さて、昨日公開した「2014年編」に引き続き、今回はその内容を受けた解説編だ。
雄物川の河口近くで頑張り続けている雄物新橋を応援する気持ちを込めて、その誕生から現在までの足どりを追ってみよう。
その生き様、雄物川の豊かな水と、秋田市民の渇望との間にあって、波瀾万丈というに相応しいものがあった。
1.雄物新橋の誕生 ◆昭和13年(1938)〜
『思い出のアルバム秋田市・昭和篇』(無明舎出版)より転載。
雄物新橋、爆誕!
雄物新橋の誕生は、斯くの如き轟音と土煙の中にあった。
大正から昭和初期にかけて県都秋田を舞台に行われた歴史的な大土木事業、雄物川放水路建設の進展により、従来の酒田街道(現在の国道7号)と放水路と交わる地点に架けられたのが、初代の雄物新橋であった。
橋の完成は昭和13年4月13日と記録されており、これは左の写真に納められている歴史的瞬間…全長2kmの放水路通水が達成された4月27日の僅か2週間前だった。
なお、雄物新橋は由緒ある街道筋に架けられながら、国道に指定されることは一度も無かった。
なぜなら、同放水路工事の一環として酒田街道の付替も行われ、昭和9年にその後長らく秋田市の南玄関口として君臨する事になる、その名も秋田大橋が完成していたからだった。
百有余年の歴史を誇る「秋田魁新報」の記事検索で「雄物新橋」をキーワードにヒットした一番古い記事がこれであった。
内容は、本橋の竣工式が盛大に行われたというもの。一部を抜粋して引用しよう。
「内務省雄物川改修事務所委託工事として新屋町割山の雄物川新放水路に架橋せる縣橋「雄物新橋」の竣工式は十三日午後一時より現場に於て(中略)挙行
」
この式には橋が結ぶ秋田市の市長、新屋町(昭和16年に秋田市と合併)の町長に加え、県知事や県土木課長、そして内務省の事務所長らも参列する盛大なもので、日新小学校尋常一年生から選ばれた三組の雛夫婦やブラスバンドなどが渡り初めを行ったとある。
ところで、縣橋という表現を私はこの記事で初めて目にした。県が管理する橋という意味合いだろうか。当時の新聞読者には説明なく通じる表現だったのだろう。
この後わが国は戦争の暗い時代に落ち込んでいくが、再び橋の名が魁の記事に現れるのは、戦後だいぶたった昭和31年だった。
その紹介に移る前に、もう少しだけ、初代木橋の悠長な姿を眺めてみたい。
私が謎だとした「縣橋」という表現について、読者さまから鋭いご指摘があったので追記したい。
この「縣」の字が、「県」の旧字体であるのは確かにその通りだが、同時に「縣」には「架ける」という意味があり、訓読みは「か-ける」である。
つまり、縣橋とは「県の橋」ではなく、「架橋」の意味だというのである。 なるほど、wiktionaryで「縣」を見るとその通りである。 ありがとうございました!
『秋田市いまむかし』(無明舎出版)より転載。
『秋田市いまむかし』(無明舎出版)より転載。
右の2枚の撮影時期は昭和27年。草の茂る河川敷に、新水路はすっかり川として板に付いた感じを受ける。
この木橋時代の雄物新橋の構造や規模については、土木学会が公開している橋梁史年表に記述がある。一部抜粋しよう。
雄物新橋
開通年月日:1938年4月13日 橋長:414m 幅員:4.5m
形式:木造下路ハウトラス橋(径間30m)×3連、木造桁 144m+180m
上記スペックを参考に、橋のごく簡単な模式図を用意してみた。(←)
ただし、中間部のハウトラス部分以外の木桁は、連数が数え切れないほど多いので、橋脚を省略している(笑)。
しかし前回現場で見つけて紹介した“水中の木柱群”は、この膨大にあった橋脚の一部だったに違いない。
これは、「地図・空中写真閲覧サービス」で見る事が出来る、昭和23年に米軍が撮影したという雄物新橋の空撮だ。
中央に見えるのが雄物新橋で、右の方にある橋は秋田大橋だが、雄物新橋はどう見ても途中が2箇所くらい途切れているのである。
これが洪水によるものか、戦災によるものなのかは未確認だが、昭和27年の写真に写っていた木橋は、厳密に“初代橋”とはいえない部分も含んでいるようだ。
また、昭和13年に初めて架設されてから、どれくらいの期間を“無事”に過ごせていたのかも不明である。
分かっているのは、昭和23年には明らかに橋が途切れていること。
そして、昭和27年には再び綺麗に架かっているということだ。
初代橋については、このくらいにしておこう。
2.雄物新橋の長い冬 ◆昭和30年(1955)〜
昭和31年の記事では、18年前の華々しい開通の記事から一転、何とも肩身が狭い見出しで取り上げられている。
見出しから予想の付く部分もあるが、記事の一部を転載しよう。
