入口から800m、途中にトンネル一本のあった「未完の新道」の終わりが、唐突に見えてきた。
最後までアスファルトの道であったが、改めて通行止めなどの措置もなく、本当に唐突な感じで草地になり…。
そして……。
ズギューン!
もしこの風景に擬音を付けて良いなら、そんな感じ? センス古いとか言うな…
まあ、いかにも未成という絵面としては、これ以上ないくらい分かり易いものがある。
実は、この最後のところで右に狭い舗装路が別れているのだが、新道の続きではないし長くもない。
谷を埋める、巨大な築堤。
カーブした築堤の上に、まだ路盤は築かれていない。
まだ、道としては「型」が出来ただけの状況だ。
しかし規模的には、もはやただの“盛り土”というレベルを越えている。
こうして出来上がった平場は、小さな小学校のグラウンドくらいもある。
こんな築堤を設けるのには、どれだけのお金と手間が掛かったのだろう。
そして、この場所は見ての通り視界を遮る障害物が少なく、谷側の眺めが素晴らしく良かったが、それは私にとって、新道の無謀を象徴するものに見えた。
新道は、最初からここまで、ずっと上り続けていた。
その結果が、この高さである。
眼下の谷は黒川で、現在地は河床から70mの高度である。
そして、足元の築堤の裾野は、谷底付近にまで伸びているようであった。
対岸の崖を文字通り「へつる」ように通っている道は、旧道。
旧道だが、現道である。
どこまでも上って行き、トンネルや巨大な築堤で“明るい世界”に挑んだ新道に対し、旧道はおそらく人々が大昔から恐る恐る通ってきた道だ。
冬の安全など確約のしようもない“日陰の道”である。
新道は大きな理想を追いすぎ、結局収拾が付かなくなってしまったのかもしれない…。
50mほどの築堤区間の先は、ご覧のように「ブツッ」と途切れている。
この先に人手が加わっているとは思えず、調査していないが、もしかしたらここに2本目のトンネルが予定されていたのかも知れない。
この写真だと土被りが浅すぎるように見えると思うが、奥はもっと高い山になっていて、仮に堀割にするとしても、トンネルに匹敵するような大規模な工事になっただろう。
さて、
辿るべき新道はこれで終わりで、「情報提供」もここまでだったわけだが、残った謎は2つある。
ひとつは、この新道はまず県道187号のバイパスで間違いないであろうが、再び現道と合流する地点には、何か構造物があるのかどうかと言うこと。
そして、そもそもそれはどこかということ。
右の図を見れば新道と現道はさほど離れていないように見えて、実際には現在地でも50mくらいの高低差があるし、黒川を挟んでいる。
この状況が改善するのは大字下双嶺(しもぞうれい)だが、そこまで行くにはまだ1km以上の隔たりもある。
下双嶺側の状況はまだ分からないが、もしこれ以外に建設されたものがないとしたら、バイパスは全体の半分も出来ずに放棄されたことが推測できる。
そしてもうひとつの謎というのは、この新道はどんな目的で建設されたのかと言うことだ。
確かに谷底の現道は険しいようだが、何度も言うように沿道人口は極端に少ない。
これほどのバイパス以外にも、現道の改築という選択肢があったのではないか。
かような高規格道路を要した理由がもしあるなら、私はそれを知りたい。
春にはワラビやゼンマイが沢山とれそうな、明るい斜面を後にする。
人がせっかく築いた、これだけの構造物。
どんな形でも良いので、活用してあげたいものである…。
なお、ここからクルマまでのチャリでの下りは、全くの貸し切りでとても爽快だった。
スポンサーリンク |
ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
|
さてさて舞台は一変!
