雄物新橋に、意外な事実が発覚!!
昭和38年竣工の雄物新橋は、平成14年の前回探索当時から既に老朽化が問題になっており、大規模な改修工事を行っていた。また将来的には新橋に架け替えるような話しも出ていたと記憶している。
かつては、全長400m超の長躯を誇りながら歩行者が強制的に“ふれあい”をしなければすれ違えないという、驚くべき歩道の狭さが特に印象的だった。(皆さんの記憶には無いだろうけれど…笑)
そして結論から言えば、雄物新橋は現在も架け替えられることもなく、現役バリバリで頑張っている。交通量の多さも相変わらずだった。そして、歩道については左の通り、だいぶ改善が見られた。
橋に添設された歩道の“桁”自体は昔と同じものだが、所々待避所となるような幅広の部分が設けられたことと、手摺りや照明をすべて新しくしたことで、昔を知る人には“詐欺!”と驚くほど様変わりしていた。 ま、狭いんだけどね…。
では、2014年版の本題に入りたい。
まずは、次の画像をじっくりとご覧ください。
これが、現在の雄物新橋の勇姿である。
下流側の右岸河川敷から、本橋のメインである“6連トラス”の部分を撮影したものだが、
本橋最大の見どころが、この景色の中にあると思っている。 それは…
左右対称に3種類の形状異なるトラスが配置されているという、
まるでリズムを奏でるようなシルエットの妙味であると思う。
手前から、ポニートラス、平行弦ワーレントラス、曲弦ワーレントラス、曲弦ワーレントラス、平行弦ワーレントラス、ポニートラスの順に、
いずれも鋼製の下路トラス桁が6連。2種類のトラスを混在させた橋までは結構見るが、3種類というのはかなり珍しいと思う。
実はこれ、左右対称ではなかったのである。
秋田市民は、これを聞いてみんな驚いているはず。 はずだ!!
私もついこの間までは、ずっと左右対称なもんだとばかり思っていたし、市内の友人もみんなそうだった。
上の図は、『秋田県土木史第一巻』(秋田県土木部監修/平成2年刊)に掲載されていた本橋の側面図で、
先ほどの写真とは左右が逆になっているが、見ての通りである。
全然左右対称ではない!
実際は、中央に隣接していて最も目立つ2連の曲弦トラスの間にさえ、2割近い長さの差が有った。
いやはや、怖ろしいものだと思う。
トラスの種類が左右対称なので、それぞれのトラスの長さもそうだろうという想い込み。
安定感というものに対する半ば盲信的な依存性を、見事に(?)突いてきた。
俄には信じられない私がいたが、図面があるのならば、受け入れるしかないだろう。
また、改めて図面をよく見ると、長さの左右非対称については、納得の理由が想定できた。
本橋は全部で12径間からなっているが、このうち普段(平水時)から雄物川の水上に架かっているのは5径間であり、この5径間に限って見れば、中央径間の57.9m、その左右径間の49.1m、さらに外側の径間の40.4mという風に、綺麗に左右対称になっている。
橋が洪水に耐えるためには、出来るだけ流勢が強い河心部分を避けて橋脚を立てた方が良い。
両岸の中間地点に河心が合っていない以上、径間長が左右対称でないことは十分納得出来るだろう。
これはむしろ、実際は左右対称でないにも関わらず、形状の妙を活かしてそのように見せていた設計者のセンスにこそ、脱帽すべきかもしれない。
早くも疑問は解消?
でも、まだこの橋については語りたい余話がある。
前書掲載の解説文は右の通りで、短い文章だが、ここにも私の知らなかった事実が明らかにされている。
「前橋は木橋であったが、災害により中央2径間がトラス橋に架換えられ、その後残りの径間を現在の永久橋に架換えた。昭和59年に中央2径間は幅員が狭く横取り工法による架換えを行った。
」
3種類のトラスが混在している理由がそもそも謎であったが、一旦架けた後で「中央2径間」だけを架け替えたという事実が、その理由かも知れない。
この仮説の実証および新情報を探しに、まずは現場、次いで県立図書館へと行ってみた。
2014/9/3 15:26 《現在地》
2014年現在の雄物新橋だが、歩道橋と照明以外は12年前と特に変わっていないように見える。
そして、やっぱり左右対称のように見えるのだが、実際はそんなことはなかったのは前記の通り。
右岸側(土崎側)橋頭。
この橋は前回レポートしたとき同様、秋田県道(主要地方道)寺内新屋雄和線に認定されていて、雄物川の河口から数えて2番目に架かる橋として、14トンという車両重量制限をかけられながらも、老体に鞭打ちながら頑張っている。
橋頭に一般的に見るような親柱は無いが、欄干の端部に金属の銘板が取り付けられていて、その1枚に「昭和三十八年十一月竣功」の文字有り。
従来、この銘板を根拠に昭和38年竣功であると断定して来たのであるが、昭和59年に部分的な架け替えを経験しているという情報を新たに得たので、今回はその部分的架け替えの痕跡を探してみたい。
で、具体的に何を橋上で探すかと言えば、これである。
各トラスの端材を目視して、そこにこんな製造銘板が付いていないかどうかを探して回った。
12年前の探索でも1枚くらいは見つけているが、全部のトラスの四隅をチェックするのは今回が初めてだった。
製造銘板はその桁が建造された(多くは架設と同時期)時期を証明するものであり、普通は取り外したりはしないので、情報の信憑性は高い。
そしてこの写真は、下流側の歩道から観察していて見つけた1枚目の製造銘板。
これがどこにあったかと言えば… ↓↓
土崎側から数えて6番目の桁(曲弦トラス、径間長49.1m)の新屋側でありました。
まあ、文章にするよりも図を見て頂くのが遙かに分かり良いだろう。
そして、肝心&注目の“内容”は… ↓↓
雄 物 新 橋
1983年3月
秋 田 県
橋示(1980)二等橋
略
製作 日本橋梁株式会社
…というわけで、ずばり早速にして“途中架け替え”の証拠を掴みましたでやんす!