「雄物新橋は昨年六月末の水害で流失、その後秋田土木事務所で早期復旧工事を行うべく本省の災害査定を受け着工準備をととのえたが、付近の河床もひどい被害を受けたまま未復旧になっているため、いま橋の復旧工事をしても再び流失する危険が多いので、結局同橋の復旧工事はせっかく予算化されながら、ことしもおあずけになる見込みである。
」
木橋だった雄物新橋は、昭和30年6月下旬に発生した水害で、中間部分の約81mを流失。
以来、長い長い“冬の時代”へと突入することになるのであった…。
続いては、前の記事から4年(流失からはまる5年以上を経過)した昭和35年9月の記事である。
相変わらず橋は復旧していないだけでなく、さらに「あと五年も」かかると見出しが嘆き、「たりない工事費」を呪ってもいる。
「これは予算不足が大きな原因となっているが、上流に秋田大橋があること、重要路線の整備が優先することなどから工事はあとまわしになるわけ。
」
だが、この4年の間、当局も黙って手をこまねいていたわけではなかった。
橋の復活に向けた作業を地道に進めていたことが、後段に綴られている。
(そのうえでも、「あと五年」かかるとされているのだが…)
これは記事中の写真を拡大したものだ。(→)
キャプションにはこうある。「写真は一部永久橋化したまま交通不能の雄物新橋
」と。
そして本文の抜粋…「同橋は木橋であったが一部流失後、永久橋とする方針が決定、三十二、三十三の二カ年に九十メートルだけを永久橋にしたが残部は放置されたままで、ペンキの色も新しい鉄骨橋とくちはてた木橋とが不自然な姿でならんでいる。
」
あっちい!
不謹慎だが、この時代にタイムスリップして現場を見たら興奮しただろうな。全オブローダーが。
記事の状況は、掲載された写真も踏まえると、こんな模式図になるだろうか。
流失した長さが81m(昭和31年の記事による)で、3連あったハウトラスが各30mだったこと、そして上の写真に少なくとも未流失のハウトラス1連が見えていることから、この模式図を再現した。なお、図中の「40.4」とかの数字は、判明している各径間の長さである。
昭和37年の空中写真である。
流失前の木橋は完全に撤去されたようで、河中には昭和32〜33年に架設されたという2連のトラス(=永久橋、長さ89.5m)だけが架かっている。
そしてその前後には、橋桁の搭載を待つ新たな橋脚達が並びつつある。
陸から伸びる道はなく、ただ河中に突っ立つ2連のトラス。
これまたオブローダーを刺激する凄まじい光景であったことだろう。見たかったが、私が生まれる15年も前の話しだ。
そして、これは秋田市民の熱烈な要望に県当局が頑張ったおかげと思われる(記事には住民の激しい陳情合戦の模様も描かれている)が、雄物新橋は「あと5年」掛からず、流失から8年目の昭和38年11月(現地の銘板による)に交通再開となったのであった。次は開通直前の記事をご覧頂こう。
昭和38年10月25日の記事。
七年たっても未完成 | |
チグハグな橋の幅 |
…市民のイライラが限りなく高まっている様子が窺える。
そりゃそうだろう。街の真っ直中にある県道の橋が、8年間も流失したまま復旧していないのだ。
しかもここはもともと新屋町という一つの自治体が、放水路工事で両岸に分かれた場所だったから、橋を渡って通学する子供達が大勢いた。
これは私の想像だが、当時の新屋の住民にとっては、放水路工事により貴重な先祖伝来の土地を大規模に奪われ、街を分断されたうえ、その一体性を保つための唯一の橋が、いつまでたっても直されない。そんな行政に対する怒りがあったのではないかと思う。
そしてこの記事によれば、市民の不興を買ったのは、“もたもた”工事だけではなかった。
その出来上がりつつある橋は、それを見た大勢の人々を落胆させる、ある重大な欠陥を有していたのである。
誰が見ても分かりそうな、あからさまな“欠陥”が……!
欠陥は次の記事で見て頂くことにして、昭和38年の記事の写真に注目!
ここでついに、現在の雄物新橋の象徴である、3種類のトラスが並ぶ光景が誕生している。
しかも、河中には中途半端に撤去された初代橋ハウトラス部分の橋脚が見えていたり、昭和32〜33年のトラスと、昭和38年架設のトラスが混在していたり、新しいトラスを架設地点まで牽引するための巨大な鉄塔が設けられていたりと、見どころがたくさんある。
惜しむらくは、新聞紙上の写真の解像度が良くない事だが、とにかくこの写真が撮られてから1ヶ月内外で本橋は8年ぶりに、永久橋として、再開通したのであった。
重大な欠陥と共に…。
3.雄物新橋の欠陥 ◆昭和38年(1963)〜
いや〜〜、長かったけど、やっと開通したぜ〜。
開通直後の橋の模式図が、これである。
ここに3種6連のトラスと両岸側各々3連の単純桁を組み合わせた、全長415.9mの新生・雄物新橋が出現したのである!!
