隧道レポート 新潟県道45号佐渡一周線 戸中隧道旧道 第4回

所在地 新潟県佐渡市
探索日 2013.05.28
公開日 2014.07.05

未曾有の隧道、 その後半戦に挑む  


2013/5/28 13:32 《現在地》

なぜ私は、隧道の中でこんな目に遭っているのか。
目の前に立ちはだかる濡れた滑らかな岩棚を前に、笑みがこぼれる。愉しい。

だが、笑ってばかりも居られない。この先がどうなっているのかまだ分からないが、ここを越えられないと、残りを探索出来ない可能性もあのだ(反対側の坑口から入って探索出来る可能性もあるが)。

目の前に、先へ進むための道は、はっきり見えている。
後は、この岩棚を登れるかどうかだった。

海蝕洞の洞床と、続く路盤との高低差は、私の身長よりも高かった。
手掛かり足掛かりさえしっかりしていれば、なんてことのない落差だが、濡れた岩棚の上半部は、まるでリーゼントのようにオーバーハングしていた。
しかも、全体的によく湿っていて、滑(ぬめ)りもあった。

とりあえず、足場として使えそうなただひとつのステップに、体を載せてみることにした。




地面から1mくらいの高さにある、唯一のステップ。
路面に立つためには、このステップを起点に、後は濡れた岩棚を抱きかかえるようにしてよじ登るしかないが、とにかくヌメヌメしていて対処に困った。

出来るだけ身体全体を岩場に付けるようにして摩擦を増やそうと思ったが、そうすると足元が視界から消えた状態になるので、足をステップから外すのが怖い。
登っている最中に滑り落ちたら、この狭いステップなどは容易く踏み外し、さらに1m下のゴツゴツした地面に背中から落ちる可能性が十分あった。
はっきり言って、この高さでも背中から行けば死ねる。

もし、ここがもう少し高い場所だったら、大事を取って迂回を決定したようにも思うが、今回は慎重によじ登る事に……

そして――




達した!

冷や汗だか普通の汗だか分からないものを額に滲ませながら、なんとかこの段差を克服。

眼前には、ここへ来るときに通ってきたものと同じような姿形の洞穴が、いや隧道が、暗然と口を開けていた!! 

…もう、出来ればこのルートを戻りたくはないぜ…。

右写真は、よじ登った所から振り返った海蝕洞の対岸である。
端部は大規模に破壊されたような断面だが、現役当時との変化の具合は想像する事が難しい。
また、隧道のゴツゴツした壁は、滑らかな海蝕洞の表面とは別の岩であるかのような質感の違いを見せており、自然に抗った工事関係者の並ならぬ苦労が思われた。




13:36 

遂に第一隧道を分断していた海蝕洞を完全に突破し、
その後半戦へと突入した。


頼るべき出口は、いま私の正面に光り輝いて見える。

しかし、明らかに光源は、その手前にもあった。

まさか、一箇所だけではないのか…!




その通りだった! 戸中第一隧道に接続している海蝕洞は、ひとつではなかったのである!!


先ほどの海蝕洞から3〜40m先の海側に横穴。

そして、そこからさらに15mほど先の海側にも、別の横穴が通じていた。

これら全ての穴から外光が射影し、洞内にささやかな開放感と潮の香りを届けていた。




なんなんだこいつ面白い。


もう、とことんまで普通ではいられない性分らしい。
ひとつの海蝕洞と繋がっているだけでも珍しいのに、第二、第三の海蝕洞が…!

