山梨県道404号古関割子線は、身延町内の国道300号と県道9号を連絡する全長約6kmの一般県道である。
これと言った特徴は無さそうな路線ではあるが、途中に小さな峠越え(照坂峠)があり、そこに照坂隧道という路線内唯一のトンネルがある。
そして、このトンネルが古い。
お馴染みの「道路トンネル大鑑」巻末リストに次のデータが掲載されている。
照坂隧道
延長:192m 車道幅員:4.1m 限界高:4.2m 竣工年度:昭和9年
昭和戦前ものの古隧道狙いで、車田から自転車を発進させた。
果たして、その結末や如何に?!
2009/9/19 16:08 《現在地》
ここは身延町車田にある丁字路。
我らが県道404号の実質的終点(この先は県道9号との重複区間)である。
私はここから起点へ向けて走り出す。
それはそうと、妙に前のめりな人がいるな〜。
前のめりのご公務、お疲れ様です! →
かつて、交通安全運動の広告塔として全国を席巻したポリス人形。
今では年々と数を減らしていると思われ、そろそろ絶滅の可能性も出て来た。
車田交差点で警戒にあたる彼も、寄る年波を感じさせる姿であった。
制服の黒は全体的に薄れて白くなり、第5代警視総監三島通庸を彷彿とさせる顔面に至っては、肌色どころか白さまで抜けて、おそらくは下地であろう青みが出て来てしまっている。
そんな彼ではあるが、全国の同志のなかでは、稀に見る好待遇を受けているように感じられた。
近隣にある小学校の運動会の広告塔という、臨時の任務を得ていたのである。多くの同志が地域の中で空気と化している中で、これは嬉しい。
(これが選挙ポスターだったら嫌だった)
16:22 《現在地》
車田の交差点から自転車で約15分、2kmほど進んだところ。
今のところ道に特筆すべき点はないが、ここで私は路傍の花壇に立てられた1枚の看板に目を止めた。
「三愛運動 ふれあい花壇 道 公民館」
“ふれあい”という言葉の濫用は常々嘆かわしいと思っているが、ここで気になったのはそれではなく、「道 公民館」という名前だ。
なんだ「道」って。
そう思い、改めて地図を確認したらびっくり。
なんと、この集落の名前が「道」なのである。
地名としては、山梨県身延町 道(みち)。範囲は東西南北1.5kmほど。
ある意味、道路好きにとっては聖地というか、巡礼しても良さそうなほどの地名であるが、あいにくこれと言って派手な「道」のネタはなさそう。
隅々まで点検したわけではないが、道にある道(ややこしい)のうち、車道なのはこの県道くらいだし、集落自体も小さいから、この珍しい地名を活かした何かがある様子もない。ここに「駅」というドライブインを作ったら、「道の駅」なのにな〜。
「角川日本地名大辞典山梨県」によると、この「道」という地名の由来は、お寺に由来する「堂(どう)」という地名が、いつしか「道(どう)」に字が変わり、後に読みまで「道(みち)」になったという。ホンマかいな。
道地区の後半から、道は三沢川沿いの定位置を離れ、九十九折りを含むやや急な上り坂で山腹に取り付いた。
照坂峠の本格的な登りが始まったわけだが、昭和9年に照坂隧道が貫通したおかげで、この峠越えはさほど苦しくない。
一応もろもろの数字を挙げておけば、照坂峠の標高が約480mであるのに対して、隧道は標高380mに口を開けている。
そして、スタート地点の車田の標高が250mで、「道」は280mほどであるから、峠の登りといえるのは、たった100mの比高に過ぎない。
水船と芝草という集落を左に見ながら上っていくと、峠前最後の分岐地点が現れた。
16:33 《現在地》
車田から3.7kmの地点にある芝草の分岐地点。
県道は道なりに右で、照坂隧道までは残り500mほどである。
左の道は大磯小磯へ通じる町道であるが、まずひとつ、大磯小磯という地名(大字名)が面白い。
たぶん、大磯と小磯が合併した地名なのだろうが。
そしてもうひとつ、この交差点の青看が面白い。
なんか、青看でありながら、青看ではない。
上手く言い表せないが、青看のフォーマットを色々逸脱しているのである。
…まあ、これは青看を模して町が作った案内板なのだろう。(県道の青看は通常は県が設置者)
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ちょっとだけ!ヨッキれんの宣伝。
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といったところで、前編は終了――ではなく、
前座は終了。
昭和9年竣功、道路トンネル大鑑記載の古隧道、
照坂隧道に、ご登場願いましょう。
16:36 《現在地》
残念さんご登場〜〜〜。
ヨッキれんが勿体ぶらなかった時点で、この結末は予想出来たって?
そもそも、ミニレポの時点でオワコンだった??
