2012/6/1 13:41
先日、山チャリを楽しんでいたときに通りかかった県道で、こんな案内板を見つけた。
カラフルでポップないかにも新しげな案内板で、オブローダーに有益な情報がありそうには見えなかったのだが、案内板は必ず見るようにしているので、今回も自転車を止めて眺めてみたところ…
現在地から少し離れた場所に、
“丑松洞門渓(コウモリの館)”なるものが、描かれていたのである。
最後の“渓”の意味は分からないが、地図上の描かれ方を見る限り、水路ではなくて、歴とした道路の隧道のようである。
案内板曰わく、地形図上では右の位置に隧道が存在しているらしい。
集落から隧道のかなり近くまで破線の道(徒歩道)が描かれており、山の反対側にも同様に破線の道がある。
しかし、隧道自体は全く描かれていないし、探索時にも案内板を見るまでは、隧道の存在を全く予期していなかった。
現時点ではどのような経緯を持った隧道なのか一切分からないが、とりあえず新しげな案内板に描かれた隧道である。
そう到達が難しいものとは思われない。
計画にない寄り道にはなるが、行ってみよう!
いきなり思いっきりローカル&マクロな話から始めてしまったが、ここはどこなんですか?
ここは、新潟県中越地方のどまんなか、関田山脈の一角にある法末という集落だ。
「法末」と書いて、読みは「ほっすえ」。
促音(っ)を含む珍しい地名で、その由来には諸説あるらしい。
中でも有力だとされるのが、かつてここ関田山脈の南北に走る稜線上が修験者の道であったことから、それに因んだ命名がなされたのではないかという説。
標高200〜300mの西向き斜面に広がる法末集落のすぐ東を、長岡市(旧小国町)と小千谷市を隔てる関田山脈の稜線が走り、県道341号が道見峠で越えている。
私が今回この法末を訪れた経路もまた、この道見峠であった。
13:53 《現在地》
典型的な豪雪山村らしい、日当たり斜面に大きな住宅が散在する集落を地図に従って外れると、ご覧の分岐地点が現れた。
親切なることに、隧道へ向かう道には目立つ石標が設置されていた。
著名観光地もかくやというような立派なものである。
「丑松洞門渓」。
どうやらこの「渓」の字は、隧道そのものの名前ではなく、隧道を含む一帯の愛称と思われた。
現在は「渓」といえば谷川(渓流、渓谷)となるが、明治・大正・昭和初期くらいまでは、風光明媚な山岳の名所にも「渓」を付けるような用例があった。山があれば谷もあるということで、そういう名勝に与えられた一種の美称であったわけだ。
この丑松洞門渓を名づけたのは、そんな時代を生きた“古老”に違いあるまいと思った。
さらに言えば、「洞門」というのは「隧道」という言葉よりも古くからわが国に定着したと思われる、一般名詞トンネルの呼び方である(例:青の洞門)。
したがって、隧道を故意に洞門と呼ぶとしたら、それは非常に古風だといえる。
道は、山頂に愛宕神社を頂く無名の山の北側急斜面をトラバースしている。
その急峻さは、豪雪のせいもあろうが、斜面にほとんど高木が育っていないことからも見て取れる。
一方、右手の谷(渓)は急速に落ち込み、道路との比高を増していく。
それは小国の町へ流れ出る小国沢川の源流のひとつである。
開けた谷の遙か彼方に、柏崎方面のやや高い山並みが世界を限っていた。
特徴的なのは、決してなだらかではない谷の中にも、沢山の水田が耕作されていたことだ。
さすが米の国。
探索時はちょうど田植えの時期であったことから、無数の水田はカフェオレによって満たされていた。
そして、それらを一望する我が道には、手作り感溢れる「棚田見歩道」の木札が立てられていた。
地形図だと完全に破線の道に入っているが、道幅は車1台分が確保されており、轍も続いていた。
進むにつれてその轍は薄れ始めてきたが、廃道とは別世界だ。
ここにある轍の主は、隧道を通り抜けるつもりなのか。
途中から道の両側は急斜面となっており、谷底にある田んぼへの進入路という訳でもなくなっている。
いまなお続く轍は、隧道を目指しているとしか思われなかった。
石標の建っていた入口から約1km、人界の匂いがいよいよ薄れて来た。
平日だったからかも知れないが、当然のようにすれ違う人影もない。
観光地としては、どう見ても流行っていない気配である。
そもそも、「丑松洞門」や「コウモリの館」というネーミングが、
一般的な観光客の足を留めさせるものではない。
ただの観光地ではなく、やや“我々寄り”な気配を感じ、
心地よい高揚を感じ始めていた私の行く手に、“いかにも決定的な左カーブ”が見えてきた。
きっと、あそこを曲がれば、もう目の前に…。
わるにゃんが……!
わるにゃ!
ありましたよ〜。
地形図にない隧道の坑門が、まるであることが当然であるかのように現れた。
しかもこの坑門?!
14:01 《現在地》
岩谷隧道以来の、全周コルゲートパイプの円断面だ!
