今回は、現国道の稲核橋からよーく見える旧稲核橋を探索した。
私はそこで梓川渓谷の自然美に包まれた錆色の旧橋や、朽葉色の旧道を堪能し、さらに旧橋が特等席である稲核ダムや現稲核橋が持つテクノロジカルな美も楽しんだ。
通行禁止でもないので、珍しく他人様にオススメ出来る旧道だと言えるだろう。
探索自体は非常に容易だったが、それでもいくつかの謎が残った。
まずは主役となった旧稲核橋だが、銘板が1枚も見あたらないため、正式な名称も竣工年も判明しなかった。
年式の古そうなトラスドアーチの姿から昭和初期の橋ではないかと予想はするが、はっきりした答えが知りたい。
そして、今回の探索で新たに発見されたのが、旧々橋のものと見られる石積みの橋台跡だが、こちらも素性は不明である。
橋台があるのだから橋が架かっていたのは間違いないだろうが、長さも高さも旧稲核橋と同程度の規模を有していたと考えられ、もしそれが明治や大正の橋だったとすると、技術的にも興味深いものがある。
さあ、机上調査をしよう!
ある程度著名な橋については、非常に便利で簡単に使える調査ツールがある。
それは土木学会が公開している橋梁史年表だ。
その検索窓に「稲核橋」のキーワードを入力してみると、いとも容易く旧橋の素性は明らかになった。
橋名:稲核橋 開通年:昭和11(1936)年 橋長:48.3m 幅員:5m 形式:鋼上路トラスドアーチ橋 製造:三菱造船(神戸造船所)
こんなもんである(どや!)
昭和11(1936)年竣工ということで、建設時期の予測は当たっていたし、橋名も今の橋と同じ「稲核橋」であった。特に驚く内容は無いが、答えが分かってスッキリだ。
そして次は“例の橋台跡”だが、これも橋梁史年表に頼っていく。だって楽なんだもん!(ちなみに家の猫の名前も楽だったりする)
橋名:稲核橋 開通年:明治17(1884)年 橋長:― 幅員:― 形式:木造刎橋 特記事項:明治初年は藤蔓橋
橋名:稲核橋 開通年:明治36(1903)年 橋長:44m 幅員:3m 形式:釣橋 特記事項:後、木造方杖橋に改造
上記2件が、旧橋よりもさらに古い「稲核橋」としてヒットした。
引用では省略したが、河川名や場所といった欄の内容が全て共通している(松本市/梓川)ので、いずれも今回の稲核橋の歴代橋とみて間違いない。
なんとまあ、ぞろぞろと出てくる出てくる古い橋たちだ。
しかも、明治17(1884)年の橋の特記事項欄には、「明治初年は藤蔓(ふじつる)橋」という表示があるから、江戸時代から既に稲核橋は存在していた。
確かにこの地を通る飛騨街道(或いは野麦街道)は近世以前からある歴史の道と聞いているが、その頃から橋もあったとは…。
ちなみに“藤蔓橋”というのは、徳島県の有名な「祖谷のかずら橋」のように、植物の蔦を編んでこしらえた原始的な吊り橋のことであろう。
そして、現地に今も石垣の橋台跡を残しているのは、明治36(1903)年架設の吊橋(釣橋)と思われる。
橋長や幅員のデータが、橋台跡の規模と符合している。
といったところで、旧橋と旧々橋の素性は呆気なく判明したのだが、流石に文字と数字だけでは淡泊過ぎる。
そこで、「安曇村誌」を紐解いてみたところ、吊橋時代の稲核橋の姿が判明した。さっそく、ご覧頂こう。
『安曇村誌』より転載。
これが、橋梁史年表に明治36(1903)年架設として記載されていた、吊橋時代の稲核橋の姿だ!
