橋梁レポート 国道158号旧道 稲核橋 前編

公開日 2016.09.08
探索日 2014.10.28
所在地 長野県松本市

当サイトではこれまでも旧安曇村内にある国道158号の旧道をいくつも紹介してきたが(→【旧安曇村の廃道たち】)、多くの探索を平成20(2008)年から22年にかけて集中的に行った。
そうして私はこの地区の探索を一通り終えたと判断し、その後は足もやや遠のいていたのだが、実はそこに自分では気づけない大きな取り零しが隠れていた。
その事実を知ったのは、当サイト掲示板へのある読者さまの投稿であったと記憶している。

そして平成26(2014)年10月、久々にこの地を訪れた私は、遅ればせながら、取り零していたものを初めて自分の目で確認し、そのまま探索もした。
以下は、国道158号旧道群探索における自身のミッシングピースが埋められていく模様である。


ファーストインプレッション: 巨大なダムの下で


2014/10/28 11:00 《現在地》

この橋は、見覚えのある人も少なくないだろう。国道158号の稲核橋である。
稲核と書いて、「いねかく」ではなく「いねこき」と呼ぶのは結構な難読地名だと思うが、ダム好きの人にとっては有名な事実かもしれない。梓川を堰き止める同名のダムが、このすぐ近くにある。
そして、この橋が渡っているのが梓川だ。

この写真は、松本側の橋端に立って高山側を撮影したのだが、見ての通り、橋全体がかなりの上り坂になっているのが、大きな特徴である。
また、橋の前後が急カーブになっているだけでなく、橋上まで少しカーブが掛かっているのも、この橋が運転者の印象に残りやすい理由だろう。
しかし、自分で自動車を運転して本橋を渡る場合、わき見運転になることもあり、本橋の車窓に注目する余裕はあまりない。
これまで幾度となくこの橋を通過しながら、“取り零し”を続けていた理由も、そこにあった。

だが、私は今回初めて、この橋を自転車で訪れた。
橋の上は2車線分の車道だけで歩道も路肩も無いうえに、大型車の交通量がかなり多いという自転車泣かせの橋でもあるのだが、私はタイミングを見計らって、橋上から上流方向を眺めてみたのである。
それが次の写真だ。 ↓↓↓



ズドーン!!

ダムマニアではない私でも、この大迫力の光景にはテンションが上がった!!
その本体に誇らしげに掲げられているとおり、これが稲核ダムの勇姿である!

人類が、万古不変を思わせる大河の流れを、見事に制しきった眺め。
常日頃は、大自然の猛威に打ちのめされた人の営みを眺める事の多い私にとって、
まさに胸のすくような快感があった。人類が本気を出せば、この通りである。してやったり!


…という感じで、とても気持ち良くなった私であった。
しかし、私のテンションを一瞬のうちにこれほど昂ぶらせた原因は、
ダムのほかに、“本命”がいたのである。それが、“矢印”の先に見えている――



旧稲核橋!

今まで素通りしていたモノは、想像以上にでかかった!

掲示板に情報が寄せられていたので、その存在は知っていたのであるが、
やはり自分の目で見るインパクトは絶大で、特に私が驚かされたのは、
こんなダムに近い位置に架かっていたのか!…ということだ。
未だかつて、このような廃橋のシチュエーションを体験した記憶は無い。斬新だ!



錦秋の彩りを宿した山峡を跨ぐ、赤錆びたトラスドアーチの旧橋が、眼下にあった。

この光景は、本来ならば渓谷美を象徴するような典型のワンシーンであったと思う。

だが、覆い被さる巨大な影がそれを壊していた。立ち塞がるのは、摩天のコンクリートウォール。

“人工美”などという言葉では生ぬるい、人の暴威の成したるものが、この地の支配者だった。



ダムが巨大であることは、比較する対象物が一緒に写っていなくても、すんなりと受け入れられると思うのだが、旧稲核橋も現橋やダムほどではないにせよ、かなり巨大な代物である。
近くに巨大過ぎる構造物が多いため、相対的に小さく見えているに過ぎない。
こから見える橋上の様子からして“廃橋”だと思うが、こんなに巨大な廃橋にはなかなか出会えない。

