秋田県内で完結する数少ない国道のひとつである国道105号(由利本荘市〜北秋田市間)の経由地のひとつである、北秋田市阿仁(あに)地区。
ここは平成17年に廃止されるまでの阿仁町で、さらにその中心をなす大字「銀山」は、秋田県の内陸山間部にひときわ歴史深い小都市を形成してきた。
この阿仁の名を県外の人が知る機会があるとしたら、一番は地理の授業だろうか。
江戸中期にこの地で発見された阿仁金山は、やがて佐竹藩が経営する阿仁銀山となり、さらに阿仁銅山へと転じてますます発展し、享保期(18世紀初頭)には銅の産出量において別子銅山(愛媛県)を凌ぐ国内最大の銅山となって、阿仁六山(十一山とも)は数万の人口を抱えた。
阿仁銅山は明治8年から明治政府の官営となり、急速に近代化が進められた。そして18年からは県内の院内銀山などとともに古河市兵衛の所有となり、その後は古河系資本によって昭和54年の閉山まで経営されたのであった。
昭和35年当時、阿仁町の前身である阿仁合町の人口は11300人を超えていたが、合併前の平成17年時点の阿仁町人口はわずか4000人に過ぎず、全国の旧鉱山都市同様、急激な人口の減少に苦しんでいる。しかし、地形的な制約からもともと街の中心部は広くなかったためか、今でもさほど寂れた街という印象は受けない。(周辺の山野に分け入ると、至るところに苔むした鉱山墓地や集落跡があるが…)
さて、阿仁町の前置きはこのくらいしよう。
今回紹介するのは、この阿仁の街中を通っていた旧国道が阿仁川を渡河する地点に架していた、1本の橋である。
その橋は現国道の橋のすぐ下流にあるので、まずは現国道から俯瞰で。
現国道は、狭隘な谷間にひしめく阿仁の中心街を、やや高い山腹に進路を取って迂回している。
関東にお住まいの人に馴染みのあるものと比較するならば、栃木県日光市の足尾の国道122号の姿にそっくりである。
あそこも狭い谷間に足尾銅山に由来する小都市がひしめいていて、足尾バイパスという名の現国道が山腹を迂回している。
この「阿仁バイパス」がいつ完成したのかは残念ながら把握していないが、歴代の地図を見る限り、昭和末頃であろう。
先ほども述べた通り、現国道の通行位置は「高い」ので、その途中に架かる阿仁川を渡る橋も、かなり高いものとなっている。
それは1枚も銘板を持たないが、標識によって橋名だけは明らかにされている。
喜鵲橋 という。
しかし、難しい漢字なのに銘板が無いせいで、読みがはっきりしない。
現地でも、「あっ、どっかで見たことある字なんだけどなー…」と、しばらく悩んでしまった。
こたえあわせ。
漢字に詳しい人ならご存じかも知れないが、鳥の「カササギ」を漢字で表すと「鵲」である。
それに「喜」が付いている。
だが、中国語だと「カササギ」を「喜鵲」と書くそうであるから、これでも「かささぎはし」と読むのが真相なのだと思う。
そして、私の既視感の正体であるが、「かささぎはし」という名の橋を私は以前も探索したことがある。
栃木県の華厳渓谷に架かっている「鵲橋」がそれである。
これは印象深い鵲橋との思いがけぬ再会となったわけだが、残念ながら現国道の「喜鵲橋」、そんなに印象深い姿はしていない。
通行量の多い喜鵲橋の端に寄り(歩道あり)下を眺めると、そこには大量の雪解け水に満たされた阿仁川と、それを跨ぐ長めの橋が架かっていた。
ひと目見で旧道と分かったが、さらに注目すると、橋の隣りにもう1本の橋の架かっていた痕跡を見つけた。
両岸に対成す橋台があり、そこにあったものこそ旧国道時代の喜鵲橋だったのだろう。
今見えている橋は明らかに新しく、国道から市道(町道)に降格した旧国道を生活道路として延命させるため、最近に架け替えられたものだと考えられる。
そして、この場所から俯瞰で見つけた橋の跡は、なんとこれだけではなかった。
もう1本あった。
…お分かりいただけただろうか?
