2011/10/24 6:56 《現在地》
前回の最後はかなりハードコアな画像で幕を閉じたが、今回は冒頭からそれに付き合って貰う。
引き続き、「祭畤被災地展望の丘」からの「展望風景」である。
前回の最後の画像は望遠で、肉眼だとこのくらいの大きさに見える。
少々インパクト不足?
…そんなことはないだろう。
依然として、尋常ではない風景である。
この世の終わりッたって言いすぎでないくらいの、土木世界終末的風景だ。
まあそれはさておき、過去の記憶と対照しながら少し冷静に観察してみると、ただ単に橋桁が落ちているだけでないことが分かる。
もうひとつ、あるべきものが無くなっている。
橋は3径間だったから、もう1本谷に橋脚(P2)が立っていたはずなのだが、それが全く無いのだ。
…折れたんか? 倒れたんか?
そこからズーミングすると、前回最後の画像だ。
酷い状態だとしか言いようがない。
橋桁が秋田側の橋台(A1)から外れ、それでもなんとか1本目の橋脚(P1)に“架かって”はいるけれど、その次の橋脚(P2)が存在しないわけだから、もうどうにもならない。
敢えなく落橋し、2径間目の橋桁はほぼ垂直に地面へ衝突している。
この下がどうなっているかは見えないけれど、まあ無惨な風景しか思い浮かばない。
なお、私の衝撃をより強くしたのは、見覚えどころか“通り覚え”のある道が、この墜落した橋桁によって、押し潰されていた事である。
あそこには、7年前に私と細田氏とパタリン氏が仲良く歩いた旧国道があった。今も僅かに路面やガードレールが見えるが…。
さあ、
限界までズーミングしてみるぞ!
↓↓
この橋が生まれたのは、昭和53年のこと。
だから、私よりひとつだけ若い。
設計時の耐用年数は少なくとも50年はあったと思うけれど、30年目に崩壊してしまった。
そんなことから、この崩壊のニュースが報道された直後には、
余りに衝撃的な破壊の風景だったこともあって、
欠陥工事、手抜工事ではなかったかと、
疑われたそうである。
そして、実際に原因究明のための調査が、綿密に行われたのである。
(なお、幸いにして落橋時に通行者はなく、人的な被害は出なかった)
無惨に落橋した初代の祭畤大橋が、現在も撤去されずに現存している訳は、後世に災害の記憶を伝えていこうという意図からだと思う。
「展望の丘」が整備されているのはまさにその一環であり、素人の私にも分かり易い図解付きの案内板まで用意してあった。
その内容を転載しつつ、本橋に何があったのかを振り返って見たいと思う。
まずはこれが「一般図」と呼ばれる、橋の概要的な設計図である。
別に記載されていた緒元一覧の一部を抜粋すると…
形式:3径間連続非合成鋼鈑桁橋
橋長:94.90m
支間割:27.00 + 40.00 + 27.00m
幅員:9.00m
竣工:昭和53年11月
地震(岩手宮城内陸地震:平成20年6月14日発生:M7.2)前の、健康な橋の状態。
なお、以後では秋田側から一関側に向かって各橋脚をP1、P2。各橋台をA1、A2と表記する。
↓↓
ウーオーー!
地震が始まった途端にP2橋脚が途中からポッキリ行った〜!これは欠陥工事だ〜〜!!
…ではないぞ。
よく見てくれ、A1橋台を。
これは欠陥とか、そういう次元の問題じゃない!
