2011/10/24 7:39 《現在地》
前回の舞台から一転し、今度は自転車で現国道に架かる「祭畤大橋」へやってきた。
銘板によると、本橋の名称は「祭畤大橋」であり、これは落橋してしまった旧橋と同一である。
敢えて「新祭畤大橋」などと名付けなかった意図は計りかねるが、レポート中では区別のため、以後この新しい橋を「2代目祭畤大橋」と呼ぶことにする。
本橋を含む現道は平成22年12月18日に供用を開始し、平成20年6月14日の岩手宮城内陸地震被災から2年半ぶりに国道342号は本復旧を果した。
と同時に、平成20年11月30日から供用されていた仮設橋はその役目を終え、まもなく解体されることになったのである。
祭畤大橋の初代と2代目とを比較すると、橋の構造は鋼製桁橋からPC橋となり、線形は直線から曲線へ、長さも94mから115mへと変化した。
橋上からの眺めも、両岸に背の高い森があった初代に較べてよりダイナミックになり、栗駒の山々をそのまま見通せるようになった。
ひょおー。
コイツは良い眺めだ。
つい先ほどまで私がいた橋が、まるで精巧な模型の様に見えた。
川面に映る姿も緻密に過ぎ、なんだか吸い込まれそうな迫力を感じた。
橋の中央から先へ進むと、今度は谷底の祭畤橋ではなく、その直上に存在していた仮設橋への連絡路、つまりは仮設道が現われた。
しかし、左岸同様、この右岸でも仮設道は現役当時の姿を保ってはおらず、橋頭に接するごく短い区間が砂利敷きの路盤として残っている他は、盛り土によって形自体を失っていた。
さて、この次の写真は、当レポートを代表する1枚である。
本稿のタイトルに珍しく、“廃橋三昧”というサブタイトル的なものを入れたのは、この眺めがとても印象的だったからだ。
ここまでのレポートの内容を総括する1枚である。
どうぞご覧いただきたい。 ↓↓
3本の廃橋が、一望のもとに!
しかもこれだけ密集した3本の廃橋が、全て異なる道にある、異なる出自を持つものであるのが面白い。
これぞまさしく、“廃橋三昧”ではないか。
廃橋好きには、幸せな眺めである。
7:42 《現在地》
ステージチェンジ! ここからは、鬼越沢右岸での探索である。
2代目祭畤大橋を渡り終えた道は、そのまま100mほど直進しつつ、緩やかに登る。
そして次第に右へとカーブしながら、ご覧の丁字路に到着する。
この丁字路こそ、旧国道と現国道の接続地点である。
もちろん、旧国道が現役だった当時は丁字路ではなく、自然なカーブで奥のスノーシェルターへと続いていた。
現在もその古い舗装路盤の一部が、丁字路の角に取り残されている。
また、この角には古くからのバス停とともに、「祭畤被災地見学通路 入口」と書かれた新しい案内板が立てられていた。
これを左折し、再び旧国道の探索を開始する!
旧道に入ってみると、想定外に奇麗な道で驚いた。
舗装が明らかに新しい。
だが、この素晴らしい舗装路の終わりもまた、さほど遠くはない正面に見えていた。
この道の先には、どう足掻いても【これ】が待ち受けているのだから、当然である。
そして、この入口部分の舗装が真新しい原因は、仮設道にあった。
その事を教えてくれたのは、一関市在住の読者D621KAN氏が送って下さった、次の2枚の写真である。
『写真1』
この写真の撮影時期は、仮設道が開設された翌月の平成20年12月だそうだが、撮影位置は「上の写真」とほぼ同じである。
撮影者(D621KAN氏)が立つのは旧国道の路盤だが、酷く土に汚れており、目の前では真新しい仮設道によって分断されている。
この時点で旧国道は明らかに廃道になっていたが、仮設道が役目を終えた後に、改めて「祭畤被災地見学通路」へのアクセス道路として復活を遂げたというわけである。
その一方で、仮設道は跡形も無くなった。
次の『写真2』は、「右の写真」の位置から旧国道を20mほど前進した所で撮影したものである。
『写真2』
旧国道は、この場所でもう一度仮設道と交差していた。
しかも今度は両者の間に著しい高低差があり、旧国道は物理的に寸断されている。
私には、ちょうどこの辺りで旧国道から旧道(谷底の祭畤橋への道)が分かれていた記憶(平成17年の探索時の記憶)があったが、この写真にはその入口も(寸断されてはいたが…)ちゃんと映り込んでいた。
そして右の写真は、「上の写真」の位置の現在の姿である。
真新しい舗装路の終点右側には、砂利敷きの駐車スペースがあったが、なおも直進する本来の旧国道は、ご覧のように木製A型バリケードで封鎖されていた。
この部分の舗装は旧国道時代のものである。
そこが1車線しか無い事い理由も、「上の写真」が明確に教えてくれている。
1車線だけの鋪装部分を50mほど進むと、今度はこのように砂利道の区間がある。
この長さは20mほどだ。
