隧道レポート 山梨県道37号南アルプス公園線 白石隧道 後編

所在地 山梨県早川町
探索日 2020.1.25
公開日 2020.2.05

初代白石隧道、戦慄すべき洞奥


2020/1/25 14:21 《現在地》

入口からおおよそ70m地点、天井の覆工が破れて、大穴が開いていた。
その穴の奥に光を向けると、不気味な屍肉のような黒い岩肌が波打つようにうねっていた。それは風化して破砕された岩盤だった。
大穴から大量の土砂が落下し、洞床に背丈ほどもある富士山型の山を作っていた。
築90年を越えた隧道が、老朽化の限界を迎え、崩壊が始まっているのだった。

そもそもこの隧道、きっと地質には恵まれていない。そう考える根拠が複数ある。
一つは、隧道が素掘りではなく完全に覆工されている様子であること。
地質に恵まれていれば覆工は必須ではないのだ。

二つは、内壁がびしょ濡れであること。
地山からの地下水の湧出の多さは、隙間が多いことを物語っている。また、内壁が白く変色(白華現象)していることも、多量の地下水によってコンクリート内の石灰分が湧出している証拠である。これは強度に影響しないといわれているが…。

三つは、実際に落盤が起きているという現実。
しかも、綺麗な富士山型の山をなしている崩土の状況は、隧道を取り巻く地山が粒状にまで風化しきっている状況を、暗示していた。

総括すれば、この隧道はいつ閉塞に至る大落盤に見舞われても不思議ではない。
私はトンネルの専門家でもなんでもないが、今まで落盤により閉塞した隧道を見た数だけなら一人前だ。
多くの閉塞隧道で見られた崩壊の兆しといえる特徴が、この隧道には満ちていた。

というか、この奥で閉塞している可能性は、さらに高まっている。
昔の私なら、尻尾を巻いて引き返したいと思ったに違いないし、いまの私だって不安を感じる。落盤に巻き込まれるなんてことは考えないが、こんな穴で誰が安心していられるだろう。




しかし私にとっての真の障害は、この崩土の山が引き起こしてしまった、地下水の滞留にあった。
奥へ向かって上り勾配となっている隧道に、水の流れを堰き止める障害物が登場すれば、こうした地底湖が生じてしまうのは避けがたい……。

先ほど、土砂の山は背丈ほどの高さがあると書いたが、地底湖の水位はそれより低く、土砂の山の最も低い部分に等しい。
そしてその水位は、目測で、おおよそ70cm前後と推定。
このまま踏み込めば、膝下で済まず、腿や股間まで濡らすだろう水位だ。

……1月だぞ……。




地底湖の先に何があるのか、照明を向けて調べてみる。
もしそこで閉塞しているなら、わざわざ濡れに行くつもりはない。
だが、閉塞壁は見えなかった。
代わりにもう一つ、“富士山”があるのが見えるが…、その奥にも闇は続いている……。

地底湖は20mほど先で終わり、洞床が露出していた。上り勾配ゆえ、最初が一番深い。
未だに出口の光も風も感じられないので、きっとどこかで閉塞していると思うのだけれど、ここではそれを確かめることが出来ないということが、分かった。

平沼義之、42才、独身。

着衣のまま地底プールに身を浸すという、大人の線引きを逸脱するような一歩を、今回も決断する。
こういう場面があれば、大抵最後は入るくせに、いちいち逡巡をアピールするのは、これが当然と思われたくないからだ。読者諸兄にも、廃道の神にもだ。ちゃんと私に躊躇いがあるということを伝えないために、当然入るものと思われてはタマラナイのだ。私の身体は、こんな水を欲してはいない! いつも入りたくないけど、入らなければ調べられないことがあるのが、いけないんだ!




チャプ…チャプ……ジャボッ… うっっ

冷たいぃ……、当然のことながら……。

最初の2歩くらいで、いきなり水深は想定していたマックスの60cm程度に達した。
ここで足は路面に着いた。
太腿まで完全に水に浸かり、両方の長靴から勢いよく空気が吹き出してきた。
ネオプレーンの靴下越しでかなり緩和されているはずなのに、痛いほどの冷たさが伝わってきた。

洞床は未舗装で多少の凹凸があり、さらに落盤の影響で岩塊が散らばっていた。
そのため水深が微妙に一定せず、少し歩きづらいところもあったが、進むほどに急速に浅くなるので、最初に腿まで濡れる覚悟があるなら、あとは突破まで一直線だ。行け!

