2015/7/14 14:07 《現在地》
案外楽に辿り着けたはしたが、それでも私にとっては9年越しの宿願叶う、
旧柴崎橋左岸橋頭への接近である。
しばし呆然と見上げ、見つめていた。
そして、今一番に思い出せるのは、なぜか橋の姿の印象より、
阿賀川の水面を流れる風の信じられないほどの涼しさと、
ちゃぽんちゃぽんと足元に鳴る可愛らしいさざ波の音である。
ああ――、 これは幸せな時間。
遠目に見る限りは、「優雅」という言葉が最も相応しい旧柴崎橋だが、
こうして近付いて視界いっぱいに広げてみると、
全長150mの巨大廃橋に相応しい鬼気迫る圧迫力に、思わず口を封じられる。
なお、橋端部が宙ぶらりんになっているのは、
橋台が流失したか撤去されたかで失われたことによるのだろうと思うが、
その状態で長く保っているというのは凄い事だ。
宙ぶらりんの橋、凄くドキドキします…。
遠くから見てもその大きさが感じられる、2連続トラスの端にある橋脚は、やはり間近で見ると際立って印象的だった。
とにかく大きく、そして重そうだ。
本橋には二つとして同じ形の橋脚が存在せず、全部違った形をしているが、この橋脚が際立って大きい。
その大きさは、その辺の一軒家に匹敵すると思うし、もし川の水を全て涸らして地面から眺めたら、ビルディングのようであろうとも思う。
この川が涸れる事は無いので、もう夢の中でしか見られないのが残念だ。
形態としては、典型的な重力式橋脚である。
戦隊ものに喩えるなら(?)パワータイプの戦士だ。
とにかく自分自身の重さを武器に、どんな外力の作用にもびくりともしないタフさを発揮する。
寿命は、おそらく古代遺跡クラスに長い。千年後も立ってると思う。
ぶっちゃけこれは私の勝手な評価だが、このクラスの巨大橋脚は、橋脚というより川の中に築かれた島である。いわゆる人工地盤。めっちゃ強い!!頼りになる!
ん? これなんだ?
木造橋脚の跡?
さすがに華奢すぎないか?
そもそも、従来の私の考えだと、ここは橋台のあった場所で、橋脚が有るのは予想外なんだが…。
それに、目の前の巨大な橋とのギャップが大きすぎて、この木造橋脚の基礎らしきものを即座に本橋の一部とは認めがたい。
しかし位置的にはちょうど本橋の延長線上にある。(ちなみに、本橋に木橋の旧橋があったという話しは聞かない)
仮にこれが本橋の一部である橋脚跡だとしたら、コンクリートの桁に木橋が連接していたということになるのか。
またその場合、橋脚の華奢さや幅の狭さから見て、かなり低い木橋だったと思われる。
2006年の橋上探索で、端部から見下ろして撮影したこの写真にも、良く見ると同じ木造構造物が写っていた。
見た記憶は無かったが、単に忘れていただけらしい。
手を伸ばせば届いてしまいそうな橋端部。
梯子でも持ってくれば、ここから橋に乗り込む事が出来そうだ。
まあ、それを立てる場所が水中なので、深さや地形が分からない怖さがあるのと、間違いなく濡れるだろうが。
私は今から9年前に、この端部からこちらを見下ろした。
その時は余り観察をしなかったが、こうして改めて眺めると非常に興味深い形をしている。
こんな変わった形をした橋の端部を見たことがない。
そもそも、こんな途切れた橋の端部を見ること自体が稀なのだが、それでもこの端部が普通の形で無いことはよく分かる。
一番驚いたのは、桁が左に傾斜していることだったが、それは本来の形状とは無関係なので置いておくとして、桁の端にあまり深くない切り欠きがあるのが気になる。
これって、直前に見た木造の橋脚跡らしきものと符合する発見なのかもしれない。
つまり、この部分に木造橋の桁が乗っていた?
厚みがなさ過ぎるようにも思うが、その点は床版の工作で調整できるだろう。
これが橋台に接する部分だったとしたら、切り欠きの存在理由を説明出来ない。
また、両端の下部が舟形に切られているのも、通常この部分は直角で良いと思うので、不思議だ。
なぜこうなっているのかは全く分からないが。
2006年の橋上探索で撮影した橋端部の写真。
下が舟形になっている部分の上面は、このようになっている。
まるで親柱を置いてくれと言わんばかりだが、正体は不明。
また、路盤の上にも別の路盤のようなコンクリートの残骸が重ねられていたのだが、これまたどこからもたらされたものなのか、なぜこうなっているのか、正体不明である。
巨大な構造物が故障によって不用意に傾斜していることの、何とも言い表せない気持ち悪さ。
私が生まれて初めて橋を見る幼子ならば、こんな事は思いもしないに違いない。この手のものは直立が当然と理解しているからこそ、もの凄い違和感なのである。
こうした違和感や気持ち悪さは廃橋の醍醐味だが、本橋の本来の姿を知る上では、これが最大の障害になってしまっている。
本橋のシルエットにおける最大の特徴といえる、左岸部の傾斜したコンクリート桁は、この橋脚の故障による傾斜なのか、それとももともと傾斜した作りであったのか。
今まで解くことが出来なかったこの謎を、なんとか現地調査で解き明かしたい。
(もちろん、机上調査で明らかになるならばそれが確実なのだが、今のところ当時の写真が未発見なので現地調査に頼らざるを得ない)←(橋の規模や往時の重要性から考えて、絶対に誰かは写真を撮影しているはず。それが出てくれば一発で疑問解決なのである。地元にお知り合いがいる方はぜひ確認を。私も町役場に問い合わせてみようと思います。)