砂利道部分は、仮設道の堀割によって旧国道が開削・寸断されていた区間に他ならない。
仮設道の廃止後に堀割を埋め戻し、再び元の位置に道を復元したのであろう。
一連の仮設道が跡形も無く消えた現在、ここには地震前とあまり変わらない地形が戻っているが、興味深い廃道を記録の中に秘めている。
旧国道と仮設道の複雑な絡み合いの“まとめ”として、仮設道開通当時の図面をご覧いただきたい。
オレンジ色に着色されている部分が仮設道で、黄色いラインが旧国道、青い着色部は旧道の祭畤橋である。
『写真1』『写真2』は、先ほどのD621KAN氏の写真に対応している。
仮設道は、仮設橋との高低差を無難な勾配で凌ぐべく、ほぼ真円形のカーブを地上に描いていた。
その大半部は堀割だったが、その全ては埋め戻されている。
さて、これらとは別に注目していただきたいのは、図面に描かれている赤い皺のようなたくさんのラインだ。
これは、初代祭畤大橋落橋の原因となった、山崩れの範囲を示している。
短い砂利道の先にはこの木柵があり、車道は行き止まりである。
しかし、そこからさらに桟橋状の歩道が続いていた。
この通路こそ、入口に案内があった「祭畤被災地見学通路」である。
入口の傍らには、次のような少々穏便ではない内容を記した「案内板」が立っている(抜粋)。
…とはいうものの、肝心の「回転灯」とやらが見あたらないわけだが…。
まあ、「警報」は聞こえないし、豪雨でもないので、今は「地盤に異常が発生」はしていないだろう。
侵 にゅうぅ〜!!
え? なぜ折角の「見学通路」を通らないのかって?
そんなの、私が何しに来たのか考えれば当然ですなり。
私は災害現場の観察に来たのではないし(断言)、復興の様子を確かめに来たのでもない(キリッ)。
6年ぶりの旧国道を味わいに来たんだよ!!
この折角残ってくれていた路面に足を付けないなんて、勿体な過ぎます!
と言った具合で、
6年の間に見る影なく荒れ果てたアスファルトを踏みしめた私であるが、
まもなく私の想像を超える、
“廃道” に出会った…。
これはひどい…!!
もはや、昔の写真と並べて比較して見るまでもないだろう。
…これほどまでの被害だったとは…。
地震そのものの揺れではなく、地震を原因とする山崩れがこの路盤崩壊の原因ではあるわけだが、
それを含めて「震災」と言うのだろう。
地面が動けば舗装など、落した卵の殻よりも脆いらしい…。
敢えて路盤の凹凸に最大限追従する形で建造された「見学通路」のお陰で、旧国道の惨状は非常に分かり易く強調されていた。
先ほどまで何度か【対岸から此岸を見ている】が、本当に「陸が11mも動いた」のか、正直信じがたい気持ちがあった。
しかし、こりゃマジだ…。
地面は数え切れない亀裂によって滅茶苦茶に切り裂かれており、奇妙な凹凸が大量に形作られていた。
ただ樹木が枯れずに残った林地ではそれが目立たず、路面で一段と目立って見えるだけのことである。
そして、この荒れ果てた路盤の果てに待ち受けるのが……。
↓↓↓
7:47 《現在地》
廃橋見るベンチ。
イッツ、シュール…。
この時点で隠しようの無いほど壮絶な落橋現場。
それを眺めるため“だけ”に設えられた、2基のベンチ。
だがその姿は、海岸の別荘のテラスに老夫婦が仲良く座るようなベンチのイメージそのままであり(お洒落!)、
そこに動かし難い強烈なミスマッチを感じる。
そもそも、この景色を(体力的な問題以外で)座って眺めようと思う人がいるとは思えない…。
もちろん、見学通路の存在自体は大変有意義であり、私の印象など大した問題ではない。
辺りが無人であることを良いことに、私は躊躇わず、行った。
最終防衛線の向こう。
本当の意味での廃道を思わせる、終端部。
橋頭。
果てしある橋頭。
初代祭畤大橋との40分ぶりの再開である。
先ほど立った一関側の橋頭に較べて、この秋田側の橋頭の方が穏やかな被災状況に見えた。
向こう見たいに路盤は凹凸していないし(ここまでは酷かったが)、
親柱もちゃんと2基ともあるべき場所に残っていた。
(ちなみに、左が竣工年、右が読みがなだった)
これは、この橋台一帯が滑る地盤に乗って一緒に動いたことと、支(つか)える橋桁が早々に墜落してしまった為、
橋台に過剰な外力が作用せず、大きな破壊の被害を免れたのであろう。
現在の目的地→→→ P1
直線距離で、あと30mくらい。
とっても近い。
近いけれど、ひとつだけ障害がある。
それは、この段差。
直接下りるには、正直言って高すぎる。
でも、行けるはず。
この下にある地面は、6年前に歩いた旧道に他ならないのだから。
過去の経験は、活かされるためにある。
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