橋梁レポート 一般国道342号 祭畤大橋 “廃橋三昧” 第3回

所在地 岩手県一関市
探索日 2011.10.24
公開日 2012.04.09

跡形も無く消え去った“巨大仮設橋”


2011/10/24 7:15 《現在地》

この写真に写っている2つの橋。
同じ祭畤(大)橋の新旧であるが、世代的には親と孫の関係である。
大きいのが“孫”、小さいのが“親”。
生物やテクノロジの世界から見れば真逆な関係だが、土木構造物においてはこれが正常。
そして大きさだけではなく、両者の技術的な洗練度合いや利便性についても、親子を超越した差がある。

この強烈な対比は、祭畤大橋(子)の落橋が引き起こした、当地を象徴する光景の一部である。

そしてここにはもう一橋。
完全に姿を消してしまった橋がある。
世代的には子と孫の間であるが、それを「一世代」と言うには、余りにも短命であった。



この写真は読者の睦月氏にご提供いただいたもので、平成22年に撮影されたのだという。
この撮影場所については、背景に写っている2代目祭畤大橋の見え方を、上の写真のそれと比較して貰いたい。

酷似しているのが分かるだろう。




これはつまり、睦月氏が通行した道は、確かにここにあった(右図のように)という事だ。

すなわちこれが、前回終盤に探索を開始した「仮設道」である。

現状の道幅が幅が1.5m程度しかないのは不自然だと思っていたが、やはり他の仮設道の例に漏れず、利用終了後、速やかに環境の復元が行われたようだ。
まあ、現状では単に道形を土砂で埋めた程度であり、植生の復元まではまだまだ時間が掛りそうであるが。




ということで、ここで少しだけ
“跡形も無く消え去った巨大橋”=仮設橋 の話をしよう。




仮設橋は、こんな姿をしていた。
↓↓↓

なかなか、

カッチョイイ!


このスケルトンな感じは、いかにも仮設橋らしい。

仮設橋という土木構造物中の特殊な一群は、大抵
プレハブ(工場で部材の加工を行い、現地で組み立てる方式)の方式を最大限利用していて、
解体後には橋台さえも残さず完全に消える事が出来る。

また別の場所で活躍するために。




仮設橋は祭畤大橋の落橋から2ヶ月たった平成20年8月に着工し、前後の仮設道路とともに11月30日に供用を開始した。
これにより、国道342号の真湯温泉以東の区間が、約半年ぶりに開通したのであった。

仮設道路は全長558mで、うち、橋は長さが94m、また幅員は4m(一部待避所として5m)であった。
当時の写真を見ると、橋の上の一関寄りにも拡幅部分があったことが分かる。
また、拡幅部分以外でも普通車同士が離合出来たようで、仮設道路としては十分実用的なものであったと見える。

ちなみに、落橋した祭畤大橋の橋長も、仮設橋と同じ94mであった(幅は9m)。
また、2代目祭畤大橋の橋長は、115mとなっている。




左図は仮設橋の一般図で、鉄骨を組み立てた6本の橋脚により、5連のプレートガーダーが支えられているシンプルな形状がよく分かる。
この形式名は「5径間単純鋼鈑桁橋」で、橋脚は「H鋼橋脚」である。

この萌える橋の現役姿を敢えて見なかったのは、少々不覚であったな…。





まあ、無くなってしまったものは仕方がない。
そのかわり、今ある物を精一杯楽しもう。

この写真で注目していただきたいのは、仮設橋が谷底の祭畤橋へと及ぼした影響についてである。
両岸とも、仮設橋を設置するために(橋台代わりに?)盛られた土山により、祭畤橋へと通じていた旧道が、埋め戻されてしまっている。
特に対岸はそれが顕著で、事情を知らなければ、「なぜこんな場所に橋が?」と思うだろう。
平成17年の探索時にも、既に旧道の大半は車が通れる状態ではなかったが、それでも藪に覆われた道形が両岸にちゃんと残っていた。

