2011/10/24 7:07 《現在地》
平成20年6月に発生した岩手宮城内陸地震によって、落橋という壮絶な末路を辿った初代の祭畤大橋は、このすぐ先にある。
路面の半分を現国道の盛り土に占領され、いかにも肩身の狭そうな旧国道。
そして、旧国道の放棄とともに存在意義が消失してしまった、まだ新しい市道の跨道橋。
以前であれば、あっという間に通り過ぎていた道路の風景が、今はとても重い。
重い景色。
そこを踏み越え、私は6年ぶりの橋頭へ立った。
来た…。
アスファルト舗装は、祭畤大橋の直前でほぼ直角に右折していた形跡を最後に、消滅していた。
これは落橋してから現道が開通するまでの一時期、ここから仮設道路が伸びていた名残である。
旧道(祭畤橋)、旧国道(祭畤大橋)、現国道(2代目・祭畤大橋)に加わる第4のルートである
仮設道路についても、この後からその痕跡を探してみようと思う。
しかし、まず今は正面だ!
立入禁止
これより通行禁止区域
手前と奥のアスファルトの風合いが、まるで違う。
奥は、地震の瞬間に時を止めたもの。
手前は、地震の後に敷き直されたものである。
同じ道の一部であっても、それは生死の対比であった。
そして、そんな両者を隔てるフェンスの薄さは、
迫真の景色「が」我々「を」求める力の大きさを、少々侮っていた。
空を前に独り立つ、この感覚。
全てが研ぎ澄まされるような気持ちになる。
上手く言えないが、おそらく人というのは、
安全と死の確然たる境界線を、その目前に認知するとき、
背徳感と開放感という、2つの相反する心理を持つものである。(そしてそれは気持ちがいい)
「セーフティな危険」は麻薬じみたものではないかと、私は疑っている。(ジェットコースターが人気のアトラクションである理由だろう)
これは、手摺りのないビルの屋上に立つ感覚にも近いが、道路は普段、こうした“断絶”を殊更のタブーとしているだけに、
ギャップはより大きく、このような衝撃的な場面を作り出すのである。
ここからの数歩は、突き抜けるほどに気持ちよく、そして重かった。
ギョッとした。
心底である。
谷底には、滅茶苦茶になった橋の残骸が折り重なっている事を予感していたが、
それは見事に空振りに終わった。
谷底は拍子抜けするほどに“綺麗”だった。
整理され、さらに、整備されていた。
予想とのギャップの大きさもさることながら、
そもそもの「破壊を保存」するという事柄の本質的な無理が、
こんなちぐはぐな風景を生み出したのに違いない。
しかし、単に珍妙な風景では終わっていなかった。
これはこれで、美しいのである。
道路や橋という部品を、山河に「ありえない形」で飾り付けた、一種の芸術作品のように見える。
(このタイミングで、本日の初日が路面を照ら出したのは、卑怯であるかもしれないが)
また、見たところ谷底へ下りる適当な道は用意されていないようだが、
あの谷底に立って、“垂直の路面”に頬ずりしてみたいと思った。
…「最終目標」は、決まったな…。
今まで、撤去された橋の橋台だけが残っているような光景は多く見てきたが、その場合の橋台はもっと“綺麗”である。
この橋台は、橋桁が切断されて物理的に分離する瞬間まで、それと同等レベルの破壊の力を受け続けたのである。
当然のことながら、全体的に大変な歪みが生じていた。
その橋台の変状について最も驚くべき事実は、この写真でお分かりいただけるように、それ自体が斜めに傾斜してしまっていると言う事だ。
まるでジャンプ台のように路面が手前に向け登っているが、平成17年の路面にこの勾配は無かった。
このことは、前回解説した「落橋のメカニズム」に従って考えると、原因の想像が出来る。
つまり、対岸側の橋の半分(橋台+1径間)が地すべりに乗ってこちらへ近付いてきた際、この橋台は硬い橋桁を介して、その反作用点となった。
その結果、地面に埋め込まれていた巨大な橋台そのものがやや上向きに回転したが、次の瞬間に橋脚が破断したことで橋桁は折れ、橋台に加わる力は終息したのであろう。
“片割れ”の橋台を、飽きるまで観察した。幸いにしてこの位置は「展望の丘」から見えず、気兼ねなく行動出来る。
左の写真の途切れた欄干の先には、かつて親柱があった。
しかし、それは橋の上から消えており、行方不明である。(右側もそうだ)
おそらく、多数の残骸とともに墜落してしまったのだと思うが、整理された谷底にその気配はない…。
右の写真には、昭和53年の本橋開通まで使われていた旧国道が写っている。
6年前に探索した時にもこんなんだった訳だが、相変わらずだ。
祭畤橋・4代そろい踏み
ここに来て初めてルートの片鱗を見せたのは、仮設道路である。
「仮設橋」に通じていたと見られる対岸側スロープが、良く残っていることが観察された。
そして、その橋は仮設と言いつつ、かなり高く大きなものであったことも、見えてきた。
また現時点では、6年前に探索した「祭畤橋」の安否が不明である。
ここからでも見えそうだが、木が邪魔していてぎりぎり見えない。
(「展望の丘」からも見えなかった)
正直、期待すべきではないと思うが…。
祭畤大橋左岸橋頭探索の最後は、ここから簡単にアクセス出来るので、旧道へ少しだけ入ってみようと思う。
大規模な災害復旧工事の中で、なにがしか旧道が役目を担った可能性もある。
そうした再利用の痕跡がひとつでもあれば、ぜひ褒めてやりたい。
そんな気持ちから発した行動だったと思う。
自転車を橋頭に残して、短い路肩の斜面を下ると、すぐに微かに見覚えのある風景にぶつかった。
路肩にある草臥れたガードレールが、道の所在を動かし難いものとしている。
右手にはコンクリートの城塞のような、立派な橋台。
しかし、その先は“空”だった。
見た感じだが旧道に踏み跡がないのは6年前と一緒であり、相変わらず放棄されたままであるようだ。
旧道の路肩に鎮座する、巨大な橋台(ギャグではない)。
肉眼でも、その全体が僅かに右へ傾いているのが感じ取れた…様な気がするが、正確な比較対象物が無いので断言は控えたい。
それより……
何か落ちてるぞ。
四角っぽい(!)、
コンクリートの(!!)
