※このレポートは、ミニレポ第139回の続きですので、先にご一読下さい。
2008/5/4 7:17
【現在地(マピオン)】
関東地方と東北・会津地方を結ぶ幹線である国道121号は、日光市北部の五十里(いかり)湖で、その両岸に分かれた後に再びひとつに戻るという経路を持っている。
案内標識にあるとおり片方は旧道なのであるが、平成16年に新道が全線開通してからも国道の指定を外されていない。
そしてもちろん、問題無く通り抜ける事も出来る。
そして南から来たとき旧道の入口になるのが、この優美なアーチのシルエットを誇る橋である。名を海尻橋という。
橋長117mの婉美な単スパンで、真っ青な水を深く湛える五十里湖を跨ぐ海尻橋。
四季折々の山河に見事に溶け込んだその姿は、通行する者だけでなく、現国道を素通りする者の目を楽しませることさえ惜しまない。
まさに、国道121号の旅を魅力的にする名脇役として、私の心には深く刻まれた「名橋」である。
この橋の前では、形式がどうとか、竣工年がどうとか、そういう堅い話はどうでも良いとさえ思えるが、五十里ダムの完成を翌年に控えた昭和31年に、ランガートラスという珍しい形式を纏って誕生したものである。
さて、今回紹介する廃道は、この海尻橋を渡った先に待っている。
前回紹介した、謎めいた名前を持つ4本の橋の原点も、そこにある。
海尻橋。
名は、この場所の古い地名に由来する。
そして対岸は五十里湖に突き出た小さな半島であり、
そのわずかに高まった頂上を布坂(ふさか)山という。
橋を架けてくれといわんばかりの地形とは、こういうものを言うのだろう。
これは海尻橋のうえから見た上流の眺め。
現国道にある、謎めいた名前を持つ4本の橋が、横並びに見えている。
下流側から順に、六左夢見、六左海切、六左夢跡、六左見送の名を持つ4橋である。
いずれも平成のバイパス工事によって誕生した新しい橋であり、名前は意味ありげではあるが、
特に親柱の小さな銘板に注意して走らない限り、その名前がドライバーによって気付かれる事もない。
事実上、走行中に橋の名前を認識できるドライバーなど、ほとんど皆無であろう。
それは道路管理者が我々に投げかけた、秘密の謎かけのようだ。
五十里湖の左岸も直角カーブになっており、道路構造物に引っ張られていた当時の線形設計が如実に表れている。
しかし直角カーブの外側に大きな膨らみが設けられている辺りには、幹線道路としての矜持を見せてもいる。
現国道とは桁違いの静けさに満ちた旧国道を橋の袂から数十メートルばかり進むと、ひとつの分岐が現れる。
7:21 【現在地(マピオン)】
旧道の左へ分かれる、緩やかなスロープ。
その入口には定置された頑丈なバリケードと、元の色が分からないほど色褪せた案内標識が残っていた。
“白看時代”の遺物と思しき案内標識を苦労して解読すると、このように「五十里湖展望台東武観光センター五十里湖店」と読み取る事が出来た。
その下で通せんぼしている鋼鉄のバリケードは、もはや二度とどかすつもりがないという事を感じさせる重厚さだ。
また、その周囲には一年生の雑草だけでなく、灌木がいよいよ育ちつつあった。
そして結論から言うと、懸案である“六左の秘密”は、この先に隠されていたのである。
この道が廃止された時期ははっきりしない。
しかし10年プラスマイナス5年の間かと思われる。
道自体は掃除と除草をすればすぐにでも利用を再開できそうな状態で、旧国道を法下に見ながら緩やかに上り続ける。
海尻橋の正面に見えた布坂山を上っているのである。
道幅は1.5車線程度か。
100mほど登ると、左カーブが行く手に現れた。
その先が上りの終点で、おそらく広場になっていることが感じられた。
布坂山の小さな躯では、これ以上うえを目指す余地が無かったのである。
目を引いたのは、路肩にガードロープに代って現れた木柵。
それは見るからに鉄道の枕木を転用した、駅の近くでよく見られる木柵であり、私鉄会社である東武との関わりを感じさせた。
7:24 【現在地(マピオン)】
果して布坂山の山頂であったはずの一帯は、大型バスが100台くらい停められそうな、もの凄く巨大な「町営駐車場」になっていた。
しかし封鎖されているので当然、一台の車も止まっていない。
入口に書かれていた「五十里湖展望台東武観光センター五十里湖店」は見あたらないが、どうやら同施設の廃止→駐車場として再利用→それも廃止(封鎖)、というような多段的縮小の結果であるようだ。
それにしてもここは想像外に巨大な敷地であり、ダム湖がそれだけで観光地になり得た時代と、日光や鬼怒川温泉といった国際的観光地に隣接している地の利の強烈さを感じる事が出来る。
