には、歩きで越える峠道にも「近さ」という十分な利用価値があって、だからこそ通学路にも使われていたのだろう。

そんなことを考えながら、片道4kmを自転車と車で往復して小戸川近くまで戻ってみると、おおよそ30分ぶりに合流した二人は、この間に別の古老の証言を追加収集してくれていた。
ありがてぇ! 第2の古老も小戸川の住人で、推定年齢70歳代の男性である。
その証言内容は、概ね以下のようなものであった。

  1. 隧道は、村の人たちに「 洞門 」と呼ばれていた。
  2. 自分も通学のために中学校を卒業するまで洞門を毎日通った。
  3. 洞門は長さが12〜3mほどで、結構広かった。
  4. 最初のうちはもっと長かったのだが、とても崩れやすく、毎年のように崩れてくるので、部落(集落)の大人たちが定期的に集まって、洞内の崩れた土砂を外へさらう作業をやっていた。

これまた、大いに注目すべき証言が目白押しである。
まずは、隧道の呼び名についてだが、やはり固有名詞はなかったようだが、「洞門」と呼び習わされていたとのこと。
現代では、「洞門」というとコンクリート製の落石覆いをイメージする人が多いと思うが、もとは、明治期に導入された「隧道」や「トンネル」といった表現よりも古くからわが国にある、トンネルを指すことばである。有名な江戸時代の「青の洞門」は、その代表的な使用例だ。

そして、やはり通学のために毎日隧道を潜っていたという証言があった。同じ集落の二人の住人から、同様の証言が得られた意味は大きい。
隧道の長さや大きさについても、より具体的な証言が得られた。
現状の東西坑口跡地の直線距離から、隧道の全長を10m程度と見積もったが、やはりそのくらいの長さであったようだ。
だが、古い地形図に描かれていた隧道が、実際よりも遙かに長く見えるのは、ただの作図上の大雑把さではなく、開通当初は実際にもう少し長かった可能性が高そうだ。

この隧道がとても崩れやすく、毎年のように崩土を掻き出す補修作業を村人総出のような形で行っていたというのは、補修が途絶えた後の哀れな潰滅を連想させるものであり、現状に結びつくとても真実味のある証言だと感じる。
まるで子供のように手のかかる、寂しがり屋の隧道だったのかもしれない。



以上、小戸川集落では、実際に隧道を利用したことがあるという二人の古老から証言を得ることに成功し、その実態解明に大きく前進した。
現地探索は、これにて終了。




机上調査編


古老からの聞き取り調査を含む現地探索では、隧道の実態について多くの情報を得ることが出来たが、解明されていない事柄も多い。
特に気になるのは、隧道が建設された時期と経緯である。
誰がどのような経緯から計画を立案し、いかにして建設されたのか。
また、圧壊して現存しない隧道の在りし日の姿(写真)を、いまいちど目にすることは出来ないか。
こうしたことを目的に、机上調査をおこなった。



まずはいつものように、歴代地形図の見比べを行った。

@
地理院地図(現在)
A
昭和39(1964)年
B
昭和9(1934)年
C
大正2(1913)年

探索前から入手済だったB昭和9(1934)年の地形図に加えて、その前後時期の状況を知るために、A昭和39(1964)年C大正2(1913)年版を新たに入手した。
さらに、入手しなかった版についても、県立図書館で全て確認した。

結果分かったこと。
今回探索した隧道は、C大正2(1913)年版には描かれておらず、隧道がある峠道自体も描かれていない。
峠道と隧道が初めて隧道が描かれたのは、B昭和9(1934)年版である。CとBの間には、昭和4(1929)年版があるが、これは基本的に、Cに「鉄道補入」をしただけの版であるから、隧道や道路の有無の参考にはならない。したがって、歴代地形図の調査から推測できる隧道完成の時期は、大正2年から昭和9年の間である。