この手の構造で大断面隧道というのはなく、人道程度のものが限度だと思うが、
岩谷隧道の場合には実際に軽トラが通行しており、かなり衝撃を受けた。
今回も坑口前まで轍はうっすら存在していたのだが、さすがに洞内にまでは伸びて行っていなかったし、
入口には決定的に自動車の進入を阻むものが存在していた。
それがこの、コルゲート・パイプの途中に設置された“門”。
いや、玄関と言った方が相応しいのかも知れない。
なんといっても、ここは「コウモリの家」なのだ。
コウモリの生活環境を考えた上での、扉無き門なのだろう。
それ以外、特にこれを設置する意味はないと思う。
隧道を特にコウモリの生活環境として捉えた(整備した)取り組みとしては、こういうのがあったが、あれは廃隧道をコウモリ専用のスペースにしたものだった。
だが、これはあくまでコウモリの家に人間がお邪魔させていただくというような体裁である。
……でも、始まりの案内板には「コウモリの“館”」と書いてあった気がする。館も家も似たようなものだとは思うけど……。
じゃ、そういうことなんで、
お邪魔しま〜す…。
…うっ、 さぶっ!
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意外と、長い。
それに、このコルゲートパイプは別に新しいものでは無さそうだ。
明らかに、“丑松洞門渓”という観光地の施設として近年用意したものでは、無いと思う。
もっとちゃんとした(失礼)謂われのある、土木遺産的な隧道なのではないかという気がしてきた。
まあ、それなりの長さがありながら、現行の地形図はおろか、
歴代の地形図にも描かれたことがなかったくらいだから、
どマイナーなローカル物件なのは間違いないのだけど…。
素掘りったー!!
SUBORitter
案の定、入口から20mもいかぬうちにコルゲートパイプは途切れ、
内壁に本来の岩盤が剥き出しとなった。
ただ、路面だけはコルゲートパイプがあったときと同じで、
1.3mくらいの幅で土砂が敷いてあり、突き固められた路盤であった。
両側の浅い水抜きの溝が健在であるために、路面は自転車で通行するに当たって理想的な状態であった。
廃隧道ではないのだからこれで当然かも知れないが、ぬかるんでいないのは素敵ッ!
ただし、狭い うえに…
天井がめちゃくちゃ低い!
その低さたるや、普通に歩行していても目線がこんな感じ(→)である。
私の身長は173cmくらいなのだが、おそらく180cm以上の人は幾らか身を屈めないと接触する。
2m以上の人だと、猛烈な圧迫感で耐え難いかもしれない。
150cmくらいだったらちょうど良いと思うワケだが、そういえば明治時代の日本人の平均身長は、男が158cm、女が148cmくらいであった。
もしや……。
この模様… クロスラミナってやつか?受け売りの知識だけど、それっぽい。
面白いのは、この水平方向の縞模様のうえに、縦方向のより細やかな凹凸が無数に刻まれている事だ。
つまり、水平方向の縞模様(ラミナ)は本来の地層の模様であり、縦方向の縞模様は、人が鑿で削った痕ということだろう。
……
……手堀………だな…。
土地の古老が名づけたっぽい地名に、隧道の天井の異様な低さ、そして、手堀の痕跡…。
なんか、色々な要素が一つの方向を向いてきた。
「ひー! これは凄い上り坂ですッ!」
って書いたら、100人が全員信じるだろうなぁ。
でも、傾いているのは地層の方ですから〜。
人間の視覚が以下に相対的なものに過ぎないかというのを、実感していただけただろう。
(まあ、少しは行く手に向かって登ってもいるのだけど)
洞内には横穴等は無く、また壁面にも後年の崩壊によると思われる凹凸はほとんど無い。
生い立ちは知らないが、隧道としては、比較的恵まれた時間を過してきたことが伺える。
狭い! という一点を除いては、通路として何の不安も感じない、良い隧道であった。
その出口が、まもなくだ。
14:12 《現在地》
入洞から11分後、私の姿は法末集落から山を一つ挟んだ南向き斜面の一角に再登場した。
隧道の推定延長は130m程度で、断面こそ極小ながら、手堀隧道であるとすれば、かなり長い部類に入る。
また、この南口には北口のようなコルゲートパイプの覆工や坑門は無く、後年の改修を感じさせない、素掘の坑口であった。
ここは小さな坑口に向かって上部の岩盤が大きく漏斗状にえぐれていて、自然の崩壊や風化によるものかとは思われるが、なかなか壮観であると同時に、かなりの経年を感じる事が出来た。
もちろん、私の中ではこちらの坑口の方が高評価だ。
隧道を通り抜けて初めて気付いたが、洞内にはただの1匹もコウモリがいなかった。
しかも、彼らの生活場所には必ず存在するヴァノ(糞)の存在にも気付かなかった。
いかなる理由かは知らないが、“コウモリの館(或いは家)”は彼らのお眼鏡に適わなかったらしい。
私としては、なんの不満もない。ここはまだ健在な道路である!
キター!! ありがてぇ!