地震そのものの揺れで橋が落ちたり、橋脚が倒れたりしたのではなかったのだ。(阪神大震災の時の阪神高速のように)
「移動」してしまったのだ。
鬼越沢の右岸(秋田側)が、A1とP1を乗せたまま、左岸側へ移動した。
そのため、鈑桁は即座に圧縮されて撓んだが、それが座屈する前に、4000mm(=4m!)も折り曲げられたP2が耐えられなくなったのである。
↓↓
P2という支えが無くなった橋は、もはや放って置いても無事ではいられなかったろうが、さらに右岸の移動は続いていた。
連続桁はP2上で座屈し、そこを支点に両側の桁が墜落を始める。
折れたP2は、落ちてくる桁に潰されたことでさらに破断、3つの塊に分かれた。
落ちる桁に引っ張られてP1にもひびわれが生じたが、何とか切断倒壊は免れた。
↓↓
あとは重力に任せて事が進んだ。
P2は完全に崩壊し、P1〜A2の2径間は鬼越沢に突き刺さるように墜落した。
A1の橋台からも橋桁は引っ張り落された。
驚くべき事に、右岸の水平移動量は、地震の前後で10.8m(P1)から11.2m(A1)にも及んだのである。
おそらく、世界中のあらゆる橋のなかで、11mも岸が動いで無事でいられるのは、水に浮かんだ舟橋くらいなものであろう。
通常の接地した橋であれば、いかなる現代的土木の粋を結したものであったとしても耐え難いに違いない。
平成22年に完成したばかりの2代目・祭畤大橋も、もちろん例外ではない。
この橋もまた、11mも岸が移動した時には死ぬしかない。
欠陥工事の嫌疑は、こうして晴れたのである。
不運な出来事であった。災害は恐ろしい。
そう言うよりない次元の出来事だったのではないだろうか。
しかし、11mも動いたというのは、正直俄には信じがたいものがある。
本当にそんなに鬼越沢の谷幅は狭まってしまったのだろうか。
幾ら大きな地震だったと言っても、こんなに地殻変動が起きるか?
その答えは、「祭畤大橋の落橋は、A1橋台側(秋田側)の地盤が地すべりによって約11m移動し、下部工間の相対的距離を強制的に縮めたことが主たる原因
」で「いわば地盤災害と呼べるもの
」であったと『国道342号祭畤大橋被災状況調査検討委員会検討結果』が述べている通りである。つまり、地震による直接の地殻変動ではなく、地震を原因とする地すべりに、右岸の橋梁施設がそっくりそのまま乗っかってしまった事が原因であった。
まあ、ここまで教わっても、やっぱりここからだと、そこまで地盤が動いたようには見えないわけだが…。(信じられん!)
(橋を架ける位置がそもそも不良地盤だったとしたら、人災的要素がゼロであったとはいえないかも知れない…)
さあ、早くも種明かしは済んだ。
残りは、私が一番好きな「 実地 」の時間だな!
よし、この道から攻めよう!
↓↓
7:00
壮絶なる姿を惜しげもなく晒す祭畤大橋への接近は、
すこし優しく、じわりじわりと行きたい。
というわけで、“見覚えのある”この市道から、迂回して接近することにした。
これから緑の線で描いた行程で、祭畤大橋へ向かおうと思う。
祭畤大橋の架け替えに伴う国道の付け替えは、そこに元からあった市道鬼頭明通線に、小さくない変化を強いた。
そのひとつは「展望の丘」やその駐車場への転身であるが、これに加えて、旧国道との立体交差施設を含む約200mの区間を、ほとんど何の意味も持たない無駄な存在にしてしまったのである。
まったくもって、哀れである。
この“哀道”を、今から通ってみる。7年ぶりに。
“哀道”区間に入ると、すぐにここの主役的存在である立体交差橋が現れた。
7年前は気にも止めなかったが、改めて見ると、ちゃんと銘板があった。
橋の名前は槻木平橋といい(槻木平はここの字名だ)、竣工年は平成8年3月。
探索時点で満17歳になる橋だが、平成22年以降は無為に年を重ねてしまっているし、今後にも夢はない。
あまり上手ではない銘板の字は、きっと……子供の夢を弄ばないでッ!