谷底に待ち受けていた現在の県道は、なんともググッと来る強烈な片洞門であった。
普段は車内から撮影した場合でも、出来るだけ車体が写り込まないように工夫するのだが、今回は敢えてボンネットを入れてみた。
道幅の狭さや、岩壁の圧迫感が普段以上に伝わると思うのだがどうだろう。
それにしても、これは見ての通りの険しい道だが、冬場はどうなっているのだろう。
ここは全国的な豪雪地で知られる富山市の山間部である。
小坂集落の唯一の道なので、除雪しているのだろうが…。
片洞門から始まり、続いては急な見通しの悪いカーブがあり、そして必要最小限度と思われる短いスノーシェッドが現れた。
このカーブのところが、前後200m区間内の唯一の待避所であるが、なぜか嫌がらせのようにガードレールがない。
路肩には草が生え、いかにも脆い感じである。
決して通行量は多くないのは何度も書いたとおりだが、さすがに生活道路としては、安全が担保されてなさ過ぎる“きつい道”といわねばならない。
先ほどまでとは一転し、新道を建設する必然を認めたい気分になってきた。
しかもそれは、この春の晴れた日の感想である。
これが、先ほどととは反対に、旧道から新道を見上げた景色だ。
中央やや左寄りのゲレンデのように見える斜面の天辺が、先ほどの新道の終点である。
黒川の谷の深さと、それを克服せんとした土工の大規模さが分かるだろう。
では、この左側の景色はどうなっているのだろうか。
そこに新道は着工されなかったようだが、どんな場所を通る予定だったのかを見てみよう。
下の写真をどうぞ。
…これは、全部トンネルだろうなぁ…。
8:46 《現在地》
道が特に険しく狭いのは下渕から小坂にかけての750mほどの区間で、それを抜けると谷幅が急に広がり、直前の峡谷が嘘のような長閑な風景になった。
対岸の大字は下双嶺で、かつては同名の集落があったようだが(バス停は現存)、現在は道路からは、どうやって辿り着くのか分からない大きな廃屋が一軒見えるだけだ。
ゴメンナサイ。この写真はただの手抜きです。
道は間もなく黒川を渡り、再び新道があるのと同じ左岸に復帰する。
橋の名は貝岩見橋というが、変わった名前の由来は分からない。
そして、先ほど予想したとおり、この橋を渡った辺りが新道との合流地点ではないかと踏んでいたが、特に分岐や準備施設は見あたらない。
やはり新道の工事は下流側だけで行われたのだろうか。
探索をここで打ち切って引き返すことも考えないではなかったが、この県道自体の終点も1km少々先と近付いているので、一応そこまでは行ってみる事にした。
クルマだと気軽なのである。
左岸に戻った道は、また一時狭まり、クルマのすれ違いが出来ない状態になった。
前ほど険しくはないが、集落と集落を隔てる区切りの山道だった。
そして、改めてまた黒川を渡る橋が見えてきた。
三度目に渡った県道は、今度こそ大字小坂の中心である小坂集落に入って終点を迎える訳だが、ここに事前情報にはなかった、重大な発見があった。
さっき引き返さなくて良かったと思った。
…いったい何が出て来たのか?
空を噛む橋台!
黒川を挟んで、両岸に一対の橋台が建造されていた!
しかし、それだけである。
本当に、それだけ…。
道は、ない。
現道の橋は、銘板によれば「中山橋」といい、昭和44年の竣工である。
そして新道の橋は、平成生まれだろうが、完成に至らずに打ち切られたらしい。
まさに、中途半端に盛り土された築堤の上に、橋台だけが完成した姿をさらしている。
…異様というより無い光景だ。
これを運転席から見つけた私は、堪らずクルマを乗り捨てると、裸足の勢いで橋台に駆け寄った。
対岸の工事はただ橋台を設置しただけで、その先に路盤は作られなかったようなので、進むことは断念したが(不可能ではないにしても、かなり大変なヤブ漕ぎになりそうだった)、この景色を見れただけでも、大きな収穫だと思った。
おかげさまで、想像するしかなかった新旧道の合流地点を確実に特定することが出来た。
予想される新道は、左の図の通りである。
最低でも計画された新道の全長は2.5kmあり、既設部分はその半分にも満たない800mほどだ。
また、図のように直線的なルートにするためには、まだ数本の橋や大築堤、そしてトンネルを要したと思われる。
決して楽な工事ではなかっただろうが、前後から工事を始めていた事実を見る限り、一時は相当本格的に、それこそ数年で完成させる勢いで工事が進められていたようだ。
それがいったいどこで中止の決断へと傾いていったのか…
現地を見ただけでは、正直分かりかねた。
右岸の橋台は簡単にアクセスできるものの、路盤がないので空に浮いているような感じであり、結局ガードレールの立っている路盤レベルには登ることが出来なかった。
突きだした鉄筋という手掛かりはあるのだが、ここに手をかけてよじ登ろうにも、足をかける場所がないのである。
