2007/3/23 16:30
国道16号を横須賀市中心部から横浜方面に北上してくると、本町山中有料道路との分岐を過ぎてから、5連続で一方通行のトンネルを通過する。
5本目は新田浦トンネルで、これを出るとまもなくJR横須賀線のガードをくぐる。
くぐって最初の信号のある交差点が田浦4丁目交差点で、ここを左に入るのが、今回の小さな寄り道のはじまりである。
右の写真はこの田浦4丁目交差点で、手前が4車線の国道16号、奥の昔ながらの商店街アーチへ進む。
特に国道や県道ということはなく、ただの横須賀市道である。
入口は狭いし、行き先の標識なども特にないので、信号が無ければ見過ごしそうな所である。
ここを曲がると何があるというのか。
地図を見ていただこう。
現在地は横須賀市田浦町4丁目の角。
ここから西へ入る道があり、その行く手にはトンネルが描かれている。
2本。
トンネルの向こうは逗子市沼間で、逗子と横須賀は三浦半島の表裏にあって、トンネルは三浦半島の脊梁(ちょっと大袈裟だけど)を貫くものである。
このトンネルの北に500mほど離れたところには、県道横須賀逗子線の沼間隧道がある。
横須賀と逗子を結ぶ主要な通りだが、距離からいえば遙かにこれから向かうトンネルを通った方が近いはずだ。
随分細い道として描かれてはいるものの、線形自体は直線的で申し分ないように見える。
私は地図上でこの形を見たときに、何か未成のバイパスを想像したのだが、果たしてその実態は?
それを確かめるのが、今回の小探索である。
探索は3月の午後4時をまわっており、真西へ向かう通りはモロ逆光にやられた。
しかしこのような光の元でこそ見える、道の表情というのもある。
この道は住宅地の広がる谷戸の奥と、海岸沿いの幹線道路を結んでいるから、家路につく人影などはうってつけの添景になるだろう。
そんなことを考えつつ、眼を細めて進んでいくと、やがて前方に大きな築堤が立ちはだかった。
築堤の上には門型をした大きな架線柱が、下には道を通わすアーチが見えた。
入口からちょうど400mでここに着く。
もちろんこれは目指すトンネルではないが、外見的にはトンネルそっくり…というか、トンネルそのものである。
この上にあるのは京急本線の復線の線路である。
なお、道は最初から緩やかな登り坂だが、この辺りを境に一段と急になる。
高さ3.4mが制限されている洞内。
幅もおそらく同程度で、乗用車同士でもすれ違いは難しい。
そのため、出入り口には「先入車優先」という標識が掲げられていた。
坑門同様に内壁も白く塗装されており、コンクリートトンネルにありがちな重苦しさは影を潜めている。
長さは15mほどしかないので、照明の類はない。
京急の線路をくぐると、また次のアーチが見える。
今度は正真正銘のトンネルの入口である。
地図に2本描かれているトンネルの1本目に違いない。
しかし、この道は変わった道だ。
最初からここまでほとんど直線である。
厳密には緩やかに右にカーブしているが、見た目では分かりにくいくらいだ。
それにこの1本目のトンネルの前の道も、左右が低く、道だけが一段高く…すなわち築堤になっている。
何に似ているかといわれれば、鉄道の路盤のような道なのである。
当初の未成バイパスという想像よりは、未成の鉄道路盤なのではないかと、そんな思いを巡らせてしまう。
16:32 《現在地》
1本目のトンネルの真ん前まできた。
銘板が掲げられていたので、ここで初めて名前を知ることも出来た。
田浦山隧道というらしい。
また、銘板には昭和53年3月という年紀とともに当時の横須賀市長の揮毫があった。
この時期に市道として建設されたトンネルということなのだろうか。
これも全く飾り気のないコンクリートの坑門で、サイズも先ほどと同じくらいである。
しかし今度はそれなりに長い。
地図で見たよりも長い印象を受けるのだが、実際は120mくらいである。
やはり「先入車優先」と描かれた急坂のトンネルを抜けると、そこで道は弾けるように4〜5本に分かれた。
それぞれの道の表情は違っていて、中には階段もあれば、車止めに塞がれたものもある。
このうち車で普通に入って行けそうなのは一番右の道くらいで、他は前述のように障害物があったり、すごく狭かったりで、ちょっと入る気にはなれない。
そして私が目指す“2本目のトンネル”は、右の道にあるものでは無さそうだ。
右のトンネルは大山田トンネルといって、抜けると港ヶ丘のニュータウンに続いているが、地図ではこのほか正面の道にもトンネルが描かれている。
確かに、ありますな…。
怪しく塞がれたトンネルが…。
振り返ると、今くぐってきた田浦山トンネルがまだ間近にある。
塞がれたトンネルと田浦山トンネルは、左右だけでなく、上下においても直線で結ばれている。
しかし、どう考えても無関係とは思われない2本のトンネルの姿は…
あまりにも違っている。
重厚極まる5重巻煉瓦アーチ。
クラウンに填め込まれた、苔生す要石。
扁額を挟み込む2本の水平線で安定感を演出する、笠石と帯石。
そしてこれ以外の壁を埋める、黒光りする煉瓦たち。
圧倒的な古色蒼然!
