ミニレポ第155回 日光市日向の旧竹ノ上橋

所在地 日光市日向(旧栗山村日向)
探索日 2008.5.4
公開日 2010.8.8

陰陽あい結ぶ橋



2008/5/4 15:06 《現在地》

ここは栃木県道23号川俣温泉川治線の途中、日光市日向の一角である。
いまでもまだ旧栗山村の名前で呼んだ方が通りが良いかもしれない(2006年に日光市と合併)。

写真は西を背にして撮影しており、正面にそびえる大日向山(1176m)の左側が日向、右側が日蔭というふうに地名が分けられている。
そしてそこから真っ直ぐ降りてきた境界線は、この場所のすぐ右側を通って背後に通じる。

それでは、この右側には何があるのかというと…。




ちょっと古風な吊橋主塔があった。

しかも主索が張られたままになっていて、空き地の中に確固たる意志を持ってアンカーされている。

それなのに、入口に空気を読めない重機が停まっていて、橋の先を見通すことは出来ない。

ともかくこの橋は鬼怒川に架かる橋で、鬼怒川を挟んで日向と日蔭という2つの大字が、つまり明治22年町村制施行前の日向と日蔭の2つのムラが対面する形になっている。

なお補足すると、川の北側の南向き斜面にあるのが日向で、その反対が日蔭である。
日本各地に同じような位置関係で似たような地名が分布しているのを見る。




逆光で申し訳ないが、主塔だ。

塔柱高5m、アーチ高4m、幅2.5mほどで、大正時代から戦前にかけて多く架けられた車道用吊橋の典型的なスタイルである。
鬼怒川の谷を跨ぐのにどれくらいの長さが必要なのか、ちょっとここからでは分かりかねるが、小さな川ではないだけに規模にも期待が出来そう。

足元に注意して主塔の真下に近付くと、両側塔柱の正面側にそれぞれ表札のように銘板が掲げられているのを発見した。
吊橋の場合、扁額をアーチに掲げる場合も多いので、銘板は必ずあるわけではない。
今回それに恵まれたのは、素性を知る重要な手掛かりとなった。




向かって左の親柱に、「竹ノ上橋」。

橋は橋でも、“ハシゴ高”の橋の字だ。
そして、竹ノ上という橋名は、大字日向字竹ノ上という此岸の地名に由来するのだろう。

そして右側の親柱には、「昭和十五年十二月竣功」。

これは予想に違わないが、古さを確定した意義は大きい。

2枚の銘板とも達筆と言うよりは読みやすさを重視した字体であり、公共物の一部として相応しく、好感を覚える。
(個人的に、読みにくい達筆な文字を使った、私物感のある銘板や扁額は苦手)




主塔は、おそらく昭和15年から建て替えられていないと思う。
吊り橋の主塔は一度建てて主索を緊張したら、滅多に建て替えることが出来ないある意味宿命的な構造物だ。

主索の方はどうだろうか。
古さを感じさせない金属の光沢がある。
昭和15年といえば、鉄は既に貴重品であったはず。
橋に込められた確かな想いが、易しい銘板と立派な鉄索によって、目の前に展開していく。

自然の中にあって人工物と分かる、計算された直線や曲線が愛おしい。




浅い笹原となった橋頭を踏み越え、古き橋に第一歩を…。




これは…!