何かががが!!!
お前は、もしかして…
やっぱり……!(涙)
4基あった親柱のうち、1基の所在を初めて確認した!
この左岸にはもう1基あったはずで、それも捜してみたけれど見つけられなかった。
橋本体はメモリアルとして保存されても、親柱は放置なのね…。
そうですか…そうですよね……それどころじゃないよね。
まあ個人的にはリアルで好きだけど、「展望の丘」に移設してあげても良かったかも。
7:11 《現在地》
ここから始まる仮設道路の開通は、地震で初代の祭畤大橋が通行不能となった5ヶ月半後にあたる、平成20年11月30日であった。
岩手県県土整備部発行の『美しい県土づくりNEWS 第53号(平成20年12月15日発行)』(PDF)は、開通の模様を次のように伝えている。
国道342号祭畤大橋の橋梁災害復旧に伴い、急ピッチで進めてきた仮設道路(延長約558m、うち仮橋約94m)は、8月21日に着手以来3ヶ月余で完成し、11月30日(日)正午から供用開始しました。
この開通により、祭畤地区などの8世帯22名への避難勧告が解除となり、避難住民の一部が約5ヶ月半ぶりに自宅に戻ることができました。
県では、来年の春から仮橋の約50m北側で、新橋の建設に着手をすることとしており、今後も工事の安全に万全を期しながら、地域の復興に取組んで行きます。
いきなりなんかデター!!
つうか、道が狭めぇ!
どちらからチェックするか目移りしてしまうが、とりあえず先にこの右に見える物の正体を明かしに参ろう。
…あっ、
なんか、思い出しそうだ…。
近付いてみると、それはやっぱり橋で、しかも廃橋確定状態だった。
なんせ、橋は橋として架かっているものの、橋へ通じる路盤の片方が、存在していなかった。
落橋よりはマシとは言え、空しさという意味では、かなりの逸材であると言わねばならない。
一種のトマソン的な橋といえるだろう。
なお、橋の背後に見える小高い部分は、「展望の丘」だ。
よく見ると案内板が見えるでしょ。
…うん。
やっぱりこの橋、俺は前に渡ったことあるな…。
7:15
とりあえず、路盤がない側の橋頭から橋に登ってみた。
段差は数十pなので、簡単に登ることはできる。
しかし、それでも「道でなくなっている」事は間違いない。
そうして辿りついた橋の上は、意外なほど平穏というか、6年前となんら変わっていなかった。
橋には銘板や親柱が無く、今も昔の無名の橋である。
橋下には小さな渓流が流れていて、上流を見ると(→)、市道鬼頭明通線もとい「展望の丘駐車場」の縁にあるガードレールが見えた。
正面もその続きのガードレールが遮っていて、結局、道はどこへも通じていなかった。
立地だけを見れば、上手のように極めて奇妙な孤立状態にある「無名橋」であるが、
これはいかなる事情から生み出されたものなのだろう。
答えは、下図の通り。
↓↓↓
現国道や「展望の丘」はもちろん、平成8年頃に建設された市道が出来る前にまで時を遡ると、
ここには現在の市道にほぼ沿った形で、1本の林道(鬼越沢林道)が存在していたのである。
旧国道とは現在の立体交差附近で分岐していて、後は素直に鬼越沢の左岸伝いに上流を目指していた。
そして、その始まってすぐの地点に、この無名橋は架かっていた。
残念ながら林道時代に通行したことはないのだが、上記のように断言して良いと思う。
そして、市道の建設にともなって林道は廃止されたが、橋はそのまま残っていた。
だが、平成20年の祭畤大橋落橋に始まる仮設道路建設や、その後の現国道建設にともない、
図中に茶の破線で示した旧道は地形ごと破壊され、消滅してしまったのである。
狭い谷間に限界以上の道を詰め込んだため、古いものから上書き消去されていっている現状が窺えるのである。
ちなみに、少し撮影の順序は前後してしまうが、この「無名橋」はご覧の通り、「展望の丘」の駐車場からも見る事が出来た。(最初は見えることに気付かなかった。見える位置は限られている)
本稿のタイトルに敢えて“廃橋三昧”と付けた理由のひとつが、本橋の存在である。
全く異なる経緯で生まれた廃橋が、これだけ隣接した位置にあるのは珍しいことであり、面白いと思う。
左の写真は、上の写真と全く同じ位置で、平成17年に撮影したものである。
当時から既に無名橋は市道をはじめ、周囲の全ての道路から見放された存在になっていたのだが、それでも現在と大きく異なっているのは…
当時はこのように橋の先(西側)にも藪と化した廃林道が続いていて、そのまま50mほど進むと、出来たばかりの市道へ出る事が出来たということだ。
この橋の上で撮った写真と全く同じアングルで今回撮影されたのが、次の写真である。
空を前に独り立つ、この感覚。(リフレイン)
…はっ!
あああっ!!
まだ!!
ノコッテター!!(喜)
ランガー廃橋強スギ!
これぞまさしく “廃橋三昧”!
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