ミニレポ第161回 山梨県道37号南アルプス公園線 保隧道

所在地 山梨県南巨摩郡早川町
探索日 2011.1. 2
公開日 2011.2.20

完全に消えた隧道と、痕跡を留める隧道。



2011/2/16 7:35 【広域地図(マピオン)】

このレポートは、【道路レポ142】の続きである。
とはいえ、同じ日に同じ道の続きとして探索したと言うだけで、“直後”ではない。
【道路レポ142】の終点だった角瀬地区から、県道37号を終点方向へ道なりに進むこと約4kmで、今回スタート地点に到着する。

この間には、早川最大の支流である雨畑(あめはた)川に沿う県道801号雨畑大島線との別れや、昭和31年まで硯島村と都川村の境(現在はともに早川町)であった小さな峠越えがあるが、特記するほどのものは見あたらなかったので、一気にここまでやって来た。

ではここは何かというと、見ての通りの分岐である。
なんの分岐かといえば、新旧道の分岐なのである。




丁字路を右に向くと、ご覧の橋が架かっている。
色褪せた「14t」制限標識が迎えてくれるこの1車線の橋は、草塩(くさしお)橋という。
対岸に見える家並みは、草塩集落だ。

そして、今の橋は昭和後半に架けられたガーダー桁橋だが、すぐ上流の対岸に先代の橋台だけが残っている。
実はこの位置で早川を渡る橋の歴史は古く、明治期には既に架かっていたようである。

この位置で早川を渡って草塩集落へ入る道は、旧道だった。




右の地図は明治43年測図版の地形図で、私は右下の「大島」から「現在地」へ走ってきた。
このルートは県道となった今も、ほとんど変化していない。
しかし明治まではこのさき上流の「保(ほ)」へ進むためには、一度早川を渡って「草塩」に入り、さらにもう一度早川を渡り直して、ようやくたどり着いていたのである。

それが現在の県道は、青線で示したような、“素直な”ルートになっている。

なお図にはもう一本赤く示した道があり、それは草塩から東へと進んでいるが、これが近世まで一帯最大の幹線だった「早川入往還」だ。【参考】
つまり草塩や保は、早川入り往還と身延雨畑方面の街道が分岐する重要な位置にある集落だった。
そしてそういう背景もあって、保は昭和31年まで都川村の村役場が置かれたような、大きな集落となった。
(この一風変わった保という地名の由来は、集落や村を示す一般名詞だとする説があり、ここが相当古くからの集落であることを裏付ける)

と、こんな話をすると、大抵今までは旧道のほうを探索していたのだが、今回は敢えて現在のルートを探索する。
それは紛れもなく現役の県道だが、なかなかどうして面白い。
(ちなみに旧道は、生活道路として1車線の舗装路になっている)





分岐地点の山側は、切り立った山肌を落石防止ネットで守っている。
もともとは早川の切り立った岸壁だったのだろう。

そしてその根元に、まるで岩と同化したようになっている、六地蔵と思しき石仏があった。
いつ頃のものなのか、書かれた文字を読み取ることは出来ないが、
この先に、“弔われる者”を生んだ難所があった…ということか。




そんな予感は、まもなく現実の光景となった。

山側は鋭く垂直に切り立った崖。所々にツララを垂らしたネットが冷たく光る。
2車線を挟んだ川側も、コンクリートの路肩が直に早川の早瀬へと落ちている。

なるほど、難所であったろうと言うことが容易に分かる景色である。
いまでこそ2車線が確保されているが、もとは岩場を切り開いた細道であっただろう。

ちょうど私の進行を塞ぐように、長い赤を点灯させていた交互通行の信号機。
元旦2日の朝からこんな辺鄙なところを旅する人は稀なのか、待てども待てども車は来ない。
無為に時間を過ごして、ようやく青が灯った。

そして、核心へ。




通過時に、ふと目に止まったこの看板。

「道路に石が落ちない工事を行っています」。

なぜか、「石」の前に一文字分のスペースが空いていた。

きっと、「落石」と書いてあったんだと思う。
誰かに突っ込まれたんだろうな。
「落石が落ちない」って変じゃね? と。


妙に律儀な看板に、くすくす。




そして片交部分へ。

この50mほどの片交はもちろん一時的で、普段はここもちゃんと2車線になっているわけだが、山側の際立つ法面はほぼ垂直で、苦労した末の2車線と言うことが容易に想像できる。
そこが今、より堅固な道となるべく、工事されているのである。