観光バブルの跡地… まさにそんな感じだ。
だだ広い、何もない空き地。
そのように早合点した私は、さっそくここを後にして先へ進むことにした。
布坂山の山頂を均した駐車場からは、先ほど海尻橋から登ってきた道の他に、反対側の会津方面へ下る道もあった。
誰に愛でられることもなく虚しく散った葉桜を背に、下る。
7:28 【現在地(マピオン)】
登った分と同じくらい下ると、呆気なく旧国道に合流した。
この下り口にも入口にあったのと同じ頑丈なバリケードが設置されていた。
旧国道に沿って閉店した土産物屋など、数件の家屋がある。
そして、この場所の小字を掘割という。旧国道に大きな名付けるような掘割りはないが、この地名は地形図にも示されている。
なお後日の机上調査により、先ほどの広大な駐車場には、確かに観光センターが存在した事が判明した。
『藤原町誌』によると、五十里ダムが竣功したのと同じ昭和32年に、藤原町、東武グループ、関東自動車などが合同発起人となって、湖の周辺の観光開発を進めるべく五十里湖綜合開発会社を設立。そしてその拠点事業が布坂山の一帯で行なわれ、その全域を公園化。五十里湖観光センターを中心に展望台や、一時期は小動物園も運営されたそうである。
町誌の記述はそこで止まっているが、ダム観光はやがて時代遅れとなり、布坂山の公園施設は撤去ないし封鎖されて現在に至っている。
だが、この大きな土地の変容の前から、布坂山にはあるものが存在した。
この探索では不注意にも見逃していたが、この3週間後の探索中に立ち寄った時、それを見つけている。
舞台は今一度、布坂山の廃駐車場へ…。
2008/5/31 14:36 【現在地(マピオン)】
冷たい雨が、流氷のようなアスファルトの表面を黒く染めていた。
3週間前の葉桜は完全に「木」となり、明るさに紛れていた廃墟の寂しさが、
この日の布坂山には満ちていた。
前回は駐車場の入口で場内を立ち見しただけで立ち去ったが、
今回は少し奥の方まで入り込んで見た。
すると、駐車場よりも一段高くなった、公園のような場所があることに気付いた。
草むした階段の先は小さな広場であったが、私の想像に反し、
そこに遊具のようなものはなかった。
そのかわり、こんなものが。
小さな石祠である。
風化しかかったそれは、石の土台の上にあり、切妻の屋根に守られていた。
立地的には、この小広場の主役である事は疑いないが、
哀れにも観光開発の限界の道連れとなってしまったらしい。
祠自体には、それが何であるかの証は見られなかった。
だが、それに代るものが近くに置かれていた。
日光国立公園
史 蹟
高木六左衛門の墓
完全 || 一致!
「六左海切橋」
遂に「六左」のルーツを発見!
史跡のご案内
この布坂山は別に、腹切り山ともよばれています。
天和三(一六八三)年、日光大地震によって葛老山の一部が崩壊し、男鹿川をせき止めて、周囲三十余粁の湖ができました。当時、会津藩では、湖の決壊による洪水をおそれ、五十里関所の支配頭、高木六左衛門に掘割りの工事を命じ、湖水の切り落しを図りました。しかし、工事は厚い岩盤にはばまれて難行し、完成しなかったのです。そのため、高木六左衛門は、責任をとって、この場所で割腹、自害したと伝えられています。四十年後の享保八(一七二三)年八月、ついにこの湖は決壊し、その水勢は下流に甚大な被害を及ぼしました。これが歴史に有名な五十里洪水です。
なお、この場所は会津藩五十里関所の一部でした。 藤原町
私は知らなかったが、実は昭和32年に国が完成させた五十里ダムと五十里湖には、巨大な先祖が存在したのである。
江戸時代の天和3年9月1日(西暦1683年10月20日)、この地方で巨大地震があった。
そして葛老山の東斜面が崩壊し、120万トン以上と推定される土砂が男鹿川のV字谷を、高さ50mにもわたって塞いでしまった。
その閉塞位置は、現在の海尻橋が架かっている…古称「海尻」地点だった。
そしてこの天然ダム現象(平成16年の中越地震で発生して大きな被害を及ぼした事は記憶に新しい)は、恐るべき事態を引き起こしていった。
河川閉塞の90日後には、溜まった川水が現場から3km上流の男鹿川右岸にあった五十里宿を完全に水没させ(その際全ての住民が「上の屋敷」などに移住した)、さらに150日後には5km上流の隣村石木戸地点までが一面の水面に変わった。
これが全周30km余りという古五十里湖(五十里沼)であり、その水位は今日の五十里ダムさえ凌駕していた。