ジャボジャボジャボちゃっぽちゃっぽちゃぷちゃぷちゃぷ…




14:21 突破した!

サハギン化した私の下半身から、一歩ごとに大量の水が零れる。
きっとずっと水滴の音しか聞こえてなかった洞内に、無遠慮の騒音が反響した。
もはや地上へ通じている希望は薄い隧道だが、それでも光を求めるように、上り坂が続いている。
どんな屈強な大男であっても、怖気を抱かざるを得ないだろう、不気味な洞内だった。

水から上がった私を待っていたのは、気持ち悪いという感想しか持てない種類の壁のシミだった。
気の迷いだとは分かっていても、“矢印”のところのシミがうつむいている人物にしか見えなかった。マジで、ヤメろ。ゾクゾクしたじゃん。




壁のシミの正体は、“黄金様”(廃隧道の内壁にしばしば生成される半固形化した泥の構造物を。しばしば仏像やシャンデリアのような神々しい姿になるので、私が勝手にそう呼んでいる。触ると脆く崩れる、あくまでも実態は泥)……に見せかけて、これは触感が明らかに石のそれ。
ということは、鍾乳石だ。

鍾乳石といえば、100年で1cmしか育たないなどといわれ、鍾乳洞の中に自然生成されるものは天然記念物として大切に保護されたりもするが、その主成分は石灰なので、コンクリートからもしばしば生成され、白華現象を引き起こし、さらに成長すればちゃんと石筍や石柱になる。天然物ではないので、コンクリート鍾乳石として区別されるが、たぶん接写の外観では区別が付かないはず。

ここのコンクリート鍾乳石は、壁が破れたところに成長していて、本物の鍾乳洞では貴重とされる、リムストーンプールの小型版のような水溜まりが出来ていた。
周囲は茶色や黒だが、水溜まりの水は透き通っていて、ちょうど水飲み場のような形になっていた。それが遠目には、茶髪を振り乱した人影みたいに見えた。




坑口から推定100mを越えたが、まだ出口も、閉塞もない。
代わりに2度目の崩壊があった。洞床にミニ富士山が出来上がっていた。
内壁の崩れた断面を見ると、厚みは10cmくらいしかなかった。
しかしこんなボロボロで薄っぺらな壁でも、もしなければとっくに隧道は埋れてしまっていたかも知れない。

しかし、想定していたよりもこの隧道は長い。
この山の厚みを考えると、最短方向に尾根を抜けば、旧隧道のように100mそこらで済むはずなのだが、旧旧隧道は100mを過ぎてもまだ続いている。
どの方角へ向かっているのかを、手元のコンパスで確かめればよかったのだが、すっかり失念していた。
いったいこの隧道の出口(北口)は、どこにあるんだろう……。

(→)
ミニ富士山を乗り越える。

今度は水没していなかった。
どうせもう腿まで濡れているので、どっちでもよかったのだが……。

そういえば、内壁の濡れ方も大人しくなってきた。地下の帯水層を抜け出したらしい。

そんな水の影響を抜け出た洞内に、衝撃的な“痕跡”が…!





タイヤ痕が、
こんな壁スレスレに!!

おそらくこのゴツいタイヤパターンは、大型車のものだろう……。
歩行者とすれ違おうとでもしたのだろうか、それとも本当にこんなギリギリか?

狭い隧道を、壁に車体を擦りながら無理矢理に通過する大型車。
そんな現代ではあり得ぬ(事故だよ)交通の修羅場が、想像された。
この位置にタイヤ痕があるのは、尋常なことではない。

この隧道はヤバい!!(断言)




振り返ると、現状はこんな眺め。だいぶ入口が遠くなってきた。そして、狭い!

皆さんも大型ドライバーになった気分で、想像をしてみて欲しい。

【この坑口】をくぐったら、すぐに【こうなって】【こうなってしまう】地獄絵図を……。



そしてこの直後……





14:24 (入洞から8分経過)

ぴょんぴょこ動く、1匹のカエルを発見。

その彼が背にしている瓦礫の山は、第3の崩壊地にして……





閉塞…!