この隧道の正体は、勿体ぶらずに扁額が教えてくれた。
盛福寺管路ずい道
横須賀市水道局
この隧道の正体は、水道管を通すための管路トンネルであった。
なるほど。
確かにそれならば、これまでの直線に近い道筋や緩やかな勾配も頷ける。
田浦山隧道ももとは同じように水路用だったのだろうが、昭和53年に車道化されたのだろう。
水路用ということで、残念ながら、
このトンネルに入ることは出来ない。
鉄の扉は、がっちり施錠されていた。
重厚すぎる闇を、今は水だけが奔っている。
この写真は、冒頭にも紹介した県道横須賀逗子線の沼間トンネル。
横須賀では珍しくもないが、新旧のトンネルが横に並ぶ“めがねトンネル”である。
そしてこのトンネルの開通は、古い方で昭和4年。
それまでこの道は無く、人々は横須賀と逗子という近接する2つの街を行き来するためにも、鉄道に頼るか、歩いて峠越えをするか、それとも遠く迂回する必要があった。
そしてこの昭和4年より一足早く峠を掘り抜いたのが、今回訪れた盛福寺隧道を含む「横須賀水道」だった。
これは旧日本海軍が、横須賀軍港や艦船への飲用水補給のため、丹沢山系の一角にある愛川町半原水源地から市内逸見の浄水場まで、50kmあまりの水道を明治45年から敷設したものである。
そしてこれは今も横須賀の水道として使われ続けている。
それだけならば、まあオブローダーとしては「ふ〜ん」な話かも知れないが、実は逸見〜田浦間と田浦〜逗子間の水道管路が、一般の交通路として使われていた時期がある。
これは住民からの要望を海軍側が了承する形で実現したものらしく、前者は大正7年から昭和3年頃(当時国道31号とされていた現国道16号の一連のトンネル群の開通)まで、後者は大正11年から昭和4年頃(沼間隧道開通)まで、歩行者や軽車両に限って通行することが出来たという。(こちらのレポートも参照)
一時期とはいえ、人々が日々交通した盛福寺隧道。
くぐってみたいと思わない?
くぐれます!
特別に。一日だけ。
2011年1月29日に行われる予定の、「横須賀海軍水道を往く!」ツアーに参加すれば。
このツアーでは、横須賀市水道局の特別な計らいで、
普段は近付くことのできない貯水池やこの管路隧道を
特別に立入・通行することが出来るとのこと。
私も興味があるので参加してきます。
そして、首尾良く隧道に入れたら、本編の「後編」としてレポしてみたいと思いますが、
ご興味のある方は、参加を申し込まれてはいかがでしょうか。
みんな! 俺と一緒に横須賀海軍水道の歴史的構造物をめぐってみようぜ!
え? なんだこの提灯記事は って?!
遂にヨッキも金で買収されてこんなものを書くようになったかって?
のー! 違います。 ヨッキは「隧道」に買収されたんです…。
だから、皆様もご一緒に… ね。ね。
つづく?
お読みいただきありがとうございます。 | |
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