あるよね?
↓↓↓
とっても古そうな、橋台が。
左岸にだけ……。
お家をちょこんと乗せていて、なんか可愛らしい。
2012/4/28 8:36 《現在地》
ということで、改めてやって参りましたよ、旧国道。
南から北へ、下流側から上流側へ向けて進行中。
左にあるのが阿仁川で、遠方に2本の橋が既に見える。
現道と旧道それぞれの喜鵲橋である。
また、右手の集落は湯口内(ゆくちない)集落で、この湯口内で砂金が発見されたのが、阿仁の鉱山としてのはじまりだと言われている。
そしてここが、旧道の喜鵲橋。
上から見た印象の通り、まだ真新しい橋である。
この橋自体については、正直これといってコメントをするところがない。
そして、右の車が停まっている所が、旧橋の橋台跡だ。
そこまで行って、対岸を覗いてみると…。
川の向こう側に、足元にあるものとそっくりな橋台が、はっきりと見えた。
写真を撮っていると、対岸旧道のすぐ上を秋田内陸線の列車が颯爽と駆け抜けていった。
橋桁はもちろん、橋脚も既に無いが、橋台の形状から見る限り、ここには普通の桁橋が架かっていたようである。
そして帰宅後に、お馴染みの「JSCE 橋梁史年表」で「喜鵲橋」と検索してみたところ、1件だけヒットした。
これを見る限り、ここにあった旧橋は昭和37年の架橋だったようである。
しかし、形式などは記録がなく不明であった。
ちなみに昭和37年というと、国道105号が二級国道105号大曲大館線として初認定される前年であるから、国道認定を見越して橋を架け替えたのかも知れない。
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旧道に現在架かっている橋の名前は、真新しい銘板によると「喜鵲橋」。
なお、この橋の銘板には読み仮名や竣工年を記したものが無いので、それらの情報を得る事は出来ない。
これはすぐ川上に架かっている現国道の橋と、全くの同一名である。
そして、すぐ隣りに架かっていた旧橋(旧国道時代の旧橋)も、同じ名前であった。
世代が変わると、橋の名前に「新」が付いたり「大」が付いたり、名前自体が変化することは珍しくない。
特にここのように新旧道の橋が共存しているケースで、完全同名の橋が並んでいるのは、珍しいように思われる。
かっこいい良い名前だけに、手放したくないのかな?
橋を渡り終えると、今度は秋田内陸線の鉄路と上下2段に平行しながら、現国道の橋をくぐる。
その先で上り坂となり、いよいよ銀山街へと入っていくことになる。
しかし、今回のテーマはあくまでこの橋である。
もう少し詳しく見ていこう。
幸いなことに、ここには「消えてしまった旧世代の橋」を偲ぶためのものが、まだいろいろと残されていた。
ひとつは、この旧橋の橋台である。
どのような橋がいつ頃まで架かっていたのか、気になるところであるが、相互リンク先サイトさまの中で、旧橋の廃止直後の姿を紹介した貴重なレポートを見つける事が出来た。
→「喜鵲橋/きささぎばし」 (by 「秋田の路上探索」さま)
上記サイトの情報や掲載された写真を見る限り、旧橋は現橋に近い形式の鋼鈑桁橋だったようだ。
また正確な廃止の年度は分からないが、ここ数年内のようである。
そしてひとつ意外であり驚きだったのは、旧橋に存在した「読み仮名」の銘板によって、「喜鵲橋」の読み方が「きささぎばし」と判明したことだ。
これは、「喜(き)」「鵲(ささぎ)」と読むという事だろうか。
中国語の読みを敢えて切り捨てて、日本風に読み替えた感じである。
旧阿仁町内の各所には、このような写真付きの丁寧な案内看板が設置されていて、鉱山都市として栄えた昔を偲ぶ縁を与えてくれている。
ここの案内板も非常に有用で、ここに阿仁川を渡る最初の喜鵲橋が架けられたのが大正4年であること(それ以前は「湯口内の渡し」といい、阿仁街道の難所とされていたそうだ)や、そもそも鵲という鳥は、七夕の日に天の川に翼を広げて織女星と牽牛星の出会いを橋渡する、幸せを手伝う橋とされているという、中国から日本に伝わった伝説があることを教えてくれた。