そして、この垂直に近い崖の下をすり抜けても、さらに数百メートル先までは、ガチガチに固められたコンクリートの壁の下を進んでいく。
法面の茶色いのは落石防護の鉄の壁で、その一部は頑丈そうな洞門になっているのが見える。

いま見晴らしているこのおおよそ300m区間が、今回のミニレポートで取り上げる難所の全てである。




垂直の崖を切り抜けると、道としてはそのまま直線ながら、私は橋の上にあった。

控えめな銘板によると、昭和60年完成という「保2号桟道」だった。
ということは、この先に見えている同じような橋が「保1号桟道」。
更にその先の洞門は「保洞門」といい、そんなつもりではないのだろうが、珍地名をねっとりと有効活用している。

で…だ。

こうして取り上げている以上、もちろんあるのだよ。

この風景のなかに…




廃道が。




廃道がどこにあるか。

お気づきになられただろうか。





ヒントは、自転車のある場所…。


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では、答え合わせ。





「分かるかよッ!」

って、怒らないでね(笑)。

確かに、見えない場所を探せっていうのは、反則でしたね。

でも、常日頃から橋があればその下を覗くというクセをつけておくと、こんな余計なものが見つかっちゃうことも、あるんです。

明らかに、隧道跡であります。





ちょっと分かりにくいと思ったので、拡大写真→


素堀と思しき坑門が、天井までコンクリートの壁で塞がれている姿が、明らかだ。

そして、それだけならば必ずしも道路の隧道跡だとは断言できないが、その前の路肩にガードレールが存在していることから、やはりこれは道路の…旧道の隧道跡である…と、断言できる。
もっとも、崖から垂れ下がったようなツタがたくさん生えており、これらが緑をつける時期は、相当気づきにくいかも知れない。
そもそも、この場所は車からは絶対に見えない。路肩から、下を見下ろしてはじめて気付く場所だ。


そして、この隧道跡。
変な立地にあり、これ以上はちょっと近付けない。




塞がれた坑門の前にある、草臥れたガードレールを有する旧道は、長さが20mほど。

そしてそこは、まるで島のように、完全に現道から切り離された存在になっている。

ロープでも垂らせば、或いは現道から旧道敷きに下りることは出来そうだが、ちょうど現道は桟橋になっているために、尋常の手段では下降不可能。
そして、頑張って下りたところで、塞がれた坑口があると言うだけなのは明らかなので、今回は…見逃してあげたわ。感謝なさい。(負け惜しみじゃないのよ)←なぜかおねぇ言葉に。




改めて、名前さえも留めず埋め戻されてしまった小さな隧道を、俯瞰する。
それは20mも離れていない場所にあるが、本当に小さな坑門である。
旧道の道幅自体、広いところでも1.5車線くらいしかないのに、それが坑門に近付くと、車一台ぎりぎりに収束している。
そして、岩陰にあるはずの出口はもちろん見通せないが、長いものではないと思われる。

ちなみに、この桟橋の開通と旧道の破棄は同時であったろうから、廃止は昭和60年頃ということか。
しかし不思議はのは、この現道を工事している最中、どうやって車を通していたのかと言うことだ。
上の写真の落差を吸収するためには、何らかの架設工作物(スロープのようなもの)が必要だったと思われる。
さすがに対岸の町道は狭すぎて、バスが通るこの道の迂回路たり得ない。




これは、隧道が貫通している崖の表面。

木の年輪か生き物の筋組織のような、何とも言えない異様な模様を見せている。

これと直接関係があるかは分からないが、早川町を糸魚川静岡構造線が通っており、一帯は複雑な地質を有していることが知られている。
そのことが、今は完全に埋め戻され、密閉されてしまった隧道の寿命にどのような影響を与えていたのか。
そもそも、隧道内部にはどのような岩盤風景が存在したのか。
気になるものである。

そして気になると言えばもうひとつ、この細かく層状になった岩の隙間に、あのあこがれの「金」が混じっている可能性があるという事実だ。




保2号桟道を渡り終えると、一瞬だけ地上に戻り、すぐにまた保1号桟道にかかる。
このわずかな地上区間の山側に立てられているのが右の写真の案内板で、保1号桟道上から山側を見るとそこに落ちているのが、左の写真の滝である。

案内板曰く、この滝は「大金不動滝」と言うらしく、以下のような解説文が付されている。

「大金山に産する金が流れ出し、滝の岩の割れ目にたくさんつまっていると言われる。この滝の上には武田時代の隠し金山として有名な大金山金山の坑道がいくつもあり、この滝の水を金の精練に使った。」

