隧道レポート 新潟県道45号佐渡一周線 戸中隧道旧道 第1回

所在地 新潟県佐渡市
探索日 2013.05.28
公開日 2014.06.29

今回紹介する隧道には、驚くべき特徴が備わっている。

私はこの特徴を持つ隧道を、まだ2本しか知らない。これがそのうちの1本である(当サイトでは初めての紹介となる)。

隧道の所在地は、島国ニッポンの縮図を思わせる本州最大の離島佐渡島。その北岸に連なる外海府海岸である。
今回も県道佐渡一周線に属する旧道であり、特に北狄隧道からは1.6kmほどしか離れていない。




現在の地形図(→)には、今回探索する旧道は描かれていない。
だが、現在の戸中第一トンネルと第二トンネルは、「平成16年度道路施設現況調査」によると、共に昭和48年の竣功であり、それぞれの長さは49m、152mである。
対して、昭和43年発行の「道路トンネル大鑑」にも全く同名の2本のトンネルが記録されているものの、こちらは共に大正2年の竣功とされているうえ、長さがそれぞれ172.0m、39.3mとなっていて、第一第二の長さが逆転している事も含めて、明らかに符合しない。

これだけでも十分に探索する甲斐がありそうだと言えるが、さらに、次のような情報まである。




←おわかりいただけただろうか。

昭和28年の地形図に描かれているのは、紛れもなく旧隧道である。
これらは大正2年に竣功したとされるもので間違いないだろう。

だが、大正2年測図という、隧道完成直前に描かれたと思われる地形図にも、既に隧道が描かれているという重大な問題がある。

大正2年測図版に描かれている隧道は1本だけであり、しかもその後の第一第二のどちらとも特定し難い微妙な位置と長さである事も、私を大いに悩ませた。


この隧道には、これからご覧頂くような摩訶不思議な景観が待ち受けているが、それだけで終わらず、“明治隧道疑惑”までというのだから……

オブローダーのために生まれてきたような隧道である。
(↑ それはない)




戸中と戸地を隔てる難所。 その名は、カイタク。


2013/5/28 13:03 《現在地》

ここは戸中集落の北端にある平根崎である。
「平根崎の波蝕甌穴群」として国の天然記念物にも指定されている観光地だが、県道沿いにはドライブインらしき建物の廃墟と、それに付属する駐車場があるだけで、人の気配がまるでなかった。
ちなみに、天然記念物指定の甌穴群はもっと海岸に近い所にあるようだが、海岸段丘の地平から渚に至る落差30mはあろうかという一定斜度の岩棚の方がよく目立っていて、また見栄えもある。
地質学者が泣いて喜びそうな、そんなジオの囁きを感じさせる地形であった。

これは、問題の隧道がある地形とも、もちろん無関係ではない。




平根崎から戸中集落へ入る県道には、新道と旧道がある。

右は新道で、入江と漁港を跨ぎつつ段丘上と海岸線の高低差をも短絡する、戸中大橋である。
左はいかにも狭そうな従来の県道であり、私はこの道で集落を通過することにした。

なお、この場所からは戸中集落を一望出来るのだが、そのために問題の隧道とのファーストコンタクトも、ここで済ませることになった。




これがその眺め。

戸中(とちゅう)と戸地(とじ)という、なぜか戸の字を共通させる、地形的条件もよく似た、ふたつの集落が隣り合っている。
その家々の連なりや、その面前に広がるテトラと防波堤が織りなす海を見ている限りは、何とも穏やかな漁村景観である。

だが、この双子を思わせる集落間の行き来は、かつて決して容易いものではなかっただろう。
集落の間には段丘崖が海上まで突出しており、樹木のない絶壁が日本海の波に洗われていた。



戸中と戸地を隔てる巨大な絶壁。

その根元に口を開ける新旧の隧道が、はっきりと見えた。
そこから視界を右へずらしていくと、2本目の旧隧道までもがくっきりと!

