2007/10/21 9:40
起点から1kmほどの地点で、県道はあっけなく未舗装となり、と同時に一般車通行止となった。
だが、とりたてて物理的な封鎖は無く、そのまま進むことが出来る。
道は再び勾配を強めて、ススキが茂る原野を直線的に登る。
ちょうどこの地下には上越新幹線の浦佐トンネルが貫通しているが、地上にはそれと分かるものはない。
100mほど登ると、今度は杉の植林地へと入る。
杉の植林地に入ると再び勾配は緩やかとなり、走りやすい。
林の地面をよく見ると、至る所に小さな平場がある。平場同士は段々となって繋がっており、どう見てもかつて田畑か、或いは村落のあった跡のように思われる。
人のいなくなった村や田畑を植林地として再利用することは多く、この場所にもそんな歴史がありそうだ。植えられた杉がかなり成長しているので、半世紀くらい昔だろうか。
杉の林をひとしきり走ると、また広い場所に出た。
T字路のようであるが、左は車の転回場所として使われているだけで、奥に道の気配はなかった。その方向の先には、浦佐国際スキー場のゲレンデが広がっていた。
結局ここも一本道で、右へ進むことになる。
そこには、二度目の警告文が。
危険! 入山禁止
岩山区長
ここまでは別に危険な箇所は見あたらなかったが、いよいよ車の轍が薄くなってきた。
ここまで、「谷」というものを全く意識せずに登ってきた道だが、ここで景色が大きく変わる。
はじめ前方に現れた大きな谷が、すぐに我が進路を取り込んでしまった。
道幅も極端に狭まり、もはや普通車では恐ろしくて通行できまい。軽トラだって怖い。
この谷は信濃水系魚野川の小さな支流で、地形図にも名前はない。
本県道が本来越えるべき鞍部は、この谷の谷頭部分である。
地図上でわずか数キロの小谷と侮っていたが、思いの外、深く浸食されているようだった。
豪雪地故か。
このように、谷はかなり切れ込んでいる。
路肩など有ってないようなもので、まだ微かに轍の形は残っているが、最近は全く通られていないようだ。
この時点で、いよいよ廃道ということを意識した。
それにしても、どうせ行き止まりであるなら、藪にまみれたようなウダウダな終わり方になってほしくない。
スパッと、そこが終点だと分かるようなものを期待したい。
最後の立て札のあった地点からまだ100mほどしか来ていないが、景色の変化の激しさに驚かされる。
対岸に現れた巨大な一枚岩。
地形図には土崖の記号で示されているが、それは誤りだろう。
この巌の麓にある集落が、「岩山」であった。
地名の、最も素朴な発生の場面を見たようだ。
対岸の岩盤に近づくすべはない。
谷底からほぼ垂直に迫り上がり天辺までの高さは50mで利かないかもしれない。
ここが大きな渓谷ならばそれほど驚きもなかっただろうが、下にあるのは水音さえ聞こえないような小さな流れだし、そもそも丘陵と名前が付いている山域の、いわば里山気分で入り込んだ場所に、こんな豪快な岩場があったとは。
そして、我らが県道にとっても、この岩山は決して“対岸の火事”などではなかった。
…お宝の出現だ。
対岸に岩山をやり過ごし、我が道の行く手を見通す。
するとそこには、私が全く期待していなかったものが見えていた。
「おおー。」
私は抑揚のない歓声を独りごち、それから目に映ったものを確かめるべく、前進を再開した。
喜びは、近づくにつれ確信へと変わっていった。
片洞門だ!!
これは嬉しかった!
9:49 【現在地:片洞門】
谷場の岩を道の形に刳り抜いて作られた半隧道の道路。
このようなものを指す固有の「道路用語」はないのだが、同様の構造として全国的に最も著名で規模も大きい山形県小国町の“綱取片洞門”に倣い、「片洞門」と私は呼んでいる。
これまでに私が見てきた「片洞門」の中でも、これはかなり高ポイントといえる!
