左の写真は、土木学会図書館デジタルライブラリーに掲載されていた戦前の絵葉書である。
この小さな旅は、この写真の今を求める旅である。
絵葉書の発行年も発行者も不明だが、その絵の中では、石造橋脚に載せられた4連の立派なプラットトラスを、玩具のような1両の電車が走り抜けている。
橋下に目を向ければ、水面はとても穏やかで、時代劇にでも出て来そうな木舟が寄り添うように浮かぶさまを、膝まで水に浸かった麦わらの釣り人が眺める。
さらに左を見れば、これまた江戸時代もかくやというような純正なる木橋が架かり、大勢の人が歩行したり、欄干に身を寄せたりといった、賑やかな往来が見える。
最後に上にプリントされたタイトルを見る。
二 見 浦 汐 合 川 風 景
FAMOUS PLACES AND FINE PROSPEKTS IN (ISE)
さあ、ここはどこか?
2014/1/29 16:52 【現在地(マピオン)】
←ここである。
見覚えがある風景だ?
その通り。
ミニレポ史上初の、2連続同じ写真からの探索スタートと相成った。
まあ、そんなことはどうでも良くて、ここは三重県伊勢市通町にある汐合橋だ。
前回のレポでは渡らなかった、この目の前に架かる橋は汐合橋といい、その下を流れる川を、昔は汐合川と呼んでいた。
橋を渡る前に、矢印のところに注目だ。 何かあるですよ。
味わいのある道標石を発見。
花崗岩と見られる白っぽい石柱の各面に、深い筆致で文字が刻まれている。
残念ながら建立年も建立者も書かれていないが、現代のものでないことは明らかだろう。
そして、現在は川になっている東面を含め、東西南北の全面にそれぞれ行き先が記入されている所を見ると、本来は十字路にあるべき道標石なのだろうが、現状を見る限り、橋が消えたか、或いは道標石が移動したかのどちらかと考えるところ。そして、その答えはおそらく前者である。
道標石の位置は昔からほとんど変わっていないと思われる。根拠は、アンティーク絵葉書専門店ポケットブックスの通販サイトで見られる絵葉書(平成26年2月7日現在)の中に、木橋と道標石が一緒に写っているものがある。→リンク (※これは売り切れればリンク切れになると思います)
また、この道標石の見方は少し変わっている(ように私には思われる)。
例えば、南面には「南右 二見」とあるが、これは「南に行けば二見」という意味ではなく、「南から来た旅人は右に行けば二見」の意味と考えられる。
同様に、西面の「西すぐ 二見」というのは、「西から来た旅人は、まっすぐ行けば二見」という意味のようだ。
そのように解釈しないと、複数の面に「二見」という同じ行き先が書かれている事を解釈出来ない。
(道標石の「すぐ」は「もうすぐ」という意味ではなく、「まっすぐ」の意味だというご指摘がありました。ありがとうございます。)
さて、道標石という“古老”にご登場いただいたこのタイミングで、本題に進もう。
冒頭に紹介した撮影年不明の絵葉書と、ほぼ同アングルの風景を、
この道標石の旁らから今も見る事が出来るのだ。
次の写真が、それである。
↓↓↓
鉄道はいつの間にか廃線となり、橋脚だけが残された。
木橋もまた姿を消したが、旁らに“永久橋”という子孫を残すことが出来た。
川の名前さえ変わったが、水面の静けさやそこに映る山の形までは変わっていないようだ。
道路橋としての汐合橋だけでも、少なくとも3代はある。
第1世代は、絵葉書に映っていた木橋だった頃の汐合橋。
土木学会の橋梁史年表には、明治19年6月に架けられた汐合(しわい)橋という木橋が記録されている。
続いて第2世代として記録があるのは、この写真に写っている汐合(しおあい)橋で、昭和11年に架けられたらしい。
現在も県道102号として使われているが、下流に新たな橋が架けられるまでは国道167号であった。
で、その下流の新たな橋というのが第3世代で、昭和55年に国道167号のバイパスとして架けられた汐合大橋である。
現在は国道167号と国道42号との重複区間になっているために、一般的には国道42号として知られている橋である。
では、鉄道はどこにいったのか?