この曲弦ワーレントラス桁…第6径間は、1983…昭和58年の製造であるのだから、これは昭和38年架設の桁ではあり得ないことになる。
こんな調子で、すべて桁を調べていったらば…。
続いて見つけたのは、下流側の歩道を対岸の新屋まで渡りきって、それから今度は上流側の歩道を逆方向に歩き出してから、最初に出会ったトラスだった。
つまり、土崎側から数えて9番目の桁(ポニートラス、径間長40.4m)の新屋側でありまして。
“内容”は… ↓↓
雄 物 新 橋
1963年11月
秋田県建造
橋示(1955)二等橋
製作 日本橋梁株式会社
略
よしよし!! 今度は昭和38年製造の桁を見つけた。
『秋田県土木史』によれば、架け替えは「中央2径間」だそうなので、端っこに近いこのポニートラスが昭和38年建造だというのは予想通りである。
でも、こうした証拠があるのは心強い。
そして、さらにもう1枚を発見し、最終的には6径間のトラスのうち3径間にのみ製造銘板を見つける事が出来た。
最後に見つけたのは、土崎側から数えて5番目の桁(平行弦トラス、径間長40.4m)の土崎側だった。
そしてその“内容”は少しだけ予想外で、左図にも書いたとおり…
雄 物 新 橋
1983年3月
秋 田 県
橋示(1980)二等橋
略
製作 日本橋梁株式会社
架け替えは「中央2径間」だと思っていたが、それは数理的な意味での1〜12の中央である6と7ではなく、「橋の中のあたり」って感じで捉えた大雑把な中央だった(笑)。
これらの製造銘板を信じる限り、第5、第6の2径間こそが、昭和59年に架け替えられた2径間であるようだ。
う〜〜ん、 なんかややこしい位置を架け替えたみたいだな…。
ここで頭に疲れを感じ、息抜き半分で水面に目を向けると、予想外の発見が待っていた。
ギリギリ水面下に、かなり太い、まるで橋脚のような木柱が、
少なくとも3本並んで見えた!!
「前橋は木橋であったが
」
土木史の解説文が脳裏に蘇った。
唐突だが、出し忘れていたこの写真は、第6径間と第7径間の継ぎ目部分だ。
この左右のトラスは製造年や架設年が約20年ずれているはずだが、同じ会社(日本橋梁株式会社)が製造したためか、外見上の違いを見つけるのは困難だ。
塗装も繰り返されているので、違いは見出しがたい。
まあ、厳密に色々と探せば細かな違いはあるのだろうが、私程度の橋梁眼では、もし製造銘板を見ていなければ同時に製造して架設した桁であると判断しただろう。
16:00 《現在地》
現地調査の最後は、橋の上から見た“水中の木柱群”が気になりまくったので、橋下へやってきた。
幸いにも、発見の現場である4径間目は、土崎側の陸にギリギリ接しており、この日は水位も平水であったことから、橋脚の基礎工に立って水面を間近に覗き込むことが出来た。
うん。これはやっぱり間違いないな。
木橋であった旧橋の橋脚だと思われる!
昭和38年よりも以前からこの状況だったはずなのに、よくぞ、
これまで腐朽流失せずに保ったものである。 秋田名産の天然杉材かな?
ちなみに、本橋が最初に架設されたのは昭和13年である。
この話は、次回の「解説編」でもう少し詳しく触れたい。
…え? まだ続くのかって? この橋の解説編とか興味ないって??
あと一回だけだからさ… オネガイダヨー
ともかく! 今回のまとめ!!
雄物新橋は左右対称ではなかった!!