現在の祭畤橋のこの有り様は、はっきり言って惨めである。

残っていたことがまず驚きで、嬉しいことだ。
そして、現在のこの奇抜としか言いようのない立地も、面白いと思う。
しかし、歴史ある鋼橋の「保存状態」としては、全く惨めに見捨てられた状況と言わねばならない。
いかなる道にも繋がっていない橋とは、「交通路の一部」というその本分から、最も遠く置き去りにされた存在なのだから。

ところで、私が祭畤大橋落橋のニュースに接した際、真っ先に思ったのは、「旧橋(祭畤橋)が大きな被害を受けていなければ、仮設道として活用されるのではないか」ということだった。
おそらく、旧橋の存在を知る多くの人が同じ事を考えたと思う。
そして、その事はプロの土木関係者も、検討しなかったはずはない。
旧橋は激震に耐えて落橋を免れ、まさにお誂え向きとしか言いようのない位置に、確固として架かり続けていたのだから。

だが結局、旧道や旧橋が仮設道として活用されることは無かった。

これまで見てきた現地の光景は、私が淡く期待していた「旧道の復活説」を、冷たく否定するものばかりだったのだ。




だが…。


今度は、FFF氏よりご提供いただいた貴重な写真を、ご覧いただこう…。




なんて素晴らしい写真を撮ってるんだ、FFF氏!

この写真は平成22年5月撮影とのことだが、右にある2代目祭畤大橋の建設状況は睦月氏の写真よりも明らかに進んでいない。
これは橋脚が完成した後、その上部からヤジロベエの要領で、両側へ橋桁を構築している最中の光景のようだ。(この僅か半年後の12月18日に開通したのだから、その工事の早さには驚かされる)

橋脚とともに左の超巨大クレーンが目を引くが、この写真で一番の注目したいのは、仮設橋の下に並んで架かる旧橋に他ならない。

なんと!

旧橋が活用されている!

道路としてではなく、物置場としてだけど。
完全放置ではなかったと言う事実が判明したのである。




なお、9月撮影の写真になるとまた変わっていて、

物置場としての役割も無くなった様子が見て取れるのである。


僅かな期間のうちにあれよあれよと“2つの巨大橋”に挟まれて、
さぞや肩身の狭い思いをしたであろうこの旧橋、祭畤橋。

いよいよこれから、6年ぶりとなる渡橋へ向かうが、
前回のような、藪道を掻き分ける苦労は皆無である。

しかしその代わり…

↓↓↓

この裸のとても滑りやすい斜面を、
転げずに下まで下る慎重さが必要だった。


ヨッ ホッ ハッ!

シンチョーニネ。




6年ぶりの祭畤橋、再訪!


7:19 《現在地》

キタキター!!

肩身が狭かろうが、前後に道が繋がっていなかろうが、

まるでお構いなしといわんばかりの“不動の橋”

それは近付いてみて初めて分かる、リアルな大きさだった。



隣にある現橋が目に入らないという条件ならば、このように、決して小さな橋には見えない。
しかし残念ながら、実際には影なり騒音なり、現橋の存在感は大きすぎるし、また近すぎる。

それはともかく、昭和53年まで、この祭畤橋が国道342号として活躍した。
もっとも同国道は昭和50年の認定だから、「国道時代」というのは短い。
それ以前は県道で、さらに前にはどうやら、林道だったらしい。
今手元に明確な資料がないのだが、市野々原あたりから県境須川温泉までの道は、
青森営林局が建設した林道に由来していたという記事を読んだ記憶がある。
その建設の時期は、昭和30〜40年代だったと思う。

実は、いまだにこの祭畤橋単体の竣工年は分かっていない。
現地に親柱や製造銘板が見あたらないせいなのだが、ランガー桁の採用という観点から見ても、
本橋が昭和30〜40年代生まれだというのは、間違いないように思う。

そしてその場合、現役期間は思いのほか短かったと言う事になる。
それこそ、不慮の事態に見舞われた“次代”のように…。



6年前に同じようなアングルで写真を撮っていなかったのが悔やまれるが、私の記憶の中にある旧景と比較すれば、その変貌の様は言うに及ばない。

地形もまるっきり変わっている(橋台が盛り土に隠れた)し、それに繋がる路盤も地ならしされて消え去った。
また、周囲の鬱蒼たる森も地形ごと無くなり、非常に見通しが良くなった。
今でも無理やりに旧道のライン(図中の黄線)を辿ることは出来るだろうが、そんなことをしたいとは思えない状況である。