これまた狙ってやったに違いない。こうすることで、いくらかは掘らねばならぬ土砂の量を減らす事が出来るし、
各海蝕洞から両側に向けて掘ることが出来るならば、その分だけ切羽の数を増やし、工期の短縮が図られただろう。




今度の海蝕洞は、2本とも隧道を横断するほどの奥行きは無く、海側の壁に歪な横坑を穿っているに過ぎなかった。まさに“明かり窓”である。

まずは手前側の横坑へ接近する。
この横坑には、隧道との境界に高さ2mを越す壁が設けられており、その一部が石垣になっていたのが目を引いた。

なぜ、中途半端に塞がれているのだろうか。
完全に塞ぐわけでも、解放するわけでもない、この微妙な土壁の意味は――。




ここでも無理やり壁をよじ登り、海蝕洞の全容を確認した。

その出口は20mくらい先にあった。
先ほどの海蝕洞とは違い、出口がやや狭まっている形で、洞内が膨らんでいた。
そして、この日の波打ち際は完全に洞窟の外であったが、荒天の汀線を示唆する流木の帯は、洞内に深く侵入していた。
更に観察すると、隧道の洞床と海蝕洞の最も手前寄りの洞床は、ほとんど同じ高さであるように見えた。
つまり、両者を隔てている石垣を含む土壁の意味は、一種の防波堤と考えられた。(実際に波による侵蝕を受けている気配も感じたが、その証明は難しい)

前代未聞―― “隧道内防波堤”の出現。




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第二の海蝕洞を後に(ちゃんと後で外にも出てみますので、お楽しみに)、すぐ先にある第三の海蝕洞へ向かうが、その途中に奇妙な物体が転がっていた。

算盤の珠のような形をした、長径1.5mほどの巨大な金属の物体。
中は空洞っぽいが、これはなんだろうか? そして、なぜここにあるのか?

まず、モノの正体だが、ミキサー車についているアレを小さくしたような形なので、機能も同じく生コンクリートを攪拌するためのものだろうか。
この場所にある理由だが、不法投棄にしてはいかにも場所が中途半端だ。それに、このあたりから先の洞床には、流木やゴミなどの多くの散乱物がみられる。
となると、この物体も波に運ばれてここへ辿りついたのだと考えるのが、一番合理的な気がする。

第二の海蝕洞には隧道への海水流入を防ぐため(らしき)土壁があったが、他の穴から派手に蹂躙されたようである。
ちなみに、壁面の地層の模様のため、隧道が上り坂になっているように見えるが、実際の勾配はほとんど無い。




第三の海蝕洞との連結部と、海蝕洞内部の様子。

この横坑はこれまででは最も小さく、隧道の断面の半分もないが、たぶん洞内に海水が浸入したのはここだ。

ここには隧道と海蝕洞を隔てる壁や段差が一切無いし、この海蝕洞は第二の海蝕洞と内部で接続していた。
この状況で片方に防波堤があって、一方に無いのであれば、どうなるかは明らかだろう。

もちろん、こっちの穴も現役当時は石垣で塞いでいた可能性が高い。
しかし、長年の放置により、いち早く突破されたのではないだろうか。
そういう視点で見ると、この穴の前にだけかなりの量の瓦礫が散乱しているのも、天井からの落石などではなく、壁を塞いでいた石垣が壊された名残りと考える事が出来る。

私がこうしていろいろ想像して語っていることを、実際に確かめる事は難しいだろう。だが、とにかく至る所に想像を掻き立てるシーンがあって、これほど退屈のない隧道は珍しい。





魔窟のおわり


3本もの海蝕洞との接触という、わずか170mの隧道とは思われぬ“魔窟”ぶりを発揮した戸中第一隧道であったが、そのめくるめく魔術の乱舞も遂に打ち止めだ。

最初の海蝕洞が見せた高難度の障害物で、私を止められなかった時点で、この結末が決していた。
今は入ってきたときと同じような穏やかな素堀隧道を30mばかり残すだけで、最後の出口だけを目指して歩く状況となった。

私はこの時に考えていた。
今回は戸中側から戸地側へ向けて探索したが、もしもこれが逆だったらどうだったろうかと。
その場合、洞内で出会う3本の海蝕洞は、最初が小規模で、最後に一番のビックリドッキリの大物が登場するという、まさに王道の展開に持ち込むことが出来ただろう… などと、少し擦れたことを考えていたのである。

だが、結論から言うと、そんなことが起きる可能性はほとんど無かった。



最後の最後で、凄いゴミの量に驚く。 そして、お馴染みの丸太塀には、少し和んだ。

もちろん、これらのゴミも人がわざわざ棄てていったものではなく、洞内に侵入した波が置き残していったものであろう。
しかも、すぐそこにある出口からではなく、洞中の海蝕洞からはるばる入ってきたのだ。