それにしても、この写真の眺めは示唆に富んでいる。
ダムの堤体と新旧橋の位置関係は、旧橋が廃止されなければならなかった理由と、現橋が建造されなければならなかった理由を、如実に物語っていると思える。
前述したとおり、現橋には過剰と思えるほどの勾配が付されているが、その理由もきっと繋がっている。

思うに、この旧橋を一瞬で葬り去ったのは、自然の猛威などではなく、ダムをここに作る事を決めた“誰か”だった。
こういう幕切れを、旧橋を架けた“誰も”が予想はしなかったであろう。



さて、これまでの眺めは全て現橋の川上側を見下ろしたものだったのだが、反対の川下側には何が見えるであろう。

そこには、旧橋に連なる旧道の姿があった。
旧道は、現在の稲核橋の下を潜っている。
美しく紅葉した峡谷に似つかわしい、いかにも味わいの深そうな道がチラチラと見えているが、現道との高低差はかなりのもので、直接この崖を降りて行こうというのは自殺行為に近いだろう。

やはりこれは、どこかにあるはずの新旧道分岐地点を見つけ、そこから旧道を辿ってくるのが“王道”であると考える。




架かったまま残る旧稲核橋だが、最新の地理院地図には、橋そのものも前後の旧道も、なぜか全く描かれていない。
地理院地図やそのベースとなった地形図は、単に地上にあるものを図示しているわけではなく、道路や鉄道については、それが現役であるかをかなり重視しているきらいがある。
したがって、廃道や廃線跡は、そこに明瞭な道形が存在しているとしても、記載されないことが多くあるのである。
これほど巨大な本橋の未記載に、単に記載漏れという以外の理由があるとしたら、やはり橋が廃橋だということが原因なのかもしれない。

というわけで、地図に描かれていない旧道が、現道と分岐する地点はどこか。――というのが次の問題だ。
現道はこれまで幾度となく車で走行したが、旧道の存在を意識していなかったせいか、正直、心当たりが無いのである。

これから松本方向へと自転車を走らせながら、探してみることにしよう。
400mほど下ったところに明ケ平洞門があるから、おそらくそれよりは“手前”だと思う。




旧道の入口を発見! 


現橋から松本方向へ通じる国道は、橋の上よりもさらに急な勾配が付けられている。
道路標識によれば、「10%」の下り勾配だそうだ!
現在の道路構造令で通常認められている勾配は9%が上限なので、それをオーバーしている。
(もっとも、道路構造令の規定値には「特例値」というものがあり、「やむを得ない場合」に限り、勾配は12%まで認められる。それに頼った道路はまだ沢山ある)

この国道には稀な10%という急勾配区間は、堤高55mの規模を持つ稲核ダムが国道上に建設されるにあたり、可能な限りその付替道路を短く済ませたいと考えた設計者の苦肉の策と予想する。
逆に考えれば、この急勾配が終わるところに、旧道の分岐地点が待っている可能性が高い。
そのような予測を立てて、周辺の景色に目を配りつつ下って行くと――



なるほど、こうなりましたか。

先ほどの地図で示した「明ヶ平洞門」が、前方に見えてきた。
結局、橋からここまでの400m区間は常に急勾配のままで、旧国道らしい分岐地点は見あたらなかった。

そして今前方に現れた洞門は、まるで飛行機が着陸しようとする滑走路のように平坦に見えた。
まさに、「降り立った」という感じだった。




11:07 《現在地》

きた〜〜! 旧道の分岐地点だ。

写真は、明ヶ平洞門の坑口を背にして、下ってきた国道を振り返って撮影した。
左に入る道が見えるが、これが旧道に違いない。
なかなか良い感じに川沿いへ伸びて行っている。旧橋まではおそらく500mくらいか。
写真で見る限りは、車で一度通るだけでも気づけそうな分岐と思うかも知れないが、実際は結構分かりにくい。
理由は、ここが洞門を出た直後だからだ。洞門が視界の邪魔をする。




旧道探索のスタートだ!

