ミニレポート 第105回 国道46号 水沢旧道

所在地 秋田県大仙市協和 
探索日 2006.04.16
公開日 2006.08.04

地図が教えてくれた旧道


 一般国道国道46号は秋田市と盛岡市を結ぶ、本州で最も北にある列島横断2桁国道である。
昭和38年に、それまでの2級国道105号から、一級国道46号に昇格し、この路線番号を得た。
46号といえばなんといっても県境の仙岩峠が第一であり、その存在が大きすぎるためか、全線約100kmの道中にあるその他の旧道にはあまり触れてこなかった。

 今回は、秋田県大仙市協和境(さかい、旧協和町境)と仙北市角館(旧角館町)の間に残る旧国道を紹介しよう。
ここは意外に謎の多い旧区間である。



            (国土地理院発行 5万分の一地形図 刈和野より転載)

 読者の皆様は、机上にて廃道を探すとき、どうしておられるだろう?
新旧の地図を見比べるというのは、やはり常套手段だと思う。
今回の旧道もまた、そのような地道な作業の中で発見されたものである。
発見する以前から現道の方は繰り返し通っていたのだが、地図で確認するまで旧道の存在を知らなかった。
いかにも旧道がありそうな場所というのはあるが、ここはそんな場所ではなかった。
だが、地図は何よりも雄弁に、そこに消えた道のあったことを教えてくれたのだ。

 前置きが長くなった。上の地図を見比べていただきたい。
大正初期の地形図には描かれている山越えの丘陵の道が、昭和42年度版では点線に変化している。
半世紀以上の年月を開けており、このような路線の変遷は珍しくもないのだが、この改廃が特に目を惹くのは、一見したところ、旧道の方が優れた線形に見えると言うことだ。
左右の地図を入れ替えて、どっちが新しい道かと問われれば、私などはおそらく左を近年のバイパスだと答えるだろう。

 もともと藩政期までこの道は繋街道と呼ばれ、現在の国道46号と同様に、秋田(久保田)と盛岡(南部)を繋ぐ最短ルートという性格が強い道であった。
また、沿線には荒川鉱山をはじめ、古くから複数の金属鉱山が開発され、鉱山(ヤマ)の道でもあった。
古代よりあったらしいこの道が、近年、特に大正期にどのような改修を経て県道に指定され、やがて国道に昇格していったのかについては、残念ながら資料に乏しい。
目立つ山越え区間というわけでもなく、余り人々の記憶に残ることもなく道は変遷していったのかも知れない。

 今回の探索対象は、線形的には現道よりもすぐれているように思われる大正以前の旧道である。
4月中旬のある雨の日、私は現地へ向かった。





 左の地図の「出発地点」から、旧道を西へ向けて進むことにする。

 右の写真は、現国道からの入口だ。
水沢集落のなかにあり、今までは特に意識をしたこともなかった、何の変哲もないT字路である。
とくに案内標識などもない。



 左に折れると、真っ直ぐ車道が続いている。
入ってすぐの場所から、右に広域基幹林道の沢内水沢線が分岐していく。
道幅は結構あるが、旧国道という雰囲気ではない。
鋪装にも、かつて多くの車を通してきたような轍は見られず、しがない生活道路にしか見えない。
そもそも、この日は朝から雨が降り止まず、平凡な景色にテンションは嫌が応にも下がる。



 数軒の民家を過ぎるともう集落は終わった。
現国道に沿って細長い水沢集落の形からは、現国道こそが古来からの街道筋だったのではないかという推測が出来る。
むしろ、いま私が辿ろうとしている旧道は、明治か大正の頃にそれまでの道を改め、新しく丘陵地を切り開いて作られた道なのではないだろうか。 集落同士を結んで自然発生的に伸びたと思われる古来の道にしては、あまりに不自然な直線道路が、地形図に描かれたとおり続いていた。