「鉄道廃線跡を歩く2」に、この鉄道や鉄橋の事が書かれていた。
それによると、これは昭和36年に廃止された三重交通神都線という電気鉄道の廃線跡であるらしい。
同鉄道は道路との併用区間もあった伊勢市の市電的な路線で、伊勢市内の交通(特に伊勢神宮参拝客輸送)のほか、隣接する二見の町へ路線を延ばしていた。
中でも汐合川の鉄橋は最大の構造物であったといい、それが地域の名物にもなっていたことは、私が紹介した他にも多くの絵葉書に登場していることから窺える。
そして気になる鉄橋の架設年だが、これが思いのほか古く、明治43年であったというから驚きである。
(なお、この区間の鉄道開業は明治36年なので、当初は別の橋があったか、道路用の木橋との併用軌道であったかもしれない)
伊勢と二見は五十鈴川(旧名:汐合川)を挟んで向かい合い、互いの中心部同市の距離は7kmほどしか離れていない。
平成17年に伊勢市と合併して二見町はなくなったが、もとから結びつきは深く、これは古来から伊勢参詣の前に二見浦で禊ぎをする習わしがあったことと関係しているのだろう。
そして、そんな結びつきの強さを表すように、伊勢と二見を結ぶ鉄道は前述の神都線だけではなかったのである。その事が分かる絵葉書が、やはり土木学会図書館デジタルライブラリーにあった。
(→)
これまた撮影年・発行者とも不明だが、「伊勢汐合橋」と銘打たれたこの絵葉書の右側の文章1行目…二見街道に在り五十鈴川の下流にして汽車電車の二鉄橋を架く
…とある。
「電車汽車の二鉄橋」のうち「電車」は、明治36年(鉄橋架設は明治43年)から昭和36年まで走っていた神都線。
では「汽車」はといえば、これは現在もあるJR参宮線のことで、国鉄参宮線として明治44年に伊勢市駅(旧称:山田駅)と鳥羽駅の間が開業した。
この時に中間駅として二見浦駅を置いており、伊勢市〜二見の間は神都線との完全な並行路線となったが、それでも神都線は市電的小回りを武器に半世紀も並行し続けたのだから、この区間の交通量がどれだけ多かったのかが窺えようというもの。
伊勢市や二見町の人口は昔も今も地方都市の域を出るものではなく、それだけに、わが国でもっとも歴史の深い観光の土地であり、圧倒的多くの旅人が目的地としてきた歴史のある「伊勢神宮」の強さが感じられる。
ここまでで沢山の橋が出て来てややこしいので、整理しておこう。
かつて汐合川と呼ばれていた五十鈴川の河口付近には、これまで、記録にあるものだけでも道路の橋が3本と、鉄道の橋が2本架けられている。
道路の橋は明治19年に架けられた木橋が最初で、次が昭和11年に架けられた県道102号(旧国道167号)の汐合橋、最後が昭和55年に架けられた汐合大橋(国道42号&167号)である。
鉄道の橋は、明治43年に架けられた電車線の鉄橋(汐合川橋)が昭和36年に廃止されて現在は橋脚だけが残るほか、明治44年に架けられた参宮線の鉄橋が現在も健在である。
なお、これら5本の橋のうち、汐合大橋と参宮線の鉄橋の姿はまだこのレポートに登場しておらず、ここまでは3本の橋の話しをしてきた。
以上、まとまったかな?
ミニレポのくせに、随分と“あたまでっかち”なレポートになってしまった。
地方的特色がある交通史の考察は確かに興味深いテーマではあるが、
私がここを「山行が」で紹介しようと持った理由は、ここから先がメイン。
おうちに帰ったら、みんなと共有したいと思った風景は、こっからが本番じゃい。
この廃景に心惹かれました。
中央に見えるのは、神都線の鉄橋を支えていた橋脚。今は夕日を浴びて、年季の入りが一際鮮やかに見える。
そんな橋脚の列に促されて対岸に目を向ければ、花はなくとも微かに桃色を帯びた木々の塊。桜並木だろうか。
そして、私の目は見逃さない。
橋脚さえ失われてしまった明治の木橋の橋台らしき石垣が、対岸にはあるようだ。
地図を見ても分かるが、この対岸の土地は、新旧の3本の橋を少しでも短くするために、
流れの乏しい汐合川を人工的に埋めたてた陸地のように見えるのである。興味深い。
次回は、そこが舞台だ。
お読みいただきありがとうございます。 | |
当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口 | |
このレポートの最終回ないし最新回の 【トップページに戻る】 |
|