かつて秋田県を代表する木材の集散地であった二ツ井(現:能代市二ツ井町)から北へ、藤琴川やその支流に沿って白神山地の奥深くへ伸びていたのが、秋田営林局の藤琴森林軌道とその支線たちであった。
その最大の支線は、藤琴(藤里町藤琴)で本線から分かれ、粕毛(かすげ)川沿いを遡行していた粕毛支線であり、その全長は20kmに達した。
粕毛支線の景観は、大きく2つの区間に分けられる。
田園と集落を縫って走る下流区間(藤琴〜素波里ダム)と、厳然たる山岳地帯・素波里峡に挑む上流区間である。
今回取り上げるのは、このうちの下流区間で発見された1本の隧道である。
この区間の探索は平成16年にも行っており、その際に1〜3号(いずれも仮称)の隧道を発見、レポート公開済みである。
だが、このときの探索は駆け足で、「隧道だけをピンポイントに狙った」ものだった。
それは旧版地形図に描かれていた隧道を狙ったに過ぎず、地形図に描かれなかった隧道があった場合は、取りこぼす定めであった。
今回改めて、前回調査しなかった部分を重点的に調べたところ、新たに1本の隧道が発見された。
そしてそれは案の定、いまだかつて地形図に描かれたことのない小さな隧道だった。
なお、私の中ではここ数年のあいだずっと、「秋田県に私の知らない廃隧道(水路や通洞を除く)はない」と自負し続けているが、またしても新たな隧道を発見してしまったことになる。 …もちろん嬉しいことだ!
詳しい地図をご覧頂こう。
今回発見された隧道は、地図上の「第3号隧道」である。
そこから1.5kmほど上流に「第4号隧道」があり、平成16年に発見した際にはそこを「第3号隧道」と呼称したが、今回より起点側に隧道が発見されたので、仮称も変更した。(なお、「2号隧道」と今回発見の「3号隧道」の間に他の隧道が無い事も今回確認したので、番号はもう動かない予定だ)
昭和28年版の地形図を見る(画像にカーソルオン)と、「第4号隧道」ははっきりと描かれている(小さな矢印)のだが、この「第3号隧道」は影も形もなく、発見が遅れる原因となった。
続いて現地レポートへ。
2012/5/8 14:17 《現在地》
ここは藤里町大字粕毛の根城岱集落。
集落は、粕毛川の左岸に形成された数段の河岸段丘の一番下段にあたる猫額の平地に立地しており、ここを貫通する町道の一方は多くの集落を抱える広大な上段の段丘地へ、他方は粕毛川の氾濫原へ繋がっている。
今回の探索では、林鉄沿線の主要集落で(たまたま目に付いた)古老を対象に聞き取り調査を行ったが、ここ根城岱では3人の住民からお話しを伺うことが出来た。
そして、その最大の成果が、まもなく探索することになる隧道の存在を知ったことだった。
根城岱集落から粕毛川の方向を見下ろすと、そこには見事に区画された水田が広がる、広大な旧氾濫原がある。
この旧氾濫原が美しい耕作地になっているのは、奥に見える堤防(土手)のおかげだろうということが、容易に想像出来る。
私が根城岱集落で教わった“軌道のありか”とは、この堤防そのものだった。
…すばらしい!!
あの長大な堤防が、林鉄の築堤だったのか?!