ついに決した、貫通の有無。 風が吹かない理由は、やっぱりこれだった。
天井に手が届く高さまで登って、小さな空洞も開いていないことを確かめた。

天井には、これまで見られなかったコウモリが無数にぶら下がっていた。
とても小さなコウモリで、冬眠中らしく寝静まっていた。
グアノが少ないので、あまり定着していないのかも知れない。

天井部分に壁の欠壊は見えないが、少し奥で破れている可能性はある。
果たして、この閉塞地点は、隧道内のどの位置なのだろう。南口からおおよそ150mの地点だ。
埋め戻されたり崩れた北口まで迫っているのか、或いはこの向こうにも暗黒の坑道が眠っているのか。
残念ながら、私にそれを確かめる術はなかった。もう撤退するしかない。




撤退開始。

こちらからだと、出口まで下り坂だ。

途中、また腿まで水に浸からなければならないのが、憂鬱だ。




14:28 《現在地》

脱出、生還。 (外寒いッ)

しかし、北口が不明なので、これから濡れた身体を引きずって探しに行く。 ライドオン!





初代白石隧道、北口捜索


14:33 《現在地》

濡れたまま3代目白石トンネルを自転車で潜りやってきた、この場所。
2代目白石隧道の北口へと通じるスロープの入口だ。
これを登ると旧県道があり、そこに塞がれた2代目隧道の北口がある……ということは9年前に探索済みだ。

しかし、9年前の記憶を思い起こし、さらに写真を見返してみても、初代隧道に繋がるものは何も思い当たらない。
それでも、数分前まで私がいた、長さ150m以上もある隧道は、間違いなくこちらへ向かって尾根を潜っていたはずで、地底でGPSは機能しなかったが、もし動いていたなら、現在地の近くまで“線”が伸びてきていたと思う。そしてこの辺りのどこかで地表に達しかけていたはず。

現状で開口はしていないかも知れないが、何か痕跡はあると思うので、探すぜ!

9年前の同ポジ写真と比較すると、これから向かう右のスロープには変化がなさそうだが、県道の左側に広がっていた空き地にダンプカーが出入りしていた。これは現在、県道の上流(以前探索したまさにこの辺り)で中央新幹線のトンネル工事が進められており、その残土処分地になっているようだ。



スロープを通って早速やってきた、9年ぶりの白石隧道北口。

印象としては何も変わっていないように思ったが、こうして新旧の写真を見較べてみても、違いを見出すことは間違い探しゲームのように難しい。
路上に長い倒木が転がっているくらいか。
崩壊が続く地中の隧道と較べれば、地上はいかにも安泰に思えるが、これはこの場所がたまたまそうなだけであろう。

そんなことより、肝心の隧道探しだったが……。
このあと10分ほど周囲をウロつき、思いつく場所に目を向けてみたものの、結果的には全て空振り、初代隧道の北口発見には至らなかった!

……あの隧道、地中で見送った閉塞壁を最後に、私の前から忽然と姿を消してしまったのである。一度捕えたと思ったのに、逃げられた気分だ。




この状況をどう考えるべきか、悩ましいものがある。

単に私が見つけられなかっただけで、周辺のどこかに分かる形で残っていたなら、私のミスだ。
だが、下草が落ち着いたこのベストの季節に、狭い範囲を重点的に探し回って何も見当たらないというのは、見て分かるものが残っていないことを示しているようにも思う。

仮に失われているとして、その現状についての可能性が高いと思う説は、この旧道の山側に長く連なる玉石練積擁壁の裏に、塗り込められてしまったことだ。
その場合、完全にお手上げである。
また、旧道と現道の間の斜面に坑口があったという説も考えた。この場合も埋没してしまっただろうが、周辺の斜面の目視確認では、隧道はおろか、道らしい痕跡も見当たらなかった。

結局のところ、現地に痕跡がないのならば探して見つかるわけがない。それで無関係の場所をこじつけてしまうのは悪手だから、現地捜索は潔くここまでにして、机上調査での“逆転”に期待することにした。
このように現地的にはやや呆気ない幕引きとなってしまったが、これがリアルということで……、撤収!(寒い!)