ここから時代を進めてみると、昭和28(1953)年版ではBと全く同じ記載内容だが、次に更新されるB昭和39(1964)年版で、道は相変わらず徒歩道として描かれているのに、隧道だけが姿を消している。
隧道はもともと5万分の1地形図に描かれるほどの長さを持っていなかったようなので、このことをもって単純に隧道が廃止されたとは判断はできないが、古老の証言と照らし合わせれば、だいたいこの頃から交通量が少なくなり、最終的には現在のC地理院地図のように、「道は描かれているが実態は廃道」という状況になっていったものと考えられる。
ただ、Bでもまだ小戸川沿いの道が歩道の表記であるから、これが車道に整備される頃までは、峠道にも需要があったように思う。

小戸川沿いの道が車道として整備された時期については、机上調査でもはっきりと分からなかったが、右図で示した昭和43(1968)年の航空写真を見ると、既に小戸川沿いの道路は拡幅された砂利道のように見えるので、全国の多くの農村地帯と同様、昭和40年代初頭に自動車が入るようになったのではないかと思う。

なお、この航空写真には、今回探索した峠越えの道が、(歩道とは思えないほど)くっきりと見えており、いまのような昼なお暗い道ではなかったように見受けられる。
ただしこれは道路整備の結果というよりは、木炭生産のために樹木の刈り払いが盛んであったことによるのかもしれない。(よくいわれることだが、日本の里山の雑木は、木炭生産がなくなった現代になって埋蔵量を急速に増やしているという)

比較として並べた昭和51(1976)年版でも、依然として峠道は木々の切れ間として見えているが、峠の東側は皆伐によって禿げ山と化しており、スギが植林されている【現在】とは違った景色を見せている。この大規模な皆伐は林業機械によるものであろうし、既に峠道には生活利用者がなかったことが連想される。通学路っぽい感じがしない。



地形図と航空写真に続いては、「もしかしたら」と思って、「点の記」を調べてみた。
点の記というのは、日本中に設置されている水準点や三角点について、個々に記録した台帳のようなもので、その点へ至る道のりの情報が含まれているので、山道の情報を得られる場合がある。これは国土地理院が公開している基準点成果等閲覧サービスで見ることができる。

現地探索時点には深く意識していなかったが、最新の地理院地図を見ると、今回探索した峠のすぐ間近に「三角点」の記号が描かれている。この三角点の「点の記」を閲覧したのである。


国土地理院「基準点成果等閲覧サービス」より転載

さて、「点の記」によると、この三角点は「四等三角点」で、点の名称は「尊仏(そんぶつ)」となっていた。
設置は昭和53年6月24日とのことで、同年7月9日に「観測」を行った際の「順路」が、次のように記されていた。

順路:
尊仏部落より、南東へ約0.5km進むと塚部落あり。(糠塚部落か)
これより沢の小径を東方へ登ること約0.6kmで峰に至る。
峰を北進約15mで山頂に至る。本点は山頂中央部にあり。

右図は、合わせて掲載されている「要図」である。
この昭和53年7月9日に行われた「観測」は、今回私が峠を目指したのと全く同じルートで行われていた。
「順路」のスタートである尊仏という集落名は、現在の地形図からはなぜか削除されているが、前掲した旧地形図に見て取れ、現在の秋通(の一部)を指している。

注目すべきは、「要図」に描かれている詳細な峠付近の地図である。当時、まだ隧道が口を開けていたならば、描かれていてよいと思う。
それが描かれていないのは、既に原形を失っていたからではないか。
「点の記」によって、昭和53年には既に隧道が埋没していた可能性が高いと判断した。

また、現地探索で見たとおり、昭和57年には糠塚の峠道入口付近に【砂防ダム】が完成しており、これによって峠道はいっそう通行困難になったのであるから、遅くとも昭和50年代には、廃道化したのだろう。




国会図書館のデジタルライブラリもいろいろ検索してみたが、これといった情報は得られなかった。
そこで次に、秋田県立図書館へ赴いての文献調査を行った。
多くの資料に目を通したが、結論を先に言ってしまうと、現地での聞き取り調査に勝るものはなかった。
いやはや本当に、あそこで古老の門を叩いたのは大正解だった。文献から零れた口語の情報が今回は真価を発揮したといえる。オーラル最高!