と思ったのは早とちり。真相は違っていた。
藤琴森林軌道粕毛支線は、昭和34年に二ツ井森林軌道という名に改名されている。
そして、それからわずか4年後の昭和38年には、当時あった全長30km余りが一度に廃止された
この急激な廃止の原因は、昭和38年に藤琴川流域で発生した大洪水が線路施設に致命的な被害を与えたためであったということは、『藤里町誌』にも記述されている内容だ。
古老曰く、洪水で廃止されるまでの軌道は現在の堤防の位置にあり、軌道廃止後に跡地を利用して堤防を建設したのだそうだ。
昭和22年と昭和50年の空中写真を見較べてみたところ、確かに証言通り、軌道現役時代に堤防は存在しなかったことが確認された。
つまり、この堤防は林鉄の“築堤”ではなかった。
しかし、この緩やかで雄大な線形は、“林鉄の形見”といえるものだったのだ。
14:33 《現在地》
軌道跡に作られた堤防へとやってきた私の次なるターゲットは、この奥にある。
根城岱集落での聞き取りの過程で、この堤防(下根城という)の上流に “も” 隧道があったと言う証言が、飛び出したのである。
“も”と書いたのは、証言者は私が以前探索した“巻端家(まきはっけ)の隧道“(=4号隧道)の存在を語ったうえで、「もう一つある」と教えてくれたからだ。
どうやら巻端家の隧道に較べると、証言者にとってはより地元であるはずの3号隧道が地味な存在のようで、こんな控えめな証言になったらしい。
私もしつこく話を聞いていなければ、「巻端家の隧道ならば知っている」と早とちりをし、探索を終えていたかも知れない。
お礼を述べ、これから見に行ってみる事を伝えた私に対し、古老は最後に次の話を付け加えた。
途中の崖が崩れていて、私ももう長い間見に行っていない。気をつけてな。
堤防部分は砂利敷きの農道として活用されていたが、そこから上流に少し進んでたちまち山と川に挟撃されるようになると、そこはもう“廃道同然”であった。
だが、まだ踏み跡自体は続いている。
そして、この川側には石垣ではなく、コンクリートの擁壁が連なっていた。
苔むした様子から推定するに、おそらく軌道時代のものであろう。
前方の灌木の合間にm粕毛川の水色の水面が見え始めた。
大量の雪解け水は、音も立てずに悠々と流れている。
願わくは、この流れが私の行く手を侵さぬことを。
せめて、お目当ての隧道現わるるまで…。
14:36 《現在地》
おおっと!
これ、吊橋の主塔じゃないか!
上の写真にも写っているのだが、余りにも風化していて、遠目には天然の立ち枯れ木にしか見えなかった。
しかし、実はそれは吊橋の主塔であった。
昭和28年の地形図(→)には、この橋と思しきものが描かれている。
対岸の水田や山林へ行くための通路だったようだ。
長い月日の経過で、川幅も変化しているかも知れないが、こんな華奢な主塔が支えていたにしては、それなりに長い橋だったと思う。
さらに50mほど進むと、ごく小さな橋の痕跡が現われた。
下を流れているのは、粕毛川から取水されている水路で、右は地中にもぐっている。
両岸には石垣があり、一応は橋台の形を見せているが、林鉄時代の橋桁は存在しない。
その代わりに幅員の1/3くらいの木製の板が渡されている。
しかし、渡った先にこれまでのような踏み跡は見あたらず、ついに本物の廃道が始まるようだ。
ここまで続いていた踏み跡は、この取水口への管理道として、維持されてきたものなのだろう。
さて、始まりました
本物の廃道。
折り重なる倒木、絡み合うツタに灌木、そして路盤を埋め尽くす大量の崩土。
誰がどこから見ても、正真正銘の廃道である。
こんな状況が長く続くとしたら、大変な探索を覚悟しなければならないが、幸いにして、この区間の距離は長くない。
藪を掻き分け進むこと、約7分をして
次の光景に出会った。
…あっ。
なにやら、前方に “黒い影” が…。
これは、もらったか?!
もらった〜!