ミニ机上調査編


まずは、新旧地形図の比較から。

このレポートの前編で紹介した、2011年の2代目白石隧道(旧白石隧道)探索では、昭和27(1952)年の旧地形図に描かれていた隧道を探索対象と信じたが、実はそこに大きな誤解があって、旧地形図に描かれていたのは、初代白石隧道(旧旧白石隧道)だった。

読者の情報により、この誤りにようやく気付いて再訪した今回、首尾よく初代隧道の南口を発見し、内部を探索するも、閉塞のために貫通出来なかった。そのうえ、地表からの探索で北口を見つけることが出来なかった。今回の机上調査の重要な目標が、北口の解明だった。

なお、初代隧道の存在を知ってから新旧地形図を見較べると、2011年の私の見立ては雑だったと思うだろうが、旧地形図の山間部の表現はあまり正確ではないと思っており、そもそも新旧地形図の重ね合わせは、必ず作業由来の誤差が入ってしまうから、あまり位置に拘りすぎると逆に失敗するパターンもあって難しい。(←言い訳だが)

というわけで、新旧地形図の比較では、初代隧道北口は2代目隧道北口の100mほど北にあったように見えるものの、このことは参考に留めて、次へ進む。





早川町のことなら、『早川町誌』(昭和55年発行)を読むのがセオリーだろうが、同書は今までの早川シリーズの調査でも目を通しており、白石隧道に関する直接的な記述が一切ないことは分かっていた。


『目で見るはやかわの風景と歴史』より

同書に書かれているのは全体史であり、初代白石隧道を含む早川橋〜新倉間の約20kmが、大正13(1924)年に東京電灯工事用馬車軌道として、初めて車道が開削されたこと。馬車軌道は昭和3(1928)年に早川沿岸軌道組合所有となるが、昭和8(1933)年に山梨県林務部へ移管され早川林道となり、間もなく軌道が撤去され自動車道になったこと。昭和33(1958)年に早川林道は県道に昇格し、一般県道奈良田波高島停車場線となったこと。そしてこれが現在の主要地方道南アルプス公園線へと受け継がれていることなど、これまでのシリーズ作でも述べた通史が解説されているが、上記で太字にした各世代の道が通過した3世代にわたる白石隧道の記述はない。

右の写真は、『目で見るはやかわの風景と歴史』(平成8年発行)に掲載されていた、昭和初期に撮影された馬車軌道の風景だ。
これは馬場地内での撮影とのことで、おそらく雨畑川上流(旧硯島村)にあった牛奥沢軌道だと思うが、初代白石隧道を潜り抜けた最初の車両も、同様の姿であったと思う。
お馬さん、あの暗くてジメジメした隧道を、どんな気持ちで歩いていたんだろうねぇ…。



町誌に白石隧道の記述はないものの、路線バスに関する次の記述はとても興味深い。ここに書かれているバスは、昭和35年3月31日(=2代目隧道開通日)まで、間違いなく初代白石隧道を通過していたはずなので、現役時代のイメージを膨らませられる。
(登場する地名の把握にはこの【地図】をどうぞ)


『目で見るはやかわの風景と歴史』より
○ 新倉線
早川橋新倉間の道路改良工事は、関係各村の願望として逐次拡幅改良され、昭和15年5月5日早川橋から新倉(三里中学校前)間に、20人乗りバスが運行された。乗客の増加が著しく燃料と車両の不足が目立ったが、17年11月には身延駅から新倉間が直通運転になった。戦時中は木炭燃料を使用するなど苦斗の時代を経て、27年になってガソリン燃料に復元し、車両も30人乗りに改善された。昭和29年野呂川総合開発事業の開始と、新倉西山間の道路整備により、西山地区へ乗り入れが要望され(中略)31年11月19日奈良田まで延長され、身延奈良田間43.6km所要時間2時間42分の直通運行が実施されるようになった。
『早川町誌』より

馬が通った隧道を、開通から20年も経たないうちに、今度はバスが通いはじめたことが分かる記事だ。最終的には、写真に写る30人乗りバスも通ったらしく、そりゃあ壁ギリギリになるわという印象だ。

だが、鳴り物入りで始まった野呂川総合開発事業地へのアクセスルートとしては、さすがに狭すぎるとなったのだろう。あるいは、老朽化が愈々深刻になったのかも知れないが、数年後にようやく2代目白石隧道が誕生している。