いったいどうやって滝の上に行くのか…こうして見ていても皆目見当がつかないが、町史などを見ると、確かに昭和中頃まではこの一帯で金山の稼行があったとのことだ。




さて、肝心要の 隧道の出口 なんだが…。

こちらはもう、跡形もない…。

埋め戻された坑門が見えるというレベルでさえなく、完全に地中に埋没してしまっているのだ。
かつては坑門の上部を構成していたと思われる凹み(黄色い部分)が、辛うじて地上に残っているが、これも確信できる遺構ではない。

なぜこれほど完璧な埋め戻しが行われたかだが、現道から不動滝へのアプローチルートとして、早川の護岸工事を兼ね、整備したのではないかと思う。
そうでなければ、こんなに丁寧に埋め戻す理由が分からない。




隧道を出た先の旧道は、滝壺近くを通過していたと思われるが、完全に痕跡を失ってしまっている。
そして現道の保1号桟道を渡り終えた地点で合流し、旧道時代にはなかったであろう保洞門に進んでいたと考えられる。

一連の短い旧道は、その路面を少しも踏まないままこれで終了したわけだが、これだけだとちょっと分かりにくいと思うので、少し進んだところから振り返って〆たいと思う。




7:44 【現在地(マピオン)】

2本の桟橋とひとつの洞門。そしてその前後の天突くコンクリート擁壁。
わずか300mほどの区間だが、きわめて困難な地形を、現代土木を結集して突破した感じである。
繰り返すが、これは昭和60年に開通したルートということになる。

そして旧道については、こうして遠目に見ていても、ほとんどその存在に気づくことはない。
目を凝らしてようやく、左の橋(保2号桟道)の奥にあるガードレールに気づけるかどうか…。

そして、今回私が発見したのは【埋め戻された坑口ひとつ】だけだったが、
どうやら隧道は、もうひとつあったらしい。




お馴染み「道路トンネル大鑑」隧道データベースを調べると、この早川町保には横坂隧道保隧道の2本あることになっているのだ。

横坂隧道
全長:56m 車道幅員:2.6m 限界高:3.0m 竣功年度:昭和3年 路線名:県道奈良田波高島停車場線 

切川隧道
全長:37m 車道幅員:2.6m 限界高:3.0m 竣功年度:昭和3年 路線名:県道奈良田波高島停車場線 

幅や高さが同じで長さだけ異なる2本の隧道だが、1本はどこへ消えてしまったのだろう。



おそらく、このような配置で2本並んでいたものと考えられる。

だが、現状では保隧道(長さ37m)の片側の坑口のみ、地上に残っている。
横坂隧道は、このレポートの序盤で通過した【片交部分】にあったのではないだろうか。

歴代の地形図によると、隧道は大正3年版にはなく、昭和3年版に初めて登場する。
だが、2本の隧道が近接していたせいか、1本の100mほどの隧道として描かれいる。
また、昭和63年版の人文社の5万分1道路地図帳では、短い保隧道のみ描かれているように見える。
各種空中写真もチェックしてみたが、【昭和52年撮影】を見ると、保隧道のみ存在しているように見える。

断定は出来ないが、「道路トンネル大鑑」が執筆された昭和43年頃には横坂隧道も存在したが、その後まもなく開削され、新道に切り替えられた昭和60年当時は、保隧道しか存在しなかったのかも知れない。

最後になったが、これらの隧道を含むこの旧道が開通したのは、実際は昭和3年ではなく、大正11〜13年頃だったのではないだろうか。
【こちらで紹介】した通り、早川沿いを新倉まで開通した最初の車道は、大正13年完成の東京電灯の馬車軌道だった。
こうした軌道が、隧道なしでこの地形を攻略できたとは考えにくい。

そして、昭和3年という公称の竣工年は、工事用軌道が民間の早川沿岸軌道組合の馬車軌道になった年に一致している。
この時にはじめて公道に組み込まれたならば、それを隧道の竣工年として記録した可能性がある。
しかし併用軌道時代は長く続かず、昭和8年に軌条が撤去されて自動車道になっている。
さらにバスが通るようになったのは、昭和15年からだった。


目立たぬ岩陰に残された、小さな隧道の痕跡。
それは、早川沿岸における複雑な交通の変遷と、どのように関わってきたのだろう。

まだまだ追跡する余地がありそうだ。



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