 当時の地形図には、この区間に2つの橋が描かれているが、一つ目の橋はコンクリート製の普通の橋に取って代わられていた。
橋を過ぎると、こんどは下ってきたのと同じだけ登らされる。
真っ直ぐなので、余計に疲れる気がする。



 そして、河岸段丘を登り切ると、道は二手に分かれた。
左の道は最近の地図にも描かれており、国道へと戻るようだ。
目指す道は直進であるが、ここから雲行きが怪しくなる。
鋪装が途切れた。



 ときと場合によっては、たぶん人に感動を与える景色っぽい。
でも、この鈍色の空の下、大粒の雨を全身で受けながらとあっては、どんな景色も寂しく、冷たいものに見える。
左手の広大な水田の向こうには、巨大な畜舎の屋根が連なっているのが見えた。
道は、それらに構わず、真っ直ぐ続く。



 田んぼを過ぎると急に路面の轍が頼りないものに変わった。
数週間前まで厚い雪の下に隠されていただろう路面には、昨秋の枯草がプレスされて押し重なっている。
一目見て、夏場にはかなりの薮に変わっていきそうな道だ。
今見えている轍にしても、最近は車が通っている感じではない。
或いはもう廃道なのかも。




 地形図でも途中になだらかな峠が描かれているが、この無名の峠がそれである。

 浅い掘り割りの幅は想像以上に広く、明らかに人工的な、しかもそれなりの土工量を持って施工された道の印象だ。
仙岩峠へと接続する県交通の要路と考えられていたこの繋街道は、明治期には既に秋田県によって県道指定を受けていた。
その県道秋田盛岡線が、大正を経て、昭和28年の二級国道105号指定へと繋がっていくのである。
おそらく、大正頃に車も通れるようにと新設されたのがこの道の正体ではないだろうか。



 ゆったりした峠の前後も、道はただ真っ直ぐである。
しかし、残雪の量が一挙に増し、チャリではこれ以上前進できなくなった。
時期的にも、そして雨のせいもあって、残雪は緩みまくっている。
私は何度も雪の表面を踏み抜いてしまい、その都度立ち往生を強いられた。
濡れ雪がこれでもかと言うほど靴の中を占領する。



 ぐおーー!
埋まる! 埋まる〜!

何度か腰まで嵌って転倒したのは、内緒だ。
雨の日に雪遊びとは、手持ちのカメラがもし「現場監督」でなければとっくに死んでいたろう。
ただ、現場監督(DG-5W)はレンズカバーがないので、水滴がもろ写りに影響するのが玉に瑕である。


 前方から沢音が聞こえてきた。
下草も木々の纏う葉っぱも無いこの時期は、砂漠とまでは行かないが、とにかく地形の見通しは最良。
峠からゆったりと下ってきた道は、間もなく低地の底にたどり着くようだ。
そこには、橋の存在が擬定されていたが、航空写真を使った事前調査では発見できなかった物件であり、今回の探索の第一目的地でもあった。

 果たして、 橋は現存するのか!?



 航空写真にもこれは写っていた。
橋のすぐ上流にある砂防ダムだ。
雪代と豪雨のせいで水量がもの凄く多い。
あんまり青が濃いんで、ちょっと怖い感じがする。

 え?
橋はどうしたって? もったいぶるなって?

‥察してくれよ。
先に砂防ダムの写真を紹介したその気持を‥。



 橋は、すっかり消滅しておりました(がっかり)。

 でも、これはこれで、通り一遍ではない廃道光景ではある。
というのも、ここまで腐ったコンクリートというのを、これまで見たことがなかった。

 対岸にある、最初は岩場だと思っていた部分が、実はコンクリート製の橋台だったなんて、信じられる〜?