…と、行きたいところだが、チョットマッテ。
厳密に言うと、今いるこの場所は本当の旧道分岐地点ではないかもしれない。

旧道に入った直後、ゲートにより閉ざされた別の道が左後方から合流してきた。
ゲートの奥は建設会社の資材置き場のようだが、一旦引き返して明ヶ平洞門からそこを見下ろしてみると、いかにも旧道らしい細長い平場となって、洞門の先まで続いていたのである。




11:09 《現在地》

そして最終的には、全長150mほどの明ヶ平洞門の松本側坑口前で、平場の続きは現国道と同じ高さになっていた。
現在この左の道は建設会社の正門に過ぎないが、地形的特徴から考えて、この場所が本来の旧道分岐地点なのだろう。

ちなみにこの場所は、以前紹介した旧国道の「猿なぎ洞門」から約1kmの至近距離であった。
といったところで、今度こそ旧道へ!




ああ…、イイカンジ。

現国道が、便利さと引き替えに喧騒の中に置き忘れてしまった平穏。

上高地への遙かな旅路を彩った古の渓谷美が、旧道には濃厚に残っていた。

だが、この行く末に待ち受ける凄絶な断絶は、もはや覆せない既成事実である。

“あの橋”を直接踏めるのが、今からとても楽しみだ。




短くも変化に富んだ、良い旧道


2014/10/28 11:11 《現在地》

良い感じの旧道だ〜。

思わず自転車を漕ぐ足の力を抜いて、この場に寝っ転がってしまいたくなった。今回の探索は、稲核橋の旧橋を訪ねるという目的だが、そこへ通じる唯一の道である旧国道が、予想以上に良い印象。

先ほどまでいた現国道の稲核橋は、銘板に昭和40(1965)年の竣工とあった。ということは、この道が旧道になってから既に半世紀近い年月が流れている。
これは今まで探索してきた国道158号の一連の旧道の中では、最も早い時期に旧道化した区間だ。

ガードレールを持たない未舗装道路は、昭和28(1953)年に「二級国道158号福井松本線」として初めて国道に指定された当時の姿だと思う。
昭和40年頃までは、まだまだ日本中に、こうした“酷道”の姿をした国道が沢山あったのだろう。



しかしその次に現れた景色は、少しばかり、私の予測の外にあった。
このまま渓谷の風景が続くのかと思いきや、突如として自然とは異質の白さを宿した“なまこ壁”の建物が、道の上手にぽつんと現れたのだ。

斜面を登って確かめてみると、それは確かに一棟の土蔵であった。
かなりの年を経ていることが見た目に分かる建物で、今は使われていないようだが、この道をずっと見てきたに違いない。
こうした古い土蔵は、いわゆる“古都”といわれるような地方都市ばかりでなく各地の集落にも残っているが、鋪装された道路や現代的な家屋の隣にあると、どうしても居心地が悪そうに見えてしまう。
このような未舗装道路の傍らにあってこそ、似つかわしい。

現在、この周辺は集落という印象を受けないが、現国道に面して僅かに人家があり、おそらく洞門の名前になっていた明ヶ平(みょうがだいら)とは、この南向きの明るい緩斜面に付けられた地名なのだろう。土蔵の存在からしても、昔はもう少し大きな集落だった可能性が高い。



11:13 《現在地》

渓谷の自然美、古蔵のわびさびと来て、その次に現れたのは、アーチの機能美に満ちた現道の稲核橋の姿だった。
旧道の古ぼけた景色の中に、まるで強引に割り込んできたような巨大な現代の橋に、思わず息を呑んだ。

さっき見下ろした場所から、今度は逆に見上げている。
現道が道路構造令を越えた急坂で“頑張った”分の高低差が、目の前にある。15から20mくらいは離れているだろう。

旧道はここまで僅か400m足らずであり、退屈する間は全く無かったが、本題はあくまでもこの先。
現橋が現れたということは、目指す旧橋も目前である。



道端の本来は崖だったはずの場所に陣取る、アーチを支えるコンクリートの巨大な橋台。(←ダジャレじゃ無いよ)
それがいかにも上って欲しそうな絶妙な高さと斜度で横たわっていた。

最初はお目当てに向けて素通りしようと思ったが、私が好きなのは旧や廃ばかりではなく交通土木全般だ。
故にこれだけの据え膳を差し向けられては、素通りし難かった。
気付けば自転車を路上に転がして、よじ登っていた。