対岸は日蔭。


交通は途絶。





なんか 「オエッ」 ってなった。

直前までの長閑な風景に似合わない強烈な“死臭”にやられた。



朽ちた吊り橋なんて見慣れた風景のはずなんだけど、

私の中では 車道>歩道 なので、車道規格吊橋の廃橋はインパクト大。

それに実は今回、橋はもう架かって無くて、

主索だけが対岸に伸びている光景を予測していただけに、


壊れた操り人形みたいな残骸に衝撃を受けた。





しかも、谷は死ぬほど高かった。


もとより言葉を発する相手もないが、

なお深く沈黙し、

虚空に渡された文明の名残に思いを馳せた。





陸に沿って水平移動し、別の角度から橋を観察しようと思ったが、笹や木が繁茂していて思うに任せない。

木に頼って崖に身を乗り出すようにして、なんとか撮影できたのがこの1枚だ。

命懸けで撮影するほどのものじゃないと思うかも知れないが、後ほどこの写真が(個人的な)興奮の元となったので、十分元は取れたと思う。
その話は、最後にまた。




私は探索中たいてい地形図のコピーを持ち歩いている。
今回もそれを見てみると、対岸の日蔭側に行く道は別にあることが分かった。

県道をここから500mほど西に行くと「竹の上橋」があって、鬼怒川を渡っているのだ。

「竹ノ上橋」と「竹の上橋」。字は少し違うが同じ読み。しかも今の「竹の上橋」は、小字「松木平」に架かっているという不自然さがある。

当初は予想しなかったが、これは新旧道の関係なのかもしれない。
そう考えれば車道規格の吊り橋も納得できるし、橋が架け替えられて場所が移っても名前は引き継がれるのも良くあることだ。




現在の「竹の上(たけのうえ)橋」は、両岸が少し凹んだ所に架け渡されており、“”に較べれば少しだけ低いが、長さは勝っている。
そして此岸は松並木の日影になっているが「日向」で、対岸は裏日光の山々に斜光を浴びて明るいが「日蔭」という。

なお、道幅が2車線ぎりぎりなのであまり新しい橋には見えないと思ったが、銘板曰く竣功昭和33年3月とのことである。
結構古い。

“ノ”は昭和15年の竣功だったから、わずか18年で旧橋になったのかもしれないが、木橋の寿命を考えればあながち短いとは言えないだろう。
それよりも、いつ頃までちゃんと渡れたのかが気になるところだ。




《現在地》

うほっ! 良い分岐!!

左が現在の県道で、凹んだところに「竹の上橋」が架かっている。
こうやって見ると緩やかなスロープも自然の地形ではなく、両岸で大規模な土工が行われた結果かも知れない。
この山中では珍しいくらいの長い直線で、印象に残っている。

そして右が旧道が疑われる道だったが、地図で見た印象の百倍くらい旧道っぽい。
つうか、これで旧道でなければ、我が目を恥じて切腹したくなるレベルだ。




旧道らしき道に入る。

今も耕作に通う車があるらしく、乾ききった路面の所々にタイヤ痕のついた土塊が落ちていた。

きもちいい。

左手の日当たりが良い空き地など遊ばせておくには惜しい土地にも見えるが、旧栗山村は平成18年の合併当時、東京23区の8割ほどの面積(当時は栃木県最広域の自治体だった)を持ちながら、そこに住まう人口は2000人足らずという関東圏ナンバーワンクラスの山村(過疎村)であったから、土地が遊んでいるのも無理はない。
“山行がきって”の山村といえば富山県の旧利賀村だと思うが(?)、人口密度でいえば旧栗山村の方がさらに少なかった。




《現在地》

約600mで右手に林道が別れるが、これを無視してさらに200mほど進むと、写真の地点が現れる。

地形図では林道分岐以降は破線の道で描かれているが、実際には舗装されていたし、右側の畑は今も耕されていた。

さて、このカーブの左側に未舗装の枝道がある。

今は枝道だが、元々は本道だったはずの道。

すなわち、竹ノ上橋に繋がる道である。






川べりに達するまでの、約50mの直線林間道路。

今回のレポの、唯一の“廃道”。

杉の枯れ枝に隠された路面には、粒の大きな川砂利の踏み心地がある。
昔は一般的であった川砂利舗装の名残りに違いない。
ますます、県道のような幹線道路だった疑いが高まる。




15:25

道の終わりは唐突に。

見覚えのある形の吊り橋の主塔が、今度は先ほどとは逆に、陽光を浴びて佇んでいた。

小さな構造物に見えるかも知れないが、それは周りの木々が大きいからで、
実際は威容と言っても差し支えのない、立派な主塔構造物である。




ね、大きいでしょ?