個人的に、どうして「鵲」という鳥(日本では九州にしかいない)が全国各地で橋の名前に採用されているのか不思議でならなかったが、いわゆる瑞鳥信仰のなかでも、鵲には「橋渡し」という特別な仮託があったことを知ったのである。(トリさんのなかでも鵲さんは橋好きオブローダーの天使だな…)
案内板により、幾代もの後継が1文字も変えず受け継ぎ続けているほど素晴らしい「喜鵲橋」という名は、大正4年の初代橋を起源とすることが分かった。
なお、この「喜鵲橋」のように固有の地名を用いず、めでたい意味を持った美称を橋の名前に用いる事は、古くにおいてよく見られた事である。一例を挙げれば、新潟県長岡市(川口地区)で国道17号が魚野川を渡る橋は、現在はその地名をとって「和南津(わなづ)橋」と命名されている。しかし、明治8年に架設された初代橋の名は「永寿橋」といい、明治18年に清水新道の一部として架け替えられた際に初めて「和南津橋」に変更されたのである。 こうした命名の変化は、その橋が命名者の生活圏内において、どれだけ希少かを示唆する傾向があると思う。したがって、橋など珍しくもなんともない現代では、こういう名前が珍しいということになる。 (これはいわゆる「ふれあい橋」とも少し似ている。「ふれあい橋」の多くは命名者の生活圏内において利用が完結するような小橋が大半であって、その意味では「ふれあい」とは反対に「孤立した」橋と言えるのだ)
そして、案内板の隣りには土台をしっかりと補強された1枚の石碑があり、その川の真っ正面には、先ほど上から見た“もう一つの橋台”があった。
忘れずに、あの橋台行かないとな。
でも、その前にこの碑だ。
カッコイイ!(惚)
こういう交通関係の記念碑は全部好きだけど、特にこの碑がカッコイイと思うのは、字体が良いからだ。
だって、100年も前の碑なのに、まるで教科書のフォントみたいに読みやすいよ。
こう言うのって、大抵はその時代の学のある人(インテリ)が書くものだから、普通の人には読みにくいオナニーじみた字体(隷書とか)を使うことが多い(個人的に嫌い)のに、この碑の読みやすさには「愛」が満ちてるじゃないか。
これだけで、「みんなの喜びに満ちた橋だったんだな」って思えるよ。
こんなステキな碑を残してくれた人々に敬意を表し、1文字残らず書き写してみよう。
大正四年
喜鵲橋竣工紀念碑
九月竣工
設計及監督 | 三瓶 文夫 奥山 芳男 北林 久之助 |
工事担当者 | 赤崎 銀一 ●村 謙 山本 久蔵 |
工事仕立人 | 土(※)工 千田権喜 木伐 近藤竹蔵 土(※)工 阿部安次郎 大工 庄司忠五郎 石工 成田倉松 |
さて、改めて旧喜鵲橋の左岸橋頭へ戻ってきた。
この場所から上流方向を見遣ると、30mほど先に急な左カーブを描く石積みの築堤を見る事が出来る。
これこそ、直前に見た記念碑に連なる、初代喜鵲橋の遺構なのである。
さらに接近してみよう。
何とも年季を感じさせる、それでいて愛らしさも感じさせる築堤である。
おそらく、昭和37年に旧喜鵲橋が完成するまでは、この道が使われていたのだろう。
出来るだけ長さを短くするため、川に対し直角に設けられた橋は、その前後に憎たらしい直角カーブを甘んじて有した。
大正4年といえば、阿仁の鉱山はまさに古河経営による全盛期であり、かつ鉄道も開通する前であるから、
この良くない線形に耐え、多数の貨物車輌が行き来したものだろう。
もっとも、鉱石の運搬については、まだ阿仁川に舟運の便があった時代であるのだが、
一般の人々や荷物の行き来に、どれほどの恩恵があったかは計り知れない。
カーブした築堤の上には、2棟の木造平屋の建物があった。
いずれも民家らしくはなかったが、近付いてみるとたくさんのイヌたちが窓に現われて一斉に吠えだした。
どうやら、少なくとも片方の建物は巨大な犬小屋であるようだ。
彼らの迫力に圧倒され、築堤を最後まで歩く事は出来なかったが、上流側へ回り込んで築堤の全体像を眺めてみた。
そして、ある異変に気付いた。
この石垣って、後からだいぶ付け足されてるよね?