私にとって、秋田県内での廃隧道発見は、特別な意味を持つ。
これは私が県内で出会った、いくつめの廃隧道だろう。
面倒だから、集計したことは未だないのだが…。
ともかく、最近見つけているのは、もう十連続くらい全部、林鉄関連の廃隧道だ。
さすがに道路関連の廃隧道は、もう県内に残ってないのかも知れない。
でも、とりあえずこれでまた1つ、カウントを伸ばすことが出来た。
最近では、“かつてあった”という情報を頼りに現地へ行くものの、
実際には跡形も無かったと言うことが珍しくなかっただけに、
こうしてはっきりと原形を留める隧道を見つけられたのは、本当に嬉しかった。
14:44 《現在地》
かなり、埋もれ始めている。
しかし、コンクリートの坑門がしっかりしているので、完全に消滅するまでは、まだ時間が掛かりそうだ。
特に目新しい意匠は見られず、上部にある笠石状の出っぱりも、一連の隧道と同様。
さて、それでは早速、内部を味わう事にしよう。
と、思った矢先。
←見つけちゃった。
粕毛支線の改良の歴史を思わせる、小さな痕跡。
川べりの岩盤に刻まれた、3つ並んだ円形の小孔は、木造の橋脚を突き立てていた痕に違いない。
隧道が建設される以前は、桟橋を設けて隧道の向こう側へ迂回していたのではないだろうか。
では、いつ頃まで“旧線”が使われていた(=隧道が建設された)のだろうか。
これについては、古老の情報もなく、判断を下すことは出来ない。
しかし、昭和45年に上流の素波里ダムが完成するまで、粕毛川は県内有数の洪水常襲河川であったといい、このような桟橋が長く保つことは無かったと思われる。
さて、今度こそ…
洞なイ〜ン!
だいたいいつもなら、この辺で「後編へ」となる
ところなんだが、今回はこのまま…。
水が、浅く溜まってますな…。
そ れ に
閉塞してますな。
がっちりと、むっちりと。
風もなく、光もなく、隙間は無かった。
せっかくコンクリートで覆工されているのに、残念な結末だ。
もっとも、閉塞部分の覆工にひび一つ見られないことから、
そこは本来、反対側の坑口があった場所だと思われる。
…目測全長30mくらいの、短い隧道だったのだ。
その後地上に戻り、反対側の坑口を探しに行ってみた。
隧道がある山を強引に踏み越えても良かったが、このときはそれをせず、何時間か後に改めて反対側からアプローチしてみた。
すると、こちら側では廃道を歩く手間もなく、農道を辿っていくだけで、簡単に軌道跡をトレースすることが出来た。
写真の山側にある平場(矢印のところ)が、その軌道跡だ。
そして問題の隧道は、もう間近。
スグソコにある山の出っぱりに、それはあるはず。
隧道、ドコ?
石垣の行く手を目で追っていくと…。
あった!
…痕が。
この後、実際に斜面に取り付いて見たが、完全に埋没しており、どのような坑口であったかを知ることは出来なかった。
南側と同じようなコンクリートの坑門だったと思われるが…。
こうして、レポートとしては間違いなく淡泊だろうが(苦笑)、私にとってはエキサイティングな隧道体験が、終った。
秋田県の廃隧道は、まだ残っているのかな〜??
いたら、返事してくれッ!
15:00 《現在地》
隧道西口確認の場面から時間を少し巻き戻し、東口の発見直後に訪れた下根城集落をお伝えしたいと思う。
この隧道(3号隧道)と直接関係する話題ではないのだが、藤琴林鉄粕毛支線の歴史を知る上での“重要な古写真”が、この下根城を舞台として残っているのである。
今回の探索で隧道の発見に繋がった古老聞き取りの中でも、同集落について、ひとつの情報がもたらされていた。
それは、「下根城には軌道の土場があった」というものだ。(土場[どば]とは、材木や原木を一時的に保管する運材上の中間施設のこと)
もっとも、特に支線との分岐地点でもない下根城に土場があったことの必然性は不明で、旧版地形図などにも描かれていないので、事実だとしても、規模はさほどではなかったようだ。
いずれ土場の有無を問わず、下根城集落の真っ直中を林鉄が通行していたことは、間違いがないようだ。
旧版地形図には、川沿いを走る軌道の両脇に、まるで街道集落のように立ち並ぶ家並みが描かれており、軌道ないしは、軌道敷設以前からそこにあった道に依存した集落だったことが窺える(そして、前後の道的に後者とは考えにくい)。