主塔は写真のフレーム外にあり見えないが、空中にアーチを描くメインケーブル(主索)に吊られた木造と思しき補剛トラスの桁が、深い梓川の渓谷を横断している。
橋の揺れを防ぐ風耐索の姿も見え、これは紛れもない「近代吊橋」の姿である。
我が国には大正時代に架けられた吊橋が少なくとも3橋は現存するが、明治時代の吊橋の現存は確認されていない。
写真は大正12(1923)年に撮影されたものだといい、写真だけでも貴重と言えるだろう。
気になるのは、この写真がどの位置から撮影されたものかだが、これについては、は橋の少し下流の左岸路上から上流方向を撮したものと推定する。
今回の探索で撮影したほぼ同アングルと思われる写真を重ねて表示してみた(画像にマウスオンでチェンジ)。
現在はダムがあるための上流を見通せず、ほとんど景色に一致点を見つける事が出来ない。
唯一面影を感じるのは、現在も残っている右岸の石積橋台の大きく突出した姿くらいだろうか。
だが、この物的証拠の他にも、次にご覧頂く古い地形図や、色々な記録を総合すると、この結論になる。
右図は、明治43(1910)年と昭和27(1952)年の地形図に見る稲核橋の周辺だ。
前者は旧旧橋、後者は旧橋の時代だが、橋そのものは同じ位置に描かれていて区別が付かない。前後の道についてもそうだ。
さらにその他の部分、例えば左の方に描かれている稲核集落などもあまり変化が無く、この一帯には昭和40年代の稲核ダム建設直前まで、日本の原風景的な山村が展開していたのだろう。
なお、先ほどの古写真を良く見ると、奥の方の川縁のやや高いところに幾つもの家並みが写っているが、旧地形図にもそれは描かれている。
この符合は、古写真の撮影位置を同定する重要な手掛かりとなった。
またこれは少し本題から外れるが、本編に登場した“土蔵”のあった辺りにも、明治時代には現在より遙かに多くの家が描かれ、明ガ平という地名が注記されている。
あの土蔵は、今や限界まで痩せてしまった路傍の集落にもかつてあった、懐かしい繁栄の遺物であったようだ。
『安曇村誌』より転載。
村誌には、大正時代に撮影された稲核吊橋の写真がもう1枚掲載されていた。それがこの写真だ。
これまた撮影地点の説明はなかったが、先ほどの写真と同様に下流の道路上から撮影したものだろう。
“引き”のアングルになっているので、橋の周囲の地形がよく分かる。
旧橋と現橋とダムのおおよその位置を重ねて表示してみた。
先ほどの写真もそうだったが、橋の下にある梓川の滔々とした流れが印象的。
神秘の上高地を源流とするこの川の年間を通じて豊富な水量は、大正時代には発電適地を求める電力会社に“発見”され、やがてダムの連鎖に谷が覆われるまで開発は続いた。
これは梓川が原始の流れを保っていた当時の貴重な写真である。
村誌は、稲核橋を含む野麦街道(=飛騨街道)における明治時代の改良を“車道の時代”であったと述べている。少し長いが、以下に引用した本文を掲載する。
なお、引用文と一緒に掲載した地図は、村誌に掲載されていた稲核周辺の古道位置図である。破線で描かれているのは古道で、明治以降の道が太い実線で現されている。
これを見ながら引用文を読むと、より理解しやすいだろう。
『安曇村誌』より転載。
明治の半ばを過ぎると、この道を手入れするだけではすまされない時代がくる。それは、牛馬にかわって運送馬車の時代を迎えるからである。
車道にするには、まず急勾配を直さなくてはいけないし、幅員も広くいる。この二点から考えて、島々―稲核間は、思案に余る箇所のみである。旧道を徹底的に改めるとすれば、明ヶ平の対岸に「大なぎ」がある。ここはいつも崩落のやまないところで、今までに多数の遭難者を出している。そのため、ずっと前からなぎ脇に小屋を建て、道の手入れ人を住まわせていた。少しでも手入れを怠ると、牛も人もとおれなくなるからであった。
工費からすると、旧道の改修は少なくてすむが、人命の危険をともなう。旧道とは別の道、つまり左岸に新道をつけるとなると、梓川をまたぐ大橋が必要となり、さらに島々―明ヶ平間の岩壁に挑まなければならない。(@)明治時代ではこれは大仕事であった。しかし、取りかかったのは30年代前半である。
稲核橋は吊橋は吊り橋にして、親線は右岸の高みに固定し、これを受ける左岸の装置は負荷重によって上下する重りを下げた。この渓谷にかかる最初の吊り橋で、中空に架かる高さもあって、近くの村々にもその名をとどろかせた。橋の渡り初めは36年であった。(A)
ともかく、岩壁の岩切りはたいへんな作業であった。掘り込みを深くすれば上からの崩落があり、浅くすれば高い石積みが必要となる。工夫しながら桟道をかけた(B)が、木組だけでは長持ちしないので、橋の維持費は増すばかりであった。