そもそも、この橋やこの“哀道”が本当に哀しいと思えるのは、平成8年頃に開通してから今まで、一度も本当の意味で供用されてないからだ。
前回の探索時、この道は入口で一般車通行止めになっていた。
その理由は、市道鬼頭明通線が未開通だからである。
平成24年現在も、まだ全線は開通していない(工事は続いている)。
2車線の道幅があるのに、最後までセンターラインを描かれることもなく、ただ何となく国道付け替えの「ついで」のように、この短い“ループ区間”だけが、供用開始されてしまったのだ。
道の尊厳が蔑ろにされている感じで、なんだか…可愛そう…。
とまあ、相変わらず大勢に影響のない小道が好きな私であるが、槻木平橋から下を覗けば、そこは即座に“問題の旧国道”。
しかも、落橋した祭畤大橋の直近の位置である。
勿体ぶって、まずは橋とは反対側の一関方向を見てみたのが、この画像。
…すんません。
今回撮影した画像は、欄干が邪魔ですね…。
それでも、下の道の大なる変化は感じとれると思う。
前は分岐なんて無かったのに! と。
…行きますよ。
反対の秋田側の俯瞰。
↓↓↓
…きっついな。
迫真ぶりが、半端ない。
またしても望遠でズルしているけど、
ナマの迫力はこんなもんじゃないからな。
ましてや、これから近付いていった日ニャどうなるんニャ。
肉眼スケールだと、こんな感じ。
舗装された路面が、橋の直前であさっての方を向いているが、
この種明かしは、あとでそこへ行ったときに。
ワクワクするでしょ?
私もめっちゃワクワクしたよ。
橋が崩れ落ちた事くらいしか、知らないで来てるからね。
「展望の丘」ならぬ「展望の橋」としては、十分過ぎる威力を誇った槻木平橋を過ぎると、今度こそただの哀道風景に。
両側のススキの覆い被さり方など、いかにもな感じの未成道であり、何の労無く自転車で走れるものの、空しさが募ってくる。
このすぐ先、右手に小さなキャンプ場が「あった」のだが、平成17年時点でどうだったのか…、今回は間違いなく廃業していた。
そのキャンプ場は、前回探索した旧道(谷底の祭畤橋)の入口でもあったが、もともと藪が深かったので、もはや判然としなかった。
7:03 《現在地》
哀道と呼ばれ続けた(私に勝手に)市道の最後は、このように国道にぶつかっている。
ここには青看が既に設置されているが(7年前にもあった)、祭畤大橋の付け替えは、その内容に影響は与えていない。
この折角の青看を、新しい交差点に移設出来ない理由は単純である。
立体交差を削除した関係で、行き先の左右が反対になってしまったのだ(苦笑)。
その一方で、国道側にある青看は、空虚さに満ちあふれていた。
7年前にこの標識があったかは記憶にないが、この「一直線」で意味が無さそうな青看をよ〜く見ると、左に分岐する矢印と、その行き先とを、シールして隠している事が分かるのである。
この青看は、将来市道が供用を開始した暁にシールを剥がすつもりで設置されたのだろう。
にもかかわらず、前述の理由により、もうこの青看の「シール解放」は、ありえない出来事になってしまった。
何れ市道は全通するだろうが、ここではない新しい交差点に設置すべき青看には、右へ分岐する矢印が必要なのだ。
上記青看の下から、複雑な分岐を連ねる現国道を見晴らす。
本線から左へ分かれる道は3つあり、手前から順に市道鬼頭明通線(ループ部入口)、旧国道(祭畤大橋被災現場へ)、市道鬼頭明通線(ループ部出口)である。
そしてその先で本線は左にカーブしつつ、右に市道鬼頭明通線(未成部)を分けて、2代目の祭畤大橋へ達している。
さて、市道に関する話はいい加減、以上で終わり。
今度こそ脇目を振らず、祭畤大橋へ向かいたい。
ここがその入口である、新旧国道の分岐地点。
左が旧国道、右が平成22年からの新国道である。
A型バリケードとコーンでシンプルに塞がれている旧国道へ、いざ参る!
沈黙する立体交差の先に、嫌な感じのフェンスがもう…。
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