図書館で得られた情報で、隧道に直結したのは、次の(わずかに)一文である。

秋通、小戸川間は南沢長根のくっさくにより新たに路線が出来上がりました。
『西仙北町郷土誌 近代篇』p.506より

昭和51(1976)年に西仙北町が刊行した『西仙北郷土誌近代篇』に、この記述を見つけた。
見ての通り短い記述で、両端の地名から今回探索した峠道を示しているのは明らかだが、どこにも隧道やトンネルとは書かれていない。
それでも、「くっさくにより新たに路線が出来上がり」という表現が、隧道の掘削を暗に示しているように思う。

というのも、この一文の前後には同じ大沢郷地区にある10本ほどの道の来歴が一文ずつ書かれているが、他は全て「通じて居ります」とか「古道であります」といった書かれ方なのに、この道だけ「くっさく」という表現をされている。
また、件の峠が越えていた尾根に、「南沢長根」という固有の名前があったことも、初めて知った。
結局分からずじまいの隧道名は、「南沢長根の洞門(仮称)」というのが最も相応しいのかもしれない。

この南沢長根の峠道や隧道についての記述は、他の部分には全く出ておらず、これ以上の情報を得ることは出来なかった。
そもそも、「くっさくにより新たに路線が出来上」った時期がいつなのかさえ、書かれていない。強いて言うなら、一連の文章の冒頭に、「明治34年郡道の布設及び大正3年刈和野橋の架設により大沢郷の道路は一大変革を見ましたことは言をまたないことでしょう」とあり、次に「現在と大きく変化せるものとしては」と前置きしたうえで、「くっさく」の一文が現われるので、大正3年以降に新設された道だということは間違いがなさそうだ。
これは先ほどの歴代地形図調査の結果とは矛盾しないが、さすがに範囲が広すぎて、新情報としては弱い。


南沢長根の隧道についての直接の記述は、他に見つからなかったが、その来歴を考察するうえで参考になりそうな情報がいくつかあったので、順に紹介したい。

まずは、本編でもメインの隧道の先触れのように登場してあまり萌えない姿を晒し、最後忘れた頃になって古老の証言に再び登場した、栩平川の河川トンネルに関する詳細な情報である。
このトンネルについては、本編中でも『角川日本地名辞典』の次のような記述を引用して解説している。

極端に蛇行しているため,少量の降雨でも洪水の被害を受けてきた。尊仏の南側もなべつるのように曲がり,右岸に三日月台と呼ぶ細長い台地が延びている。同台地にトンネルを掘って流路変更し,屈曲部を開田する計画が立案され,大場沢の田村春吉が秋通の今田巳之松の協力を得て,明治34年春着工,半年を費して高さ6尺・幅9尺・長さ80間の洞門が完成した。開田は翌35年から3か年の継続工事で進められ,同37年にはみごとに1町4畝歩余の美田が開かれた。
『角川日本地名辞典秋田県』「栩平川」の解説文より

この明治37(1904)年に完成した大規模な河川トンネルの工事の経験が、後に南沢長根の道路トンネル建設へ活かされたのではないかという推測があり、それを裏付けるような記録を探しているのだ。

『西仙北郷土誌近代篇』には、この栩平川の河川トンネルについて、さらに詳しい情報が掲載されていた。
抜粋して箇条書きにすると、次のような内容である。

  1. 計画は大場沢の田村春吉により明治31年になされた。彼はこの頃、「奥羽線和田、境間のトンネル工事中だったので、これを実地に視察して新技術を知り、土木専門棟梁の三浦政吉(大場沢の人)を雇い入れたといわれている」。
  2. 明治34年に、田村春吉と今田巳之松(秋通の人)が中心となって隧道工事が進められ、半年で高さ6尺(1.8m)、巾9尺(2.7m)、長さ80間(145m)の隧道が出来上がった。総工費は144円、人足480人(1人あたり30銭)。
  3. 隧道は明治34年に一旦完成したが、「在来ノ分ニテハ排水ノ便アルモ船筏ノ通行ニ十分ノ便アリトスルコトヲ得ス」という理由から、明治37(1904)年に高さ9尺5寸(3.6m)、巾9尺(2.7m)に切り広げられた。