地形図からは抹消された旧隧道と旧道だが、どうやらちゃんと残っているようだ。
しかも、ばっちり廃止されているようで、これは探索の腕が鳴る。 ん? 鳴るのは足かな?

なお、この誰が見ても分かり易い、“いかにも”な難所地形である。
ここにはちゃんと固有の名前が付けられていた。ただし、それを探索前や最中に知る事は出来なかった。
この難所に与えられた名前は、カイタク。
「相川外海府の伝説と昔話」(昭和53年発行/佐渡時事新聞社)などに出てくる名前だが、
その由来は説明が無く、個人的には似た名を見たこともない不思議な名である。




旧県道で戸中集落を通過中。
道の両側には人家や急な法面が交互に現れて、道が広くなる余裕を与えない。
それゆえ待避所もほとんど無い1車線で、かつては現道という迂回路も無かったのであり、相当の隘路を感じさせた。

なお、後日調べたところによると、戸中も戸地も集落としての歴史は似通っていたようである。
いずれも中世以前からの歴史があり、漁業、農業、そして地内の鉱山の生業により暮らしていた。
それが近世には鉱都として発展した相川(佐渡金山)の経済圏に組み込まれることになり、坑木の生産や農業が主な生活の糧となる。
近代に至っても状況にあまり変化は無かったが、佐渡金山が閉山した現代では再び半漁半農、そして観光にシフトしているとのこと。

自治体としては、明治22年にいずれも北海村の一部となり、明治34年金泉村、昭和29年相川町と次第に大きな自治体のに属して来たが、平成16年からは佐渡島全体を市域とする佐渡市の大字として近世以前からの村名を留める。



13:12 《現在地》

さて、戸中集落の中で再び1本となった県道を経て、やって参りました。

カイタク――その名前の得体の知れ無さが難所っぽい?――巨大な岩場の麓へ。

次の戸地集落までは、直線距離であれば僅か300mしか離れていないが、この距離はほとんどそのまま難所の幅である。

隧道を掘ること以外、先へ進むには段丘の上まで迂回する以外、どうにもならなそうな地形である。
それだけに、佐渡の中でもかなり早い時期に、迷うことなく隧道が掘られたようである。
そして、隧道は昭和の終わり頃に至って、やっと2車線完全鋪装の県道に相応しい近代的な姿に生まれ変わった。
代わりに昭和48年まで使われていた旧隧道は廃道となったが、これが佐渡の大らかさのなせる業か、ほとんど往時のままに放置されているように見えた。




現道のトンネルは、冒頭で述べたとおり、戸中第一と第二という2本のトンネルからなるが、坑門に取り付けられた銘板にはその区別がなく、単純に「戸中隧道」と表示されていた。
なお、見ての通り厳密に言えば、扁額が取り付けられているのはトンネルそのものの坑門ではなく、添加された落石覆い(洞門)の坑門だが、当初からこの構造だったようである。
「平成16年度道路施設現況調査」によれば、戸中側にあるこの隧道が、戸中第一トンネル(全長48m)であるはずだ。




そして、隣に口を開けるこの完全なる素掘の坑口。
これが「道路トンネル大鑑」にある戸中第二隧道(全長39.3m)であるようだ。

新トンネルの開通時にわざわざ第一と第二を入れ換えた理由は定かではないが、新トンネルの開通当時の県道路線名は「両津外海府佐和田線」であったから、起点から終点に向けて第一第二の順に名付けていることが分かる。
一方で大正2年の旧隧道の建設当時を想像すれば、都会である相川から郊外の外海府へ向けて建設が進んだと見るのが妥当であり、それゆえ完成した順に第一第二と名付けたのではなかっただろうか。

なお、私はここまで自転車で来ていたが、入口から見える洞内の様子は、早くも自転車のここでの待機を決定するに足りる状況だった。
そして、この決断は結果的に正解だった。




このカイタクには、魔窟が眠っていたのである。


その事に私が気づくまで、あとほんの少し。