「赤い部分」は、如何にも頑丈そうな谷積みの石垣だが、その上に乗っかっているのは、丸石を積み上げた脆そうな石垣である。
水面に接する部分でないから、最初から弱い構造にしたのだろうか?
その可能性も無いとは言えないが、おそらくは大正4年から昭和37年までの間に何度か橋は更新されているだろう。
その折に、事情があって、嵩上げしたのではないかと思う。
…おそらくは、河床の上昇という事情(理由)のために。
鉱山全盛期には、精練に焚く木炭にすべく周辺の山々から大量の木々が伐採された。
そのために河川への土砂の流出が増え、河床が上昇したことは、おそらく間違いないだろう。
ご覧のような立派な橋台や記念碑を留める初代・喜鵲橋であるが、残念なことに、どのような橋であったのかを明確にする写真には、未だ巡り会えていない。
「阿仁町史」にも写真はなかった。
橋台の様子や時代を考えれば、普通に多脚式の連続木桁橋だったとは思うが、欄干に何らかのモダンな装飾が施されていたのかや、親柱があったのかなど、謎は残る。
写真の代わりにはならないけれど、橋から少し離れた街の中心部の一角に、本橋の由来を伝える“もう一枚の碑”が現存しているのを見つけたので、それを紹介してレポートを終えよう。
右の写真は、私が冒頭で「今でもさほど寂れた街という印象は受けない」と書いた、中心街だ。
問題の碑は、ここを見下ろす位置にある「水無神明社」という神社にあった。
この水無神明社にも案内板があり、それを読むと神社の由来(明治6年に当時の「阿仁銀山村」の村社になったことなど)のほか、この境内に阿仁合町(明治30年〜昭和30年)の初代町長を務めた山田忠胤(ただたね)の頌徳(しょうとく)碑があることが分かった。
為政者の頌徳碑には、土木に関する記述があることは珍しくないので狙い目だ!
そして、山田忠胤翁のそれは、写真左奥の方に見えていた。ひときわ大きな碑。
ずどーん。
この碑もまた、漢文調ではあるものの、とても読みやすい字で書かれており、私程度の知識でも大体の意味を読み取る事が出来た。
ただし、後半の漢文の部分はちょっと難しいのでパス…「殖産興業」は分かるけど、どう読み下すんだろ…。
これは秋田県知事阪本三郎が作成した文章で、この碑の建立者は北秋田郡長の小林定修である。
そして建立年は大正4年10月14日(原文では「年」が異字体になっている)であり、ちょうど喜鵲橋が開通した翌月にあたる。
内容は「山田忠胤翁」の業績をたたえるものであるが、終盤の内容から、氏は大正3年10月14日に死去していて、その追悼を兼ねた頌徳碑であることが読み取れる。
そんな翁の具体的な業績は中ほどにつらつらと認(したた)められており、「架喜鵲橋或移鉱山局於銀山街或新築学校等画策
」(喜鵲橋の架設、鉱山局の銀山街への移設、学校の新築など)した結果、町の「今日之隆運
」があるとしている。
これを見ると、喜鵲橋の建設は、26年もの長きにわたって勤めた老町長の最後の業績であった可能性が高い。
完成を見ずに亡くなられている事は気の毒だが、本碑やその周辺は100年の風雪を全く感じさせないほど美しく保たれており、翁の功徳の大きさを改めて感じる事が出来るのである。
最後に、僭越ながらひとつだけ要望を。
折角の「喜鵲(きささぎ)橋」という素晴らしい読みである。
それが通行する人にも分かるよう、現国道の標識に読み仮名をつけるなど、何らかの施策があると嬉しい。
このままだと、独特の読み方が風化していく畏れがある。
完結