そもそも、足元の草丈があるせいで遠目にはそう見えなかったのだが、この鉄筋さえ背伸びした程度では手が届かず、ジャンプでようやく掴めるくらい高い。
その状態からぶら下がると、手首の辺りがコンクリートの角に打撲して、私は案の定擦りむいてしまった。
分かってるならやらなきゃ良いのに、チャレンジしたくなったのだ。
といいうことで、よほどの上半身強化人間でない限り、ガードレールの前に立つためにはおとなしく脚立を用意するか、大袈裟なラッペリングの必要がある。
これが新旧道の合流予定地点。
幻となってしまった新道を、写真に重ねて赤く描いてみた。
こちら側からも、やや上りながらアプローチしていたことが分かる。
実際は、新道によって置き換えられる予定だった旧道が全て険しいわけではなく、下双嶺付近に平坦な場所もかなりあったにも関わらず、あくまで新道は高い山腹をバイパスしようと考えていたようだ。
それは一見大いなる無駄のようだが、ある新道建設の目的を私に想起させる、大きなヒントとなった。
ここで気付いた人が他にも居るのではないだろうか。
合流地点からは目と鼻の先の見える範囲に坂本集落がある。
道の両側、あと黒川の対岸にも数軒の民家が並んでおり、民宿もあるようだが、観光地から離れた鄙(ひな)びた最奥の集落である。
一日数往復しかしないバスも、ここにある小坂バス停で折り返す。
なお、県道はこの集落の端で終点(正しくは起点)となるが、道自体は大変古くからもっと先へ伸びていたという。
黒川沿いをさらに遡って長棟(ながむね)川との分水嶺を桧(ひのき)峠で越えると、今は無人となった長棟を経由して神岡町(跡津川方面)に抜け、さらには上宝から信州へと通じる、塩や鯖(サバ)の通う交易路だったという。
クルマでは辿れないハードなルートだ(未体験)。
9:00 《現在地》
集落は数百メートルに渡って点在しているが、そこを抜けると遂に道は一車線になってしまい、さらに進むこと200mほどで、ご覧の分岐が現れる。
分岐の左右の道は共に、昭和50年代に鳴り物入りで着工された「大規模林道」のひとつ「大山福光線」で、左が大山方面、右が福光方面であるが、全長80km近い計画は平成22年現在でもおそらく20%も完成していないのではないか。
今回の主題ではないのでこれ以上踏み込まないが、これまた大規模な未成道になる公算が高いのである。
ともかく、ここが県道187号の終点だ。
そして、ここまでの道を振り返ってみると、例のバイパスさえ完成していれば、起点から小坂集落までが全て2車線の快適道路に生まれ変わる事になる。
ただし、もう望みは薄いだろう。
見た目だけだと、単に新道の工事が一旦中断しているだけで、また再開される可能性も排除できないと思うかも知れないが、残念ながらそれは相当に可能性が低そうだ。
後日の机上調査によって、これほどの過剰と思える大規模なバイパスが計画された理由が特定されたからだ。
このバイパスは、単に道路改良のみを目的としていたのではなかった。
そして、その本来の目的となった事業が、正式に中止されている。
…ヒントは、道が谷底から高いところを迂回しようとしていたという事実だ。
ずば〜り!
『ダム便覧保存館』内の『ダム便覧から消えたダム』というコーナーに、「黒川ダム」というのがあるのを見つけた。
大字下双嶺に、高さ74m、堤長215mという、大きなコンクリート式ダムを設ける計画があったのである。
昭和55年には実際に着手され、まずは工事用のアクセス道路にもなる県道の改良が行われ、次に水没予定地を避ける付け替え県道の建設が進められたのだが、その途中の平成5年になって、ダムの目的であった洪水調節と農業用水のうち、農業用水の需用予測より実態が低迷していたことから利水計画の変更が行われ、黒川ダムは正式に中止されたのである。
そのため、あくまでもダムありきであった付け替え県道の建設も中止されたのである。
これがあの立派すぎるバイパスが途中放棄されるに至った、あまりに単純な顛末の全てである。
そして改めてそういう目で見ると、前回紹介した道ばたの桜の木や、ツツジの花壇。
どちらもダムサイドの道にはありがちな光景だったと気付く。
そもそも、明らかに交通需要以上の道が作られた理由も、「ダムだった」といわれれば、大いに納得するより無いのである。
それが、慣例だからだ。
まあ結局は、本体工事は着手する前に中止されたから、自然環境に決定的な変化は起きなかったが、行くあて無きバイパスが山中に取り残されてしまった。
将来的に何か活用する計画があるのかは分からないが、既に20年近く放置されている状況を踏まえると難しいと思う。
おかげで、当分は↑この特異な道路環境が、健全に保たれる約束が得られた。
こら。 喜んでいるのは、誰だ?
完