『山梨縣恩賜縣有財産沿革誌』より

町誌や写真集からめぼしい情報を得られなかった私は、マニアックな方面を攻める必要に迫られ、山梨県がまとめた事実上の山梨県林業史ともいえる『県有恩賜林周年史』シリーズに救いを求めた。
県林務部は早川林道の管理者であっただけに、初代白石隧道の改築についての記述を期待したのだが、これまためぼしい記述はなし。

ただし、同書記載の地図からは、他のどの資料でも分からなかった“大きな収穫”を得た。
右図は、昭和11年に発行されたシリーズ第1巻にあたる『山梨縣恩賜縣有財産沿革誌』に掲載されていた「山梨県恩賜林之位置図」の一部である。

これを見ると、早川に沿って「都川村」まで、鉄道らしき記号がある。凡例によると、これは「官民設鉄道」を示す記号とのことで、要するに県有以外の鉄道・軌道をまとめた記号である。
作図された当時、まだ県営早川林道ではなく、早川沿岸組合軌道(東京電灯工事用馬車軌道の後身)だったのだろうか。
いずれ、図中の赤○の地点に初代白石隧道があったはずだが、この軌道上の他の隧道と同様、表記はされていない。

このことの何が“大きな収穫”だと言われそうだが、収穫があったのは、この地図と比較する、次の地図だ。



『山梨県恩賜県有財産御下賜五十周年記念誌』より

これは昭和36年に発行されたシリーズ第3巻にあたる『山梨県恩賜県有財産御下賜五十周年記念誌』に掲載されていた「恩賜林位置図」だ。

前掲の地図とは同趣旨のもので比較が出来るが、こちらでは早川沿いの道は「府県道」を示す記号になっており、その随所に隧道が描かれている。

隧道は下流の早川橋側から順に、増野隧道高長隧道、切川隧道横坂隧道、保隧道と来て、次にあるのが「都川隧道」である。そして、南山隧道、新倉隧道と続いている。

この都川隧道が初代白石隧道の位置に描かれており……、つまり、初代隧道は「白石隧道」ではなく、「都川隧道」という名前だったことが分かった。

都川は、保に役場を置いていた村の名であり、隧道名として納得のいくものだと思う。
当時の資料を検索する場合、白石隧道ではなくこの名前でなければ成果は得がたいだろうし、これは重大な成果だった。

もっともこの名前で調べても、今のところ新たな成果には繋がっていないのだけれど…。





この辺りまで調べたところで、私は文献調査に手詰まりを予感していたのだけれど、初代白石隧道改め“都川隧道”の謎に関して一気に突破口が開く重大な資料が、意外にも簡単にアクセスできる場所に発見された。

それは、早川町のNPO法人日本上流文化圏研究所が、早川町応援団獲得マガジンと銘打って平成15(2003)年から発行している無料のPDF情報誌やまだらけの2012年12月号(No.56)だ。

同号の特集は、「道に思いを馳せる」

そして、表紙の画像は、これ(↓)




『やまだらけ 2012年12月号(No.56)』より

間違いなく、都川隧道の内部写真ッ!!

こんな熱っつい雑誌が、私の知らないうちに、発行されていたなんて……!

もちろん全巻一気読みしましたよ! (ウヒヒ 今回の内容の他に、成果がいろいろありました)

次に引用するのは、この表紙の文章の最後の部分だが……

軌道の上をトロ場車が走り、人や資材を乗り越えてきた戦後から現在まで。
そうした歴史の痕跡が、廃道となった橋やトンネルに僅かに残されていて、先人の苦労と生きた証がそこに刻まれている。
今回は、そんな「県道南アルプス公園線」に焦点を当て、道の変遷とともに早川の歴史をひもといてみる。
『やまだらけ 2012年12月号(No.56)』より

ただただ、あちい。

完全に“同業者”の仕業でしょこれ(笑)。


肝心の都川隧道に関する内容は、本誌をダウンロード(pdf)すれば確認できるが、私の現地探索で未解決だった北口については――

1. 私が見つけられなかった“北口”について

北側の入口は附近の土砂崩れでその場所を確認することすら困難だが、南側からは入ることが出来る。

『やまだらけ 2012年12月号(No.56)』より


『やまだらけ 2012年12月号(No.56)』より
(矢印は坑口位置とは関係ないデザイン上のもの)

北側坑口は土砂崩れで埋れている
らしいが、一緒に掲載されていた跡地の写真が、これである。(→)