(→)これが案の定、大迫力の眺めだった。
これだけ大きなアーチ橋をこのアングルで眺める機会は多くない。
それをしようとすると骨の折れる橋が多いので、車も乗り込める旧道(ここまで封鎖は無かった)から直接というのは、希少なシチュエーションだ。
旧道から現橋をこれ見よがしに見せつけられたせいで、以下のような思索にも至った。

おおよそ半世紀前、建設が進んで徐々に姿を見せる頭上の新橋を、当時の通行人はどんな気持ちで眺めたのだろう。
発展する未来に対する喜びや興奮は、まずあっただろう。
その影で、長年利用して来た“この道”の余命を予感した人はいたと思うが、積極的に惜しもうという人は、まだ珍しかったかも知れない。
半世紀前の多くの日本人にとって、交通路の改良は今以上に身近で切実な願いであっただろう。

ここまで無闇に荒れ果てた廃道ではなく、おそらくは現役当時に近い状態で温存された旧道を通ってきたからこそ、この道で遠くまで旅をすることのリアルな大変さを感じていた。
酷道や廃道を“楽しめる”現代というのは、少なくとも交通に関しては、大変に幸せな時代なのだろう。

アーチ橋台での思索、終わり。



さあ、現れたぞ! 今回主役の再登場だ!

旧稲核橋のアーチ橋の印象を一言で表すならば、「ごつごつ」。
現橋がカーブした長い鋼材に支えられたアーチ橋で、見た目も「つるーん」としているのに対し、旧橋は同じ鋼材を素材にしたアーチ橋でありながら、どこを観察してもアーチの“曲線”は存在しない。
旧橋はトラス状に組まれた直線の鋼材の集合体であり、その下弦材を格子で少しずつ曲げながら接続しているために、全体のシルエットがアーチ型になっているのである。
前者をソリッドリブアーチ、後者をトラスドアーチ(またはブレストリブアーチ)という。

鋼材を正確な直線と正確な曲線で作り出すのは、後者の方が遙かに技術的に高度である。
このようなことからも、同じ鋼鉄製のアーチ橋である両橋の建造時期に大きな隔たりを感じる事が出来る。
旧橋が戦前の橋であることは、外見的印象からして、ほぼ間違いないだろう。



この写真は、ちょっとした労作のつもりだ。

何に苦労したかって、そのような意図の元に築造されたわけでは無いとはいえ、結果的に旧橋の尊厳を奪うことに繋がった稲核ダムの堤体が出来るだけフレームインしないようにした。
梓川の渓谷を堂々と横断する橋の勇姿にこそ主役になってもらいたいという、多分に余計なお世話で独りよがりな写真造りに苦労したのである。

路傍の樹木に頑張ってもらって、背後の空を埋め尽くすダムを何とか隠そうとしたのであるが、これが存外に難しく、幾らか都合の悪い部分をトリミングした歪な写真になった事には、この際目を瞑って欲しい。
とりあえず、深い渓谷を渡る鋼鉄の古アーチがそこにあることは伝わるだろう。(←それだけかよ〜 苦笑)
なお、この依怙贔屓には、ダム好きの方の気分を害する意図は無い。敢えてそこにあるものを隠してまで、昔の姿を彷彿とさせる写真を見たかったという程度の意図である。
(そもそも、私はダムに批判的な立場では無い。先人たちが労を奮った土木構造物は、私の中では基本的に全て正義。思考停止シンプルな考えだ)




11:15 《現在地》

到着しました!
ここが、旧稲核橋の袂である。
特にワルイコトをせず、危険も冒さず現道から気軽に訪れられるので、珍しくオススメ出来る行程だ。

なお、上から見た時に勘付いてはいたが、ここに分岐がある。
旧道は左折だが、直進はダム直下へ続いている。この鋪装された道は高いフェンスゲートで閉鎖されているが、稲核ダムの管理用通路の一つなのだろう。
この地点まで地形図にも記載の無い旧道の轍が維持されていたのも、この通路に存在意義があるからか。
その“意義”の中に、旧橋の観賞や訪問というのもいくらかは含まれているといいなーと思う。