集落でなんの聞き取りもしないで隧道まで来てしまったことを軽く後悔していたのだが(或いは一度戻ろうかとも思っていた)、隧道をくぐり抜けた者へのごほうびとばかりに、この南口には立派な由緒書きの案内看板が設置されており、しかもその内容は、全くもって私の予感と期待にそぐうものであった! 曰わく、
丑松洞門(うしまつどうもん)[こうもりの館]
● 縦横6尺(=1.8m)、延長76間4尺(=139m)
この隧道は、今から約110年前、大橋丑松(現当主・大橋元氏の3代前)によって農作業用隧道として掘り抜かれました。丑松は、毎日愛宕祠を越える作場通いの難渋さを解消するために隧道の開削を思い立ち、屈強な穴掘り職人達を各地から集め、2年間の突貫工事で完成させました。職人達は寝食を掘り進む隧道の中で済ませ、昼夜兼行で進めたといいます。
丑松家は、当時集落内きっての篤農家であり、その先には1町歩を越える田地を有し、集落有の林地も広がっていました。洞門の工事経費はすべて自費で賄われました。また、独学の測量技術は実に正確であり、両側から掘り進んだ誤差一寸(=3.3cm)を後々まで悔いていた、といわれます。大橋家には、当時の視距測量やコンパス測量器機の他、珍しい算籌(さんちゅう)箱が保存されています。丑松は大正7年11月、54才で没しました。
今から約110年前
と言う表現は、“今”が何時がはっきりしていないと、虚しい想像の世界に迷い込んでしまう。
その一点だけが、この看板の惜しまれる点である。
この看板の設置は、何時なのだろう。
入口にあった「丑松洞門渓」の石標に「平成8年8月法末振興組合」と刻まれていたので、ここでは暫定的に平成8年を“今”としよう。
すると、この丑松洞門が掘り抜かれたのは、明治19年前後と考えられる。
万が一、今年(平成24年)設置されたとしても、それでもやはり明治時代竣工には違いない。
やっぱり、明治隧道だった!
法末の篤農家大橋丑松氏は、集落から山を越えた先の田んぼへ通う苦労を軽減するために、この全長139mの隧道を2年かけて貫通させた。
実際に工事に当たったのは穴掘り職人達と書かれており、これは中越一帯に大量に存在する農業用水路掘りの職人達と思われる。
そのような職能集団がいたのであろう(詳細不明)。
それにしても、明治前期の隧道である可能性を含めて、これはかなり貴重な存在では無かろうか。
この地方では山古志村(長岡市山古志村)に手堀隧道が多いことがよく知られており、日本最長の手堀隧道もそこにあるが、山古志の多くの隧道は昭和初期以降に掘られたものだ。
時代的にはこの法末の隧道が古いし、技術的なルーツにもより近い可能性があるかも知れない。
築百数十年を経て、まるっきり崩壊の様子を見せていない全長139mの隧道は、間違いなく驚異的だ。
それが地質の良さを大前提としていると言っても、そういう地質を知り得て掘ったとしたら、偶然とはいえない。
改めて地図(←)を眺めていると、法末と“田んぼ”を隧道で結ぶ位置は、ここ以外にも幾らでも考え得る気がするのである。
(ただし、北口のトラバース道は雪崩に弱そうなので、あくまで農期専用道路といった感じも受ける)
震災(中越地震)前まではこの隧道を軽トラックが行き来して、山を越えた田んぼへ通っていたという。しかも、その軽トラックは狭い隧道を通れるようにちょっと改造していたという。
!! マジデスカ!
高さ、幅とも1間の隧道を、それ用に改造を施した軽トラが通っていた!
きっとその改造とは、ドア●ラーを●●したんだろうなぁ…。
同サイトに拠れば、この丑松洞門の先の田んぼが中越地震で壊滅的な被害を受け、それに伴って丑松洞門も廃道化しかかったが、地域の歴史である洞門を守ろうと、住民や学生、ボランティアの手によって遊歩道の一部として復活したのだという。
もしも、この隧道が廃道状態だったら、ミニレポでは済まなかっただろうが(苦笑)、ここはこれで良かったと思う!
地元の人が道を守る意識と行為を保ち続ける限り、廃道など悪である。
遊歩道でも、いいよ。
これからも、末永く存続して欲しいものだ。
…というような事で、丑松洞門探索はこれで終了する。
終了するが、実はオブローディングがここから始まる。
これも当初の予定には無かったが、廃道を見つけちゃった。
隧道を出ると、まさしくそこが分岐地点だったのだ。
道は坑口前で二手に分れており、左の道は遊歩道の続きだった。
そして残る右の道は、地形図には破線で記載されているにもかかわらず、このように(→)廃道と見えた。
廃道ならば、どこでも入るのかって?
もちろんそんなことはない。
だが、この廃道を上手く通り抜けられれば、次の目的地――本来は法末を通過して、直接そこへ向かう予定だった――へと、近道出来そうだったのだ。
たろーうま〜る〜。
隧道レポ 「太郎丸隧道」 へ続く