『西仙北郷土誌近代篇』より転載

「1」に出てくる奥羽線の話は、土木工事の専門技術者である三浦政吉なる人物が地元にいたことを明らかにしており、非常に興味深い。
これ以降の彼の活躍を知る手掛かりは今のところないものの、彼の存在は注目してよいと思う。

秋田県は基本的にトンネルの多い土地柄ではないうえに、古いトンネルの多くは鉄道関係、大資本による鉱山関係、国有林の森林鉄道関係であって、特に民間によって建設されたトンネルは数が少ない。
ゆえに、県内には民間のトンネル技術者は多くはなかったと思われるが、この大沢郷地域は、後述するトンネルも含めて、例外的に民間によるトンネルが多くある(全国の名だたるトンネル多発エリアのようには多くない)ため、中心となった技術者の存在や、そうした技術の継承があったのではないかと疑っている。

右の画像は、同書に掲載されていた、コルゲートパイプで補修される以前の写真である。
水が流れていなければ道路用と区別がつかなさそうなサイズの素掘り隧道だったことが分かるが、キャプションに 「糠塚川の洞門」 と書かれていることにも注目したい。
本文中にも、この隧道を指して「洞門」と書いている箇所がいくつか見られるので、この地域には隧道を「洞門」と呼ぶ人が多いのかもしれない。二人目の古老の証言とも重なる部分だ。


この栩平川の河川トンネル工事は、山村の宿命である耕地不足に悩んでいた大沢郷村(現在の大仙市西部に明治22年から昭和30年まで存在していた自治体。後に西仙北町の一部となり、平成の合併で大仙市の一部となる)にとって、貴重な美田地帯を獲得する村土木史上の大きな成功となった。
このことに勢いを得て、川替え目的の水路トンネルが続々と建設されたかと言えば、そうはならなかったようだ。
それでも記録に残るものとしてあと1本、同じ栩平川の上流に河川トンネルが建設されている。
こちらは、やむにやまれぬ緊急の事情によって。

右図は、旧大沢郷村のいくつかの集落の位置を示している。
村域は広く、いくつもの谷にわたっていたが、栩平川は村内に完結するそんな谷川の一つだった。
川沿いに小さな集落がいくつもあって、下流から順に下戸川、山辺沢、尊仏、糠塚、滝ノ沢、大場台、立倉など、支流沿いにも小戸川、秋通、布又などがあった。

前述した「糠塚の洞門」に続く河川トンネルが建設された場所は、糠塚から約7km上流にある、布又の支流である。
この布又の河川トンネルの目的は、“地震湖”からの排水だった。


『西仙北郷土誌近代篇』より転載

大正3(1914)年3月15日、秋田仙北地震(wiki)(M7.1)が発生した。

この地震では、秋田市で震度5を記録しているが、当時震度計の設備がなかった震源に近い大沢郷村の近隣では、震度7相当の激しい揺れがあったと推定されている。

木造家屋の倒壊に巻き込まれる死傷者が多く、全体の死者は94人にのぼったが、大沢郷村でも9名が亡くなっており、村内全域で多大な被害があった。特に山間部では斜面崩壊の被害が大きく、布又では大規模な山体崩壊で川がせき止められたため、深さ5mを越える巨大な“地震湖”が出現し、家屋や農地が水没する事態となった。
上の画像は、布又の集落を沈めつつある、不気味な“地震湖”の写真である。



この緊急事態の解決を目指して行われたのが、河川トンネルの開削だった。
秋田大学が公開している『秋田災害忘れじの旅ある記 その3』によると、当時の秋田魁新報の記事に、「家屋は水に没したるより部落民其他の応援に依り八十間を切り開き排水に努め今は減水しつつあり」とあって、ここでも全長145mほどの河川トンネルが建設されたことが記録されていたのである。