この場所はどこかというと……

2011年の探索で、何気なく撮影していた(レポートでも登場していた)、旧道上のこの写真(←)の地点だったのだ。

私は『やまだらけ』の写真と逆方向から撮っており、坑口跡を探す役に立たないが、まったく隧道のことなんて意識もしていなかったからだ。恥ずかしながら私の観察眼は、ここにあった隧道をまるで見出さなかった。それも2回連続で。2020年の再訪でもここを目にしているが、何も感じず、写真さえ撮らなかった。

一方、『やまだらけ』の写真でも特に隧道跡と分かるようなものは見当たらないが、強いて言えば、この前後だけ玉石練積の土留め擁壁がなく、地山の法面が露出している。
そのことが、隧道がここにあったことの、唯一の痕跡だったらしい。 ……ハードモードだ……。



この北口の位置を地図上に表示すれば、ここ。(→)

意外に長い!というのが、地図をみた全員の感想だと思う。

地図上での測定だが、全長180mくらいある。

数字だけ見ても大した長さには感じないが、現在使われている3代目トンネルの129mや、2代目隧道の104mと較べれば、ひとまわり長い。
断トツ古いのに。

一般的には新しいトンネルほど長くなる傾向があるが、このような長さの逆転が起きた原因は、初代隧道だけが軌道由来だからだと思う。
自動車よりも勾配に弱い馬車軌道を通すために、この長さのトンネルが必要になったのだろう。2代目隧道の内部がかなりの急坂になっていたことを踏まえれば、この説は一層説得力を増す。

なお、全長180m程度だったとすると、私の洞内探索で、概ね全部を踏破していたことが分かる。
もしかしたら、私が見た閉塞壁が、埋没してしまった北側坑口の裏側なのかも知れない。


以上が、北口の位置に関する解決情報だった。
だが、『やまだらけ』の収穫は他にもあった。
現役時代の貴重な体験談が。


2. 初代隧道の体験談

小学2年生まではトロッコが軌道上を走り、小学3年で初めてトラックが通ったそうだ。しかし、このトラックとトンネル内ですれ違うと、泥を飛ばされて怖かったという。この時代、県道はほぼ全線が未舗装で、遠くにホコリが見えたら対向車が近づいているということで、すれ違いの場所などを考えながら、広い場所で退避していたという運転手もいた。

『やまだらけ 2012年12月号(No.56)』より

トンネル内で泥を跳ねられて怖いというより、トラックに撥ねられそうで怖かったのではないかと思ってしまうが、昔の屈強な子はそんな程度で怖さなんて感じなかったのだろうか。


3. 初代隧道開通以前の古道

初代のトンネルが掘られる前は、このトンネルの上に「つむじの尾根」といわれる峠道があり、白石から西之宮へはこの峠道が唯一のルートであった。

『やまだらけ 2012年12月号(No.56)』より

明治43(1910)年の地形図に描かれていた道が、この「つむじの尾根」の峠道だろう。

すばらしい文献『やまだらけ』に教えられた、白石隧道に関する新情報は以上だ。
そして最後は、先日また新たな読者さまから、白石集落で得た古老の証言を教えて頂いたので、これを紹介して終わりたい。


読者情報より、白石集落での最新古老証言

山梨在住の者です。
そこに旧旧隧道があることは知りませんでしたので、2月1日にレポを見る前に生で見たいと思い行ってきました。
最初地図で当りをつけた時、白石地区の九十九折の先かと思っていたので、現地に行って旧隧道のすぐ先に在った時にはビックリでした。
でもせっかくなのでその先の九十九折も見に行ったのですが、そこでお婆さん(90歳近い?)に会い、子供の頃、狭い区間で車が来て壁に貼りついて避けたのが怖かったとか、隧道がない時代はこの道を峠越えして移動してたなどの話が聞けました。
ところでその白石地区、家は10軒ほどあるようですが1年通して住んでいるのはそのお婆さん一人だそうです。

読者様コメント「おぶこめ」より

読者様、ありがとうございました。

「狭い区間で車が来て壁に貼りついて避けたのが怖かった」とは、まさに私が欲しかった古老証言を、ばっちり頂いて来て下さいました。
恐がっている子供も、ちゃんといたんですね!




かなり変則的な内容となった探索も、これにて一応は完結。
やっぱり早川町はどこに行っても侮りがたい。今夜は反省会だ。



完結。



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