 ほら、これ。一応コンクリートでしょ。

 にしても、酷い有様だ。
朽ちた、などという表現では手ぬるい。
コンクリートも、元を正せばただの土塊だったのだと思い出させる。
橋台の特徴的な構造ももはや見いだせぬほどに滅びているが、両岸に同様の構造があることからも、これが橋の残骸であると見て間違いなかろう。
航空写真が撮影された昭和50年頃にはもう、橋は落ちていたのだろう。



 さて、道は対岸へ続いているはずだが、砂防ダムを利用して渡らせて貰う。
だが、これはちょっと怖かった。
一度降りたら、登って来れなくなるような怖さが。
特に、水路の縁の斜面がえらく苔生しているのでね。
まあ、最悪登れなくなったら池に飛び込めば脱出は出来そうなので、行くっきゃないでしょ。



 ダム上から下流の橋台跡を見る。
これは私が最初にたどり着いた、左岸の橋台。
明らかに突出した橋台なのだが、おそらく夏場などは完全に緑に覆われているだろう。
袂にたどり着くことさえも相当に難しいと思われる。

 この橋台にどんな橋桁が乗せられていたのか。
砂防ダムの建設に伴って残骸が整理されてしまったとも考えられる。
普通のPC橋や木橋だったとしたら、この径間で橋脚無しというのはちょっと無理がある気もする。



 ここは、助走を付けて、一気によじ登った。



 右岸の袂に着いたが、そこは左岸の道よりもさらに道らしからぬ光景になっていた。
残雪の下には一面の笹藪である。
付近にはトタン屋根が散乱しており、もともとは取水ポンプ小屋でもあったのかも知れないと思う。
結構急な上り坂で沢を離れていく。
でも相変わらず道は一直線だ。



 おいおい、ここは道じゃないのかよ。

 驚いたことに、道の延長線上に。
というか、道の跡に砂防ダムが増設されていた。
これでは誰も通れないわけだ。



 さきほどまでの、痕跡だけは立派だった道の続きとは信じられないほど、道としての体裁を失ってしまった右岸の道。
この砂防ダムも、けっして最近のものでは無さそうだ。

 地形図の年次による変遷を見ていくと、大正元年版ではこの道がしっかりと描かれているものの、大正末期から昭和初期の版では既に、現在の国道のルートが同じ太さで描かれるようになる。
そして、やがて冒頭で見せたとおり、この旧道は点線になってしまうのだ。
ちなみに、現在の地形図にも一応点線で描かれているが、現実には私のようにかなりイレギュラーな通り方をしなければ通れない状況だ。
橋など何十年前に落ちたのか分からないし。
ちゃんと点線の道でも改廃してよね!国土地理院さん!



 砂防ダムの上には当然、池でもあるものと思えば、別に何もない。
ただ、湿地のようになっているのみ。
で、そこもかつては道だったはずであり、信じて真っ直ぐ進んでいくとやがて、道らしさが戻ってきた。
行く手には杉の林が一列に切れ込んだ部分があり、あそこへ続いているのだろう。



 脇から作業林道が寄り添ってきて、廃道区間が終わる。
峠からここまでの廃道区間は、700m程度だった。
消えた橋の前後の区間が、やはりいちばん自然に還ってしまっていた。
この先現国道までは林道扱いの現役路になっているようだ。
ここからは再び、浅い掘り割りの道が始まる。



 林道以上の道幅で、真っ直ぐ続く道。
よく見ると、路傍には杉の植林に混じって、等間隔に大きな松の木が生えている。
この周囲では松は珍しく、並木として植えられたものかも知れない。
ここがかつては重要な道路だったのだという確信を、より強くさせた。



 誰からも顧みられなくなり、伸びるに任された松の木。
雑然とした枝振りには、退廃した街道の侘びしさを感じずにいられない。



 まもなく、高速の車が行き交う現国道にぶつかって、旧道は終了となった。
しかし、これまで気がつかなかったが、こうしてみると、いかにも新旧道の分岐地点らしい三叉路ではないか。
特にここから眺める旧道などは、ちょっとした杉並木のようで美しい。

 旧道区間の総延長は1.8kmほど。
チャリでは乗り越しが出来ず、結局私も引き返す羽目になった。
景色的な派手さはないが、道の変遷について推理力を働かせて楽しめる物件だ。
この旧道の真の正体については、今後も地道に調べていきたいと思う。