現代であれば、被災した住民は長期間の避難所生活を送りながら、国の災害復旧事業を待つのだろうが、当時の未発達な制度のものでは、小さなコミュニティの頑張りが命を繋ぐ要であったのだろう。凄いバイタリティだ。

そしてこのときの隧道は、現在も一部が現存している。
左の写真は、2018年11月26日に撮影した、布又の河川トンネルの姿だ。
河川トンネルとしてはかなり規模の大きなものだと思うが、立派に役目を果たし続けている。

このトンネルの建設にも、先の三浦政吉氏をはじめとする地元のトンネル工事経験者が中心的な役割を果たしたのではないだろうか。詳細な記録はなく、断定は出来ないが…。


このように、明治34(1901)年と大正3(1914)年に相次いで行われた、村内の河川トンネル建設工事。
いずれも成功し、関係者は大いに喜び、また感謝もされたことだろう。
そしてこの次にあたる時期、震災の復興が一段落した頃に「くっさく」されたのが、舞台を川から道路へと移した「南沢長根の洞門」だったのだと私は考えている。

話が少し前後するが、『西仙北郷土誌近代篇』には、明治時代の旧大沢郷村の道路事情を述べた次のような記述がある。少し長いが引用する。

往時大沢郷の道路の様子はどうであったろうか。明治33年村条例設定の理由書の文中に「……大沢郷村ハ土地多クハ山沢林野ナリ故ニ地面最広ク部落数25トス 1、2戸点散ノモノヲモ算入セハ倍ヲ加ヘサルヘカラス……道路未タ修マラス地面ノ広キ部落ノ多キ已ムコト得サルノ結果トシテ縦横四維道程70里之ヲ現在戸数ニ配当セハ平均1戸6町強ノ負担トナル……」とある。山また山の然も散在する部落、明治15年臨時連合村会で「1の小学校、7の巡回授業所」としたことなどから考えて、当時の道路が如何にひどかったかが推測されるし、それだけ長い間如何に道路行政に苦労したかがうかがわれる。
『西仙北郷土誌近代篇』 p.547より

おおよそ40平方キロほどの山間地に、多数の小集落が散在していた旧大沢郷村にとって、長大な道路の整備が大きな課題であった。
わざわざ小学校の話が出ているが、明治12年の教育令施行によって国民の義務となった教育を村の子供に普く与えるため、村内には1つの本校に加え、7箇所もの巡回事業所を置いていた時期があったというのだ。
この学校事情の話が、南沢長根の洞門建設にも繋がっていると思われるのだが、残念ながらそうした記述はない。

村ではこうした道路事業の悪さを是正すべく、重要な箇所から手を付けていった。
同書では、上記引用した文に続いて、明治期から昭和20年代までに行われた村営道路工事をいくつも列記しているが、南沢長根の洞門に関する直接の記述はなかった。
しかし、次の記述との関係が深そうだと私は思う。

昭和6年 県は、農山村漁村失業救済事業助成で低利資金を貸付けて救農土木事業を行わせた。
大沢郷村ではこの制度を受けて、昭和10年頃まで、農村振興施設事業とか凶作対策土木事業とかいう名目で、村道の改修、林道の改設、改修、堤などの工事がひん繁に実施された。
『西仙北郷土誌近代篇』 p.550より

これじゃないか?
昭和6年から10年に行われた、多数の村道や林道の建設工事。
昭和9年の地形図に初めて現われた隧道との時期的な符号もある。古老の証言とも矛盾しない。
全国的に見てもこの昭和6年頃は、農村の失業対策を主眼とした土木事業が最も盛んに行われていた特別な時期であり、山野に新たな道路を切り開くような単純で人海戦術的な土木工事が非常に好まれていた。
突如として地図に現われた南沢長根の峠道と隧道の開削は、この時期に行われた可能性が極めて高いと思う。