チクショウ…… 来るのがおそかった…。
災害で無惨に壊れたわけでも無い、ただ任務を全うして勇退した廃隧道を、これほど念入りに隠す必要性がどこにあるのかと私などは思うが、廃隧道にネガティブな印象を持つドライバーもいるのだろうし、塞ごうが塞ぐまいが役目を終えたのだから消えて行くという道理には違いがないのであり、まあ仕方ない。
与えられた条件の中でベストを尽くすのが、オブローダーの務めである。
例えばここであれば、一面の種付け斜面(法面)の旁らにネコミミのようにとんがり出ているコンクリート片について、埋もれた坑門の一部であろうと疑うこと。
そして、草むらにすがりついてその実態を確かめることだ。
まだ、終わりではない!
も、萌えない……。
確かにこれは坑門の一部であったに違いないようなのだが、埋もれる前の時点で既に昭和初期の隧道は、だいぶ改変されていた感じがする。
おそらくこの露出している部分は本来の坑門ではなく、その前に接続された短い門型のロックシェッドか何かの縁だろう。
少なくとも、埋もれているのはトンネルのアーチ型ではなく、四角い坑口である。
皆さまの中に現役当時を知る人がきっといると思うので、写真や当時の記憶などあれば、ご一報いただきたい。
ええ、首とカメラを土臭い隙間につっこんで、ここまで撮影しましたとも。
でも、ダメですわ。入れません。
たぶん、巨大な土嚢を退かせば空洞があるのでしょうが…。 すごすご。
すごすごと旧坑口から撤退した私は、現在の坑口へ。
照坂隧道あらため、照坂トンネルである。
工事銘板によると、2008年(平成20年)7月竣功ということだから… 探索時点(2009年9月)ではまだ築1年ちょっとであった。つまりあと1年半早く来ていれば… ぐぬぬ。
同じく銘板によると、この新トンネルの長さは230mで旧隧道+38m。加えて幅+2.4m、高さ+0.3mというパワーアップを果たしていた。
そしてこの坑門にも、“青看もどき”が。
坑門に取り付けられたこんなに小さな青看にドライバーが目を凝らすのは、ちょっと良くない気がするが…。余白に「身延町」と書いてあるし、やっぱりこれは身延町のオリジナル青看らしい。
何事もなくトンネルを通過し終える寸前。
一応は特筆すべき事柄として、照坂トンネルの東口付近が1車線分くらい拡幅された大断面となっていた。
この部分的拡幅の理由は、坑口目前にある丁字路の見通し(視距)の確保であろう。
県道404号はこのまま直進だが、左折すれば県道416号である(未体験)。
そしてこの思いがけない拡幅断面が、ある犠牲を生んでいた。
埋め戻される前から改変が濃厚であった西口に対し、この東口は大体において昭和9年完成当時の姿を留めているものと思われた。
まずは残っていたことに乾杯だ。
しかし見ての通り、照坂トンネルの拡幅された坑門によって旧隧道は坑道を脅かされ、構造上、もはや開口する事が許されない事態となってしまった。
西口とは違い、完璧に空洞なく塞がれている。
後進に道を譲るために自らの命まで捧げたのである。
この残酷な新旧交代劇の風景に目を奪われがちではあるが、照坂隧道本来の姿もなかなかも刺激的である。
何より目を引くのは、異常に巨大なバットレス(控え壁)だ。
今は右側にしか残っていないが、元々は左右対称で左側にもあったと思われる。
その姿を想像してみると、随分と窮屈だ。
このバットレスが当初からの物かは不明であるが、坑門を押し倒すような山の地圧が観測されたのであろうか。
今まで沢山の坑門を目にしてきたが、これほど巨大なバットレスは見覚えがない。
そしてこの隧道、最後のチェックポイント。
隧道の名刺代わりの扁額だ。
時代を反映して、右書きの「照坂隧道」。
そして左端に2行の文字列があり、1行目は「昭和九年六月」の記年。
2行目は…
山梨縣知事関屋延之助
…これ、完全に関屋さんは文字のバランスしくじってますよね(笑)。
まあ、実際に揮毫を振るったのは知事ではないと思う。
なにせこの扁額は、どこか平らな所で作り置きをしてから嵌め込んだものではなく、固まる前のコンクリートの表面に直接文字を入れているものだ。
基本的には一発勝負なうえ、高所で垂直な壁に文字を刻む難しさは、ちょっと想像が出来ない。
だから、少々不格好な扁額だけど、イインダヨ。
照坂トンネルを抜ければ、県道404号の起点である古関(ふるせき)集落はすぐそこである。
以上、手作り感満載の扁額にほのぼのした旧隧道探索の報告であった。
※照坂隧道の机上調査をしているので、近日中に(回を改めず)多少追記の予定あり。