地面に埋め込まれたアンカーから空を走る、左右それぞれ3条ずつのワイヤロープ(主索)は、平均より少し大きいと自負する私の掌でも握り込めない太さである。
おそらく綱渡り曲芸の達人なら、3本もあれば悠々と渡っていきそうなぐらいだ。

たのもしいにゃ〜。




親柱の保存状態は本当に素晴らしく、丁寧に作られたコンクリートの永続性に改めて感心する。
緑陰という環境も味方しているのだろうが、析出した鉄分で銘板が汚れていなければ、古さに気付かないことだろう。

例によって銘板チェックだが、左の銘板は「たけのうへばし」と書かれていて、密かに昔仮名遣いな事に注目。

なお、「日本橋(にほんばし)」以外は「はし」と読み「ばし」と濁らないのが伝統だ…みたいな事を、昔秋田のテレビに出た銘板職人が答えていた憶えがあるが、あれは「ばし」(秋田弁で嘘のこと)だったのか、この橋も「ばし」である。つうか珍しくないよね、「ばし」は。




紀元二千六百年十二月竣功

これには、グッと来た。

戦争を知らない世代の私だけど、この「皇紀」表記を見るたびに、ただ事でない威風に竦む。
読みやすいと思った丁寧な文字も、急に社会科教科書に出てた“黒塗りの教科書”に見えてくるから不思議。
と同時に、揮毫を振るうちょびひげの村長の姿を想像して、勝手にすこし和む。

この橋には、かつて村と国を結びつけるような、重要な任務が与えられていたのではないか。




15:36

現地レポートはこれで終了。

私は県道に戻ると、時間的にもはや満たされる希望が無いにもかかわらず、まるでそれがこの道を走り始めた宿命だったかのように、“起点”の川俣温泉を目指して再びチャリをこぎ始めた。

写真はかつて村役場もあった日蔭地区の集落風景で、まだまだ道は遠く長く鬼怒川をさかのぼる。
そして、夕闇が私を下界へ引きずり降ろすまで、初めての道を走りまくった。




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これは「栗山村誌」に掲載されていた写真で、キャプションは「日向あたりの吊り橋」としかないので本橋と確定出来ないが、姿形から言ってほぼ間違いないと思われる。撮影年も不明だ。

以後これが「竹ノ上橋」であったと仮定して話を進めるが、背景に大日向山らしい山が写っているので、上流右岸(日蔭)側から撮影したようである。すなわち対岸が日向だ。

そして、壮麗な素晴らしい トラス補剛桁吊橋 だ。
木製のトラス補剛桁吊橋は現存するものがほとんど無い(未見)が、昔は広く一般的に見られた形式で、しかも美しいせいか、写真や絵葉書の題材に良く選ばれた。
そして、今回撮影してきた写真のうち1枚に、このトラス補剛桁の名残が見て取れたことで、私はたいへん興奮した。




これは間違いねーべ!


空中に構築された無数の三角形(トラス)。

誰にも侵すことのできない、河上の老閣。


濡れ泣い た。




さらに日蔭側の袂では、塔柱と塔柱の間のちょうど親柱が立ちそうな場所に、この巨大な枕木のような木柱を2本発見して撮影していた。

当初、橋の通行を防ぐための柵の残骸と思っていたので本編で採り上げなかったが、先ほどの写真をよく見ると、日向側に同じような柱が写っている気がする。

これは、当時の親柱だったかも知れない。




「栗山村誌」によると、(旧栗山村)黒部と(旧藤原町)川治との間に最初の“車道”が開通したのは昭和16年で、黒部地区にダムや発電所を建設するためのトラックが行き来したという。(この黒部ダムは現存している。有名な“黒四”とは関係ない。)

今回の「竹ノ上橋」の竣功は昭和15年であり、まさに本橋が栗山村を外界を結ぶ“最初の車道”に架された橋だった事が、確定。

図に赤く示したのが当時のルートで、当時はまだ八汐湖(川治ダム)は無かった。
このうち日向から日蔭にかけて鬼怒川を渡る地点では、昭和33年に現在の永久橋「竹の上橋」が架けられ、路線が変更されたのであろう。

なお、この道が県道になったのは昭和36年で、当時は県道「川俣藤原線」といった。さらに現在の名称に変わったのは昭和52年である。
旧橋が県道だったことは無いと思われるが、なにぶん古いことなので、詳細は不明だ。




最後に、昭和36年版の地形図を見て終わろう。


これは新道が開通したばかりのため、新旧道が両方描かれている珍しい図だ。


「大王」が気になるお。







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