改めて、冬の日本海の恐ろしさを想像し、戦慄した。(同時に、体験したいとも思った)
第一、第二隧道とも、洞内のほぼ全体にわたって、波が侵入した痕跡があった。
どんなに小さく見積もっても海抜5mはあるはずなのに、これである。

交通路としてはなかなか長命であった隧道も、災害時の安定性という意味では、致命的に近い欠点を持っていたのかもしれない。 よく耐えた。道も人も。


さあ、久々の地上だ!

坑門の外には、まるで私を待ち受けるように、平和な家並みが見えていた。
戸地の集落である。

本当に、隧道は両口のギリギリにまで集落が迫っていた。
これは、見ようによっては“街中の隧道”といえるのかも知れないが、到底そのようなイメージではない、何とも険悪な異次元的隧道であった。

ともかく、戸地集落へやっと到着〜!!




13:40 《現在地》

到着不能 !!

隧道のあまりの存在感に、戸地集落への最後の関門である、戸地川の存在を完全に失念していた。
あるべき橋が跡形も無かった。 隧道の外には、ほんの2mくらいしか路面が無かったのである。
川の向かいに、戸地集落のメインストリートとなった道の続きが見えているのがまた悲しい。
25分ぶりに地上へ出たまでは良かったが、どこへも行かせないとか…。 虐めか(笑)。
私はここで予想外の挫折を余儀なくされたのである。

まあ、どうせ自転車を取りに戻るので、さほどの痛手ではなかったが、
もし、超頑張って自転車を連れてきていたと思うと……泣けるものがあった。


そして…



戸地側坑口には、コンクリート製の坑門があった。

これもまた、ここに来て予想外だったことのひとつである。

全くもって驚くことばかりの多い隧道だ。

ちなみに戸中側の坑口は、こんなだった。


それにしても、この坑門、お世辞にも手が込んでいるとは言えない…。

いや、はっきり言ってしまえば、雑な作りというか…

………

……

なんか普通じゃない。 これ変だ。


どう見ても、アーチが歪だ。

これはひどい。



驚きながら観察すると、アーチ部分の両端に、
本来の“正しいアーチ”(破線部)の名残りを思わせる、
欠けた部分(実線部)が僅かに残っていることに気づいた。

つまり、これがどういうことかと言えば…



一旦はちゃんとしたアーチ型の坑口を有する坑門を完成させた後に
隧道の内空高を増すために、天井を削った。

そんな大胆で改築工事の名残を、私はここに見た。


…改めて、

改め改めまして、

ほんっとうに、隅から隅まで変な隧道だ(褒めてます)。
3本も海蝕洞があって、高波が来ればそこから波が入って洞内のほとんどを弄ばれるという。
でも、そんな困ったヤツでも、全く代替が効かない外海府の最重要幹線だった。
だから、海蝕洞を石垣で塞いだり、跨いだり、天井を削ることまでして、ずっとずっと延命させてきたのである。
遅くとも大正2年生まれで、昭和48年まで活躍しているから、60年間は活躍したのである。

頑張ったよなぁ。 本当に頑張ったなぁ。




歪なアーチに掲げられた、文句なく達筆な銘板。
これを壊すことは躊躇われたか、ギリギリの高さに残されていた。
銘の他には何も語らぬ、ひたすら真面目な銘板は、この隧道に相応しい。

周囲は堅い一枚岩だから、戸中側と同じく、無坑門でも構造上問題は無いと思われる。
だがこの坑門には、外海府海岸の玄関口として、「もてなし」を示す意図があったに違いない。
昔も今も外海府海岸は佐渡の重要な観光資源で、旅人の多くが目指す場所であった。

なお、第一第二の隧道を合わせて「戸中隧道」と称することは、
現在のトンネルにも受け継がれたようだ。 この名、忘れがたい。



次回は、海蝕洞の外へと出てみよう。