稲核橋は当時としては、思い切って上にあげたのであるが、古来の飛騨街道との段差はかなり大きく、稲核橋から稲核本郷に向かって急な上り坂になってしまったのである。橋から上の上りは、当時「馬泣かせ」、「運送曳き泣かせ」であった。(C)そして、稲核から先は、飛騨街道に沿いながら、それより下段に岩を切って広くしていった。
現地で橋台だけが発見され、橋梁史年表でも僅かなデータだけだった明治36年の稲核橋だが、この村誌の記述によって十分な肉付けがなされた。
この地に暮らした先人たちの営々たる努力が良く伝わってくる内容だ。いくつか下線を引いた文章(@〜C)があるが、それぞれ思うところがあるので順に解説したい。
@は、現在地付近に稲核橋が初架設された経緯を述べている。このうち、「島々―明ヶ平間の岩壁に挑まなければならない」とあるのは、以前レポートした「猿なぎ洞門」付近の事も指しているのだろう。
Aは、明治36(1903)年が稲核橋の初架設であることを述べている。橋梁史年表にはさらに古い明治17(1884)年の稲核橋が記述されていたのだが、これはおそらく稲核周辺の別の古道に存在した橋だと思われる。
先ほど引用した古道図に、青○で囲った「藤橋」という橋があるが、これが明治36(1903)年以前には稲核地区最大の橋であったようで、村誌にも次のような古絵と記述が掲載されている。
『安曇村誌』より転載。
藤橋は稲核村の梓川にかかる橋で、初夏の藤の花盛りになると、人々は雑司橋を見物に来て、次いでに藤橋を見に来る程の名橋であった。(中略)これが鉄線の吊橋となったのは明治年代に入ってからである。
江戸時代の飛騨街道における一名物であった稲核の藤橋は、文字通り、フジの蔓を編んだ原始的吊橋であった。
古絵の光景が一切誇張を含んでいないとしたら、とんでもない壮観であり、当時の自然の材料を生かした架橋技術の高度さは、現代の技術とは別のベクトルで凄まじいものがある。
いずれ、橋梁史年表に登場していた明治17年の吊橋や、「明治初年は藤蔓橋」とあったのは、いずれもこの藤橋のことだと思う。
ちなみに、現在この藤橋があった辺りは、全て稲核ダム湖の湖底である。
Bは、吊橋の前後の新道工事も非常な難工事であった事を述べているが、ここに登場する木造の桟橋は、先ほど掲載した吊橋の古写真の右側に、桟の横木の先端が並んでいるのが写っている。
現在ある旧道は、流石にこのような桟橋ではなく、コンクリートの路肩擁壁の上に成り立っているが、明治の道はやはり凄まじかったのである。
Cは、苦労して開通した新道も決して楽な道ではなかったことを述べている。当時、「馬泣かせ」、「運送曳き泣かせ」と怖れられた急坂だが、これも吊橋の古写真の奥に写っている。
遠くにあるから勾配が強調されているのかと思ったが、実際に相当急勾配だったようだ。
こうして、梓川渓谷に分け入る“最初の車道”の要衝として、明治36(1903)年に産声を上げた稲核橋だが、それから30年ばかり経った昭和11(1936)年に、やはり当時として最新式の鋼鉄橋へ生まれ変わる。
今度はそこまでの流れを村誌から見ていこう。
やがて、大正11年に竜島発電所が建設されたときには、奈川渡を取入口としたので、その資材運搬のため、道の大改修が行われた。
13年に奈川渡発電所の工事がはじまると、自動車は奈川渡までとおるようになり、大野川や奈川の炭などの中継所となっていた稲核が、交通の中継点としての機能を奪われていった。
大正以降、梓川の上流へ進展した電源開発が、道路の整備や改修を急速に進展させた。
この話しの流れは以前公開した「梓湖に沈んだ前川渡」のレポートで説明したので今回は略すが、大正13(1924)年に自動車が奈川渡まで入ったという記述は重要だ。
うっかり勘違いしそうになるが、稲核橋が鋼鉄製の橋に代替わりするのは、昭和11(1936)年である。
したがって、大正時代には、明治生まれの木造吊橋を、重量物である自動車や発電工事の資材などが通行したことになるのだ。
これは結構な驚きで、「マジか!」と思ったのだが、謎を解き明かす1枚の古写真を発見した!
土木学会附属土木図書館の『戦前土木絵葉書ライブラリー』より転載。
土木学会附属土木図書館が公開している『戦前土木絵葉書ライブラリー』の中に、この写真があった。
写真内の日本語のキャプションには、「(日本アルプス上高地)登山口梓川に架る稲核橋附近の風色
」とあり、先ほど引用した村誌の古写真と周りの景色を比べてみても、確かに同じ吊橋時代の稲核橋である。
でも、足が生えてるぅ〜!!
木造補剛の橋桁も、メインケーブルも、風耐索も、確かに吊橋の部品である。
だがなんとこの橋には、巨大な木造のトレッスル橋脚が、2本も付け足されている!
さらに両岸の橋台附近にも方杖状の補強材が見えており、もう橋の周りは大変なことになっている。
吊橋の下に橋脚を設置するって……
なんという、変態的な補強法か!
そういえば、橋梁史年表の特記事項欄には、さり気なく「後、木造方杖橋に改造
」と書かれていたことに後から気付いたわけだが、こんな魔改造を受けていたとは驚きだ!