片洞門の評価のポイントとしては、まずは路上にどの程度の“張り出し”が有るかと言うこと、そして張り出した部分がどの程度まで円弧を描いているかという点だ。これに次いで長さが評価の対象となろう。
そのうち、張り出しの量については申し分ない。完全に道幅の全てを屋根が覆っている。また、円弧も十分に美しい。
片洞門は見ての通りのオーバーハングであるから、常に強く重力の攻撃を受けている。
すなわち、常に崩壊の危険をはらんでいるのであって、また道幅も極端に狭くならざるを得ないから、現代まで車道として生き残っているものは限られる。
健在であっても、その殆どがコンクリートの吹きつけなど、何らかの補強工を受けている。前出の綱取片洞門にしても、現在は車道として使われてはおらず、しかも拡幅改良や崩壊のために本来の形からはだいぶ後退している。
今も(一応は)現役の県道であるこちらの片洞門は、全くの無名ではあるが、大変に貴重な存在と考えられる。
そして、片洞門だけでも十分嬉しいのに、それに輪をかけて感動したのが、片洞門の片隅に納められた小さな石仏の存在である。
いかにも素朴な作風の小さな石仏。
風化が進んでいるが、胡座をかき手を合わせた、穏やかな表情の仏様が陽刻されている。
文化財級だなどと言うつもりはないが、本来あるべき場所に、有るべき姿のままに置かれている。
それが嬉しいのである。
綱取の片洞門にも、やはり石仏が備えられていたことが思い出される。
片洞門をくぐると谷はさらに狭まり、急激に谷底が近づいてくる。
そして、まもなく道路との高低差は微少なものへと変わる。
谷に入ってからも道路はずっと登りであるが、それよりも遙かに速いペースで谷が登ってきたのである。
いよいよ谷に追いつかれてしまった道だが、追い立てられて更にキツイ登りになる予想に反して、変化はない。
むしろ、行く手には妙に広々とした空が見えている。
再び景色の大きな変化を予感しながら進んでいくと、左手の最後の崖が崩壊し、巨大な岩を路上にいくつも散乱させて塞いでいた。
苔むした岩塊の様子からは、崩れて10年以上も経っていることが感じられ、道は長年にわたって顧みられていないようだ。
9:53 【現在地:カクレザト?】
険しい峡谷の道を登っていってたどり着いた場所は、山間の小盆地だった。
熊手状に三方へと伸びた小さな支谷の底が、小さな平野部を作っていた。
素人目にも、古い時代に下流で谷が塞がれたために泥が堆積して形作られた地形なのだと分かる。
岩山が崩れて天然のダムが出来、そこが長い年月の間に埋もれてこんな風になったのだろう。
そこはまさしく、下界からはその存在をうかがい知ることの出来ない、隠れ里のような場所。
この不通の県道のほかには、一切たどり着く道のない、末端の地である。
振り返れば、今越えてきたばかりの崩壊した岩山がある。
度重なる路肩の決壊と、土砂崩れで、ついに山間の小盆地は見捨てられてしまったようだ。
逆に言えば、以前はここにも人が暮らしていたようなのだ。
そんな痕跡が、この谷間には随所に見られた。
道は右手に平坦な谷底を見ながら、山裾に沿って更に奥を目指しているが、この一角にコンクリート製の路肩工があった。
石垣ではなく、何の面白みもないコンクリートの壁である。
しかし、私にはこれも妙にいとおしく感じられた。
きっと、この右手の雑草が生い茂る場所は、当時村の大切な田んぼだったのだろう。
だからこそ、道路が崩れて田んぼを埋めてしまうことを嫌って、ここに護岸が築かれたのだ。
この場所へ来る途中の谷間の道には、いざ崩れたときに人命に関わりそうな場所がほかに何カ所もあったのに、あえてこの何の変哲もない場所が、コンクリートで補強されている。
…最難所であっただろう「片洞門」の通過の安全は神仏に頼っていた村人達も、自分たちの田畑を守る事については、実力を行使したのだ。
敢えてこう書かないと伝わらないだろうから書く。
国道17号と分岐する県道の終点からこの隠れ里のような場所まで、その距離はわずかに2.5kmに過ぎない。
わずかな距離を山中に分け入っただけで、こんなに下界と隔絶されたような景色に辿り着いたのだ。
しかも不思議なことには、ここへ入ると同時に出発時の雨がすっかりあがって、頭上には澄んだ青空が広がった。
局地的な晴れ間?