よかったよかった。
↑↑
これは欠陥じゃないんですかねぇ?
ほら、さっそく記事で槍玉に上げられてるし…。
簡潔に説明すれば、昭和38年に交通再開となった当時の雄物新橋は、幅6mの10径間と、幅4.5mの2径間とが混在する状況だった。
具体的に言えば、昭和32〜33年に架設された第5、第6径間は、国に災害復旧事業としての査定を受けていたため、旧橋と同じ幅員4.5mの永久橋となったが、それ以外の部分は「4.5mでは狭い」と6.0mで設計架設されたのであった。
全部4.5mの永久橋にならなかったことを喜んでも良さそうだが、やはり橋の途中に唐突に25%も狭い区間があるというのは、全部狭い以上に“危険”である。
ちなみに、この当時両側の歩道橋は設置されていなかった。
「奇形」「中細り」「ガッケのある橋」などと、さんざん罵られた本橋。
当時の空中写真を良く見ると、確かに中央付近の狭さが分かるのである。
余談だが、川水の汚濁も酷い。(新産都市として華やかだった秋田の公害問題が盛んに叫ばれていたのも、この頃。
画像にマウスオーバーで2009年の空中写真を表示。こちらは橋の長さも均等で、川の水も綺麗だ。)
記事のスキャンは用意しなかったが、昭和42年の魁新報にも本橋の記事がある。
やっと照明灯が橋に取り付けられたという内容で、そのきっかけが、橋の狭くなっている部分で通学中の女子中学生2人がトラックにはねられ、一人が亡くなるという悲しい事故であったというもの。
「犠牲者が出なければ照明一つ付かないのか」と、ここでも県の整備姿勢に市民の怒りが向けられていた。
(なお、歩行者保護の抜本的解決策である歩道橋の添加が行われたのは、この3年後の昭和45年であった)
4.雄物新橋の改築 ◆昭和58年(1983)〜
ついに、雄物新橋が現在の姿へ変わる最終フェーズ。
単に危険と言うだけでなく、大型車がすれ違えないことからしばしば渋滞の原因となっていた狭い2径間の架け替えは、開通から20年後の昭和58年になって、やっと実現した。
これがなかなか実現しなかった理由は、2径間の架け替えを行うためには最低7ヶ月は橋を通行止めにせざるを得ないが、そうするとただでさえ渋滞が頻発していた国道7号秋田大橋がパンク状態になるのが目に見えていたから(下流に国道7号の秋田南バイパス雄物大橋が開通したのは昭和61年)だったが、県内では初めての採用となる“新技術”を用いる事で、最長2ヶ月、最短なら2週間程度の通行止めで架け替えられる目処が立ったとして、やっと事業化されたのであった。
そしてその新技術というのが、現在でも行われる事がある、“横取り工法”であった。
右の写真は、まさに横取りによる桁の交換が間近に迫った、旧第5、旧第6径間トラスの最期の姿である。
本橋が、偽の左右対称を意匠的に組み入れたのは、この昭和58年の改築である。
第5径間は、当初ポニートラスであったが、改築により径間長はそのままで平行弦ワーレントラスへと“成長”した。
そこに左右対称のシルエットを装うということ以外の目的があったのかは不明である。
改築前は、全径間中最長で河心を跨ぐ第7径間(57.9m)だけが一際目立つ曲弦ワーレントラスで、その両側に平行弦ワーレントラスの第5、第7径間(共に49.1m)、さらに外側にポニートラス(すべて40.4m)が並んでいて、この配置には機能的な意味での説得力があったように思う。
これが改築によって、平行弦ワーレントラスと曲弦ワーレントラスは、それぞれ2種類の径間長のものが混在するようになったのである。
どちらが好きかは人それぞれだろうが、真面目な利用者にとっては、全径間の幅が6mに統一されたことに勝る喜びはないだろう。それに尽きる。
今どき6mは狭いとか、そもそも車重制限14トンはしょぼいなんていうのは、この橋の歩んで来たイバラの道を知ったら口にできない贅沢じゃないか。
そんな冗談はさて置き、本橋にはこれからも色々な話題を提供して頂きたいものだと思う。
それが架け替えだとしても、さらなる延命であったとしても、秋田市民にとって「雄物新橋」の名は永久に不滅だろう。
これはオマケ。橋梁の変化アニメーションgif。 |