…あぁ。
この場所の旧道脇にあった小さな石垣は、前回ピンぼけの手ぶれ写真しか撮れなかった事を秘かに悔やんでいたが、もう2度と見ることも出来なくなってしまったな…。




前の探索ではあまり深く追求しなかったと思うが、改めて林道用だと言われればいかにもそんな感じのする、単車線の鋼橋だ。

橋上の様子も、周囲の状況がこれだけ激変したにもかかわらず、ほとんど目に見える変化が無く、まるで谷底という密やかな場所でコールドスリープをしていたみたいだ。

しかし、先ほどご覧いただいたFFF氏の写真の通り、現道の工事中には資材置き場として多少は活用されていた事実がある。
交通路としても、工事関係者の徒歩による往来くらいは、当然あったはずである。
そう考えれば、多少は「復活」したのだ。

前回、蛇口を捻ると勢いよく水を吐いた水管は現存していたが、既に水は通っていなかった。





あちぃ!

新旧の橋の規模がこれくらい違うのは珍しくないが、
これくらい規模の違う新旧橋が、こんなに重なりそうなほど近接しているのは、珍しいだろう。

それだけに、谷底の旧橋から現橋を見上げつつ両者を1枚の写真に収めることも容易!!

凄く熱い眺めだ。




ワンスパン、25mほどの祭畤橋は、もう終わりである。

そして、もうこれ以上道は無い。

元々の旧道は、この右岸橋頭でも90度屈折し、左方(下流)へ進んでいたが、 その部分は完全に盛り土の下になってしまった。

もちろん、盛り土部分を強引にトラバースすれば、その先の埋められていない旧道に復帰出来るであろうし、この目の前の盛り土を直登した場合は、仮設道の続きに出る事が出来るだろう。

しかし、普段の引き返しを極力避ける行動パターンから見れば珍しいような気もするが、ここではこれ以上前進せず、一旦、祭畤大橋の袂に置いてきた自転車へ戻ることにした。






改めまして、

祭畤橋。

この進行方向(戻り)こそ、本当の意味での“6年前の再来”である。

昔は今みたいに“記録狂”じゃなかったので、振り返って撮影とか、ほとんどしてなかったんだよな…(笑)



さあ、比較して見ようね。
↓↓↓


橋そのものは、驚くほど、変化していない!

しかし、周辺の景観は、まるで全く別の場所みたいだ。


上流、下流の様子も、同じように比較して見よう。




上流の眺め。→→→


50mほど上流にある透過型砂防ダムは健在で、景観もさほど変化していない感じがするかも知れないが、よく見れば、河床の様子が全然違っている事が分かると思う。

以前は川石が沢山あるせせらぎだったのに、今はなんだか、砂防ダムの意味がないような、澱んだ流れになっている。

そして何よりかにより、上流側における最大の変化は、頭上の橋の有無である

それこそ0と100、無と有の違いがあるが、昔の写真がないので比較は出来ない。





↑↑ 続いては下流側の眺めであるが…。 ↑↑

あわわわわ…



想像以上に酷かった。

橋が落ちているのは、分かっていた。もちろん。

しかし、渓相の変化については、完全に予想以上だった。

まるっきり

になってやがる…。


前々回の「落橋のメカニズム」の所でも書いたが、
岩手宮城内陸地震を原因とする鬼越沢右岸の山崩れは大規模なもので、
祭畤大橋の橋台や橋脚を乗せたまま、10〜11mも谷側へ移動した。

その結果橋は落ちたのだが、崩れた土砂はそのまま谷を堰き止め、
相当に水位を上げさせたのだろう。

たくさんの枯木が水面から起ち上がる姿は、
かの有名な上高地の大正池を彷彿とさせるも、
如何せん背景にあるものが禍々しすぎて…、観光地っぽくはない。全く。



それにしてもだ…。

そそるな、この眺め……。

むずむずする。




あの“P1”(1号橋脚)に、

立ってみたひ…!!



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