しかし、併用軌道ならばいざ知らず、軌道(ましては林鉄のような産業軌道)を中心に集落が形成されるというのは珍しく、地形図上でも妙な存在感をかもしているように思える。
先ほど予告したとおり、集落の現状をご覧頂いた後で、林鉄現役当時の古写真もご覧頂こう。
堤防へと生まれ変わった軌道跡だが、やがて両者は決別するときが来る。
いよいよ下根城の集落が近付いてくると、立派な杉の屋敷森を有する民家を挟んで左に軌道跡の道、右に堤防という風に分かれるのだ。
この左の道が軌道跡であることは、下根城での聞き取りでも聞くことが出来た。
なお、当然のことであるが、堤防に較べて集落内の道(=軌道跡)は低いところを通っている。
堤防を作るときに、この高低差の分だけ軌道跡に盛り土をして埋めたということになるわけだ。
しかし、「軌道跡→堤防」の事実を知らないまま、この大なる変化を予測するのは難しい。
今日的な感覚では、ある程度大きな川であれば堤防が存在するのが「余りにも当然」であり、それを取り除いて古い景観を想像するのは、意外に難しいのだ(少なくとも私には)。
本来の高さへと降り立った軌道跡の道は、そのまま真っ直ぐ集落内へ入っていくが、そのはじまりにある民家の前には、この探索で3人目の聞き取りをした住人と、たくさんのぬこたちが、待ち受けていた。
これはなんという、待ち伏せ。
至福のアプローチ。
しかも、実際には写真に写っている以上のぬこたちが実在しており、例えば左の水路の窪みとか、家の周りの垣根にも潜んでいた。
15:10 《現在地》
にやけながら辿りついた、下根城集落。
はじめて来たが、想像していたよりも遙かに道幅が広い。
ゆったり目の2車線分くらいの幅があるが、白線などは敷かれておらず、それで余計に広々と感じられる。
この広さの割に、行き交う人も車も見られないが、いま来た道を思えば当然かもしれない。
集落の中ほどには、この軌道跡と直交する旧県道があるのだが(現在の県道はバイパス化されていて、集落の外を通る)、あくまでも集落は旧県道ではなく、こちらの道を軸として広がりを見せていた。
藤琴林鉄沿線の村々では、それを日常から無料の公共交通機関として利用していたというが(かつての秋田県ではこの場所に限らず当たり前の光景だった)、この集落の形態はそんな証言にぴったりマッチする。オラホの鉄道=林鉄。
それではおまちかね(?)の古写真である。
これは昭和58年に藤里町の町制施行20周年記念として発行された『藤里町写真集』に掲載されていた写真で、キャプションには「水が引いた後の下根城集落(昭和38年)」とある。
写っているのは、下根城集落を貫く幅の広い道路と、その片側に敷かれた軌条である。
背景の山の形などから察するに、上の現状写真とは反対方向を向いて撮影したと思われるが、位置は一致しているはずだ。
軌条の上に小さな川舟が置かれているが、これは昭和38年に藤琴川流域を襲った大規模洪水の“被害”である。
そしてこの洪水こそ、直接的な藤琴森林軌道全線(粕毛支線ももちろん含む)の廃止原因であり、“堤防”の産みの親でもあったことは前述した通りだ。
(都市計画によるものとはとても思えない)小集落を貫く幅広道路は、部分的な併用軌道に由来していたのだった。
あともう一枚ご覧頂きたい。
この写真には「森林軌道のレールが枕木ごと地面からはがされ、田んぼの中に入った(昭和38年)」とあり、上と同じ洪水の被害風景であるが、撮影場所の情報はない。
しかし、私はこれも下根城集落で撮影されたものではないかと思っている。
その最大の根拠は、上の写真と背景の山の形が酷似していることだが、この写真の軌条が手前で分岐しているのも、「土場があった」という現地証言と合致する。
そして私の撮影地想定が正しければ、現在の同風景はこれ(画像にカーソルオン)である。(杉の木々が見えない点には疑問も残るが)
写真の中には証言通り堤防が存在せず、川べりの無防備な水田地帯を軌道が悠々と通過していたことが分かる。また、仮にこれが別の場所の写真であったとしても、下根城の林鉄もこのような風景だったことだろう。
いずれ、これが唐突に来た正真正銘の“林鉄最期の日”だったと思うと、感慨深いものがある。
完結