改造時期の記録はないものの、この無理矢理感溢れる状況からして、大正時代の電源開発にともなう自動車対応で行われたのだと思われる。
いやはや、こいつはどいひ〜。
魔改造橋の成績は不明だが、ちゃんと昭和を迎えられたのだろうか。
村誌に稲核橋の名前が再び現れるのは、昭和の架け替え時の短い次の記述である。
昭和11年に架けかえが行われ、長野県ではじめての鉄筋ブレーストアーチ型橋梁となった。
文中の「鉄筋」は鋼鉄の誤りかと思うが、ブレーストアーチ形式とは、橋梁史年表にあったトラスドアーチ形式の別名である。
明治時代、梓川筋で最初の近代的吊橋が架けられた地点に、昭和時代に今度は、長野県で最初の綱ブレーストアーチが架設されたというわけだ。
これは本橋の重要路線としての血の濃さが伺える事実である。
この時の架け替えに関する直接の記述は村誌にもないが、背景を想像すると、まず昭和9(1934)年に上高地や乗鞍を含む北アルプス一帯が中部山岳国立公園の指定を受けている。翌年には上高地の河童橋まで乗合自動車の運行が開始し、(太平洋戦争激化までの短期間ではあるが)観光や登山目的の来訪者がどっと押し寄せはじめた。前掲のような絵葉書が盛んに刷られたのも、そうした背景があったからに他ならない。
稲核橋は上高地への関東方面からのメインルート(当時の路線名は府縣道松本船津線)にあるから、将来のさらなる交通量増大を見越して、昭和11(1936)年という時期に永久橋へ架け替えられたと考えられる。
『安曇村誌』より転載。
そして戦後、高度経済成長という時代を支えるべき膨大な電力需要は、古い電源地である梓川流域に、史上最大規模の再開発計画を生み出した。
稲核、水殿、奈川渡の3ダムを主役とした梓川再開発である。
村誌に掲載されたこの写真は、屈強な運送曳きたちのかけ声や、木橋の軋みといった懐かしさが、まだ片隅には残っていた時代の完全なる終焉を物語る。
原始以来一度として跡絶えなかった河水は、仮締切りの地下導水路へ導かれて姿を消した。
日々高くなるコンクリートの堰堤は、上流と下流の運命を永遠に切り分けていく。
かつては時代の最先端であった優雅なトラスドアーチの周囲には、我が国の明るい未来を背負った騒々しさの全てが乱暴に占拠して、懐かしむ時間も与えられない。
川の流れは堰き止められたが、時代の流れは過去のどんな洪水よりも凄まじかった。
次の架けかえは42年で、ダム工事にともなう道路の付け替え工事によるものであった。これが現在使われている橋である。
稲核橋にまつわる村誌の記述も、昭和以降は急に少なくなり、最後は上記の文章で終わっていた。
愛すべき歴史の蓄積を秘めた稲核橋の歴史概説は、以上である。
国道158号旧道中の“やり残し”を無くすつもりであった今回の探索だったが、まだ“やり残し”があったりする。
例えば、稲核ダムに突っ込んで終わっていた旧道だが、その上流側はどうなっているのか。
一旦は湖底に入り込んでいるだろうが、その先のどこかで、再び現国道と合流しているはず。
上流側の新旧道合流地点の確定と、そこから始まる上流側の旧道探索は残された課題であるが、これまで車で何度か湖畔を走行した限りでは、それらしい分岐地点を見つけていない。
いったいどこに隠れているのだろうか。
現地探索は未済だが、上流側の新旧道分岐地点の位置は、右図のように新旧の空中写真を比較することで割り出しを行った。
どうやら、稲核集落と稲核橋の中間地点辺りから分岐していたようである。
そうしてアタリをつけた場所を、グーグルストリートビューで覗いてみたのがリンク先だ。
分岐地点そのものは見えないが、中央辺りの湖畔をズームアップすると、旧道らしき段差があるような気がする。もちろんそこは廃道だろう。
ここで紹介するほどの成果があるかは分からないが、今度水位の低い時に近くへ行ったら探索してみようと思う。
(←)そしてもう一つ、現地で発見したのだが、未だに自分の中で消化出来ないでいるものが、ここにある…。
“謎の石碑”
往路ではなぜか見過ごしていて、帰路でぎりぎり発見した1本の石碑。
こいつが、かなり憎ったらしい感じでして…。
「何が憎い」って、全然読めないんですよ、これが。
文字が沢山書かれていて、現地では強い逆光のため読めず、撮影したものを帰宅後にじっくり腰を据えて読もうと思ったが、やっぱり読めないという。
多分、イライラすると思うので無理強いはしないが、チャレンジしたい方は以下のサムネイルからどうぞ。原寸大の画像を表示しまーす。
なんか最後にモヤモヤしたって?
ごめんね。この石碑の扱いに、どうしても困ったんだぜ。
多分、開通記念碑とかではなく、歌碑とかなんだと思うんだが…。もう少し光の加減がマシな時に再撮影したいですわ〜。