確定的な記述は少なかったが、いろいろ考察が進んだ図書館での文献調査。
最後に、古老の重要な証言を裏付けるべく、村内の小学校の改廃を調べてみた。



『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』より転載

右図は、同じく秋田県立図書館で見つけた『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』(昭和49年/大沢郷郷土史談会 発行)に掲載されていた地図である。旧大沢郷村が西仙北町の一部となったあとの、昭和40年代の状況が描かれているようだ。 図の中央付近を東西に横断している太い道(刈和野街道・現在の県道10号)を大体の境界として、南側が旧大沢郷村、北側は旧強首(こわくび)村である。

村内の道路では、前記した刈和野街道が太く描かれており、他に細い道路が縦横に走っている。
注目すべきは、尊仏(秋通)と小戸川を結ぶ今回探索した峠道が平然と描かれていることだ。
最後まで自動車の通行は出来なかった道だが、村内の重要道路と見なされていたことが伺える。地形図よりも村の事情に則した表現がされていると思う。
ただし、洞門は描かれていない。

この地図には、当時存在していた全ての集落名のほか、学校の位置も漏れなく描かれている。
昭和40年代の旧大沢郷村域には、3つの小学校(大沢郷小学校、大沢郷東小学校、大沢郷西小学校)と、1つの中学校(大沢郷中学校)があったことが分かる。
これらの学校の来歴は、『西仙北郷土誌近代篇』に詳細の述べられているが、いずれも明治初期に開校している。
もっとも、東小や西小は、初期には独立した学校ではなく、本校の分教場であったり分校であったりと、変遷がある。また、こうした分校や分教場、あるいは冬期分校のようなものは、他にもいろいろの改廃があったことも分かっている。(前掲した大正2年の地形図でも、「滝ノ沢」に学校の記号が見える)
だが、南沢長根の洞門が開削されたであろう昭和初期以降に限定すれば、ほぼ一貫してこの地図にある学校だけが通学の対象であった。

ここで、2人の古老の証言を思い出してみる。
彼らは小戸川の学生であり、洞門を通って「宿」にあった学校に通っていたと言っていた。
宿は、現在も大仙市大字大沢郷宿という地名に生きているが、旧大沢郷村の役場所在地であり、村の中心だった(地理的には北端に偏在している)。

その宿には、大沢郷小学校と大沢郷中学校があった。もっとも古老らが通っていた時期は、昭和20年代から30年代の初頭だろうから、昭和22年以前の尋常小学校時代(初等科・高等科)も経験していたかも知れない。

いずれにしても、小戸川から宿までの道のりは約5.5kmもあり、洞門があった南沢長根の峠をはじめ、途中の尊仏から大場沢の間も峠、大場沢から宿の間も峠である。
あわせて3つの峠を片道で乗り越えねばならなかった通学は、大人の足でも辛いはず。現代ならばスクールバス通学だろうが、古老の時代に運行されていた様子はない。当時もいまと同じで通学の最年少は6才である。通学という名の修験道のようである。
深い雪の日には洞門のところまで親が見送りに出てくれたという話が、ますます真に迫って感じられるではないか。

冷静に地図を観察すると、小戸川から東小学校へ通うとすれば、距離はほぼ変わらず峠越えは全くない。また、直接向かう道がないので遠くなるが、直線距離なら西小学校がより近い。あるいは、地図には描かれていないが、雄物川の対岸に目を向けるとさらに近くに隣村に属する小学校があった。

余談だが、平成30年の現在、これら4つの小中学校は全て統廃合によって廃止されており、旧村域内に学校は存在しない。


南沢長根の洞門についての机上調査の成果は、以上である。
洞門の写真が見たいが、いつか見つかる日が来るといいと思う。



Next Dream 図書館から光の速度で走り出す


2018年11月26日、朝から秋田県立図書館で洞門の机上調査をおこなっていた私だが、

そこで出会った『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』に、次の記述を発見した。




『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』より転載

旧大沢郷村の南端部にあった立倉隧道に、旧隧道が存在したという、まさかの記述。


今すぐ立倉隧道へ走れ!


旧大沢郷村の洞門探しは、まだ終らねぇ!




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