あ、これは。
……分かったかも。
これはやっぱり、元から傾斜した桁だったんじゃないか。
コンクリートの橋桁は、それを支える橋脚に接する辺りが緩やかに膨らんだ形をしている。
この形状自体は珍しいものでは無いのだが、そこに注目してみたい。
まず、現状では橋脚が明らかに下流方向へ横倒しの傾斜をはじめているが、その量はまだそんなに大きくはないので、ここでは橋脚が沈下しているかどうかについて考える。
ずばり、この橋桁と橋脚の接触部(支承という)の状況を見る限り、まだそれほど大きな沈下は起きていないと思われる。
仮にコンクリート桁が、元はトラス桁と同じ高さで水平に架かっていたとすれば、もう3mくらいも沈下したことになる。
だが、そんな大きな沈下が起きても、橋桁はびよーんと伸びたりはしないので、橋桁は橋脚の上から河心の方向へずれていくはずだ。
計算上、支点から10mの地点が真下に3m沈下すれば、支承の位置は45cmくらいずれるが、現状ではそこまで大きくずれた形跡は見て取れない。
文章で説明しても分かりにくいので、図にしてみた。
橋脚が真下に沈下したと仮定すれば、橋脚と橋桁の接する位置はずれていく。
だが、現状にはそれほどのズレが見られない。
もちろん、橋脚が河心方向に移動しながら沈下すればそうはならないが、その現地での確認はちょっと困難である。
また、橋脚がどのように沈下したにしても、支点付近では橋桁の「浮き」が生じるはずだが、2006年の橋上探索の記憶にそんな場面はなかった。
そうした事から考えて、このコンクリート橋に大きな沈下は起きていないと見られる。つまり、最初から傾斜していたと思う。
2006年の橋上探索で撮影した傾斜桁の写真。
仰ぎ見るトラスの迫力に意識を持っていかれ、この傾斜が初めからなのか後からなのかを考察した記憶が無い。
しかしいま写真を見返す限りにおいては、最初から傾斜していたように思われる。
(雪国の橋としては、この傾斜は急すぎる気もしないでも無いが…)
ごめん!
やっぱり、よく分かんない!!
ここに来れば橋の傾斜の謎は簡単に解けるだろうと高を括っていたが、案外そうでもなかったです。
現地調査での私の結論としては、「コンクリート橋の部分は初めから傾斜していた」ということにするが、それは何か決定的な証拠があって言うわけではなく、いくつかの仄かな根拠をかき集めて、その可能性が高いと結論付けたに過ぎない。
でも、これ以上見た目の印象だけであーだこーだと書いてみても、最終的に1枚の古写真が出てくれば解決する問題なので、現状ではもう詮索を止そうと思う。
(もちろん、皆さまなりの考察は大歓迎である。是非聞かせて欲しい)
それよりも、大切な事もある気がする。
いまこの場所に立っている!
こんなに優れた廃景を独り占めにしてることを、ゆっくり味わわなきゃ損でしょ!
あの橋上に引っ掛かった流木の突端に立ったら、世界が変わったりするかなー?
あの松の木、2006年にももちろんあったけど、先の洪水を本当によく耐えた。
だって、トラスの上にあんな巨大な流木が引っ掛かっている状況だぞ。
この松の木なんて、ほとんど天辺まで水没していたはずなのに、流出してしまわなかったばかりか、
それから3年経って青々と育っている。この頑張りには、「もうこの橋はお前のものだ」と言ってやりたくなる。
私より長生きして、きっと巨木になるんだぞ。
そのそも、周辺にあまり見られない松の木がここにポツンと生えていること自体、
鳥が運んできたのか、或いは洪水に運ばれてきた種子が奇蹟的に根付いたのだと思う。
風の音、水の静けさ、蝉の声、夏の廃鉄橋。
傾斜桁の謎を完全に解き明かすことは出来なかったが、良い思いをした。
やはり、橋は渡ってみるだけでは十分に味わったとは言えないようである。
それにしても、実はこの橋って完成当時は凄く高かったんじゃないだろうか。
この500m下流にある上野尻堰堤は高さが30mあるが、このダムの完成によって
ダム地点の阿賀川の水位が15mくらい上がったものと考えられる。
旧柴崎橋の架橋地点でも10mどころではなく水位が上がっているだろう。
だから、あの川の中央に立っている橋脚なんて、多分水中にいま見えている倍以上の高さを秘めていると思うのだ。
なんか、それと想像するとゾクゾクしないか?
また、本橋がこのように水上高く架け渡された理由は、両岸の地形によることが大きかっただろうが、
本橋の架設が決定された昭和8(1933)年当時は、まだ阿賀川には舟運が幾らか残っていて、
その便を考えたのでは無いだろうかとか、色々と考える事も出来る。
いずれこの巨大なトラスが威容を現した当時、まさかこんなに川の水位が上がって、橋に流木が引っ掛かる日が来るなんて
夢にも思わなかったことだろう。川は永遠に流れ続け、橋もまた半永久に活躍すると誰もが信じたと思うのだ。
先の事は、分からない。
あの超巨大な重力橋脚でさえ、なんか微妙に傾きはじめている気がする…。
旧柴崎橋がここに在り続けることの意味も、私の中で変化している。
最初はこれを渡ることを「征服」と考え、実際に血眼になって実行した。
次に来た時には、その古い姿を探し求めて思索を巡らせている。
今もまだその続きをしている。渡ったから探索が終わったわけでは無いのである。
こうして何度も訪れたいと思う場所には、本当の魅力があるのだと思う。