水位が限界に達したことで湖の拡大は止まったが、水没した五十里宿を通っていたのは会津西街道(下野街道)という会津藩城下黒川と江戸を結ぶ藩の公道(廻米や参勤交代にも用いられた)であっただけに、会津藩もこの事態を放っては置けなかった。
そのため、湖が誕生して間もなく会津藩は4000人の人足を徴用し、大規模な「水抜き」の工事を試みている。
それは現在も地名が残る「掘割」地点を深く掘り下げて湖水を下流へ逃がす計画だった。
だが、この工事は巨大な一枚岩の岩盤にぶち当たり、成功することなく断念された。
会津藩はやむなくこの街道を公道から格下げし、会津中街道と呼ばれる那須山地を越す別の公道を開いたが、24年後の宝永4年には湖が決壊して大洪水を起こす危険を察知し、再び江戸の商人らに水抜き工事をやらせたが、結局この2度目も失敗した。
湖が誕生して40年後の享保8年8月10日(西暦1723年9月9日)、遂に最も恐れていた事態が現実になる。
折からの豪雨によって引き起こされた洪水の水勢は天然ダムを打ち破り、今日の五十里ダムに貯留されているものに匹敵する量の水を全て吐き出させたのである。
この洪水の被害は男鹿川の下流である鬼怒川沿いでも甚大なものとなり、相当多数の死者を出しているが、上流に決壊の危機が迫る湖があることが長い間下流の村々でも周知されていたため、豪雨の際にはそれなりの警戒態勢が敷かれており、流出被害の割に人的被害は少なかったとも言われている。
そしてこの大洪水の今日に残る痕跡として、海尻橋の下流6〜8kmの位置にある鬼怒川の景勝地「竜王峡」がある。
竜王峡の景観は一見奇妙なもので、水面から一定の高さよりも下にはほとんど土や植物が育っておらず、両岸に白亜の岩盤が延々と露出している。
私は以前から、このような特異な景観がなぜ生み出されたのか不思議に思っていたが、なんとこれが今から290年も昔に発生した「五十里洪水」の災害痕跡だったというのである! 驚いた。
そしてこのような河畔の無植生状態は、今市付近までの鬼怒川全体で見る事が出来る。
以上の古五十里湖災害と呼ぶべき一連の事態は『藤原町誌』に詳細に描かれているが、五十里宿の末裔である上の屋敷集落に伝わる、布坂山(切腹り山)にまつわる会津藩士(五十里宿関守)高木六左衛門の自刃伝説は、姉妹編の『藤原町の民話と旧跡』に収録されている。
内容は先ほど転載した現地案内板の解説文とほぼ同じだが、事件と今日の地域への関わりについて、次のようにまとめている。
…多大な費用と労力を費やした、この工事(水抜き工事)の責任を痛感した六左衛門は、布坂山の山頂で割腹しその償いをしました。
地元の人々は、六左衛門の責任感と勇気をほめたたえ、だれ言うとなく布坂山を「切腹山」と呼ぶようになりました。(中略)
この五十里大洪水により、川治の浅間山の岩崩れからわき出ている温泉が発見されたり、洪水で川筋や川床が麗しい岩肌を現わし、今日、この地を訪れる観光客の目を楽しませているのも、五十里大洪水が原因となっているのです。
当時、被害にあった人たちが苦しめられた五十里洪水が、現在の鬼怒川・川治の発展に繋がっていることをわすれてはならないでしょう。
六左見送橋より見る、高木六左衛門自刃の地。
彼は青い矢印の位置に掘割りを作って、今ここにある五十里湖よりも高い水位の水を落とそうとした。
それを安全に達成することは、当時の貧弱な土木力しか持たない人々には、限りなく不可能に近かったことだろう。
平成の時代に忽然と現れた、六左を冠する4つの橋は、観光開発の浮沈によって、その事蹟の証しである祠(墓)を閉ざされてしまった六左衛門の願いを未来へ伝える、壮大なメッセンジャーであると見る事が出来る。
布坂山のある地点から見て順に…
平穏な村の暮しの復活を夢見て、
大地を削って海(湖)を切り落とせんとするも、
その夢の跡を眼下に見据えて自刃の結末となる。
土木技術の進歩と、街道をゆく旅人を、目蓋の裏に見送りながら…。
このようなストーリーが容易く連想させるのであり、この命名のセンスは見事と言うより他に無い。
『藤原町誌』では、会津藩の詳細な記録である「家政実記」に高木六左衛門なる藩士やその処分の記録が無い事を根拠に、彼の話は伝説の粋を出ないのではないかと推論しているが、現実に未曾有の規模の天然ダム災害が発生し、それに伴う水抜き工事が失敗し、最終的に多数の犠牲者を出している事は史実であり、このような災害の教訓を風化させず後世へ伝える為の伝説ならば、六左衛門は現代と未来にとって現実以上の価値を持っている。
私は雨の中、静かに目をつむった。
完結