南西へ向かって船底型の谷がずっと続いている。
道は終始その右岸を、よろよろと軽トラサイズの道幅で続く。
一部には砂利が敷かれていた痕跡もあるが、殆どは地道である。
まだ、車の轍もわずかに残っている。
人家のようなものは全く残ってはいないが、地形的にはおそらく数軒の家も有ったと思われる。
現在の地形図では名前の分からない集落だ。岩山の奥の隠れ里だ。
隠れ里へ達して300mほど進むと谷は西へとカーブし、三本の支谷を扇状に広げた。そして、その中で最も中よりの谷を市境である稜線へぶつけて終わっていた。
谷の最後まで船底のような地形は続いており、古くは田畑として開墾されていた可能性がある。
しかし、もはやそこには道がつけられておらず、背丈よりも高く密集したススキや灌木によって、完全な「不通県道」が作られていた。
尾根の部分を拡大。
何となく、鞍部に掘り割りのようなものが見えるような気もするが、そこへ行く道は、少なくともこの時期見あたらない。
また、この尾根を仮に越えたとしても、向こうの旧堀之内町(魚沼市)側に道が迎えに来ている可能性は低い。
まだ直線距離で3km以上は、道無き山が続いていると思われる。
魚沼市側は今後の課題である。
今日のところは、これにて撤退である。
車道跡の末端部分。
左手から流れ込む小さな支谷を越えられず、2mほどの落差をもってブツッと終わっている。
傍らに、かつて引水していたビニルパイプの残骸が残っていた。
右の写真は、すぐに諦めきれずに、単身となって少し稜線方向へ水流の中を進んで振り返ったもの。
転がっているチャリが見える。
藪を払いのけ、長靴パワーに任せ浅い沢を遡行する。
タランチュラのような巨大な蜘蛛が大量に棲んでいて、私は朽ち木の棒を手放せなかった。
10m20mと進んでいっても、全く道の再開はなかったが、所々にビニールシートの残骸であるとか、肥料の袋の切れ端であるとか、やはりこの谷にも人がいた痕跡はある。
結局、12分をかけて100mを前進したが、そこでもまだ稜線は遠く、しかも藪が深くなりすぎて見通せなくなったため断念した。
午前10時13分、県道387号吉水大和線、終点側末端部を確認。
【地図1 地図2】
下りは、荒れた道とはいえあっという間に下界へ戻る事が出来た。
わずかな距離なのである。
写真は、帰りに撮影した片洞門。
私は傍らの石仏に一礼し、この石門をくぐると、空はにわかに曇り始めてきた。
車に戻った頃には、再び雨がポツリポツリと落ちてきたのだから、偶然とはいえ不思議さを感じた。
この県道、ミニレポにするには個人的には惜しいと思った好物件であった。
非常に短い距離の中に、2車線舗装路、1車線舗装路、砂利道、ダート、廃道が詰まっている。
さらに、橋やトンネルは一本も無いくせに、立派な片洞門だけがある。
片洞門の存在は地形図から全く読み取れないから、発見したときのうれしさは大変なものだった。
チャリならではの機動力を生かして怪しげな道を突き詰めるという楽しさが、ギュウと凝縮されたような道だった。